紅白歌合戦と日本シリーズ【街頭編】~1953(中編) …『街のサンドイッチマン』と「シャンソン」 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1953(昭和28)年2月1日、NHKがテレビ放送を開始し、そのテレビ放送開始と同時に、当時20歳の黒柳徹子がテレビの世界で活躍を始めた。

また、同年(1953年)8月28日には、初の民放テレビ局である日本テレビも放送開始し、日本にも「テレビ時代」が到来した。

しかし、当時のテレビはとても高価であり、一般大衆にはとても手が届かない、「高嶺の花」であった。

 

 

そこで、日本テレビは、テレビの宣伝のために「街頭テレビ」を設置したが、

その「街頭テレビ」を一目見るために、いつも黒山の人だかりが出来るような状態となった(※後に、NHKも、街頭テレビを設置)。

そんな「テレビ時代」の黎明期に大ヒットしたのが、鶴田浩二が歌った『街のサンドイッチマン』である。

という事で、今回は「紅白歌合戦と日本シリーズ」の「1953(昭和28)年編」の「番外編(中編)」として、その頃の流行歌などについて描く。

それでは、ご覧頂こう。

 

<「歌う映画スター」第1号・高田浩吉~1935(昭和10)年に『大江戸出世小唄』が大ヒット>

 

 

 

戦前の1935(昭和10)年、高田浩吉『大江戸出世小唄』が大ヒットを記録したが、

高田浩吉といえば、戦前の松竹映画の大スターであり、当時は、映画スターが流行歌を歌い、その歌を大ヒットさせるという事は、大変画期的であった。

そのため、高田浩吉は「歌う映画スター」第1号と称されている。

その高田浩吉の愛弟子であり、芸名に「浩」の一字を貰って、戦後にデビューした人物こそ、鶴田浩二である。

鶴田浩二は、「歌う映画スター」の系譜を、師匠である高田浩吉から受け継いだ人だった。

 

<鶴田浩二の活躍①~1949(昭和24)年…映画『フランチェスカの鐘』で初主演~鶴田浩二・佐田啓二・高橋貞二の「新・松竹三羽烏」として大ブレイク!!>

 

 

 

1948(昭和23)年、二葉あき子が歌った『フランチェスカの鐘』(作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而)が大ヒットを記録した。

『フランチェスカの鐘』は、菊田一夫・古関裕而「ゴールデン・コンビ」が作り上げた傑作であり、

歌手・二葉あき子の代表作となったが、この大ヒットにあやかって、翌1949(昭和24)年、『フランチェスカの鐘』は映画化される事となった。

 

 

 

 

その映画化された『フランチェスカの鐘』で、映画初主演を果たしたのが、鶴田浩二である。

鶴田浩二(つるた・こうじ)は、1924(大正13)年12月6日、兵庫県西宮市に生まれた。

14歳の時、高田浩吉に弟子入りし、高田浩吉の劇団に入り、芸能界に身を投じたが、

関西大学在学中の1943(昭和18)年、学徒出陣により、徴兵された。

戦後の1948(昭和23)年、師匠・高田浩吉の口添えもあり、松竹に入った。

彼の本名は小野榮一というのだが、師匠・高田浩吉から「浩」の一字を貰い、芸名を「鶴田浩二」と称した。

松竹に入った当初は、大部屋俳優だったが、前述の通り、1949(昭和24)年に『フランチェスカの鐘』で初主演を果たし、一躍、大人気となった。

 

 

 

 

以後、数々の松竹映画に主演した鶴田浩二は、松竹を代表する映画スターとなって行くが、

その頃、同時期に活躍した鶴田浩二・佐田啓二・高橋貞二の3人は、「新・松竹三羽烏」として、大ブレイクした。

彼ら「新・松竹三羽烏」が主演した作品は、軒並み大ヒットし、中でも鶴田浩二は一番人気であり、映画界を牽引する存在となった。

ちなみに、佐田啓二は中井貴恵・中井貴一の姉弟の父親である。

 

 

なお、戦前の元祖「松竹三羽烏」といえば、上原謙・佐野周二・佐分利信であるが、

上原謙は加山雄三の父親、佐野周二は関口宏の父親である。

という事で、当時の「松竹」は日本の芸能界を代表するスターを、次々に生み出して行く映画会社であった。

 

<鶴田浩二の活躍②~1951(昭和26)年、美空ひばり・鶴田浩二のW主演『あの丘越えて』が大ヒット~鶴田浩二をとても慕っていた、美空ひばり>

 

 

 

1951(昭和26)年、美空ひばり鶴田浩二のW主演の映画『あの丘越えて』が公開され、大ヒットした。

映画と同名の主題歌『あの丘越えて』(作詞:菊田一夫、作曲:万城目正)を美空ひばりが歌っているが、

当時、美空ひばりは14歳の少女であるが、そんな若い年齢とは思えないぐらい、実に堂々と歌っており、

改めて、彼女の天才歌手ぶりを、世間に知らしめた。

私も、何処と無く哀愁を帯びた『あの丘越えて』は、大好きな曲である。

この映画で共演した美空ひばりと鶴田浩二は、息もピッタリであり、2人はすっかり意気投合した。

 

 

 

 

鶴田浩二は、1924(大正13)年生まれで、当時27歳、

美空ひばりは、1937(昭和12)年生まれで、当時14歳だったが、

年齢は13歳ほど離れていたものの、2人は大変気が合っていた。

美空ひばりは、鶴田浩二の事を大変慕っており、実生活でも「お兄ちゃん」と呼ぶほどであったが、2人の交流は、後々までずっと続いていた。

一時は「2人は、結婚するのではないか?」といういう噂まで流れたようであるが、それは実現しなかった。

だが、ひばりは「私は、自分が好きな人とししか、絶対に共演しない」と、後に語っていた所を見ると、何度も共演した鶴田浩二の事は、本当に大好きだったのであろう。

 

<鶴田浩二の活躍③~1952(昭和27)年『男の夜曲』で歌手デビューした鶴田浩二~実は左耳が難聴だったが、田端義夫のアドバイスで、左耳に手を当てて歌う独自の歌唱スタイルを確立>

 

 

 

1952(昭和27)年、鶴田浩二『男の夜曲』で歌手デビューを果たした。

師匠・高田浩吉の系譜を継いで、ここに「歌う映画スター・鶴田浩二」が誕生したわけである。

だが、実を言うと、鶴田浩二は左耳が難聴だった。

それは、歌を歌うという事においては、大変なハンディだった。

 

 

 

鶴田浩二は、1946(昭和21)年頃、薬の影響により、左耳が難聴となってしまったようであるが、

1951(昭和26)年、鶴田は映画『地獄の血闘』に出演した際に、同名映画の主題歌『地獄の血闘』を歌っていた田端義夫に、その事を相談すると、

「それなら、歌う時は左耳に手を添えて歌ってみると良い」

というアドバイスを受けたという。

「なるほど、そうか」

鶴田は、その言葉で迷いが消え、歌手としてもデビューする事となった。

 

 

 

 

こうして、鶴田浩二が歌う際は、左耳に手を添えて歌うという、

あの彼独自の歌唱スタイルが確立されて行ったが、後年、美空ひばりとステージで共演した際も、

勿論、鶴田が左耳に手を添えて歌っていた。

その独特な歌唱法が話題となり、鶴田は歌手としても大人気となって行くのだから、人生、わからないものである。

 

<「街頭テレビ」の時代~「高嶺の花」だったテレビの宣伝のため、日本テレビ⇒次いでNHKが「街頭テレビ」を設置>

 

 

さて、1953(昭和28)年に「テレビ時代」が到来したとはいえ、当時のテレビは大変高価であった。

1953(昭和28)年に発売された、14型テレビの値段は「17万円」だったが、

この当時の大卒初任給は「8000~9000円」ぐらいである(※つまり、サラリーマンの給料の2年分である)。

とてもじゃないが、一般大衆が買えるような代物ではない。

そこで、日本テレビは、テレビの宣伝のために「街頭テレビ」を設置すると、その「街頭テレビ」を一目見ようと、

「街頭テレビ」の前には黒山の人だかりが出来たが、日本テレビに続き、NHKも「街頭テレビ」を設置した。

このように、当時のテレビを持っているのは、よほどの大金持ちであり、どうしてもテレビが見たければ、「街頭テレビ」が設置してある所まで行かなければ、見られないような物だったのである。

 

<哀愁の「サンドイッチマン」と「チンドン屋」~存在自体が哀しみを帯びている(?)職業>

 

 

ところで、「街頭テレビ」が流行っていた頃、街角でよく見られたのが、「サンドイッチマン」と称される職業の人達である。

「サンドイッチマン」というのは、文字どおり、何かを宣伝するためのボード(?)を、身体の前後に付けて、身体をサンドイッチのようにして、

宣伝対象の物を宣伝するような人達であり、「歩く広告塔」のような人達であるが、

彼ら「サンドイッチマン」は、何処となく哀愁が有るというか、いつも憂いを帯びているような印象が有った。

彼「サンドイッチマン」は、お金を稼ぐために、懸命にこのような恰好をしているのだが、その姿には、そこはかとない哀愁が有るのである。

 

 

そして、「サンドイッチマン」と同様に、「チンドン屋」と称される人達も、何処と無く哀愁が有った。

「チンドン屋」は、派手な衣装を着て、笛を吹き、鉦や太鼓を打ち鳴らしながら、何かを宣伝するために街頭を練り歩いている人達であるが、

「チンドン屋」が奏でる音楽には、何処と無く哀しみというか、哀愁が感じられないだろうか。

このように、「サンドイッチマン」や「チンドン屋」には、存在自体に哀しみが有ると言っては言い過ぎであろうか。

 

 

「サンドイッチマン」といえば、現代の世で大活躍している、伊達みきお・富澤たけしから成るお笑いコンビ「サンドウィッチマン」は、そのコンビ名は、勿論「サンドイッチマン」から取られたものであろう。

「サンドウィッチマン」は、ブレイクする前に長い下積み期間が有ったが、そんな苦労の末に開花した「サンドウィッチマン」の笑いは、庶民の共感を得られるような笑いであると、私は思うのである。

私は、今のお笑い芸人の中では、「サンドウィッチマン」が一番面白いと思っている。

 

<1953(昭和28)年…鶴田浩二『街のサンドイッチマン』が大ヒット!!>

 

 

 

話を1953(昭和28)年に戻す。

1953(昭和28)年、鶴田浩二『街のサンドイッチマン』という曲をリリースしたが、

『街のサンドイッチマン』は大ヒットを記録し、鶴田浩二は、歌手としても大スターの仲間入りを果たした。

『街のサンドイッチマン』は、前述の通り、当時、街頭に数多く居た「サンドイッチマン」の哀愁を歌った曲であり、

見事に、当時の世相を切り取っていたと言って良い。

 

 

 

『街のサンドイッチマン』は、歌手・鶴田浩二の代表作となり、

以後、鶴田浩二は歌手としても大活躍して行く事となるが、

師匠・高田浩吉に次いで、2代目「歌う映画スター」となった鶴田浩二は、

芸能界でも別格の人気を誇り、長く活躍した、本物のスターであった。

そんな鶴田浩二の代表曲が、「サンドイッチマン」という、哀しみを帯びた人達の存在から生まれたというのが、実に面白いと、私は思う。

 

<シャンソンの歴史①…15~16世紀のフランスの民衆歌を起源とし、戦前の日本で「巴里小唄」「巴里流行歌」として大人気に>

 

 

 

さて、ここからは趣をガラリと変えて、フランス生まれの音楽「シャンソン」について書く。

「シャンソン」は、戦前~戦後の日本の音楽界の一大潮流となったジャンルであり、

日本音楽史、流行歌の歴史を語るにおいて、「シャンソン」の存在は欠かせない。

元々、「シャンソン」の起源は古く、15~16世紀のフランスで発生した民衆歌が、「シャンソン」の元になったと言われている。

以後、「シャンソン」は、男女の恋愛模様や、人生の悲哀など、人々の哀歓を歌う曲として、フランス国民に長い間、愛されて来ている。

 

 

 

 

その「シャンソン」を、初めて日本に持ち込んだ人物が、岸田辰弥である。

パリに留学していた岸田辰弥は、日本に帰国後、宝塚歌劇団で、1927(昭和2)年に『モン・パリ(吾が巴里よ!)』を演出し、

宝塚歌劇団に、初めてパリの演目をもたらしたが、派手なレビューを取り入れた『モン・パリ』は大ヒットし、シャンソン曲『モン・パリ』も、その劇中歌として有名になった。

以後、華麗で華やかな宝塚のイメージが確立されて行く事となるが、

つまり、日本のエンタテインメントの世界に、「パリの匂い」を持ち込み、日本の人々に、華やかなパリの世界を初めて紹介した人こそ、岸田辰弥だったのである。

 

 

 

 

 

もう1人、留学先であるパリから帰国し、1930(昭和5)年に宝塚歌劇団で『パリミュゼット』を演出した白井鐵造は、

その劇中歌として、シャンソン曲『すみれの花咲く頃』を紹介し、これまた有名になった。

そして、「宝塚」出身のシャンソン歌手として、橘薫・葦原邦子らが人気を博した。

という事で、昭和初期の「宝塚」の興隆は、フランス仕込みのレビューと、お洒落でモダンなシャンソンのお陰だったと言って良い。

 

 

 

 

1931(昭和6)年に映画『巴里の屋根の下』が、1933(昭和8)年に映画『巴里祭』が日本で公開され、

それぞれ大ヒットを記録したが、それらの作品の劇中歌として、シャンソンが効果的に使われており、

『巴里の屋根の下』、『巴里祭』の大ヒットと共に、日本でもシャンソンが大人気となって行った。

この頃から、日本文化とフランス文化は、大変に親和性が高かったという事であろう。

 

 

1933(昭和8)年、シャンソン歌手のリュシエンヌ・ボワイエのレコードが、初めて日本で発売されたが、

日本で「シャンソン」という言葉が定着したのが、このリュシエンヌ・ボワイエのレコードが発売された頃からだったという。

以後、日本国内でもシャンソンの愛好者が飛躍的に増え、シャンソンは日本でも受け入れられて行った。

 

 

 

 

昭和初期の当時、「シャンソン」は日本では「巴里小唄」「巴里流行歌」などと称されていたが、

その頃、シャンソンを歌いまくり、大人気となって行ったのが、「ブルースの女王」と称された淡谷のり子、そして、男性歌手のディック・ミネである。

淡谷のり子とディック・ミネは、所謂「バタ臭い音楽」、つまり洋楽の魅力を、当時の日本国民に伝えた人達だったが、

やがて1941(昭和16)年に太平洋戦争が起こると、洋楽は全て「敵性音楽」として禁止されてしまい、せっかく花開いた、戦前の日本のシャンソン文化も、一旦、ここで途切れてしまう。

だが、そんな中でも、戦時下の1943(昭和18)年に、シャンソン愛好家達により、秘密結社のように「東京シャンソン・クラブ」が結成され、そこでは細々とシャンソンが歌われ、密かにシャンソンの命脈は保たれていた。

 

 

そういう「冬の時代」に、洋楽の魅力を人々に伝え続けていた、

淡谷のり子、ディック・ミネは、戦後も長い間、音楽界で大御所として活躍し、

日本の音楽界に君臨していたというのは、皆様もご存知の通りである。

政府や軍部が、いくら弾圧して禁止しようとも、素晴らしい音楽や文化という物は、人々によって歌い継がれ、聞き継がれて行くものであるが、淡谷のり子やディック・ミネは、その象徴であった。

 

<シャンソンの歴史②…フランスの「シャンソンの女王」エディット・ピアフ~フランスで最も愛された歌手の1人>

 

 

さて、「シャンソンの女王」と称され、シャンソンの象徴的存在であり、

フランスで最も愛された歌手の1人といえば、ご存知、エディット・ピアフである。

エディット・ピアフは、1915(大正4)年12月19日、フランスの首都・パリの貧民街で生まれたが、

貧しい暮らしの中、歌の才能を開花させて行ったエディット・ピアフは、1935(昭和10)年、パリのナイトクラブのオーナー、ルイ・ルプレーに、歌の才能を見出され、彼が経営するナイトクラブのステージに出演し、歌うようになった。

 

 

第二次世界大戦中、パリがナチス・ドイツに占領されていた頃、

その占領下のパリで、エディット・ピアフが歌っていたのが、『LA VIE EN ROSE(ラ・ヴィ・アン・ローズ)=バラ色の人生』という曲である。

『LA VIE EN ROSE(ラヴィアン・ローズ)=バラ色の人生』は、ナチス・ドイツに抵抗する、フランスのレジスタンスに愛された曲であり、彼女は一躍、この曲の大ヒットのお陰で、大スターの仲間入りを果たした。

 

 

 

戦後、フランスはナチス・ドイツの占領から解放されると、

エディット・ピアフは、フランス国民の抵抗の象徴として、大人気となるが、

1950(昭和25)年には、『バラ色の人生』と並び、彼女の代表曲となった『愛の讃歌』を発表し、世界的な大ヒットとなった。

ちなみに、この曲は、彼女の恋人であるマルセル・セルダンに捧げられた物であるが、マルセルは1949(昭和24)年、飛行機事故で亡くなってしまい、エディットは『愛の讃歌』のレコーディングは、必死に悲しみを堪えながら歌っていた。

エディット・ピアフは、1963(昭和38)年10月10日、癌により、享年47歳という若さで亡くなってしまったが、

遥か後年、2007(平成19)年には、彼女の生涯が『エディット・ピアフ 愛の讃歌』というタイトルで映画化されているので、ご興味の有る方は、是非ご覧頂きたい。

 

<シャンソンの歴史③…百花繚乱の、戦後の日本のシャンソン界~人気歌手が次々に登場し、1951(昭和26)年にシャンソン喫茶「銀巴里」もオープン>

 

 

さてさて、長かった太平洋戦争が終わると、戦後、日本のエンタメ界も戦争の抑圧から解放され、

一挙に、外国文化や洋楽を愛好する土壌が復活した。

そして、日本のシャンソン界にも、次々にスターが誕生し、活況を呈して行ったのである。

また、本場フランスのシャンソンを翻訳するだけではなく、日本のオリジナルのシャンソンも、盛んに作られるようになって行った。

 

 

 

石井好子は、東京音楽学校(後の東京藝術大学)出身の才媛だったが、

戦後はジャズ歌手として活躍し、その後、1952(昭和27)年、パリに留学し、パリでシャンソン歌手としてデビューした。

その後、石井好子は日本に帰国し、本場パリで鍛え上げられた、本物のシャンソン歌手として大人気となり、日本のシャンソン界を引っ張った。

 

 

 

芦野宏は、東京藝術大学の出身であり、前述の石井好子の後輩にあたるが、

当時、石井好子と芦野宏は、音大出身のインテリという事で、インテリ層に人気が有った。

シャンソンという、小洒落た音楽は、音大で正統な音楽教育を受けた歌手が歌うには、ピッタリとハマっていたようである。

なお、芦野宏は『チャオ・ベラ』というシャンソン曲の訳詞を、ある若手の訳詞家に依頼したが、

その訳詞家こそ、まだ駆け出しの頃の、なかにし礼であった。

 

 

 

 

その後も、シャンソン界には次々にスターが誕生して行く。

1955(昭和30)年、『夜のお嬢さん』でデビューした中原美紗緒は、

やはり東京藝術大学出身であり、可愛らしいルックスと、音大仕込みの歌唱力で、大人気となって行く。

 

 

 

その後も、同じく東京藝術大学出身の岸洋子、抜群の歌唱力を誇る金子由香利など、

シャンソン界には、次々にスターが生まれて行ったが、

特に1950~1960年代頃にかけて、日本の音楽界において、シャンソンは一大潮流となっていた。

日本人は「おフランス」の文化が、とても好きな国民であるが、シャンソンは日本の国民性にも合っていたという事であろう。

 

 

 

そして、1951(昭和26)年には、東京・銀座にシャンソン喫茶「銀巴里」がオープンし、

「銀巴里」を拠点として、美輪明宏も活躍していたが、

この頃、「銀巴里」「十字路」「サロン日航」「ジロー」などのシャンソン喫茶が次々に開店し、

日本のシャンソン文化は、それらを拠点として花開いて行った。

前述の、駆け出しの頃のなかにし礼は、そのシャンソン喫茶で、訳詞家としての腕を磨き、世に出たのである。

 

<シャンソンの歴史④…日本のシャンソン界の最大の大物・越路吹雪~宝塚の出身で、「訳詞:岩谷時子、歌手:越路吹雪」のコンビで大活躍>

 

 

 

日本のシャンソン界における、最大の大物といえば、何と言っても越路吹雪である。

越路吹雪は、1939(昭和14)年に、宝塚歌劇団でデビューし、以後、「宝塚」の男役のトップスターとして大活躍したが、

同年(1939年)、「宝塚」の出版部に入った岩谷時子と、越路吹雪は意気投合し、以後、2人は長くコンビを組む事となる。

 

 

 

 

戦後、越路吹雪は「宝塚」を退団し、1953(昭和28)年からは「ドラマチック・リサイタル」を開き、

文字どおり、ドラマチックな歌や芝居で観客を魅了したが、

「訳詞:岩谷時子、歌:越路吹雪」のコンビで、『愛の讃歌』『ラスト・ダンスは私に』『サン・トワ・マミー』などの名曲を、次々に歌って行った。

という事で、越路吹雪こそ、「宝塚」が生んだ、戦後最大のシャンソン界の大スターであるという事は、異論は無いであろう。

 

<『LA VIE EN ROSE(ラヴィアン・ローズ)=バラ色の人生』と『麗しのサブリナ』~オードリー・ヘップバーンが歌う、『バラ色の人生』>

 

 

 

 

さてさて、エディット・ピアフが歌った『LA VIE EN ROSE(ラヴィアン・ローズ)=バラ色の人生』という曲は、

映画史においても、重要な役割を果たしている。

1953(昭和28)年、『ローマの休日』で初主演を果たしたオードリー・ヘップバーンは、

翌1954(昭和29)年に、主演第2作『麗しのサブリナ』に主演したが、この『麗しのサブリナ』の主題歌というか、劇中歌として歌われているのが、『バラ色の人生』なのである。

この映画で、アメリカの大金持ちの「ララビー家」に雇われた運転手の娘・サブリナの役を、オードリーは演じているが、

サブリナは、大金持ちの「ララビー家」の次男、デイヴィッド・ララビー(ウィリアム・ホールデン)に恋をするが、当初は「イモっぽい」として、全く相手にされない(※いや、ご覧の通り、映画が始まった当初から、サブリナは充分に可愛いのであるが、設定上は「イモ娘」であった)。

 

 

 

 

その後、サブリナは暫くパリに留学(?)するが、

サブリナは、パリで女性としての魅力を磨き、目の覚めるような素敵なレディに「変身」し、アメリカに帰国する。

そのサブリナのパリ留学中や、アメリカに帰って来たからの場面など、BGMとして『バラ色の人生』が流れている。

そして、ビックリするぐらい綺麗になったサブリナに、「ララビー家」の次男・デイヴィッド(ウィリアム・ホールデン)だけでなく、長男・ライナス(ハンフリー・ボガート)も、夢中になってしまうのである。

 

 

 

なお、サブリナは、当初はプレイボーイである次男・デイヴィッド(ウィリアム・ホールデン)の事が好きだったが、

やがて、堅物で真面目な長男・ライナス(ハンフリー・ボガート)の方に惹かれて行く。

そして、サブリナが、ライナスが運転する車でドライブに行った時、サブリナはアカペラで『バラ色の人生』を歌っているが、サブリナ=オードリー・ヘップバーンが歌う『バラ色の人生』は、なかなか素敵である。

という事で、サブリナ=オードリーの歌が聴きたい方は、是非とも『麗しのサブリナ』をご覧頂きたい。

 

<1953(昭和28)年…シャンソン歌手・高英男の『雪の降るまちを』が大ヒット!!>

 

 

戦後、日本のシャンソン界に、次々に御スターが生まれ、活況を呈したという事は既に述べたが、

この1953(昭和28)年、シャンソン界のスターの1人、高英男が歌った『雪の降るまちを』が大ヒットを記録した。

『雪の降るまちを』は、ラジオから火が付き、大人気になった曲であるが、

私の父も、この曲は大好きであり、「良い曲だから、お前も聴いてみろ」と言われ、この曲を父に紹介された事を思い出す。

 

<1953(昭和28)年…「八頭身美人」伊東絹子が「ミス・ユニヴァース」で世界3位の快挙~宮城まり子『毒消しゃいらんかね』、織井茂子『君の名は』、三浦洸一『落葉しぐれ』などが大ヒット>

 

 

 

 

1953(昭和28)年、「ミス・ユニヴァース」で、「八頭身美人」伊東絹子が、見事に「世界3位」という快挙を達成したが、

伊東絹子のお陰で「八頭身」が、この年(1953年)の流行語となった。

このような、国際的なミス・コンクールで、日本人が入賞したのは、この時が初の快挙であった。

 

 

 

 

NHKのラジオドラマとして、空前の大ヒットを記録した『君の名は』が、

この年(1953年)、松竹で映画化されると、その主題歌『君の名は』(作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而)を、織井茂子が歌い、

映画『君の名は』と共に、織井茂子の『君の名は』も爆発的な大ヒットとなった。

「作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而」のゴールデン・コンビは、相変わらず健在であった。

 

 

 

その他、この年(1953年)は、宮城まり子『毒消しゃいらんかね』や、三浦洸一『落葉しぐれ』といった曲が大ヒットしたが、

三浦洸一は、黒柳徹子も通っていた、東洋音楽学校の先輩にあたり、

徹子は「三浦洸一さんの歌が大ヒットしていたのを知って、私も焦りを感じた」と、三浦洸一の活躍に刺激を受けて、卒業後の進路について、初めて焦りを感じたと、後に語っている。

という事で、「テレビ元年」の1953(昭和28)年にも、様々なヒット曲が生まれていた。

 

(つづく)