紅白歌合戦と日本シリーズ【狂騒編】~1953(後編)…「ジャズ」の歴史(戦後編)~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

19世紀末~20世紀初頭に、アメリカ南部の街・ニューオリンズで、黒人音楽と白人音楽が融合する事により、「ジャズ」という音楽が誕生した。

その後、1920年代には「ジャズ」は全米本土へと広がり、「ジャズ・エイジ」と称された、「アメリカ黄金時代」が到来した。

1920~1930年代にかけて、「スウィング」が大流行し、「ビッグ・バンド」の大編成によって、全米各地のダンス・ホールで、派手で賑やかな演奏が行われ、「ジャズ」は空前の黄金時代を謳歌していた。

一方、日本にも「ジャズ」は伝わり、戦前の日本でも「ジャズ」は愛好されたが、1941(昭和16)年の「太平洋戦争」勃発により、「ジャズ」などの洋楽は全面禁止され、日本における洋楽文化は「冬の時代」を迎えた。

 

 

1940年代に入り、それまでの行き過ぎた「ジャズ・ブーム」に対する反動からか、

アメリカでは、「ジャズ」の新たな潮流として「ビ・バップ」が誕生する事となる。

そして、戦争が終わり、平和が訪れると、戦後の日本でも空前の「ジャズ・ブーム」が到来するのである。

というわけで、今回は「紅白歌合戦と日本シリーズ」の「ジャズ編(戦後編)」を描く。

それでは、ご覧頂こう。

 

<1940年代…過熱する「スウィング」の反動で、「ジャズ・ブーム」は一時停滞し、「聴かせる音楽」として「ビ・バップ」が誕生>

 

 

 

1920~1930年代にかけて、アメリカは空前の「ジャズ・ブーム」に沸き、

大編成のビッグ・バンドが、夜毎、全米各地のダンス・ホールで「ジャズ」を演奏し、

ジャズ界は華やかな雰囲気に包まれていたが、当時のジャズは、あくまでもダンスの「添え物」のような扱いになってしまい、

ジャズの音楽性などは、あまり省みられる事は無くなっていた。

つまり、当時のジャズは、いつの間にか「ダンス・ミュージック」のようになっていたのである。

1940年代に入った頃、当時のジャズ界には、優れたミュージシャンも沢山居たが、そんな状況に嫌気が差していた彼らは、ダンス・ホールでの仕事が終わった後、

ニューヨークのハーレム街の近くに有った、「ミントンズ・プレイハウス」に出入りし、少人数の編成で、自由にアドリブを利かせた、即興演奏のジャム・セッションを繰り返すようになって行った。

 

 

 

 

やがて、少人数の編成による即興演奏を目当てに、

そんなジャム・セッションを聴くために、聴衆も集まるようになって来たが、

この即興演奏がメインのジャズは、「ビ・バップ」と称されるようになった。

「ビ・バップ」は、ダンス・ホールでの熱狂とは明らかに一線を画し、あくまでもジャズの音楽性を追求しており、

「聴衆に聴かせる音楽」としてのジャズであった。

こうして、行き過ぎた「スウィング」への反動として、1940年代に、新たなジャズのジャンルである「ビ・バップ」が誕生したのである。

ここで、「ジャズ史」は、新たな段階へと進んだと言って良い。

 

<1940年代…「ビ・バップ」を彩る、大ミュージシャン達~チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、セロニアス・モンク、バド・パウエル、チャーリー・クリスチャン、ケニー・クラークetc…「モダン・ジャズ」の基礎が築かれる>

 

 

1940年代、「ビ・バップ」の時代が到来すると、数々の大ミュージシャンが活躍し、「ビ・バップ」を発展させて行った。

チャーリー・パーカーは、伝説的存在となっている人物であるが、チャーリー・パーカーが吹いていたのはアルト・サックスである。

チャーリー・パーカーには「バード(鳥)」というニックネームが有ったが、本当に鳥のように自由に生きた人であり、様々な伝説を残した人物よして知られている。

また、彼はいつも他人のアルト・サックスを借りて演奏していたというが、どんなアルト・サックスを吹いても、必ず、チャーリー・パーカーの音になってしまうとも称されており、「たとえトロンボーンを吹いたとしても、チャーリーのアルトの音になっていたに違いない」とまで言われた。

チャーリー・パーカーは、天才であるが故に、色々と周囲との軋轢が有ったようであるが、やがて精神を病んでしまい、1955(昭和30)年に、享年34歳という若さで亡くなってしまった。

それ故、未だに伝説のジャズ・ミュージシャンとして、語り継がれる存在となっている。

 

 

 

 

 

 

 

ディジー・ガレスピーは、チャーリー・パーカーと同時期に活躍した、トランペット吹きであるが、

頬っぺたを膨らませて、曲がった形の独特な形のトランペットを吹く、独創的な演奏スタイルで知られている。

ディジー・ガレスピーは、若い頃はファッション・リーダーとしても知られていたが、曲がったトランペットというのは、ある日、酔っ払いにトランペットを壊されてしまい、そのために曲がってしまったトランペットを吹いてみた所、それまでよりも良い音が出たというので、敢えて、その形での演奏を続けたというエピソードが残っている。

 

 

 

帽子がトレードマークのピアニスト、セロニアス・モンクは、

独学でピアノを学び、彼独自の理論で、ピアノ演奏を極めて行ったが、

その独自のピアノ演奏が、「ビ・バップ」の発展にも大きき寄与した。

セロニアス・モンクは、こんな言葉を残している。

「私は、あなた自身のやり方で演奏しろ、と言う。大衆の望んでいることを演奏するな、自分のしたい演奏をして、一般の人々に理解させようじゃないか、たとえ15、20年かかるとしても」

つまり、他人に指図され、他人が望むような人生を生きるのではなく、自分で道を切り開いて行くのだという事を、彼は主張しているのであるが、だからこそ、唯一無二の演奏スタイルが確立出来たのであろう。

 

 

なお、セロニアス・モンクは、後にジャズ界のスーパースターとなった、サックス奏者のジョン・コルトレーンが、

マイルス・デイヴィスのバンドをクビになり、一時、職を失っていた時に、彼に手を差し伸べ、

一緒に演奏活動をしたり、音楽理論を教えたりと、何かと彼の面倒を見ていたという。

セロニアス・モンクとジョン・コルトレーンは、ノースカロライナ州出身の同郷という繋がりが有ったが、

当時のジャズ界は、不安定な生活と常に隣り合わせであり、

「困っている時は、お互い様」

という、助け合いの精神が有ったのであろう。

 

 

 

 

 

その他、ピアノのバド・パウエル、ギターのチャーリー・クリスチャン、ドラムのケニー・クラークなどが活躍した。

彼らにも、色々と多彩なエピソードが有るのだが、それは割愛させて頂くとして、

彼ら、ジャズ史を彩る名ミュージシャン達が、「ビ・バップ」を発展させて行ったのである。

そして、「ビ・バップ」の発展により、「モダン・ジャズ」の基礎が築かれて行った。

これが、1940年代における、アメリカのジャズ界の状況であった。

 

<1945(昭和20)年…終戦直後の日本で「ジャズ」が復活!!~戦後に活動開始した日本のジャズ・バンドが「ビ・バップ」と出逢う>

 

 

1945(昭和20)年8月15日、昭和天皇の「玉音放送」により、

日本国民に、「太平洋戦争」の終結が知らされた。

これによって、長く苦しかった戦争は終わったが、終戦と共に、

戦前は抑圧されていた外国文化、洋楽文化が、「解禁」される事となった。

 

 

 

終戦直後の1945(昭和20)年9月9日、戦前にタンゴ・バンドとして活躍した「桜井潔楽団」が演奏を行なったが、

これが、戦後日本における、最初の音楽のステージであると言われている。

そして、同日(1945/9/9)には、東海林太郎がNHKラジオの歌謡番組に出演し、戦前のヒット曲を歌った。

こうして、日本に再び、音楽が自由に楽しめる時代が帰って来たのである。

 

 

1945(昭和20)年9月23日、NHKラジオで「日米放送音楽会」が放送され、

米軍223隊(軍楽隊)によって、ジャズが演奏された。

同日(1945/9/23)、NHKラジオから、占領軍用放送ネットワーク「WVTR」(※後の「FEN」)が放送開始され、

そこで、盛んにジャズが放送されるようになった。

戦後、日本はアメリカ軍が主体のGHQ(連合国軍総司令部)に占領され、アメリカの統治下に置かれたが、

そのため、アメリカ発祥の音楽であるジャズという音楽が、戦後日本の世の中に、浴びるように降って来たわけである。

 

 

1945(昭和20)年11月25日、「ニュー・パシフィック・バンド(新太平洋楽団)」が、

東京放送管弦楽団と共にジャズを演奏し、彼らは同年(1945年)12月2日から放送開始された、

NHKラジオの「ニュー・パシフィック・アワー」にレギュラー出演するようになり、そこで毎回ジャズを演奏した。

これが、戦後日本における、本格的なジャズ・バンドの始まりとなった。

 

 

 

 

その後、「渡辺弘とスターダスターズ」、「東松二郎とアズマニアンズ」、「南里文雄とホット・ペッパーズ」など、戦後日本で、次々にジャズ・バンドが活動開始し、彼らは進駐軍のキャンプで、毎晩のように演奏するようになった。

実は、進駐軍の兵士は、それまで戦争に明け暮れていたため、あまりジャズを知らなかった人も多く、

彼ら日本人のジャズ・バンドの演奏によって、初めてジャズを聴いたという米兵も結構居たようである。

そして、戦後に誕生した日本人ジャズ・バンドは、「ビ・バップ」という革新的な音楽に触れ、ますます音楽性を高めて行った。

 

 

 

なお、余談であるが、「南里文雄とホット・ペッパーズ」には、加藤茶の父親・平八郎も在籍していたが、

後に、ドラムとしてハナ肇も加わっていた。

ハナ肇は、後に「浜口庫之助とアフロ・クバーノ・ジュニア」にドラムで参加し、そのバンドのボーカルには松尾和子が居た。

そして、1955(昭和30)年、ハナ肇は「ハナ肇とキューバン・キャッツ」を結成し、それが「ハナ肇とクレイジー・キャッツ」誕生へと繋がって行く。

つまり、ハナ肇の音楽活動の原点こそ、「南里文雄とホット・ペッパーズ」だったわけであるが、詳細については、また別の機会にでも述べさせて頂く。

 

<戦前から洋楽を歌っていた、淡谷のり子、ディック・ミネ、灰田勝彦らが復活し、戦後、米軍キャンプのステージで大喝采を浴びる~しかし、1945(昭和20)年12月31日の「紅白音楽試合」には出演出来ず>

 

 

 

 

 

さて、戦後の訪れと共に、「ジャズ」が解禁され、日本に再び洋楽文化が復活したが、

戦前の日本で、洋楽や外国のポピュラー音楽を歌っていたため、厳しい弾圧に遭っていた歌手達も、再び陽の目を見るようになった。

それが、淡谷のり子、ディック・ミネ、灰田勝彦といった人達であり、この人達は、戦後、進駐軍のキャンプを訪れ、進駐軍のキャンプのステージで、連日連夜、外国のポピュラー音楽を歌いまくり、大喝采を浴びた。

戦時中、自らの意思を曲げず、外国音楽を愛し続けていた事で、戦後、運命が開けたのである。

こうして、淡谷のり子、ディック・ミネ、灰田勝彦は、進駐軍のステージをキッカケにスポットライトを浴び、戦後日本の音楽界で活躍する足掛かりを得た。

そして、進駐軍クラブでの、日本のミュージシャン達の音楽活動が、戦後日本の歌謡曲やポップスの誕生へと繋がって行くのである。

 

 

 

なお、淡谷のり子、ディック・ミネ、灰田勝彦らは、

進駐軍のステージで外国のポピュラー音楽を歌いまくり、大喝采を浴びたが、

そのため、1945(昭和20)年12月31日、NHKで放送された、歴史的な「紅白音楽試合」には出演出来なかったというエピソードが有る。

あまりにも忙しかったという事と、外国の曲ばかり歌っていたので、出演者が日本の歌を歌うというのがコンセプトの、「紅白音楽試合」には、相応しくないと判断されたためであろうか。

いずれにしても、当時、最も人気が有った、この3人が、初めての「紅白音楽試合」に出演していなかったというのは、勿体ない話である。

 

<1950年代…マイルス・デイヴィスの登場と「クール・ジャズ」の誕生~「ビ・バップ」から「ハード・バップ」へ>

 

 

 

1950年代に入り、本場アメリカのジャズ界は、新たな段階を迎えた。

優れたトランペット奏者として名を馳せていた、マイルス・デイヴィスの登場により、「クール・ジャズ」が誕生したのである。

後に、マイルス・デイヴィスは「ジャズの帝王」とも称されたが、当初、マイルス・デイヴィスはチャーリー・パーカーの影響を受け、

やがて、知的で「ビ・バップ」よりも感情を抑えた、独自の演奏により、それが「クール・ジャズ」と称されるようになった。

「クール・ジャズ」の誕生は、1950年代前半に、白人ミュージシャン中心に、アメリカ西海岸で一大センセーションを巻き起こした、編曲重視の「ウエスト・コースト・ジャズ」の端緒ともなった。

 

 

 

また、マイルス・デイヴィスは、「ハード・バップ」の開祖とも言われている。

「ハード・バップ」とは、1950年代前半から,、「ビ・バップ」をより分かりやすく発展させた音楽であり、

ニューヨークなど東海岸中心に、それが「ハード・バップ」として花開いた物である。

全体を通して「アドリブ合戦」になりがちだった「ビ・バップ」を更に咀嚼し、感情や曲の起伏を鮮明にして、単調さを排除した音楽が、「ハード・バップ」であるという。

なお、1951(昭和26)年にリリースされた、マイルス・デイヴィスのアルバム『ディグ』が、「ハード・バップ」の端緒であると言われおり、

以後、1950~1960年代にかけて、「ハード・バップ」はジャズ界の一大潮流となった。

 

 

このように、マイルス・デイヴィスは、「クール・ジャズ」を誕生させ、「ハード・バップ」というジャンルを創始し、

ジャズ界に大きな足跡を残した、まさにジャズ界の巨人だったが、

マイルス・デイヴィスといえば、1958(昭和33)年のフランス映画『死刑台のエレベーター』の音楽を手掛けた事でも知られている。

全体的に抑制された、マイルス・デイヴィスが奏でるサウンドが堪能出来る、まさに名作映画であり、機会が有れば、是非ともご覧頂きたい。

 

<1950~1960年代に一世を風靡した「ウエスト・コースト・ジャズ」>

 

 

 

 

マイルス・デイヴィスが誕生させた「クール・ジャズ」は、

前述した通り、アメリカ西海岸で、白人ミュージシャン達による「ウエスト・コースト・ジャズ」の隆盛に繋がって行った。

「ウエスト・コースト・ジャズ」の代表的ミュージシャンには、トランペットのチェット・ベイカー、バリトンサックスのジェリー・マリガンなどが居る。

このように、戦後のアメリカのジャズ界では、ジャズは更に音楽性を高めて行ったが、「ビ・バップ」「クール・ジャズ」「ハード・バップ」「ウエスト・コースト・ジャズ」などは、ざっくりまとめて言うと、全て「モダン・ジャズ」の一種であると言って良い。

 

<「ジャズ」の定義とは!?~「スタイルの変化の歴史が、ジャズの歴史」「即興演奏こそが、ジャズの根幹」>

 

 

 

このように、「ジャズ」と一口に言っても、その時代ごとによって、様々に変化して行っている事がわかるが、

「らららクラシック」では、「スタイルの変化の歴史こそが、そのままジャズの歴史である」と、解説されていた。

しかし、特に戦後の「モダン・ジャズ」の隆盛の時代を迎えると、あまりにもジャズと言う音楽が枝分かれして行ってしまい、

その辺が、「ジャズは、わかりにくい」と言われる所以にもなっていると思われる。

 

 

 

 

 

 

 

「らららクラシック」に出演し、「ジャズ」という音楽の解説をしていた狭間美帆は、

元々は、クラシック音楽を長く学んでいた、クラシック畑の出身だったようであるが、

彼女は、ジャズについて、こんな事を言っていた。

「ジャズの基本は、即興しているという所ですね。即興をしながら曲が進んだり、即興部分が有って、演奏者同士がバトルをしたり、即興で会話をしたり、とにかく『即興』が、ジャズのキーワードなんですね」

という事で、ジャズという音楽の根幹は「即興」であると、狭間美帆は、ジャズの本質について語っていた。

また、ジャズ・ピアニストのビル・エヴァンスは、こんな言葉を残している。

「ショパンやバッハ、モーツァルトだってそうだ。即興でピアノを弾いていた時、彼らはジャズを演奏していた。ジャズとは、感性が生み出す、創造的なプロセスだ」

つまり、楽譜や形式などに捉われない、自由さこそが、ジャズの魅力であると、彼は説いている。

という事で、自由で何でも有りだからこそ、ジャズは様々な形態に発展して行ったという事であろう。

 

<服部良一と『東京ブギウギ』~1947(昭和22)年秋~「ブギ」の大流行と、「ブギの女王」笠置シヅ子の登場>

 

 

さて、ここからは戦後日本の音楽界と、ジャズとの関わりについて書く。

戦前、作曲家の服部良一は、中国の上海の租界に居た事が有り、

その上海租界で、服部良一は「ブギ」という音楽を体験していた。

「ブギ」とは、黒人音楽「ブルース」を2倍のテンポで演奏した物であり、とにかく派手で賑やかな音楽であった。

 

 

 

服部良一は、すっかり「ブギ」のリズムに魅了され、

『荒城の月』を「ブギ」のリズムに編曲し、大谷洌子(おおたに・きよこ)に歌わせたり、

李香蘭(山口淑子)のヒット曲『夜来香』も「ブギ」にアレンジして、彼女に歌わせたりしていた。

「ブギ」は「ジャズ」の一種であるが、服部良一は、「ブギ」に大きな魅力と可能性を感じていたのである。

 

 

 

 

1947(昭和22)年秋、日本で「ブギ」の大ブームが到来した。

既に服部良一は、「ブギ」について充分に知り尽くし、研究していたが、

そんな服部良一の前に、笠置シヅ子という歌手が現れた。

服部良一は、笠置シヅ子のために『東京ブギウギ』という曲を書くと、それを彼女に歌わせた。

すると、笠置シヅ子が歌う『東京ブギウギ』は、戦後の解放的な雰囲気とも非常にマッチしたのか、爆発的な大ヒットとなった。

こうして、笠置シヅ子は「ブギの女王」と称されるようになったが、それもこれも、戦前から「ジャズ」や「ブギ」を愛好し、その音楽を研究していた、服部良一という作曲家の努力の賜物だったと言って良い。

 

<進駐軍の戦後日本の「ジャズ」~GHQ占領時代(1945~1952年)、進駐軍キャンプのステージに、数多くの和製ジャズ・バンドが駆り出される>

 

 

さてさて、戦後日本は、GHQの占領時代(1945~1952年)、良くも悪くも、アメリカの影響下に置かれていたが、

日本各地には、進駐軍キャンプが沢山有り、そのステージでは、連日連夜、沢山のステージが行われていた。

そのため、ジャズ・ミュージシャンの数が足りず、

「楽器が演奏できる者、集まれ!!」

という事で、毎晩、手配師が楽器が吹ける者を募集し、それに応じたミュージシャン達をバスに乗せて、進駐軍キャンプへと送り込んでいた。

その進駐軍キャンプで演奏するミュージシャンには、高額なギャラが支払われたため、手っ取り早く稼ぎたい若者達が、それこそ、猫も杓子も楽器の演奏を必死に覚え、俄か仕立ての和製ジャズ・バンドが、雨後の筍のように誕生して行った。

こうして、日本中にジャズ・バンドが溢れ返るようになって行ったのである。

 

<1952(昭和27)~1953(昭和28)年…GHQの占領時代の終焉と共に、日本に空前の「ジャズ・ブーム」が到来!!>

 

 

1952(昭和27)年、「サンフランシスコ講和条約」が発効され、GHQによる占領統治が終わり、日本は独立を回復した。

しかし、そうなると、進駐軍キャンプで演奏していた和製ジャズ・バンドのミュージシャン達は、皆、一斉に「失業」してしまう事となった。

そこで、それまで基地回りをしていたジャズ・バンドは、今度は基地以外の、日本全国のダンス・ホールなどで演奏するようになった。

こうして、腕を磨いていたジャズ・ミュージシャン達が、一斉に日本中に散らばり、ジャズを演奏しまくった事により、

1952(昭和27)~1953(昭和28)年頃にかけて、日本に空前の「ジャズ・ブーム」が到来した。

 

 

 

 

1952(昭和27)年、当時、人気絶頂だったコメディアンのトニー谷の主催により、

東京・日比谷公会堂で、「トニー谷ボードビルとジャズ」という、ジャズ・イベントが開催され、

これが「ジャズ・ブーム」の火付け役となったが、このイベントに出演し、一躍大人気となったのが、「渡辺晋とシックス・ジョーズ」である。

「渡辺晋とシックス・ジョーズ」のメンバーは、渡辺晋(ベース)、安藤八郎(ヴィヴラフォン)、宮川協三(ギター)、南宏(ドラム)、中村八大(ピアノ)、松本英彦(テナーサックス)らである。

彼らは、当時アメリカで流行していた「クール・ジャズ」もカッコ良く演奏する事が出来たため、技術的にも高いレベルを誇っていた。

 

 

なお、後に1955(昭和30)年には、渡辺晋は、「シックス・ジョーズ」のマネージャーを務めていた曲直瀬(まなせ)美佐と結婚し、

渡辺晋・美佐の夫妻は、「渡辺プロダクション(ナベプロ)」という芸能プロダクションを創設し、

芸能ビジネスの世界に君臨する事となるが、「ナベプロ」の興りは、この頃の「ジャズ・ブーム」がキッカケだったのである。

 

 

 

 

翌1953(昭和28)年も、空前の「ジャズ・ブーム」は続いていた。

その「ジャズ・ブーム」を象徴するイベントとして、

東京・浅草の国際劇場で、1953(昭和28)年9月に「世紀最大のジャズ・ショー」が開催された。

このイベントには、美空ひばり、雪村いづみなど、当時の人気者達が勢揃いし、

ジャズ・ドラマーとして大人気だった笈田敏夫も出演していた。

この公演は、何と13日間で10万人を動員するという大盛況であった。

 

 

 

この年(1953年)、数有るジャズ・バンドの中で、最も人気を集めたのが、

「ジョージ川口とビッグ・フォー」であるが、ジョージ川口(ドラム)、松本英彦(テナーサックス)、中村八大(ピアノ)、小野満(ベース)という、当代きっての実力者達が顔を揃えた、スーパー・ユニットであった。

このように、1952(昭和27)~1953(昭和28)年にかけて、日本のジャズ界は空前の活況を呈していたのである。

 

<1952(昭和27)~1953(昭和28)年の日本のジャズ界(音楽界)の出来事~江利チエミ、雪村いづみが登場し、サッチモ(ルイ・アームストロング)が来日~秋吉敏子と渡辺貞夫が出逢い、「コージー・カルテット」結成>

 

 

 

1952(昭和27)年、当時15歳だった江利チエミが、『テネシー・ワルツ』でデビューした。

江利チエミは、幼い頃から歌の才能を発揮していたが、彼女は米軍キャンプを回り、

その米軍キャンプのステージで、外国のポピュラー音楽を歌いまくり、歌を磨いて行った。

そんな江利チエミのレパートリーの1つだったのが、『テネシー・ワルツ』であり、当時15歳とは思えないぐらい、情感タップリに歌ってみせ、その曲が大ヒットした。

 

 

 

翌1953(昭和28)年には、江利チエミと同学年で、当時16歳の雪村いづみが、『想い出のワルツ』でデビューした。

『想い出のワルツ』も、江利チエミのレパートリーの1つだったのだが、

デビュー曲としてレコードに歌を吹き込んだのは、雪村いづみの方であった。

雪村いづみも、江利チエミと共に人気歌手となって行くが、この年(1953年)、江利チエミ『カモンナ・マイ・ハウス』をヒットさせている。

 

 

 

なお、この年(1953年)、あの「サッチモ」ことルイ・アームストロングが来日し、

当時、新進気鋭のスターだった江利チエミとも対面を果たしている。

「ジャズ」黎明期の巨人である「サッチモ」の来日は、当時の日本の「ジャズ・ブーム」を象徴する出来事であった。

 

 

 

 

また、この年(1953年)には、ピアノの秋吉敏子と、サックスの渡辺貞夫という、

2人のジャズ・ミュージシャンが出逢い、「コージー・カルテット」を結成したが、

秋吉敏子は、後に世界的なジャズ・ピアニストとして名を馳せるようになり、渡辺貞夫は「世界のナベサダ」として、大活躍した。

このように、戦後、日本の音楽界に「ジャズ」の花が満開に咲き誇ったのであった。

 

(つづく)