【今日は何の日?】1984/7/24…怪物・江川卓、オールスターゲームで「8連続奪三振」 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

本日(7/24)は、今から37年前の1984(昭和59)年7月24日、

ナゴヤ球場で行われた、オールスターゲーム第3戦で、江川卓(巨人)「8連続奪三振」を記録した日である。

1971(昭和46)年7月17日のオールスターゲーム第1戦(西宮球場)で、江夏豊(阪神)が、オールスター史上初の「9連続奪三振」を達成したが、この日(1984/7/24)、江川は江夏以来の「オールスター9連続奪三振」まで「あと一歩」に迫りながら、惜しくも大記録を逃した。

 

 

ところで、私は今から8年前(2013年)、このブログを始めた年に、

「怪物・江川卓の野球人生」というシリーズ記事を書いたが、その記事は、私がこのブログで初めて書いた「連載」記事である。

現在、「高校時代(作新学院)編」「大学時代(法政大学)編」「空白の一日編」「プロ1年目(1979年)編」まで書き終わり、まだ「未完」であるが、江川の野球人生を振り返ってみると、江川は投手としての圧倒的な才能が有りながら、「肝心な時にコケる」という、非常に勿体ない生き方をして来たと思える。

「オールスター8連続奪三振」は、その江川卓の野球人生の象徴のようにも思える。

というわけで、今回は「怪物・江川卓の野球人生」を振り返りつつ、1984(昭和59)年の「オールスター8連続奪三振」について描いてみる事としたい。

それでは、ご覧頂こう。

 

<「怪物・江川卓」登場~作新学院時代の江川卓…「超高校級」の圧倒的な実力が有りながら、甲子園優勝は成らず>

 

 

江川卓(えがわ・すぐる)は、1955(昭和30)年5月25日、福島県いわき市に生まれ、

後に江川家は栃木県に転居したが、江川卓が、日本全国にその名を轟かせたのは、

江川が作新学院に入学し、1973(昭和48)年春のセンバツに登場して来た時である。

江川は、作新学院2年生の1972(昭和47)年秋、新チームが結成されて以降、秋季大会で「113イニング連続無失点」という圧倒的な実力を示し、作新学院を翌1973(昭和48)年春のセンバツ出場に導いた。

 

 

その1973(昭和48)年春のセンバツ、江川にとっては3年生春の大会だったが、

江川は北陽(19奪三振)、小倉南(10奪三振)、今治西(20奪三振)、広島商(11奪三振)と、4試合で「60奪三振」を奪い、日本中を驚かせた。

何しろ、江川の剛速球は凄まじく、ボールがホップしているようにも見え、

高校生の打者では、江川には手も足も出ないといった所である。

だが、江川は準決勝で広島商に1-2で敗れ、惜しくもセンバツ優勝は逃した。

だが、「1大会60奪三振」は、未だにセンバツ史上最多記録として、未だに破られていない。

 

 

1973(昭和48)年夏の栃木県大会で、江川は5試合中3試合をノーヒット・ノーランに抑え、

全5試合を完封し、被安打は5試合で僅か2本という圧倒的な力を示し、作新学院を同年(1973年)夏の甲子園出場に導いた。

江川は、練習試合を含めれば、「140イニング連続無失点」という凄まじい成績を残していたが、

同年(1973年)春のセンバツ以降、作新学院は全国各地への招待試合に忙殺され、江川の疲労は溜まっていた。

しかも、大エース・江川の力が圧倒的過ぎたため、江川と他の選手達との間には溝が有り、作新学院のチームワークはバラバラだったという。

それでも、チームを甲子園出場に導いたのだから、やはり江川は凄い投手であった。

 

 

 

その1973(昭和48)年夏の甲子園は、江川の作新学院は苦戦を強いられた。

1回戦、作新学院は延長15回の末、柳川商を2-1で破り、江川は「23奪三振」を記録したが、もはや江川の疲労はピークに達していた。

そして、2回戦の銚子商業との試合で、江川卓と銚子商のエース・土屋正勝の投げ合いは、0-0の同点のまま、延長12回裏に進んだ。

そして、江川は12回裏1死満塁、ボールカウント「2-3」に追い込まれた所で、江川は作新の内野陣をマウンドに集めた。

ここで、江川は「次の球、俺の好きな球を投げて良いか?」と聞くと、それまで江川とは最も反目していた、一塁手の鈴木秀男「投げろよ。俺達がここまで来られたのは、お前のお陰だ。何も文句ねえよ」と答えた。

ここに来て、それまでチームワークがバラバラだった作新の選手達の心が、初めて一つになったように思われた。

 

 

 

0-0で迎えた延長12回裏1死満塁、ボールカウント「2-3」から、江川は「高校生活で最高」という球を、思いっきり投げたが、

ボールは高目に外れ、結局、サヨナラ押し出し四球で作新は敗れ去った。

こうして、江川の高校野球生活は終わったが、江川は高校時代、公式戦だけで「ノーヒット・ノーラン9度、完全試合2度」など、圧倒的な実力を示した。

しかし、誠に残念ながら、江川は甲子園で優勝する事は出来なかったのである。

 

<1973(昭和48)年のドラフト会議で、阪急ブレーブスの「ドラフト1位」指名を拒否しら江川卓、慶応受験に失敗し、「仕方なく」法政大学へ…>

 

 

1973(昭和48)年のドラフト会議で、江川卓は阪急ブレーブスの「ドラフト1位」指名を受けたが、

江川は「大学進学」を表明し、阪急の「ドラフト1位」指名を拒否した。

その頃、江川は「早稲田か慶応に進学し、神宮球場の早慶戦で投げる」という事を目標としていたのである。

従って、当時の江川にとって、プロ入りの選択肢は無かったというが、もしも、この時、巨人が江川を「ドラフト1位」で指名していたら、果たしてどうなっていたか…。

 

 

江川は、入れるのであれば早稲田でも慶応でも、どちらでも良かったようであるが、

慶応の野球部関係者からの誘いも有って、江川は慶応受験を目指す事となった。

だが、慶応には「野球推薦」などは無いため、江川としては慶応の入試を突破する必要が有った。

江川は必死で受験勉強に励んだものの、慶応受験に失敗してしまった。

江川の「肝心な時にコケる」という、その後の人生を暗示するような事態となってしまったが、

この後、江川は慌てて法政大学の法学部(二部)を受験し、何とか合格し、江川は法政大学に入学する事となった。

江川は「慶応に入れなかったので、仕方なく法政に入った」という事であるが、

「超高校級」の江川が来てくれる事になった法政としては、物凄く幸運であった。

 

<法政大学時代の江川卓…「花の49年組」を中心に「法政黄金時代」を築き、1976(昭和51)春~1977(昭和52)年秋に、法政は「オール完全優勝の4連覇」達成!!~しかし、山中正竹の「通算48勝」の東京六大学野球史上最多記録には、一歩及ばず>

 

 

1974(昭和49)年、法政野球部に、江川卓・袴田英利・佃正樹・金光興二・楠原基・植松精一・島本啓次郎など、

甲子園で活躍した、高校野球界のスター選手達が一斉に入った。

彼らは、法政野球部の「花の49年組」と称されたが、早速、江川は1年生の秋からエースとして活躍し、1974(昭和49)年秋、江川は法政を優勝に導いた。

 

 

だが、当時の大学の体育会では、陰湿な「イジメ」が横行しており、

1年生は、上級生達の恰好のターゲットになった。

特に「花の49年組」が入って来たせいで、上級生達は彼らにレギュラーを奪われてしまったため、江川達の年代は、余計にイジメを受けたという。

それでも、2年生になればイジメは収まるかと思いきや、「花の49年組」が居ては、自分達の出番は無いだろうという事で、江川達の下の年代は、あまり法政には入って来なかったため、2年生になっても、江川達へのイジメは続いた。

あまりのイジメの酷さに耐えかねて、江川達は野球部からの脱走、つまり「集団退部」を真剣に話し合ったが、江川の同期生・金光興二の説得で、どうにか思い留まったという。

私は、大学野球は好きだが、大学野球部や体育会の「イジメ」の話を聞くと、本当に胸糞悪い。

どうか、今の時代ではこんな事が起こっていないようにと、願うばかりである。

 

 

 

 

こうして、どうにか「集団退部」を思い留まった「花の49年組」であるが、

1976(昭和51)年春~1977(昭和52)年秋にかけて、「花の49年組」が中心となり、法政は史上初の「オール完全優勝の4連覇」を達成した。

まさに「法政黄金時代」を築き上げたわけであるが、法政がこれだけ黄金時代を謳歌する事が出来たのは、江川が慶応に落ちて、法政に来てくれたお陰であった。

慶応の野球部関係者は、何とも複雑な心境だったのではないだろうか。

 

 

 

なお、江川卓は、法政時代に「通算47勝12敗」という成績を残したが、

同じ法政の先輩・山中正竹「通算48勝13敗」という、「通算48勝」の東京六大学野球最多記録に、あと一歩、及ばなかった。

だが、当の江川はそんな記録にはあまり関心は無かったようで、

4年生秋(1977年秋)の最終戦、江川は登板のチャンスが有ったにも関わらず、同期の鎗田英男にマウンドを譲り、最後は鎗田が明治を1-0で完封し、法政4連覇が決まった。

という事で、江川が大学時代に、何処か「控え目」だったのは、高校時代、自分一人が浮いてしまったという苦い経験が有ったからだと思われる。

大学時代の江川は、何よりもチームワークを大切にしていた。

だから、あの「集団脱走」未遂の時も、仲間達に対し「お前らが辞めるっていうなら、俺も一緒に辞めるよ」と、江川は言っていたようである。

 

<1977(昭和52)年のドラフト会議…江川卓、クラウンライターからの「ドラフト1位」指名を拒否し、「1年浪人」を選択~「浪人中」の江川、1978(昭和53)年7月25日のオールスターゲーム第3戦、掛布雅之(阪神)の「3打席連続ホームラン」に脅威を感じる>

 

 

 

1977(昭和52)年11月22日のドラフト会議は、事前抽選での「指名順位」は、1番目がクラウンライター、2番目が巨人だった。

江川は、当時、巨人入団を熱望していたが、指名順位1番目のクラウンライターが、敢然と江川を「ドラフト1位」で指名した。

その時、江川は非常に落胆していた。

夢にまで見ていた巨人入りが、目の前から逃げて行ってしまったのだから、それも当然であろう。

江川は、またしても「肝心な時にコケる」事になってしまったのであった。

 

 

江川は、結局はクラウンライターからの「ドラフト1位」指名を拒否して、

「1年浪人」を選択し、アメリカへ「野球留学」する事となった。

だが、後から思えば、この1年の「回り道」は、本当に勿体なかった。

江川の身体は、この1年間で、だいぶ錆びついてしまったのではないだろうか。

つくづく、江川という人は、人生がスムーズに行かない運命のようである。

 

 

なお、江川が1978(昭和53)年に「1年浪人」していた間に、

1978(昭和53)年7月25日、後楽園球場でのオールスターゲーム第3戦で、

江川と同い年(1955年5月9日生まれ)の掛布雅之(阪神)が、「オールスター3打席連続ホームラン」を打ったのを、江川はちょうど、テレビで見たという。

「コイツは、なかなか凄い奴だ」

と、江川は掛布の事を脳裏に刻んだ。

 

<1978(昭和53)年11月21日…球界を揺るがせた「空白の一日」騒動勃発~その後、江川は一旦阪神に入団⇒巨人のエース・小林繁との「交換トレード」で巨人に移籍⇒「江川事件」により、江川は日本一の「ヒール(悪役)」に…>

 

 

さてさて、江川がその後、「空白の一日」という、巨人が捻り出した強引な「ドラフト破り」により、

巨人が、江川をゴリ押しで入団させようとしたという大騒動については、既にこのブログで何度も書いたので、詳細は割愛するが、「江川事件」を簡単にご紹介すると、以下のような経緯を辿った。

1978(昭和53)年11月21日、ドラフト会議を翌日に控えたこの日は、江川は野球協約上、何処の球団からも拘束されない「空白の一日」であるという、巨人が考えた強引な理屈で、巨人と江川が入団契約を結んだという衝撃的なニュースは、日本中を駆け巡り、その後、日本中が大騒動となった。

 

 

 

プロ野球機構側は、江川の入団契約を「無効」とする裁定を下したが、

巨人はそれを不服として、翌11月22日のドラフト会議をボイコットした。

その結果、阪神が江川卓を「ドラフト1位」で指名したが、これで江川は通算3度目の「ドラフト1位」指名を受けたという事になる。

結果として、江川はその3球団(阪急・クラウン・阪神)の全てで、プレーする事は無かった。

 

 

 

その後、巨人が「現行のプロ野球脱退、新リーグ結成」を示唆するなど、プロ野球機構側に揺さぶりをかけたが、

こうした巨人の横暴なやり方は、ますます世間からの猛反発を買った。

「江川事件」は、泥沼の様相を呈し、にっちもさっちも行かなくなったが、プロ野球コミッショナーからの「強い要望」により、翌1979(昭和54)年1月31日、江川は一旦、阪神に入団し、その後、巨人のエース・小林繁とのトレードにより、江川が巨人に移籍するという形で、一応の決着となった。

 

 

 

結局、前代未聞の大騒動の末、江川は巨人に入団し、

小林繁が、江川の「人身御供」として、阪神に移籍する事となってしまったが、

小林繁「プロである以上、求められた場所で結果を残したい。同情はされたくありません」とキッパリと言い切り、その潔さは、世間から好感を持たれた。

 

 

一方、江川は一連の「江川騒動」により、すっかりダーティーなイメージとなってしまい、

江川は世間から猛烈なバッシングを受け、日本一の「ヒール(悪役)」になってしまった。

「駄々をこねる、ずるい事をする」という意味で、「エガワる」などという言葉まで出来てしまい、江川は日本中から叩かれたが、もし、この時代にSNSが有ったら、大変な事になっていたのではないだろうか。

SNSも無い時代なのに、江川は世間から袋叩きに遭い、本当に酷い状況であった。

つくづく、群集心理とは恐ろしいものであると、改めて思わされる。

 

<1979(昭和54)年の江川卓と小林繁…江川は「9勝10敗 防御率2.80」に終わり、小林繁は「22勝9敗1セーブ 防御率2.89」&「巨人戦8連勝」で、世間から大喝采を浴びる>

 

 

 

 

1979(昭和54)年、江川はプロ野球機構側から、開幕から2ヶ月間の「謹慎処分」を受け、

同年(1979年)6月2日、後楽園球場の巨人-阪神戦で、プロ初登板を果たしたが、

江川は、ラインバック(阪神)に痛恨の逆転3ランを浴び、巨人は3-5で阪神に敗れた。

阪神ファンは、「ラインバック、よう打った!!」と狂喜し、「悪の権化・江川」を倒した喜びに浸った。

 

 

 

前述の、6月2日の巨人-阪神戦は、掛布雅之は怪我のため出場していなかったが、

同年(1979年)7月7日の巨人-阪神戦(後楽園球場)で、江川卓掛布雅之は初対決を迎えた。

江川は、前年(1978年)のオールスターでの、掛布の3打席連続ホームランの事が頭に有り、掛布に対しは「逃げ腰」になってしまい、初球からカーブを投げるなど、変化球主体の投球で、ボールカウント「1-3」となった所で、掛布にホームランを浴びてしまった。

こうして、手痛い一発を浴びた印象の多かった江川は、この年(1979年)、「9勝10敗 防御率2.80」と、今一つの成績に終わった。

 

 

一方、阪神に移籍した小林繁は、この年(1979年)、「22勝9敗1セーブ 防御率2.89」&「巨人戦8連勝」という大活躍を見せた。

これは、小林の意地と執念の賜物であろう。

世間は、江川バッシングへの反動もあり、小林に大喝采を送ったが、江川と小林は、典型的な「悪役」と「善玉」の関係にあった。

 

<その後の江川卓(1980~1983年)…江川卓と西本聖、巨人の「二大エース」として切磋琢磨>

 

 

 

さて、その後の江川卓であるが、1975(昭和50)年にドラフト外で巨人に入団した「雑草男」西本聖が、1980(昭和55)年頃から台頭し、巨人は、江川卓・西本聖「二大エース」として君臨する時代を迎えた。

西本は、江川を異様にライバル視しており、同じチーム内でありながら、「江川に勝つ、江川の投手成績を上回る」という事に執念を燃やしていた。

一方、江川の方も西本に煽られ、二人はライバル心を燃やしたが、『江川と西本』という漫画には、その頃の「江川卓VS西本聖」の対決が、克明に描かれている。

 

 

 

 

江川卓・西本聖が、巨人の「二大エース」として君臨した時代の、2人の投手成績はご覧の通りだが、

1981(昭和56)年、江川卓「31試合20完投7完封 20勝6敗 防御率2.29 221奪三振」という抜群の成績を残し、投手部門のタイトルを総ナメにした。

江川は巨人の大エースとして、巨人の8年振り日本一に大きく貢献した。

ところが、この年(1981年)の「沢村賞」は、「34試合14完投3完封 18勝12敗 防御率2.58 126奪三振」西本聖が受賞してしまった。

当時の「沢村賞」は、記者投票で選ばれていたが、例の「江川騒動」で、江川は野球記者達に嫌われていたというのである。

そのせいか、投手成績では江川が西本を全て上回っていながら、記者達は西本に投票し、西本が「沢村賞」に選ばれた。

またしても、江川は「肝心な時にコケた」のであった。

 

 

 

 

1983(昭和58)年、「巨人VS西武」の日本シリーズは激闘となり、巨人が3勝2敗と「日本一」に王手をかけて迎えた第6戦、

巨人が9回表に3-2と逆転したが、1点リードの9回裏、巨人・藤田元司監督がマウンドに送ったのは、江川ではなく西本であった。

結局、西本は西武に同点に追い付かれ、延長10回裏、江川は金森栄治(西武)にサヨナラ打を浴び、巨人は敗れた。

第7戦も、巨人は2-3で西武に敗れ、巨人は日本一を逃したが、江川は「あの9回裏、自分が投げていれば、絶対に抑える自信は有った。でも、監督が選んだのは西本だったけど…。その後、僕もサヨナラ打を打たれたじゃないかと言われればそれまでだけど、1点リードの9回裏なら、絶対に抑えていた」と、後にこの時の事を、悔しそうな表情で振り返っていた。

江川は、野球人生で何度目かわからないが、またしても「肝心な時にコケた」という結果になった。

 

<1984(昭和59)年オールスターゲーム第3戦…江川卓、「8連続奪三振」を記録するも、9人目・大石大二郎(近鉄)をボールカウント「2-0」に追い込みながら「二塁ゴロ」を打たれ、「9連続奪三振」を逃す!!>

 

 

さて、こうして迎えたのが、1984(昭和59)年のオールスターゲームだったが、

この年(1984年)の前半戦、江川の調子は今一つだったものの、江川は監督推薦でオールスターに選ばれた。

ちなみに、この年(1984年)のセ・リーグの投手部門で、ファン投票1位で選ばれたのは西本であった。

なお、江川は前年(1983年)夏頃に肩を痛めてしまい、以後は全盛期のような投球が出来ずにいた。

 

 

 

1984(昭和59)年7月24日、オールスターゲーム第3戦で、

セ・リーグの先発・郭源治(中日)が3イニングを投げた後、江川は4回表から登板した。

この時、江川が対決した、パ・リーグ打線のメンバーは下記の通りである。

 

【1984(昭和59)年 オールスター第3戦のパ・リーグのメンバー】

 

(二)大石大二郎(近鉄)

(中)福本豊(阪急)

(右)蓑田浩二(阪急)

(一)ブーマー(阪急)

(左)栗橋茂(近鉄)

(三)落合博満(ロッテ)

(遊)石毛宏典(西武)

(捕)伊東勤(西武)

(打)クルーズ(日本ハム)

 

 

4回表から2番手として登板した江川は、まずは2番・福本豊(阪急)を、ボールカウント「2-3」から、

内角高目の直球でハーフスイングの空振り三振に打ち取った。

江川は、これで「①個目の奪三振」である。

 

 

4回表1死、3番・蓑田浩二(阪急)と対決した江川は、蓑田をボールカウント「2-0」と追い込んだ後、

外角いっぱいに決まるカーブで、見逃し三振に仕留めた。

これで、江川は「②者連続奪三振」である。

 

 

 

 

4回表2死、江川は4番・ブーマー(阪急)と対決したが、

江川は、ボールカウント「2-2」から、内角高目の剛速球で空振り三振に打ち取った。

これで江川は「③者連続奪三振」を奪い、涼しい顔でマウンドからベンチに引き上げた。

 

 

5回表、江川はこの回先頭の、5番・栗橋茂(近鉄)と対決し、

江川は、ボールカウント「2-1」と追い込んだ後、鋭く落ちるカーブで栗橋を空振り三振に打ち取った。

江川、これで「④者連続奪三振」であるが、栗橋は江川のカーブに全くタイミングが合わず、江川に手玉に取られてしまった。

 

 

 

 

 

 

 

5回表1死、江川は6番・落合博満(ロッテ)と対決した。

江川は、落合との対決を迎え、一段とギアを上げると、江川はボールカウント「2-2」の後、全力投球で内角高目にストレートを投げ、落合を空振り三振に仕留めた。

「速かった。何で、普段はあんなにポンポン打たれてるの?」

落合は首を傾げ、そのようなコメントを残したが、これで江川は「⑤者連続奪三振」を記録し、ナゴヤ球場のスタンドからは大歓声が上がった。

セ・リーグのベンチの王貞治(巨人)監督も、手を叩いて喜んでいた。

 

 

 

5回表2死、江川は7番・石毛宏典(西武)と対決し、

江川はボールカウント「2-1」と追い込んだ後、最後は外角低目に落ちるカーブで、石毛を空振り三振に打ち取った。

これで江川は「⑥者連続奪三振」を記録し、悠々とベンチに引き上げたが、ナゴヤ球場全体からは、一斉に地鳴りのような大歓声が起こった。

 

 

 

 

 

6回表、江川はこの回先頭の、8番・伊東勤(西武)に対し、

ボールカウント「2-2」と追い込んだ後、最後は外角低目に逃げるカーブで、空振り三振に打ち取った。

ナゴヤ球場全体から、また大歓声が上がり、セ・リーグのベンチに陣取る選手達からも大拍手が起こった。

江川は、これで「⑦者連続奪三振」である。

 

 

 

 

6回表1死、パ・リーグは9番投手・佐藤義則(阪急)の代打として、クルーズ(日本ハム)を打席に送った。

江川は、ミートの上手いクルーズに対し、ポンポンとストライクを取り、ボールカウント「2-0」と追い込むと、

最後は内角高目、唸りを上げる剛速球で、クルーズを空振り三振に切って取った。

江川、これで「⑧者連続奪三振」である。

 

 

 

 

江川は、遂にあの1971(昭和46)年の、江夏豊の伝説の大記録・「オールスター9連続奪三振」に「王手」をかけた。

セ・リーグのベンチでは、王貞治(巨人)・関根潤三(大洋)の首脳陣をはじめ、全員が身を乗り出して拍手し、大喜びしていた。

江川卓は、果たして「伝説」を作る事が出来るのか!?

 

 

 

遂に、パ・リーグは絶体絶命の危機に追い込まれた。

そして、9人目の打者として、1番・大石大二郎(近鉄)が打席に向かう。

大石は、打席に入る前に、大きく深呼吸し、気持ちを落ち着かせていた。

大石が三振に打ち取られれば、「⑨者連続奪三振」は達成されてしまう。

ナゴヤ球場の大観衆、そしてテレビで見ていた日本全国のプロ野球ファンは、固唾を呑んで、江川と大石の対決を見守った。

 

 

 

 

江川は、剛速球で、大石を簡単にボールカウント「2-0」と追い込んだ。

大石は、手も足も出ないといった風情である。

江川卓は、「⑨者連続奪三振」に「あと1球」と迫り、遂にナゴヤ球場全体から、一斉に「あと1球」コールが起こった。

 

 

 

 

だが、次の球、江川は何故か、本当に何故か、ストレートではなく、

外角に落ちるカーブを投げると、大石は辛うじてバットに当て、打球は二塁ゴロになった。

ナゴヤ球場全体からは、一斉に溜息が漏れたが、こうして江川の「⑨者連続奪三振」は、達成目前にして、夢と消えたのである。

江川は残念そうな表情を見せ、首を傾げ苦笑いを浮かべた。

 

 

 

 

こうして、江川の「⑨者連続奪三振」は「幻」に終わったが、この時、江川はストレートを投げていれば、

大石は恐らく、三振に倒れていた可能性が高かったのではないだろうか。

後年、大石も「あの時は、カーブなんて全く頭に無かったけど、カーブが来た時に反射的にバットが出てしまい、それでバットに当たってしまった。もしもストレートだったら、打てなかったと思いますよ…」と語っている。

 

 

あの時、江川は何故、ストレートを投げず、カーブを投げたのであろうか?

江川は「実は、あの時は9人目の打者を三振に打ち取り、それをわざと振り逃げで一塁に生かして、次の打者で10連続奪三振を取る事を狙っていた。でも、9人目の打者への、振り逃げを狙ったカーブが真ん中に行ってしまった」と、後年その理由を語っているが、果たして真相はどうだったのであろうか?

一つ言えるのは、江川がまたしても「肝心な時にコケた」という結果が残った事である。