【今日は何の日?】1978/7/25…掛布雅之、オールスターで「3打席連続ホームラン」(前編) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

本日(7/25)は、今から43年前の1978(昭和53)年7月25日、

後楽園球場で行われたオールスターゲーム第3戦で、掛布雅之(阪神)「3打席連続ホームラン」を放った日である。

この年(1978年)の7月22日、広島市民球場で行われた、オールスターゲーム第1戦で、ギャレット(広島)オールスター史上初の「1試合3本塁打」を打っていたが、その3日後に、今度は掛布がオールスター史上初となる、「3打席連続本塁打」を打ったのである。

 

 

掛布雅之といえば、「ミスター・タイガース」と称された選手であるが、

「ミスター・タイガース」と呼ばれたのは、掛布で4人目であり、掛布は「4代目ミスター・タイガース」を襲名した選手である。

では、掛布の前の3人の「ミスター・タイガース」は誰かと言えば、藤村富美男・村山実・田淵幸一であった。

というわけで、まずは「前編」として、歴代「ミスター・タイガース」の活躍と、阪神の「お家騒動」の歴史、そして掛布雅之が阪神に入団するまでの経緯を、ご紹介させて頂く事としたい。

それでは、ご覧頂こう。

 

<初代「ミスター・タイガース」藤村富美男~タイガース創立当時からのスター選手で、「ダイナマイト打線」の中核を担う>

 

 

阪神タイガースの歴史上、最初に「ミスター・タイガース」と称された選手は、藤村富美男(ふじむら・ふみお)である。

藤村は、1935(昭和10)年の大阪タイガース球団創立と同時にタイガースに入団し、以後、生え抜きのスター選手として大活躍した。

戦前の藤村は、「投打二刀流」として大活躍したが、藤村は投手としても打者としても、抜群の才能が有った。

 

 

戦後、藤村は「物干し竿」と呼ばれた、長いバットを振り回し、ホームランを連発したが、

藤村は、常に「自分がファンにどう見られているか、お客さんに、どうしたら喜んでもらえるか」という事を意識していた。

そのため、ファンの目を意識した、派手なパフォーマンスを行ない、ショーマン・シップを発揮した。

いつしか、タイガースのファンは藤村の事を「ミスター・タイガース」と呼ぶようになったが、

そもそも、「ミスター・タイガース」とは藤村だけを指す言葉であり、本来は藤村の一代限りの称号だった。

つまり、タイガースのファンにとって、藤村はそれぐらい特別な選手だったという事である。

 

 

 

戦後、大阪タイガースは、呉昌征-金田正泰-別当薫-藤村富美男-土井垣武-本堂保次…

と続く、強力打線を形成したが、タイガースの強力打線は「ダイナマイト打線」と呼ばれ、他球団から恐れられた。

この「ダイナマイト打線」で、4番に座り、打線の中核を担ったのは、勿論、藤村である。

なお、「ダイナマイト打線」のメンバーの1人、金田正泰は、後の掛布雅之の登場にも大きく関わって来る人物であるが、その事については後述する。

 

<1957(昭和32)年末…金田正泰が主導し「藤村排斥騒動」が勃発~藤村と金田は「和解」するが、藤村は1958(昭和33)年限りで現役引退~1960(昭和35)年、金田正泰が監督に就任するも、成績不振で2年で解任>

 

 

1957(昭和32)年末、阪神に「お家騒動」が勃発した。

当時、藤村富美男「選手兼任監督」を務めていたが、阪神の主将・金田正泰ら複数の選手達は、

藤村に対し不満を抱いており、公然と「藤村監督退陣」を球団に対して要求し、反旗を翻したのである。

その後、藤村と金田は「和解」し、金田は矛を収めたが、両者の間には、わだかまりが残った。

 

 

その後、藤村は結局、1958(昭和33)年限りで現役引退し、阪神を去って行った。

あれだけの大スターでありながら、選手生活の晩年は、前述の「お家騒動」もあり、

現役引退の記者会見は、甲子園球場のロッカールームで行われるなど、ひっそりと寂しいものであった。

しかし、翌1959(昭和34)年3月2日、甲子園球場での阪神-巨人のオープン戦で、

藤村の引退試合が行われ、阪神球団は藤村の背番号「10」を永久欠番として、その功績に報いた。

 

 

 

さて、こうして藤村を追い出した金田正泰は、1960(昭和35)年に阪神の監督に就任した。

だが、金田監督は芳しい結果を残せず、金田監督時代の阪神は苦戦した。

おまけに、金田正泰という人は、どうにも人望が無く、選手達との間に溝が生じていた。

金田は、人に対する気遣いが足りないというか、思った事をズケズケと口にしてしまうタイプの人であり、それによって、選手達から反感を買う事が多かったようである。

 

 

1961(昭和36)年シーズン途中、金田監督は成績不振を理由に、突如、阪神監督を「解任」された。

そして、後任監督として、投手コーチだった藤本定義が昇格したが、

阪神球団としては、金田監督が既に求心力を失っていたため、金田をクビにするしか無いと判断したようである。

ちなみに、藤本定義といえば、戦前に巨人の監督として「巨人第1期黄金時代」を築いた名将であり、球界きっての大物であった。

そんな大人物がコーチに居ては、金田としても、さぞかし、やりにくかったのではないだろうか。

穿った見方をすれば、阪神は最初から、金田をクビにして、藤本を後釜に据えようとしていたと見られても仕方が無い状況であった。

ともあれ、藤村を追い出して阪神監督の座を手に入れた金田は、自分もアッサリとクビになり、阪神から寂しく去って行った。

それにしても、阪神はつくづく「お家騒動」ばかりの球団であるが、この後も、「お家騒動」は何度も何度も繰り返されて行く。

 

<1959(昭和34)年…村山実が阪神に入団し、「ザトペック投法」で阪神のエースの座に就く生涯の宿敵・長嶋茂雄(巨人)と名勝負を繰り広げた村山実、「2代目ミスター・タイガース」を襲名>

 

 

1959(昭和34)年、藤村富美男の引退と入れ替わるように、

関西大学村山実投手が阪神に入団した。

村山は、関西大学を「大学日本一」に導いた事も有り、阪神は村山に大きな期待をかけていた。

 

 

 

1959(昭和34)年、村山実は阪神入団1年目から、阪神の投手陣の一角を担い、開幕から大活躍していたが、

1959(昭和34)年6月25日、昭和天皇香淳皇后ご夫妻が観戦した、後楽園球場での巨人-阪神戦、所謂「天覧試合」で、

村山は長嶋茂雄(巨人)にサヨナラホームランを打たれてしまった。

村山は、「あれはファールだった」と、この時のサヨナラホームランについて、後々まで主張していたが、それだけ悔しかったという事であろう。

 

 

 

以後、村山実は、長嶋茂雄「生涯の宿敵」と定め、

村山は「打倒・長嶋」「打倒・巨人」に全力を尽くし、村山と長嶋は数々の名勝負を繰り広げた。

「村山実VS長嶋茂雄」は、阪神-巨人戦の「名物」となり、当時のファンを大いに沸かせた。

そして、村山自身も、長嶋との対決で大きく成長して行ったが、やはりライバルの存在という物は、人間を大きく成長させて行くものである。

 

 

そして、村山が全身をダイナミックに使って投げるフォームは、

「ザトペック投法」(※ザトペックとは、1952(昭和27)年のヘルシンキ五輪で、「5000m」「10000m」「マラソン」で金メダルを獲得し、1大会で「長距離三冠」を達成し、「人間機関車」と称された選手)と称された。

村山の全力投球は、阪神ファンの心を打ち、いつしか村山実は「2代目ミスター・タイガース」を襲名した。

本来は、藤村の一代限りだった筈の「ミスター・タイガース」という称号を、村山ならば名乗っても良いと、多くの阪神ファンが認めたという事であろう。

 

<1967(昭和42)年に江夏豊、1969(昭和44)年に田淵幸一が阪神に入団~阪神に、続々と若きスターが誕生~阪神に「江夏豊-田淵幸一」の黄金バッテリーが誕生>

 

 

1967(昭和42)年、大阪学院高校から、江夏豊阪神タイガースに入団した。

村山は、早くから江夏の才能を認めており、江夏こそが次代の阪神のエースであると確信していた。

そして、入団1年目の江夏に対し、阪神-巨人戦の試合前の打撃練習の際に、

「俺はこっち(長嶋)、お前はあっち(王)や」

と言って、

「俺(村山)は長嶋を倒すから、お前(江夏)は王を倒せ」

と「指令」を出したというのは、これまで、このブログで何度も述べて来た通りである。

その言葉どおり、「村山実VS長嶋茂雄」、「江夏豊VS王貞治」の対決は、何度となく、ファンを熱狂させる名勝負を繰り広げて行った。

 

 

1969(昭和44)年には、法政大学田淵幸一が阪神に入団した。

田淵は、類稀な長打力と、持って生まれた華やかな「スター性」が有り、

阪神に入団した時から、阪神のスターになる事が宿命付けられていたような選手であった。

村山は、華の有る田淵の事も、大いに認めていた。

 

 

こうして、阪神タイガース「江夏豊-田淵幸一」「黄金バッテリー」が誕生した。

江夏と田淵の「黄金バッテリー」の活躍については、別の記事でも書いたので、ここでは割愛するが、

阪神の「大エース」村山実は、阪神が強くなるためには、江夏と田淵が不可欠だと思っており、2人の台頭は、大いに歓迎していた。

だが、その村山の身辺に、何やら不穏な空気が漂って来た。

またぞろ、阪神お得意の「お家騒動」の気配が忍び寄り、村山もそれに巻き込まれて行くのである。

 

<阪神の「村山派」VS「吉田派」の「派閥争い」~1969(昭和44)年シーズンオフ、村山実が「選手兼任監督」に就任し、吉田義男は現役引退>

 

 

1953(昭和28)年、立命館大学を中退し、阪神に入団した吉田義男は、小柄な体格の選手だったが、

「牛若丸」と称されたほど、華麗で軽快な守備でファンを魅了した遊撃手(ショート)であり、

その守備力の高さは、天下一品であった。

 

 

当時、巨人の広岡達朗、阪神の吉田義男は、

プロ野球を代表する名ショートとして、ファンの人気を二分していたが、

野球評論家の小西得郎は、吉田の守備を「麻」、広岡の守備を「絹」に喩えた。

吉田の守備は、とにかく軽快であり、ショートゴロを捕ったと同時に一塁に投げる、その素早さは、

「捕るが早いか、投げるが早いか」

とまで言われていた。

一方、広岡の守備は、光沢が有って丈夫な絹のように、華麗な物であった。

 

 

その吉田義男村山実は、どのような関係だったのかというと、

吉田と村山は、別に仲が悪かったわけではないようであるが、

2人とも、阪神を代表する実力者であり、いつの間にか、阪神の選手達が「吉田派」「村山派」を形成し、

吉田と村山は、気が付いたら、それぞれの派閥の領袖のようになっていた。

まるで、自民党の派閥争いのようであるが、実力者というのは、そうやって大将に担ぎ上げられてしまう宿命なのかもしれない。

 

 

1969(昭和44)年、阪神タイガースに不穏な空気が流れた。

この年(1969年)、後藤次男監督が率いる阪神は、69勝59敗3分 勝率.535で「2位」だったが、巨人の独走を許していた。

すると、マスコミは早くも「阪神の次期監督候補は誰か」と、シーズン中から騒ぎ始めた。

そして、「吉田派」「村山派」が相争い、それぞれ、阪神の次期監督として、派閥の大将である吉田義男、村山実を担ぎ上げようとした。

2人にとっては、良い迷惑だったかもしれないが、自民党の総裁選びのように、「吉田派」「村山派」は、陰で色々と暗躍していたようだ。

 

 

では、この時、阪神球団はどう考えていたのかといえば、

1968(昭和43)年まで、南海ホークスの監督を務めていた鶴岡一人に、阪神監督就任を要請していたが、

鶴岡には、監督就任を断られてしまった。

そのため、監督人事は「白紙」に戻されてしまったのだが、ここで、阪神球団は「吉田か村山、どちらかに監督を任せよう」と決めたようである。

 

 

それで、結果はどうなったのかといえば、

1969(昭和44)年シーズンオフ、阪神球団は村山実「選手兼任監督」就任を要請し、

村山がそれを受諾、こうして村山は当時33歳という若さで、阪神の「選手兼任監督」に就任したのである。

 

 

当時、阪神が何故、村山を監督に就任させたのかといえば、

1969(昭和44)年シーズンオフ、南海ホークスが野村克也(当時34歳)、西鉄ライオンズが稲尾和久(当時32歳)という、

それぞれ年齢の若い「青年監督」を誕生させていたため、阪神もその「流行」に乗ったからだとも言われている。

こうして、「村山派」の思惑どおり、村山が阪神監督に就任したが、

一方、監督争いに敗れた吉田義男は、同年(1969年)限りで現役引退し、阪神を去って行った。

こうして、阪神にまたまた「お家騒動」が起こったが、こんな物は、後の「お家騒動」と比べれば、まだまだ「序の口」であった。

 

<1970(昭和45)年…「選手兼任監督」の村山実が奮闘するも、阪神は2位~翌1971(昭和46)年、阪神は「5位」に低迷~翌1972(昭和47)年、村山実は金田正泰コーチに政権を委譲>

 

 

1970(昭和45)年、阪神の選手兼任監督に就任した村山実は、

「エースで監督」という大役を担い、自らが陣頭指揮を執り、大いに健闘した。

そして、この年(1970年)、阪神は「77勝49敗4分 勝率.611」で「2位」と、大いに健闘した。

阪神は巨人とシーズン終盤まで優勝争いを繰り広げ、惜しくも優勝は逃したものの、その奮闘ぶりはファンを沸かせた。

だが、翌1971(昭和46)年、阪神は「57勝64敗9分 勝率.471」で「5位」と低迷した。

 

 

 

そして、村山監督就任3年目の1972(昭和47)年、「あの男」が11年振りに阪神に帰って来た。

あの金田正泰が、村山監督を支えるヘッドコーチに就任したのである。

だが、村山にとって、金田は年長の大先輩であり、正直言って、やりにくかったのではないだろうか。

金田自身も、かつての監督時代、藤本定義が投手コーチに居座り、非常にやりづらさを感じていたというのは、前述の通りである。

阪神球団は、その時の「失敗」を省みず、またしても「二頭体制」を敷いたのであった。

つくづく、阪神というのは歴史に学ばない球団であると言っては、言い過ぎだろうか。

 

 

一方、この頃、村山監督と江夏の関係は、微妙な物になっていた。

村山監督は、江夏に対し、厳しく指導していたが、江夏は、そんな村山の事を煙たがっていた。

「いちいち、ゴチャゴチャうるさいオッサンやな」

ぐらいな事は、江夏も思っていたかもしれない。

だが、村山としては、江夏には大いに期待していたので、江夏を厳しく指導していたのは、その期待の裏返しでもあったと思われる。

しかし、江夏も若かったので、色々と口うるさく指導してくる村山の事を、鬱陶しく思っていた。

 

 

1972(昭和47)年、阪神は開幕から2勝6敗と低迷していたが、

ここで村山監督は、指揮権を金田正泰ヘッドコーチに返上し、自らは投手に専念し、金田が「代理監督」を務める事となった。

村山としては、指揮権の返上は、あくまでも一時的な事というつもりであり、チームの調子が上向けば、また監督に復帰するつもりであった。

だが、金田が「代理監督」に就任して以降、阪神は息を吹き返し、チーム状態が上向くと、阪神球団は、そのまま金田に「代理監督」を続けさせた。

 

つまり、村山が一度手放した「政権」は、村山の元には戻って来なかったのである。

金田も、村山に対し、「そろそろ、監督に戻ったら?」とは、決して聞かなかった。

結果として、村山はいつの間にか、金田に監督の座を奪われた形となった。

この年(1972年)、阪神は「71勝56敗9分 勝率.559」で「2位」に浮上したが、それは金田代理監督の功績という事になってしまった。

こに出来事を、どう見るかは人それぞれであろうが、村山自身は全く釈然としていなかったに違いない。

 

<1972(昭和47)年…習志野高校2年生の掛布雅之、夏の甲子園に出場!!>

 

 

 

さてさて、阪神タイガースが、村山実金田正泰の監督人事を巡り、ゴタゴタしていた1972(昭和47)年、

当時、習志野高校2年生だった掛布雅之は、夏の甲子園出場を果たしていた。

1972(昭和47)年5月9日、千葉県千葉市に生まれた掛布雅之(かけふ・まさゆき)は、高校野球の指導者の経験の有った、父・泰治さんの「英才教育」を受け、掛布家の家族総出で、野球に打ち込む掛布のバックアップをしていたが、その甲斐有って、掛布は習志野高校でレギュラーの遊撃手となり、1972(昭和47)年、2年生の夏に甲子園に出場したのである。

こうして、掛布が野球史の表舞台に初めて姿を現したが、掛布がこの後、阪神の球団史に大きく関わって来る事は、まだ誰も知る由も無かった。

 

<1972(昭和47)年限りで村山実が現役引退~翌1973(昭和48)年3月21日の阪神-巨人のオープン戦で、村山の引退試合が行われる~江夏が先導し、村山を送る騎馬を作る>

 

 

さて、金田正泰に、まんまと阪神監督の座を奪われた村山実は、

ゴタゴタが続き、すっかり嫌気が差してしまったが、投手としての自らの限界も感じていた。

そして、村山はこの年(1972年)限りで、遂に現役引退を表明した。

村山は「通算222勝147敗 防御率2.09」という素晴らしい成績を残し、一時代を築いた大投手だったが、

初代「ミスター・タイガース」だった藤村富美男と同様、寂しく阪神を去って行く事となった。

 

 

翌1973(昭和48)年3月21日、甲子園球場の阪神-巨人のオープン戦で、村山の引退試合が行われたが、

この時、江夏が先導し、村山をマウンドに送るため、阪神投手陣によって騎馬が作られた。

江夏は、村山の事を疎ましく思う事も有ったが、やはり根本では村山の事を尊敬していたのである。

こうして村山もタイガースを去って行ったが、「初代ミスター・タイガース」藤村富美男と同様、

「2代目ミスター・タイガース」村山実の背番号「11」も、阪神の永久欠番となった。

 

<1973(昭和48)年の阪神タイガース…金田正泰が阪神監督に就任するも、金田監督は求心力を失い、阪神は目前で優勝を逃す~阪神の選手達から「総スカン」を食った金田監督>

 

 

1973(昭和48)年、金田正泰が正式に阪神監督に就任した。

当時、金田監督と江夏豊は「蜜月」の関係であり、江夏は金田監督の事を、まるで父親にように慕っていた。

当初、江夏は金田の事を「叔父貴」と呼び、金田監督も江夏の事を「ユタカ」と呼んでいた。

2人は、それぐらい仲が良かったのだが、1972(昭和47)年のシーズンオフ、金田監督と江夏が一緒に永平寺で「修行」を行なった際に、

江夏は、金田監督の「人間性」に、すっかり幻滅してしまった。

真面目に修行をしている江夏に対し、金田は隠れて煙草を吸ったり、掃除をサボったりしていたが、江夏はそんな金田に対し怒りを覚えた。

そして、それを境に、江夏は金田監督の事を見限ってしまったのである。

以後、金田監督と江夏の関係は、口も利かない程、悪化してしまった。

 

 

また、金田監督という人は、前回の監督時代と同様、選手達から全く人望が無かった。

前述の通り、金田監督は、思った事を何度も口にしてしまうような人物であり、人から無用な反感を買ってしまう所が有った。

阪神の選手達は皆、金田監督を嫌っており、金田監督の求心力は、すっかり低下してしまった。

 

 

 

だが、それでも、この年(1973年)に阪神タイガースは、優勝目指して突き進んでいた。

特に「江夏豊-田淵幸一」の黄金バッテリーは大活躍であり、特に田淵は巨人戦で「7打数連続ホームラン」を記録し、

シーズン終盤の巨人-阪神戦では、逆転満塁ホームランを放つなど、田淵は巨人戦に滅法強かった。

こうして、前年(1972年)まで「V8」(8年連続日本一)を達成していた巨人を追い詰め、阪神は遂に優勝目前に迫った。

 

 

1973(昭和48)年10月20日の時点で、阪神は残り「2試合」、巨人は残り「1試合」で、

阪神は、「残り2試合の内、1つでも勝つか引き分けで優勝」、つまり「マジック1」に迫っていた。

同日(1973/10/20)、中日球場に中日-阪神戦で、江夏が先発したが、その江夏が打たれ、阪神は2-4と痛恨の敗戦を喫した。

実は、その前日、江夏が阪神球団関係者に呼ばれ、

「明日は、勝たんでもええ」

と言われ、それに江夏が激怒したため、ピッチングに冷静さを欠いていたとも言われている。

阪神球団としては、もし優勝してしまうと、選手の年俸を上げる事になるので、阪神が勝って優勝してしまうと困るというのが、本音だったというのである。

「本当かよ!?」

と思ってしまうような話であり、もし本当にこれが事実なら大変な事だが、これは事有るごとに江夏が語っている話である。

だが、いくら球団関係者がそう思っていようと、江夏としては、自分が勝てば良い話であった。

しかし、残念ながら江夏は力んでしまい、しかも阪神打線は優勝目前で、緊張で固くなっていたため、中日に痛恨の黒星を喫した。

こうして、1973(昭和48)年のシーズン最終戦、甲子園球場の阪神-巨人戦で、「勝った方が優勝」という、大決戦を迎える事となった。

 

 

 

1973(昭和48)年10月22日、甲子園球場の阪神-巨人戦は、「勝った方が優勝」という、大一番を迎えていた。

この日、甲子園球場は、阪神の9年振りの優勝の瞬間を見ようと、阪神ファンの大観衆でギッシリ超満員となっていた。

だが、阪神は無残にも0-9で巨人に惨敗を喫し、巨人に「V9」を許してしまった。

試合後、怒り狂った阪神ファンが、甲子園のグラウンドに乱入し、巨人のベンチを襲撃し、王貞治が阪神ファンに殴られるという事態となった。

怒りの収まらない阪神ファンは、甲子園球場を包囲し、阪神の関係者は「監禁」されてしまったが、金田監督が「ファンの皆様の期待に応えられず、誠に申し訳ございません」と、スピーカーで謝罪させられるという一幕も有った。

金田監督にとっては、生涯忘れられない屈辱だったであろう。

 

 

だが、話はこれだけでは終わらなかった。

シーズン終了後の、阪神のファン感謝デーの時、この年(1973年)限りで現役引退する、権藤正利投手が、金田監督を甲子園球場内の部屋に監禁し、金田監督を殴打したのである。

実は、シーズン中、権藤正利は何度となく金田監督から、パワハラまがいの暴言を吐かれていた。

ある時、権藤が煙草を吸っているのを見て、金田監督は「何やお前、猿でも煙草を吸うんか」と、言い放ったという。

権藤は、悔し涙を堪えていたが、江夏はこの時、金田監督に対し、激しい怒りを覚えていた。

 

 

そして、前述の通り、シーズンオフのファン感謝デーで、

権藤は金田監督を「監禁」し、度重なる無礼を詫びるよう、金田監督に迫ったが、

金田は、相変わらず権藤を冷笑するような態度だったため、遂に権藤は金田監督を殴ったのである。

この時、部屋の入口に居て、誰も邪魔者が入って来ないよう、見張っていたのは江夏だった。

部屋の中から、権藤に殴られた金田監督の悲鳴が聞こえてきて、驚いた球団関係者が入口までやって来たが、無論、江夏は中には誰も入れなかった。

「権藤さん、どう、気は晴れた?」

金田監督を殴り、晴れ晴れとして表情で権藤は出て来たが、

権藤は「うん」と言って頷くと、そのまま去って行った。

権藤は、この年(1973年)限りで現役引退したが、金田監督に関するゴタゴタは、これがほんの一例であった。

金田監督は、今でいう所の、とんでもない「パワハラ上司」であり、選手達から「総スカン」を食っていたのであった。

それにしても、阪神は何故、こういう人を2度も監督にしてしまったのであろうか。

今となっては、真相はわからないが、もしもこの年(1973年)、阪神が優勝していれば、後世の金田監督への評価も変わっていたかもしれない。

だが、金田監督は「敗軍の将」であり、その評価は今でも頗る低いままである。

 

<1973(昭和48)年…「テスト生」同然のドラフト6位で、掛布雅之が阪神タイガースに入団!!>

 

 

1973(昭和48)年、阪神が大荒れのシーズンを過ごした、その年のシーズンオフ、習志野高校3年生・掛布雅之は、父親が阪神の球団関係者と知り合いだたっという伝手を頼り、阪神の入団テストを受けた。

この入団テストで、掛布はその実力を認められ、その年(1973年)のドラフト会議で、阪神に「ドラフト6位」で指名され、掛布は阪神タイガースに入団した。

こうして、ゴタゴタの「お家騒動」続きの阪神タイガースに、そんな事はまるで知らない1人の若者が、飛び込んで行ったのである。

 

(つづく)