五輪(オリンピック)野球史⑥ ~1932(昭和7)年「ロサンゼルスオリンピック編」(後編)~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1929(昭和4)年10月24日、アメリカのニューヨーク証券取引所で、株価が一斉に大暴落するという「暗黒の木曜日」が引き金となり、

世界中が「世界恐慌」の波に飲み込まれてしまい、世界は一変した。

世界は同時に大不況の時代に突入し、日本も「昭和恐慌」&「世界恐慌」というダブルパンチに襲われ、天才軍人・石原莞爾「満蒙(満州・モンゴル)領有」を提唱していた。

 

 

世界が不穏な空気に包まれる中、1932(昭和7)年に「第10回近代オリンピック=ロサンゼルスオリンピック」が開催されるが、

それは、日本が「満州事変」を引き起こし、その後、あっという間に「満州国」が建国されるなど、中国で軍事行動を続ける日本が、世界中から冷たい視線を浴びる中で開催された大会でもあった。

というわけで、「ロサンゼルスオリンピック」とは、どのような大会だったのか、当時の世界情勢や時代背景も含め、描いてみる事としたい。

それでは、ご覧頂こう。

 

<1930(昭和5)年7月13日~30日…南米・ウルグアイで「第1回 サッカーワールドカップ(W杯)」が開催~地元・ウルグアイが初代優勝チームの栄冠に輝く>

 

 

1930(昭和5)年7月13日~31日にかけて、南米・ウルグアイで、

「第1回 サッカーワールドカップ(W杯)」が開催された。

「サッカーの世界一を決める大会を開こう」という機運が高まり、FIFA(国際サッカー連盟)が結成されたが、

そのFIFAの招待に応じ、開催地・ウルグアイをはじめ、南米からはブラジル、アルゼンチン、チリ、パラグアイ、ペルー、ボリビアが参加し、

アメリカ、メキシコも招待されて参加、ヨーロッパからは、フランス、ユーゴスラビア、ベルギー、ルーマニアが参加し、

「第1回 サッカーワールドカップ(W杯)」には計13ヶ国が参加した。

だが、当時はヨーロッパから南米までの船旅には、費用もかかり、殆んどのヨーロッパ諸国は出場を辞退し、

サッカーの母国・イングランド(英国)などは、

「サッカーの世界一を決めるって?そんなの、ウチに決まってるだろう」

というような態度で、ハナから相手にもしていなかった。

 

 

 

そんな中、開催された「第1回 サッカーワールドカップ(W杯)」は、

地元・ウルグアイが快進撃を見せ、決勝ではウルグアイが4-2でアルゼンチンを破り、ウルグアイが、記念すべき「ワールドカップ初代優勝チーム」の栄冠に輝いた。

今もそうだが、当時から南米ではサッカーが大変に盛んであり、ウルグアイの優勝は、サッカーの南米優位を印象付けるものであった。

この「ワールドカップ」が、今に続く世界的なビッグ・イベントに、少しずつ成長して行く事となるのである。

 

<1931(昭和6)年3月20日…陸軍中堅幹部が結成した「桜会」のクーデター未遂事件「三月事件」が発生>

 

 

1931(昭和6)年3月20日、橋本欣五郎中佐、長勇少佐、田中清少佐ら、

陸軍の中堅幹部により結成されていた「桜会」というグループが、

民間の国家主義者・大川周明らと手を組み、クーデターを企てるという、「三月事件」が発生した。

彼らは、当時の陸相・宇垣一成を首相に担ぎ上げ、政党内閣を一気に転覆させようとしていたが、宇垣の反対により、クーデターは未遂に終わった。

だが、「三月事件」は、軍部が台頭し、政治に口を出すようになった事を示す事件であった。

「昭和史」は、軍部が大きく左右する時代へと入ろうとしていた。

 

<1931(昭和6)年4月14日…穏健派の第2次・若槻礼次郎内閣(民政党)が発足~外相・幣原喜重郎を中心に、「協調外交」を目指すが…?>

 

 

 

1931(昭和6)年4月14日、穏健派の第2次・若槻礼次郎内閣(民政党)が発足した。

第2次若槻内閣は、外相・幣原喜重郎を中心として、「協調外交」を旗印に掲げており、

諸外国とも、なるべく穏便に付き合って行くという方針だったが、

当時は、軍部が何やら怪しい動きを見せ、何かと政治に口を出そうとしていた頃である。

従って、若槻首相の方針は「生温(ぬる)い」と、軍部は若槻内閣に対し、不満を持っていた。

ましてや、前回の記事でも書いた通り、当時の軍部は、石原莞爾を中心に、密かに「満州侵攻」の計画を練っていたのである。

政府と軍部の考え方に、ズレが生じていたが、この後、それがますます顕著になって行く事となる。

 

<1931(昭和6)年6月27日…「中村大尉事件」⇒1931(昭和6)年7月2日…「万宝山事件」~「満州」近辺で更に不穏な空気が強まる>

 

 

 

 

1931(昭和6)年6月27日、「満州」奥地の興安嶺で、

現地調査に赴いていた、陸軍大尉・中村震太郎が、同行者と共に、現地の中国人に殺害されるという事件が起こった。

所謂「中村大尉事件」であるが、この事件は日本のマスコミでも大々的に報じられ、

日本国内の、対中国強硬論が強まる、一つのキッカケとなった。

 

 

 

そして、「中村大尉事件」から程なくして、

1931(昭和6)年7月2日、中国東北部(満州)長春郊外の万宝山付近にて、

朝鮮人移住民を中国人農民が襲撃するという、「万宝山事件」が発生した。

「万宝山事件」は、土地と水に、民族感情がからんだ衝突事件だったのだが、日本は中国の不法行為として大々的に宣伝し、

またもや、マスコミで大々的に報じられ、日本の対中国感情は更に悪化して行った。

これを見てもわかる通り、軍部はマスコミを抱き込み、マスコミ報道によって、「満州」進出の機運を、どんどん高めて行ったのである。

軍部は、マスコミの報道が、国民に大きな影響を与えるという事に気付いていた。

そして、マスコミも軍の応援をして、軍部と一緒に、どんどん国民を煽る方向へと突き進んで行く事となる。

こうして、何やら「満州」近辺が、俄かにキナ臭くなって来たのである。

 

<1931(昭和6)年9月18日…「関東軍」の板垣征四郎・石原莞爾らが「柳条湖事件」を起こし、遂に「満州事変」が勃発~マスコミ(朝日新聞・東京日日新聞(毎日新聞))が軍部を応援し、国民を煽りに煽る~当初「不拡大方針」だった若槻内閣も、「満州事変」を事後承認>

 

 

 

 

さて、ここからは「昭和史」の重大な分岐点となった、重要な出来事について書く。

1931(昭和6)年9月18日未明、「満州」の奉天郊外の柳条湖で、日本が経営する南満州鉄道(満鉄)の線路が、何者かによって爆破されるという事件が起きた。

これは、実は「何者か」などではなく、かねてより「満州侵攻」を計画していた、「関東軍」板垣征四郎・石原莞爾らが中心となって、「自作自演」したものに、他ならない。

所謂「柳条湖事件」であるが、現地駐屯の「関東軍」は、これを「中国軍の仕業である」として、早速、それに「応戦」するために、直ちに出動した。

 

 

 

この「柳条湖事件」というのは、「関東軍」が前々から周到に計画していた、「自作自演」である。

では、これを当時の日本のマスコミは、どのように報じていたのかといえば、

朝日新聞・東京日日新聞(後の毎日新聞)という、多くの読者を持っている大新聞は、

「9月18日、奉天郊外の西北側に、暴戻(ぼうれい)なる支那軍(※中国軍)が満鉄線を爆破し、我が鉄道守備隊を攻撃したが、我が軍(※日本軍)はこれに応戦した」

という内容の記事を書いた。

つまり、日本の大新聞は、完全に軍部の側に立ち、「関東軍」の行動を全面的に「応援」したのである。

先程、書いた通り、軍部は完全にマスコミを抱き込んでおり、マスコミは軍部の味方をして、国民を煽る役割を果たした。

 

 

 

ともあれ、「関東軍」の独断により、「柳条湖事件」は引き起こされてしまったが、

軍部を統轄する「大元帥」である昭和天皇や、若槻礼次郎首相は、この事態に仰天し、

「これ以上、戦線を拡大してはならぬ」

という、「不拡大方針」を決めた。

特に、昭和天皇は戦線拡大には絶対に反対であり、

「直ちに、軍を引き上げさせろ」

と言って聞かなかったという。

という事で、当初、日本国内では、昭和天皇も若槻内閣も「不拡大方針」で一致していた。

 

 

 

ところがである。

1931(昭和6)年9月22日未明、今度は朝鮮に駐屯していた、日本の朝鮮駐屯軍の司令官・林銑十郎が、

彼の独断により、朝鮮と中国の国境である鴨緑江を越え、朝鮮駐屯軍を「関東軍」の応援のために出動させてしまった。

そもそも、「柳条湖事件」を起こした板垣征四郎・石原莞爾も、勝手に朝鮮駐屯軍を動かした林銑十郎も、

「大元帥」たる昭和天皇の命令など全く無視して、独断で軍隊を動かしており、これは本来は明確な軍令違反であり、軍法会議にかけられ、死刑になっても文句は言えない状況だった。

だが、事ここに至っては、若槻首相も「何?朝鮮の軍も動かしたのか?では、仕方がない」という事で、この動きを「事後承認」してしまったのである。

全く情けない話だが、結局、若槻首相は、現地で暴れ回る軍隊を止める事は出来なかった。

そして、「内閣の奏上には、ノーとは言わない」と決めていた昭和天皇も、渋々、これを認めざるを得なかった。

 

 

 

更に情けない話だが、朝日新聞・東京日日新聞は、

連日のように「号外」を出し、完全に「関東軍」の動きを後押しして、「皇軍、快進撃を続ける」と、国民を煽りに煽った。

そうすれば、新聞が飛ぶように売れたからである。

更に、当時の新メディアであるラジオも、連日のように臨時ニュースで「関東軍」の動きを報じたが、

このようなマスコミの過熱報道に、国民もすっかり煽られ、いつの間にか日本中が「関東軍」を応援するため、熱狂的な雰囲気に包まれた。

このように、マスコミというのは、いつの世も国民を煽りがちであり、大衆も、マスコミは煽られてしまいがちである。

「マスコミの報道には、気を付けなければならない」

という事が、この一例でもわかるが、残念ながら、国民というのはマスコミの影響から完全に逃れる事は難しい。

だからこそ、国民の一人一人が賢くなり、「マスコミ・メディアというものは、国民を煽ってナンボの存在である」と、一歩引いた視点で見る事が大事であろう。

 

 

これは、現在の「コロナ禍」でも言える事ではないだろうか。

マスコミ報道は大事だが、何でもかんでもマスコミの煽りに乗せられては、結局は自分が損をする。

その事だけは、私は声を大にして言いたいのである。

「マスコミには、自分は絶対に騙されないぞ」

というぐらいの、常に何処か冷めた視点で、マスコミの報道に接して、自分の頭で考える姿勢を持たないと、人は簡単にマスコミに煽られてしまうのではないだろうか。

 

 

 

話が少し脱線したが、1931(昭和6)年の「関東軍」に話を戻すと、

準備万端整えた上で、「満州」への侵攻を開始した「関東軍」は、あっという間に「満州」の各地を制圧して行った。

当時、日本は南満州鉄道(満鉄)の路線を敷いていたが、その満鉄を守るという名目もあって、「関東軍」の進撃は、まさに一瀉千里の勢いであった。

こうして、「柳条湖事件」に端を発した戦闘は「満州事変」と称されたが、この「満州事変」こそが、「昭和史」の日本が、泥沼の戦争へと片足を突っ込んでしまった、大きな分岐点だったのである。

 

<1931(昭和6)年10月17日…陸軍の「桜会」によるクーデター未遂事件「十月事件」発生>

 

 

1931(昭和6)年10月17日、またもや、橋本欣五郎らを中心とした、陸軍中堅幹部により結成された「桜会」により、

クーデター未遂事件「十月事件」が発生したが、事前に発覚し、首謀者の橋本らは逮捕された。

この時も、民間右翼の大物・大川周明らと結託していたが、陸軍は性懲りも無く、政府の転覆を狙っていたのである。

また、前述の通り、この頃はマスコミ報道により、日本中が「満州事変」に熱狂しており、日本国民の、軍部に対する視線は、好意的な物になっていた。

というわけで、この頃には、軍部が日本という国を完全に牛耳る時代は、もうすぐそこまで来ていたと言って良い。

 

<1931(昭和6)年11月…ルー・ゲーリッグを擁する「全米オールスターズ」が来日し、「日米野球」開催!!~東京六大学野球の選手を中心とする「全日本チーム」相手に、「全米オールスターズ」が17戦全勝>

 

 

 

さて、「満州事変」が拡大し、日本の国内外で、不穏な空気が高まっていた頃、

1931(昭和6)年11月に、読売新聞の主催により、「日米野球」が開催された。

読売新聞の社長・正力松太郎は、部数拡大を狙い、アメリカ大リーグのスーパースター達を日本に呼び、「日米野球」を開催する事を試みたが、この時は、ベーブ・ルースの来日こそ叶わなかったものの、ルースと同じニューヨーク・ヤンキースのスーパースター、ルー・ゲーリッグを中心とした、アメリカ大リーグの選抜チーム「全米オールスターズ」の招聘に成功したのである。

 

 

 

1931(昭和6)年に来日した「全米オールスターズ」は、

ルー・ゲーリッグ、レフティ・グローブ、ミッキー・カクレーン、フランキー・フリッシュ、フランク・オドールら、

当時のアメリカ大リーグを代表する、錚々たる顔ぶれが揃った、まさに桁外れのスター軍団であった。

実は、当時の日米関係は少しずつ悪化していたが、この「日米野球」は、悪化する日米関係を少しでも和らげたいという、日米双方の狙いも有ったものと思われる。

 

 

 

 

 

一方、「全米オールスターズ」を迎え撃つため、

日本側は、東京六大学野球のスター選手達を中心に「全日本チーム」を結成した。

早稲田の三原脩・伊達正男、慶応の水原茂、法政の若林忠志・苅田久徳ら、東京六大学のスターが勢揃いしたが、

当時は日米の実力差は歴然としており、結局、「全米オールスターズ」が17戦全勝と、日本を圧倒した。

だが、結果はともかく、各地とも超満員であり、興行としては大成功であり、読売新聞の思惑は図に当たった。

やはり、日本人というのは、心底、野球が大好きな国民であり、野球を通しての日米親善は成功した。

だが、その日米関係に冷水をぶっかけるような出来事が起きるのである。

 

<1932(昭和7)年1月28日…「第1次上海事変」勃発~白川義則・陸軍大将が、昭和天皇の意を汲んで停戦協定を締結>

 

 

 

1932(昭和7)年1月28日、日本軍と中国軍が、上海で軍事衝突するという、

所謂「第1次上海事変」が勃発した。

事の起こりは、上海の街を歩いていた日蓮宗の2人の僧侶が、中国人の「反日分子」に襲撃され、殺された事件であり、

これに対し、日本軍が中国側に厳重抗議して、それを口実に日本軍が出兵したというものだったという。

だが、この「反日分子」の中国人は、実は日本側のスパイ・川島芳子に雇われた工作員であり、わざと騒ぎを起こしたものだったというが、ともあれ、日本は「満州」だけではなく、遂に上海でも軍事行動を起こしてしまったが、当時、上海には欧米列強の「租界」が有り、

日本の軍事行動は、欧米列強から厳しい視線を浴びてしまった。

この年(1932年)に入り、日本に対する世界からの視線は、どんどん厳しい物になっていた。

それだけ、日本の中国での軍事行動が、世界から危険視されていたようである。

 

 

昭和天皇は、「満州事変」のみならず、「第1次上海事変」までもが拡大してしまっては、

日本がますます国際社会から孤立してしまうという事を非常に憂慮しており、

その昭和天皇の意を汲んで、陸軍の白川義則大将は、同年(1932年)4月29日の天長節、つまり昭和天皇の誕生日に、

日本と中国との間で、「第1次上海事変」の停戦協定を締結させる事に成功した。

しかし、その天長節の記念式典で、白川は朝鮮人の投げた爆弾により、不慮の死を遂げてしまった(※この時、重光葵が右脚を失った)。

昭和天皇は、後々まで白川の死を惜しみ、

「白川は、本当によくやってくれた」

と、語っていたという。

昭和天皇の意思など全く無視して、勝手な事ばかりしている軍部にあって、白川義則は、昭和天皇の意を汲んで、戦線拡大を止めてくれた、数少ない功臣であった。

 

<1932(昭和7)年2月9日…「血盟団事件」で、前蔵相・井上準之助、三井合名会社理事長・団琢磨らがテロに斃れる>

 

 

1932(昭和7)年2月9日、日本中を震撼させるテロ事件が起きた。

「一人一殺」という、物騒なスローガンを掲げ、井上日召が結成した右翼テロ組織「血盟団」が、

前蔵相・井上準之助や、三井合名会社理事長・団琢磨らを殺害するという「血盟団事件」を起こした。

遂に、テロによって政財界の要人が殺されてしまったが、この頃、日本は殺伐とした、物騒な空気に包まれていた。

 

<1932(昭和7)年3月1日…「満州国」建国~清王朝の「ラストエンペラー」愛新覚羅溥儀を「執政」とする、日本の傀儡国家~国際連盟の要請により、「リットン調査団」が派遣されるが…>

 

 

 

 

 

さてさて、「関東軍」は順調に「満州」全土を制圧し、

1932(昭和7)年3月1日、遂に「満州国」建国が宣言されるに至った。

この時、「満州国」の「執政」に就任したのが、清王朝の「ラストエンペラー」愛新覚羅溥儀である。

勿論、「満州国」というのは、日本の傀儡国家であり、愛新覚羅溥儀には何の権限も無かったのだが、

前年(1931年)9月の「満州事変」勃発以来、僅か半年にして、あっという間に「満州国」が建国されてしまった。

これは、世界史上でも稀な速さで、一つの「国家」が建国されたと言う意味では、特筆される。

 

 

 

「満州国」は「王道楽土、五族協和」という立派なスローガンを掲げていたが、

前述の通り、「満州国」とは、国とは名ばかりの、日本の傀儡国家であり、

日本の電光石火の早業に、欧米列強は、ますます警戒感を強めて行った。

そして、交際連盟は、英国のリットン卿を団長とする「リットン調査団」を派遣し、「満州国」の実態調査に乗り出した。

果たして、「リットン調査団」は、「満州国」に対し、どんな判断を下すのであろうか?

 

<1932(昭和7)年5月15日…犬養毅首相、「五・一五事件」で海軍青年将校に襲撃され、暗殺~「政党政治」の終焉~来日中のチャップリンは、危うく難を逃れる>

 

 

 

1932(昭和7)年5月15日、犬養毅首相が、海軍青年将校に襲撃され、暗殺されるという、「五・一五事件」が起こった。

「五・一五事件」については、以前このブログでも詳しく書いたので、ここでは詳細は割愛するが、

犬養毅は、首相官邸に踏み込んで来た海軍青年将校に対し、「話せばわかる」と言って、説得を試みたが、

海軍青年将校は「問答無用」と応え、犬養首相を射殺してしまった。

これにより、「政党政治」は終焉を迎え、日本という国家は、完全に軍部が幅を利かせる時代へと移り変わって行く事となるのである。

 

 

なお、この時、アメリカの喜劇王・チャップリンが来日しており、

「五・一五事件」の当日、首相官邸に招かれていたが、この時はスケジュールが合わず、訪問出来なかった。

これによって、チャップリンは危うく難を逃れたのだが、チャップリンも、犬養首相が暗殺されたという報せには大きなショックを受けた。

果たして、日本はこの後、どうなってしまうのであろうか。

 

<1932(昭和7)年7月30日~8月14日…「第10回近代オリンピック=ロサンゼルスオリンピック」開催~日本勢が大活躍し、現地在住の日系移民を喜ばせる>

 

 

 

犬養毅首相が「五・一五事件」で、衝撃的な暗殺をされてしまった2ヶ月後、

1932(昭和7)年7月30日~8月14日に、「第10回近代オリンピック=ロサンゼルスオリンピック」が開催された。

この「ロサンゼルスオリンピック」は、日本勢が大活躍し、日本のスポーツ界の歴史に残る、素晴らしいオリンピックとなったが、

まず、その主役となったのが、日本の水泳陣である。

 

 

 

この時、日本の水泳チームを率いていたのが、「水泳ニッポンの父」と称される、田畑政治(たばた・まさじ)である。

NHK大河ドラマ『いだてん』では、田畑政治の役を阿部サダヲが演じていたが、

田畑は「河童のマーちゃん」なる異名を取り、とにかく水泳が大好きで、日本水泳界の発展に、全てを懸けて来た男であった。

その田畑政治率いる「水泳ニッポン」がアメリカ西海岸のロサンゼルスへと乗り込んだのである。

 

 

 

 

 

 

田畑率いる「水泳ニッポン」は、まずは男子水泳で、物凄い結果を残した。

男子200m平泳ぎでは、鶴田義行が2大会連続「金メダル」を獲得し、小池礼三が僅かに及ばず「銀メダル」、

男子100m背泳ぎでは、清川正二・入江稔夫・河津健太郎が「金・銀・銅メダル独占」の快挙をやってのけた。

また、男子800mメドレーリレー(団体)では「金メダル」を獲得するなど、男子水泳だけで日本勢は「金メダル」5個、「銀メダル」3個、「銅メダル」2個を獲得したのである。

 

 

 

 

 

女子水泳も、負けてはいない。

女子200m平泳ぎに出場した前畑秀子は、オーストラリアのクレア・デニスと死闘を繰り広げ、

前畑は日本新記録を達成し、「銀メダル」を獲得した。

この時、前畑は「金メダル」を獲れなかった悔しさはあまり無く、「銀メダル」を獲れたという充実感が有ったが、

やがて「何故、もう少し頑張って、金メダルを獲れなかったのか」と周囲に言われるようになり、思い悩む事となる。

なお、大河ドラマ『いだてん』で前畑秀子を演じたのは、上白石萌歌である。

この前畑秀子が、4年後の1936(昭和11)年の「ベルリンオリンピック」で、日本中を熱狂させる事になるのである。

 

 

 

 

三段跳びでは、南部忠平が、前回大会の「アムステルダムオリンピック」の織田幹雄に続き、

日本勢では2大会連続となる「金メダル」を獲得した。

南部忠平は、織田幹雄と共に、早稲田の陸上部の良き仲間、良きライバルとして切磋琢磨しており、

「アムステルダムオリンピック」では、織田が「金メダル」、南部が「6位入賞」という結果だったが、

今度は、南部が見事に「金メダル」を獲得した。

 

 

 

陸上の男子100mでは、「暁の超特急」という異名を取った吉岡隆徳が、

日本人選手としては初めて、トラック競技の決勝に進出し、

吉岡は、男子100m決勝で6位入賞を果たした。

吉岡隆徳もまた、日本陸上界に残る「レジェンド」となったのである。

 

 

 

 

 

馬術(馬術競技大障害)では、男爵という身分から「バロン西」と称された西竹一が、愛馬・ウラヌス号に乗り、見事に「金メダル」を獲得したが、オリンピック史上、日本人選手が馬術で「金メダル」を獲ったのは、後にも先にも、この時の「バロン西」ただ一人である。

なお、「バロン西」は、これから13年後の1945(昭和20)年、日米両軍が激闘を繰り広げた硫黄島で享年43歳で戦死している。

「ロサンゼルスオリンピック」で「金メダル」の栄冠に輝いた時には、彼自身、まさか自分がそんな運命を辿るとは、思っていなかったに違いない。

戦争とは、何とも残酷なものである。

 

 

 

 

 

こうして、1932(昭和7)年の「ロサンゼルスオリンピック」は、日本勢の大活躍が光ったが、

日本勢のオリンピックでの大活躍に、現地のロサンゼルスで暮らす、日系移民は、事の外、大喜びであり、

表彰式で「君が代」が流れる度に、感極まって涙を流す人が多かったという。

何故なら、これまで述べて来た通り、当時の日本は軍事行動が目立ち、国際的にも孤立しつつある状況であり、

日米関係も悪化して行く中で、現地の日系移民は、非常に肩身の狭い思いをしていたからであった。

そんな日系移民にとって、「ロサンゼルスオリンピック」での日本勢の大活躍は、まさに希望になっていたのである。

その日本は、この後、ますます「軍事国家」の様相を呈して行くのであるが、その話については、また次回。

 

(つづく)