五輪(オリンピック)野球史⑦ ~1936(昭和11)年「ベルリンオリンピック編」(1)~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1932(昭和7)年に開催された、「第10回近代オリンピック=ロサンゼルスオリンピック」は、

日本が「満州」など、中国大陸で盛んに軍事行動を起こす中で開催され、日本勢が大活躍を見せた。

「ロサンゼルスオリンピック」での日本勢の大活躍は、現地・ロサンゼルスに住む日系移民の人達に、大いに希望を与えた。

 

 

そして、その4年後の1936(昭和11)年に開催されたのが、

「第11回近代オリンピック=ベルリンオリンピック」である。

この時、ドイツはアドルフ・ヒトラー率いるナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)が政権を握っており、

「ナチス・ドイツ」が天下を取る中で開催されたのが、「ベルリンオリンピック」である。

というわけで、今回は「ヒトラー一代記」として、水木しげる『劇画ヒットラー』なども参考にして、稀代の独裁者、アドルフ・ヒトラーが天下を取って行く過程を中心に描く。

まずは、ドイツという国とヒトラーの生い立ち、そして1923(大正12)年にヒトラーが「ミュンヘン一揆」の失敗により逮捕・投獄され、獄中で、ヒトラーが『我が闘争』を書き上げるまでを描く。

それでは、ご覧頂こう。

 

<「稀代の独裁者」アドルフ・ヒトラー~ドイツは何故、ヒトラーとナチスに政権を取らせたのか!?>

 

 

 

 

アドルフ・ヒトラーは、世界史上に名を残す、「稀代の独裁者」である。

ヒトラーはナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)を率いて、ドイツで政権を握り、

その後、世界中を巻き込む「第2次世界大戦」を引き起こし、世界中を戦争の渦に巻き込んでしまったが、

では何故、ドイツはこの人物に、政権を取らせてしまったのであろうか。

 

 

ドイツという国は、偉大な芸術家や学者なども数多く輩出され、

ヨーロッパの中でも、優れた文化を生み出して来た国である。

そして、ドイツは非常に「理性的」な国だった筈なのだが、

そのドイツ国民が、ヒトラーという男に熱狂し、この男にドイツという国を託した。

というわけで、ドイツという国家の歩みと、アドルフ・ヒトラーという人物の人生を、今一度、振り返っておく事とする。

 

<ドイツとアドルフ・ヒトラー①~1871(明治4)年、ビスマルクの主導で「ドイツ帝国」が成立~ヴィルヘルム1世&ビスマルクのコンビで「ドイツ帝国」は発展~1889(明治22)年4月20日、アドルフ・ヒトラーが誕生>

 

 

1940(昭和15)年に、日本はドイツ・イタリアと「日独伊三国軍事同盟」を結ぶ事となるが、

そもそも、ドイツイタリアという国が成立したのは、割と最近の事であった。

ドイツとイタリアは、長い間、小国家が分立しており、統一国家が出来ていなかったのだが、

19世紀になり、国家統一の機運が高まり、イタリアは1861(文久元)年、ドイツは1871(明治4)年に、それぞれ統一国家が成立した。

 

 

 

その「ドイツ統一」の立役者となったのが、ビスマルクである。

分裂していた、ドイツの諸国家群の中の一つに、「プロイセン王国」という国が有ったが、

その「プロイセン王国」の国王・ヴィルヘルム1世が、ビスマルクを首相に任命すると、

ビスマルクは、就任早々、議会での演説で、

「現下の問題は、言論によっては解決出来ない。鉄と血によってのみ、解決される」

という、有名な「鉄血政策」を表明する演説を行ない、それから4年間、議会を停止し、

「プロイセン王国」は武力を高め、武力によって「ドイツ統一」を目指す事となった。

 

 

 

 

 

 

「鉄血宰相」ビスマルクは、強力な指導力を発揮し、「プロイセン王国」の国民の結束を高めると、

プロイセンとオーストリアが戦った「普墺戦争」(1866年)、プロイセンとフランスが戦った「普仏戦争」(1870~1871年)など、プロイセンは対外戦争に次々に勝利し、1871(明治4)年、オーストリア=ハンガリー帝国を排除した形で、ドイツの諸国家が統一された「ドイツ帝国」が成立した。

1871(明治4)年1月18日、ドイツは「普仏戦争」の勝利と、「ドイツ帝国」の成立を記念し、フランスの首都・パリのヴェルサイユ宮殿で、「ドイツ帝国」皇帝に即位した、ヴィルヘルム1世の戴冠式を行なった。

ドイツにとっては「栄光の瞬間」だったが、

一方、敵国の皇帝の戴冠式を許してしまったフランスとしては、屈辱的な光景となった。

その後、「ドイツ帝国」は、ヴィルヘルム1世&ビスマルクが強力なタッグを組み、「ドイツ帝国」を発展させて行った。

 

 

 

 

 

1871(明治4)年に成立した「ドイツ帝国」は、

皇帝に強い権限を与える「ビスマルク憲法(ドイツ帝国憲法)」を制定したが、

明治天皇を中心に据え、近代国家を目指す日本が「お手本」にしたのが、ドイツであった。

日本は、伊藤博文らが中心となって、「ビスマルク憲法」を手本として、憲法作成に臨み、

1889(明治22)年、天皇中心の憲法である「大日本帝国憲法」が発布された。

つまり、「ドイツ帝国」は、日本が「お手本」とした国であり、日本にも強い影響を与えていたのである。

 

 

 

 

 

ヴィルヘルム1世&ビスマルクが、急速に「ドイツ帝国」を発展させていた頃、

1889(明治22)年4月20日、ドイツとオーストリアの国境の街・ブラウナウで、アドルフ・ヒトラーは誕生した。

ヒトラーの父、アロイス・ヒトラーは、ドイツ帝国の税官吏であり、その妻でヒトラーの母・クララは、とても聡明で綺麗な女性だったが、

クララは、1907(明治40)年、ヒトラーが18歳の時に、享年47歳の若さで亡くなってしまった。

ヒトラーは終生、この母親の影を追い求めていたとも言われている。

 

<ドイツとアドルフ・ヒトラー②~ヴィルヘルム2世即位後、ドイツとヨーロッパ各国が対立~ヒトラー青年は画家を目指すも、美術学校の受験に失敗し、挫折>

 

 

 

 

1889(明治22)年、ヴィルヘルム1世と、その長男のフリードリヒ3世が相次いで亡くなると、

その後を継いで、ヴィルヘルム1世の孫で、フリードリヒ3世の長男・ヴィルヘルム2世「ドイツ帝国」の皇帝に即位した。

このヴィルヘルム2世は、ビスマルクとは反りが合わず、ヴィルヘルム2世ビスマルクを更迭してしまった。

それまで、ドイツはビスマルクの巧みな外交戦略により、ヨーロッパ各国と絶妙なバランスを保っていたが、

ヴィルヘルム2世は、五月蠅いビスマルクを排除すると、好戦的な性格を露わにして、

ドイツはベルリン・ビザンティウム(イスタンブール)・バグダッドを結ぶ線を基調として、領土拡張を目指す「3B政策」を押し進めようとした。

しかし、これはカイロ・カルカッタ・ケープタウンを結ぶ線を基調として領土拡張を目指す、英国(イギリス)の「3C政策」と、真っ向からぶつかる物であった。

こうして、ドイツと英国の関係は悪化し、両国の間には緊張が走った。

 

 

 

その後、20世紀に入ると、ヨーロッパは、ドイツ・オーストリア・イタリアの「三国同盟」と、

英国(イギリス)・フランス・ロシアの「三国協商」の陣営に分かれ、両陣営は、激しく対立して行った。

中でも、「ヨーロッパの火薬庫」と称されたバルカン半島は、沢山の民族が対立し、一触即発の危険な状態にあった。

ヨーロッパは、いつ戦争が起こってもおかしくないような、不穏な状態にあった。

 

 

その頃、アドルフ・ヒトラーは、少年期・青年期を過ごしていたが、

ヒトラーは幼少期から絵を描くのが好きであり、将来は画家になる事を目指していた。

ヒトラーは人一倍、自尊心が強かったが、「自分には才能が有る」と確信しており、

彼は、自分が偉大な芸術家として歴史に名を残すという事を、信じて疑わなかった。

 

 

 

1907(明治38)年、当時18歳のヒトラー青年は、画家になる事を目指して、オーストリア=ハンガリー帝国の首都・ウィーンに行き、

ウィーンの美術学校を受験したが、残念ながら、ヒトラーは美術学校の受験に2度も失敗してしまった。

ヒトラーは美術学校に入る事が出来ず、大きな挫折を味わったが、

「俺の才能を理解できない方が悪いんだ」

と言って、自分を落とした学校の方が悪いと嘯いていた

ヒトラーに絵の才能が有ったかどうかはともかく、ヒトラーは社会で受け入れられず、社会に恨みを抱くようになった事だけは確かである。

 

 

当時、ヒトラーには、亡くなった母親の遺産が有ったが、

美術学校の受験に失敗すると、その遺産も全て食い尽くしてしまい、

最下等の下宿で暮らしたが、やがてその下宿代も払えなくなった。

ヒトラーは、遂には公園のベンチをねぐらにする、浮浪者にまで落ちぶれてしまった。

ヒトラー青年は、社会の最底辺のどん底、落ちる所まで落ちたのである。

だが、この後、ドイツヒトラーの運命を大きく変える出来事が起こるのである。

 

<ドイツとアドルフ・ヒトラー③~1914(大正3)年6月28日の「サラエボ事件」をキッカケに「第1次世界大戦」が勃発~ヒトラーも一兵卒として「第1次世界大戦」に従軍>

 

 

 

ヒトラーは、社会の最底辺にまで落ちてしまったが、

ウィーンの冬は、とても寒く、公園のベンチで過ごすと凍死する危険性が有った。

そこで、ヒトラーは国立の浮浪者収容所に移ったが、ヒトラーには孤児恩給の支給が有ったため、どうにか三度のパンにはありつけた。

その浮浪者収容所で、ヒトラーはハニッシュという男と知り合ったが、ハニッシュはヒトラーが描いた絵を見て、

「お前には、絵の才能が有る。俺が、お前が描いた絵を売って来てやる」

と言って、ヒトラーに沢山の絵を描かせ、その絵を売り歩いた。

ヒトラーは、人物画は苦手だったが、風景画を描かせてみると、確かになかなか才能が有るようであった。

やがて、絵が売れるようになると、ヒトラーは、いくばくかのお金を得るようになり、どうにか浮浪者の身からは脱出する事が出来た。

 

 

 

さて、ヒトラーが画家として、それなりにお金を得て、どうにか暮らして行けるようになった頃、

ヨーロッパは、各国間の対立が深まり、一触即発の情勢にあった。

ドイツ・オーストリア・イタリアの「三国同盟」側と、英国・フランス・ロシアの「三国協商」側の対立のみならず、

複雑な民族対立が絡み合うバルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」と称されていた事は前述したが、

特に、オーストリア=ハンガリー帝国によるボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合に対し、セルビアが猛反発しており、オーストリアとセルビアの間には、緊張が高まっていた。

 

 

 

そんなセルビアの反オーストリア感情を和らげるべく、1914(大正3)年6月、

オーストリア皇太子のフランツ・フェルディナンドと、その妻のゾフィーという、

オーストリア皇太子夫妻が、セルビアを訪問する事となった。

だが、当時のセルビアには、反オーストリアを掲げる民族主義者の秘密結社が沢山存在しており、

オーストリア皇太子夫妻のセルビア訪問は、非常に危険視されていた。

 

 

 

 

1914(大正3)年6月28日、フランツ・フェルディナンドとゾフィーの夫妻は、

セルビアを訪問していたが、ここで最悪の事態が起こった。

フランツ・フェルディナンドとゾフィーは、セルビアの民族主義者によって暗殺されてしまったのである。

所謂「サラエボ事件」であるが、この事件により、歴史の歯車は大きく動き始める事となる。

 

 

 

 

 

実は当時、オーストリアとロシアの間では、バルカン半島を巡り、潜在的な対立が有ったが、皇太子のフランツ・フェルディナンドが暗殺されてしまった事により、それに対する報復を口実として、オーストリアがセルビアに宣戦布告した。

これに対し、受けて立つセルビアもオーストリアに対し宣戦布告すると、セルビアを支援する立場のロシアもドイツに宣戦布告し、オーストリアの同盟国・ドイツも、自動的にロシアに宣戦布告した。

一方、ロシアと同盟関係にある英国とフランスも、ドイツとオーストリアに戦線布告した。

こうして、あっという間にヨーロッパ全土で戦争が始まった。

遂に、「第1次世界大戦」が勃発したのである。

 

 

 

では、その頃、ヒトラー青年は何をしていたのかといえば、

一応、画家を自称してはいたが、無職でブラブラしている立場であった。

だが、ヒトラーは、

「どうせ、もうすぐ戦争が始まるさ。そうなったら、どんな職業に就いていようと、大した問題じゃねえよ」と、嘯いていた。

 

 

 

 

そして、ヒトラーの読みは当たった。

1914(大正3)年8月1日、ドイツがロシアに宣戦布告し、「第1次世界大戦」が勃発すると、

ヒトラーは、愛する祖国ドイツのため、喜び勇んで兵隊に入り、勇躍、戦地に赴いて行った。

こうして、ヒトラーはドイツ軍の一兵卒として従軍し、「第1次世界大戦」に臨んだのである。

「第1次世界大戦」が始まった時、ヒトラーは、

「これで、やっと俺も祖国ドイツのために戦う事が出来る」

と、非情な喜びを感じていたという。

アドルフ・ヒトラー、当時25歳の夏であった。

 

<ドイツとアドルフ・ヒトラー④~「第1次世界大戦」(1914~1918年)は、ドイツの敗北により終戦~膠着状態に陥っていた「第1次世界大戦」は、1917(大正6)年4月6日、アメリカが連合国側に参戦したのがキッカケで戦局は「連合国」優位に~「ドイツ革命」(1918年)により、ヴィルヘルム2世は退位し、「ドイツ帝国」は崩壊~前線で勇敢に戦ったヒトラー、祖国ドイツの敗戦に無念の涙を流す>

 

 

 

1914(大正3)年、遂に「第1次世界大戦」が始まった。

当初、どの国の首脳も、戦争は年内には終わるという楽観的な見通しを持っていたが、

その意に反して、戦争はなかなか終わらず、戦線は膠着状態に陥ってしまった。

ドイツとフランスは、最も激しい戦闘を繰り広げたが、なかなか決着が付かず、戦争は長期化して行った。

そんな中、1915(大正4)年にはイタリアが「三国同盟」を破棄して、「連合国」側に付き、

1917(大正6)年には「ロシア革命」の発生により、ロシアも戦線を離脱してしまった。

 

 

 

 

そして、戦局に決定的な影響を与えたのは、アメリカが「連合国」側として参戦した事である。

当初、アメリカは「第1次世界大戦」については、中立を宣言していたが(※「連合国」側に、武器や弾薬は提供していた)、

アメリカの商船が、ドイツの潜水艦「Uボート」に撃沈された事で、世論が一気に「参戦」の方向に傾き、

1917(大正6)年4月6日、アメリカがドイツに宣戦布告し、アメリカも「第1次世界大戦」に参戦した。

これが決定打となり、「第1次世界大戦」は一気に「連合国」側が優位となった。

 

 

 

 

長引く戦争に、ドイツ国内でも厭戦気分が高まっていたが、

1918(大正7)年11月、ドイツのキール軍港での水兵の反乱をキッカケに「ドイツ革命」が起こり、

ヴィルヘルム2世は退位に追い込まれ、「ドイツ帝国」は崩壊した。

「ドイツ帝国」の崩壊により、「第1次世界大戦」は、ドイツの敗北により、終結したのである。

 

 

 

ヒトラーは、一兵卒として勇敢に戦い、勲章まで貰う程だったが、残念な事に、ドイツは敗北を喫してしまった。

ヒトラーは、毒ガス攻撃で目をやられ、戦線を離脱して入院していたが、その入院先のベッドで、祖国ドイツの敗北を知り、無念の涙を流した。

以前、このシリーズの記事でも書いたが、ドイツは「第1次世界大戦」では、一兵たりとも、敵国の兵士を領土内に入れてはいない。

それにも関わらず、ドイツが敗北してしまったという事に、ヒトラーは猛烈に腹を立てていた。

「それもこれも、ユダヤ人のせいだ。ユダヤ人たちが、ドイツ国内で革命を起こしたから、ドイツは負けてしまった」

ヒトラーは、そう思い込み、ユダヤ人に恨みを抱いた。

当時、ドイツ国内では、根強い反ユダヤ人感情が有ったが、ヒトラーも、ユダヤ人に対して反感を抱いていた。

この事が、後のヒトラーによる、ユダヤ人迫害の遠因となった。

 

<ドイツとアドルフ・ヒトラー⑤~「ヴェルサイユ条約」(1919年)締結後、ドイツでは「ワイマール憲法」が制定され、「ドイツ共和国(ワイマール共和国)」が成立~しかし、国民経済は破壊され、政治的に不安定な状況が続く~ヒトラーはナチス(ドイツ国家社会主義ドイツ労働者党)に入党し、政治家として台頭>

 

 

 

 

 

1919(大正8)年、「ヴェルサイユ条約」が締結され、ヨーロッパで「ヴェルサイユ体制」が始まったが、

ドイツは、非常に民主的な憲法である「ワイマール共和国」を制定し、「ドイツ共和国(ワイマール共和国)」として、再スタートを切った。

「ワイマール共和国」の初代大統領には、社会民主党のエーベルトが就任したが、

このシリーズでも何度も触れて来た通り、「ヴェルサイユ条約」により、ドイツには多額の賠償金が課せられ、ドイツの経済や社会はメチャクチャに破壊されてしまった。

そして、政治の方でも、各党派間の争いが続き、なかなか足並みは揃わず、ドイツは政治的にも不安定な状態が続いた。

 

 

 

 

ドイツの経済は破綻し、超ハイパーインフレが起こり、ドイツ国民の経済は完全に破壊されてしまった。

ドイツの紙幣であるマルクの価値は無くなり、紙屑同然となってしまったが、

そんな中、1923(大正12)年に、新紙幣であるレンテンマルクの導入により、ドイツ経済は一応の安定を取り戻した。

 

 

 

 

一方、ヒトラーはと言えば、「第1次世界大戦」の終結後、軍隊を除隊したが、

ヒトラーは、政府の諜報組織に雇われ、戦後のドイツで雨後の筍のように現れた、各政党を調べる仕事をしていた。

1919(大正8)年9月、ヒトラーは「ドイツ労働者党」なる政党の調査に赴いたが、党員の数も少なく、どうという事もない、小政党に過ぎなかった。

だが、ヒトラー「ドイツ労働者党」のメンバーに勧誘され、数日考えた後、この政党に入党する事とした。

これが、ドイツとヒトラーの運命を大きく変える、大きな「分岐点」になろうとは、まだ誰も知る由も無かった。

 

 

 

ヒトラーは、抜群の演説の才能を発揮し、忽ち「ドイツ労働者党」のトップの座に就いた。

そして、1921(大正10)年、ヒトラーは党のシンボル・マークとして「ハーケン・クロイツ」を採用し、

党名を「国家社会主義ドイツ労働者党=ナチス」に改称した。

ヒトラーの演説は人々を惹き付け、ナチスの党員はどんどん増えて行ったため、

ヒトラーが自分の好き勝手に、党の方針を決めて行っても、もはやヒトラーに異を唱える者は居なくなって行った。

 

<ドイツとアドルフ・ヒトラー⑤~1923(大正12)年11月8日~9日…「ミュンヘン一揆」の失敗~ヒトラーは逮捕され、一時的に挫折するも、獄中で「我が闘争」を口述筆記>

 

 

 

 

 

1923(大正12)年11月8日~9日、ヒトラー率いるナチスは、

ドイツ南部の都市・ミュンヘンで、武力でクーデターを起こし、

ワイマール政府を一挙に打倒する事を企てた。

ヒトラーは、「第1次世界大戦」の英雄・ルーテンドルフ将軍を担ぎ上げ、

現政権を転覆させ、ナチスが政権を奪う事を企てた。

所謂「ミュンヘン一揆」である。

 

 

 

 

だが、ナチスによるクーデターは、政府軍に鎮圧されてしまい、

ヒトラーとナチスによる「ミュンヘン一揆」は、敢え無く失敗に終わった。

ヒトラーは逮捕されたが、普通なら、ここでヒトラーは国家反逆罪で死刑になってしまい、ここで終わりになっても、おかしくはなかった。

だが、ヒトラーは裁判で、自らの考え方を堂々と主張した。

これで、ヒトラーは死刑を免れ、禁固5年の判決を受け、投獄された。

 

 

 

 

だが、ヒトラーは獄中で大人しく引っ込んでいるような男ではなかった。

ヒトラーは、獄中では比較的自由に振る舞う事が出来たが、

ヒトラールドルフ・ヘスを秘書役として、獄中で『我が闘争』を口述筆記した。

『我が闘争』で、ヒトラーは飢えの画像にある通り、大衆扇動術を披露しているが、

ヒトラーは、ハッキリと、こう述べている。

「大衆は愚かである。大衆はすぐに忘れてしまうので、大衆に対しては、同じ事を何度も繰り返して述べる事が、効果的である」

「大衆は、熱狂させたままにしておき、考える間を与えてはならない。その方が、大衆は操作しやすい」

ヒトラーは、「ミュンヘン一揆」の失敗に懲りて、軍事クーデターで政権を取るのではなく、選挙で政権を取る事に狙いを定め、そのためには、大衆を味方に付ける事が大切であると、述べているのである。

そして、大衆は愚かなので、熱狂させておいた方が操りやすいと言っている。

これは、「まさに、その通り」としか言いようが無い。

というわけで、この後、ヒトラーの狙い通りに物事は進んで行くのである。

 

(つづく)