【今日は何の日?】1976/7/23…王貞治(巨人)、通算「700号」ホームラン達成 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

本日(7/23)は、今から45年前の1976(昭和51)年7月23日、川崎球場の大洋-巨人戦で、

王貞治(巨人)が、日本プロ野球史上初の、「通算700号ホームラン」を達成した日である。

王の「通算700号」達成の頃から、マスコミやファンが一斉に騒ぎ出し、王の通算ホームラン記録に、俄然注目が集まり始めた。

 

 

ところで、私は今年(2021年)の7/1に、「王貞治の一本足打法誕生秘話」という記事を描いた。

その記事では、プロ入り入団当初の3年間、王貞治がプロの壁にぶつかり、苦しみ抜いていた頃の話を書いたが、

プロ入り4年目の1962(昭和37)年、王は「恩師」荒川博コーチとの出逢いにより、「打撃開眼」して、ホームラン・バッターとして「覚醒」したという経緯を描かせて頂いた。

というわけで、今回はその「続編」的な意味合いで、王が「打撃開眼」し、無敵のホームラン王として君臨し、遂には史上初の「通算700号」を達成するまでの物語を描く。

それでは、ご覧頂こう。

 

<1963(昭和38)年…王貞治・長嶋茂雄の両雄が並び立ち、「ON砲」が誕生!!>

 

 

1962(昭和37)年、王貞治「一本足打法」を身に着けた事により、遂に「打撃開眼」して、

王は打率.272 38本塁打 85打点という成績を残し、遂に初の「本塁打王」「打点王」の「二冠」を達成した。

しかし、この年(1963年)は、王の盟友・長嶋茂雄は打撃不振に陥り、「打率3割」を切ってしまった。

だが、その翌1963(昭和38)年は、長嶋の打棒が復活し、前年(1962年)同様に猛打を炸裂させた王と共に、2人は打ちまくった。

ここに、王貞治・長嶋茂雄の両雄が並び立つ、「ON砲」の時代が到来した。

 

 

この年(1963年)は、巨人の本物の選手達が出演し、長嶋茂雄が主役を務めた、

東宝映画『ミスター・ジャイアンツ 勝利の旗』が公開されたが、この映画の扱いを見てもわかる通り、

当時は、巨人で一番のスター選手は長嶋であり、王は漸く2番手に付けて来た、といった扱いであった。

というわけで、この年(1963年)の長嶋と王の打撃成績は、下記の通りである。

 

長嶋茂雄 打率.341 37本塁打 112打点 ※首位打者、打点王

王貞治 打率.305 40本塁打 106打点 ※本塁打王

 

 

このように、長嶋と王の両選手が、共に「三冠王」を狙えるぐらい、打ちまくったが、

結果としては、長嶋が「首位打者」「打点王」の「二冠」を獲得し、

王は「2年連続本塁打王」を獲得した。

こうして、巨人に「ON砲」の時代が到来し、以後、「ON砲」はプロ野球の、いや日本の「英雄」となって行くのである。

 

<1964(昭和39)年…「東京オリンピック」の年に、開幕戦で金田正一(国鉄)から特大ホームランを放った王貞治、「シーズン55本塁打」で「3年連続本塁打王」!!>

 

 

 

 

さて、本日(2021/7/23)、遂に「東京オリンピック」の開会式を迎えたが、

今から57年前の1964(昭和39)年、前回の「東京オリンピック」の年は、プロ野球は同年(1964年)10月10日開幕予定の「東京オリンピック」に全面協力し、いつもの年よりもだいぶ早い、3月20日に開幕した。

その1964(昭和39)年3月20日、後楽園球場の巨人-国鉄戦の開幕戦で、王貞治は、国鉄スワローズの大エース・金田正一と対決した。

この5年前(1959年)、王のデビュー戦で、王は金田に手も足も出ず、簡単に2三振に切って取られたが、今や王は強打者として、飛躍的な成長を遂げて来ていた。

 

 

 

 

 

 

 

すると、王は金田から、後楽園球場のライトスタンド場外へ、一直線で消えて行く、超特大のホームランをかっ飛ばし、観客の度肝を抜いた。

金田は、ガックリと項垂れたが、王は5年前の「借り」を返すのと同時に、打者として成長した姿を見せた。

もう「王、王、三振王」と言われていた頃の王の姿は、何処にも無かった。

 

 

 

 

結局、王はこの年(1964年)、打率.320 55本塁打 119打点と打ちまくり、

プロ野球史上最多記録となる、「シーズン55本塁打」を達成した。

これで、王は「3年連続本塁打王」と、2年振り2度目の「打点王」を獲得した。

1964(昭和39)年の「東京オリンピック」の年は、「王貞治の年」でもあったわけである。

 

 

なお、この年(1964年)、王貞治は「三冠王」獲得のチャンスも有ったが、

「首位打者」は江藤慎一(中日)が打率.323と、王に僅か「3厘差」で獲得し、

王は惜しくも「三冠王」を逃した。

「三冠王は、簡単に獲らせてなるものか!!」

という、江藤慎一の執念が実ったという事であろうか。

 

 

それと、余談であるが、萩本欽一・坂上二郎により結成された「コント55号」というコンビ名の由来は、

この年(1964年)の王貞治の「55号」ホームランから取られている。

つまり、王の「55号」ホームランは、芸能界にも大きな影響を与えていたのであった。

そして、更に王貞治の「大打者」ぶりに、この後、更に磨きがかかって行く事となる。

 

<1965(昭和40)年…王貞治、「通算200号」ホームランを達成し、「4年連続本塁打王」「2年連続3度目の打点王」獲得>

 

 

 

1964(昭和39)年のシーズン終了時点で、王貞治の通算ホームラン数は「170」本だったが、

翌1965(昭和40)年9月19日、王貞治は巨人-大洋戦で峰国安から、シーズン「30号」ホームラン、

通算「200号」ホームラン(※当時、史上12人目)を達成したが、王は「通算870試合」で「通算200号」を達成、これは当時の史上最速記録である。

 

 

結局、この年(1965年)、王は打率.322 42本塁打 104打点で、

「4年連続本塁打王」「2年連続(3度目)打点王」を獲得したが、

江藤慎一(中日)が打率.336で「2年連続首位打者」を獲得、

王は惜しくも江藤に及ばず、またしても江藤に「三冠王」を阻まれた。

それはともかく、これで王の通算ホームランは1965(昭和40)年終了時点で「212」本である。

そして、巨人は2年振りに日本一を奪還し、「V1」を達成、これが「V9」時代の幕開けとなった。

 

<1966(昭和41)年…王貞治、「5年連続本塁打王」「3年連続(4度目)打点王」獲得!!~同年(1966年)シーズンオフに小八重恭子さんと結婚>

 

 

1966(昭和41)年、王貞治は打率.311 48本塁打 116打点で、

「5年連続本塁打王」「3年連続(4度目)打点王」を獲得した。

同年(1966年)終了時点で、王の通算ホームランは「260」本となった。

王は、凄まじいペースでホームランを打ちまくって行った。

なお、巨人は「V2」(2年連続日本一)を達成した。

 

 

1966(昭和41)年12月1日、王貞治小八重恭子さんと結婚した。

王と恭子さんは、8年間も交際していたが、元々は、当時女子高生だった恭子さんが、彼女の友達と一緒に、

多摩川グラウンドに巨人の練習を見に行き、そこで王と恭子さんは出逢った。

そして、8年間の交際が実り、王と恭子さんは結婚したのである。

マスコミは、これを「多摩川の恋」と称した。

 

<1967(昭和42)年…王貞治、通算「1000安打」&通算「300号」ホームラン達成~「6年連続本塁打王」「4年連続(5度目)打点王」獲得!!>

 

 

 

 

1967(昭和42)年7月10日、川崎球場の大洋-巨人戦で、

王貞治は森中千香良から「通算1000安打」となる、シーズン「25号」ホームランを放った。

節目の安打を、ホームランで飾るというのは、いかにも王らしかった。

 

 

 

 

1967(昭和42)年8月31日、後楽園球場の巨人-サンケイ戦で、

王は村田元一(※王が、プロ初本塁打を打った投手)から、5年連続となる「シーズン40本塁打」、そして、「通算300号」ホームランを達成した。

この時点で、通算1126試合目、野村克也(南海)が持っていた記録を更新する、「史上最速」の通算「300号」である。

この年(1967年)、王は打率.326 47本塁打 108打点で、「6年連続本塁打王」「4年連続(5度目)打点王」を獲得した。

同年(1967年)終了時点の、王の通算ホームランは「307」本となった。

そして、巨人は「V3」(3年連続日本一)である。

 

<1968(昭和43)年…王貞治、「7年連続本塁打王」と、初の「首位打者」獲得!!>

 

 

1968(昭和43)年は、「江夏豊VS王貞治」が、シーズン終盤の9月に、

江夏の「シーズン最多奪三振記録」を懸けて激突し、名勝負を繰り広げ、ファンを沸かせた。

王は、物凄い形相で江夏に立ち向かい、全力でフルスイングしたが、軍配は江夏に上がり、江夏がシーズン最多新記録となる「354」個目の三振を、王から奪った。

 

 

 

そんな出来事も有ったが、この年(1968年)、王は打率.326 49本塁打 119打点で、

「7年連続本塁打王」と、初の「首位打者」を獲得、王の同年(1968年)終了時点の通算ホームランは「356」本である。

だが、王の盟友・長嶋茂雄打率.318 39本塁打 125打点と意地を見せ、長嶋が「打点王」を獲得し、長嶋が王の「三冠王」を阻止した。

「ON」が、これだけ揃って打てば巨人が強いのは当たり前で、巨人は「V4」(4年連続日本一)を達成した。

 

<1969(昭和44)年…王貞治、「8年連続本塁打王」&「2年連続首位打者」獲得!!~シーズン終盤に通算「400号」ホームランを達成>

 

 

 

 

 

 

1969(昭和44)年、王貞治は打率.345 44本塁打 103打点で、

「8年連続本塁打王」&「2年連続首位打者」を獲得した。

「打点王」こそ、打率.311 32本塁打 115打点という成績を残した長嶋茂雄に譲ったものの、

同年(1969年)10月18日、中日球場の中日-巨人戦で、王貞治は外山博(中日)から、シーズン「44号」、通算「400号」ホームランを放った。

これで、王はこの年(1969年)、ちょうど通算ホームランは「400」本ピッタリでシーズンを終えたが、王は通算1422試合目で「400号」という、驚異的なハイペースである。

なお、巨人は「V5」(5年連続日本一)と、相変わらずの強さを発揮した。

 

<1970(昭和45)年…王貞治、「5試合連続本塁打」(セ・リーグ最多タイ記録)&「月間15本塁打」(日本新)達成~「9年連続本塁打王」&「3年連続首位打者」獲得!!>

 

 

 

 

1970(昭和45)年6月23日、後楽園球場での巨人-中日戦で、

王は自身13度目の挑戦にして、遂にセ・リーグ最多タイ記録の「5試合連続ホームラン」を達成した。

それまで、「4試合連続ホームラン」を通算12度も達成していながら、どうしても破れなかった「5試合連続」の壁を、とうとう乗り越えたのである。

 

 

 

 

 

この年(1970年)6月、王は「月間本塁打15本」という、日本新記録を達成したが、

「日本新」となる「月間15本目」のホームランは、星野仙一(中日)から放った。

というわけで、王は相変わらずの絶好調である。

 

 

 

結局、王はこの年(1970年)、打率.325 47本塁打 93打点で、

「9年連続本塁打王」&「3年連続首位打者」を獲得し、通算ホームラン数は「447」本となった。

そして、王は「8年連続シーズン40本塁打」も達成した。

だが、この年(1970年)も長嶋が打率.269 22本塁打 105打点で、「3年連続打点王」を獲得し、

長嶋が、3年連続で王の「三冠王」を阻んだ。

 

 

というわけで、「ON」は常に切磋琢磨し合い、お互いを高めていたが、

それこそが、当時の巨人が強かった最大の要因ではないだろうか。

これで、巨人は「V6」(6年連続日本一)を達成、まさに向かう所敵無しである。

 

<1971(昭和46)年…王貞治、大スランプに苦しむが、シーズン終盤に劇的な2本の「3ラン」~「10年連続本塁打王」&「4年振り(6度目)打点王」獲得>

 

 

1971(昭和46)年、王貞治は、シーズン途中から、大スランプに苦しんだ。

「一本足打法」のタイミングが狂い、打率も2割台に落ち、全く打てなくなってしまったのだ。

同年(1971年)9月15日、甲子園球場での阪神-巨人戦も、王は江夏豊の前に「3三振」と全く打てず、

0-2と巨人が2点ビハインドのまま、9回表、2死2・3塁の場面で、王に打席が回った。

ここで、王は江夏から、起死回生の逆転3ランホームランを放ったが、この時、王は涙を流しながら、ベースを一周した。

いつもは冷静沈着な王が、涙を流したホームランというのは、後にも先にも、この時だけだったという。

それだけ、王は苦しみ抜いていたのである。

結局、この年(1971年)、王は打率.276 39本塁打 101打点という成績で、「10年連続本塁打王」&「4年振り(6度目)打点王」こそ獲得したが、「シーズン40本塁打」以上は、8年連続でストップしてしまった。

そして、この年(1971年)終了時点の、王の通算ホームランは「486」本となった。

 

 

そして、この年(1971年)の「巨人VS阪急」の日本シリーズ、1勝1敗で迎えた第3戦、

巨人は山田久志(阪急)に抑え込まれ、9回裏2死まで0-1とリードされていたが、

この場面で、王貞治が劇的な「逆転サヨナラ3ラン」を放った。

これで、巨人は勢いに乗り、4勝1敗で阪急を破り、巨人が「V7」(7年連続日本一)を達成した。

王は、苦しみ抜いたとはいえ、「ここぞ!」という場面で打つのは流石であった。

 

<1972(昭和47)年…王貞治、通算「500」号ホームラン&史上最多の「7試合連続本塁打」を達成、「11年連続本塁打王」&「2年連続(7度目)打点王」獲得!!>

 

 

 

1972(昭和47)年6月6日、広島市民球場の広島-巨人戦で、

王はシーズン「14号」、通算「500号」ホームランを達成した。

当時、通算「500本塁打」は、野村克也(南海)に次いで史上2人目だったが、王は「通算1723試合」での「通算500本塁打」であり、これは野村よりも「318試合」も早いペースであった。

 

 

 

 

 

 

1972(昭和47)年9月20日、王貞治は、阪神の大エース・村山実からホームランを放ち、

これで「7試合連続ホームラン」という、日本新記録を達成した。

この記録は、1986(昭和61)年にバース(阪神)に並ばれたものの、未だに破られていない、大記録である。

結局、この年(1972年)の王は、打率.296 48本塁打 120打点で、「11年連続本塁打王」&「2年連続(7度目)打点王」を獲得し、

同年(1972年)終了時点での、王の通算ホームラン数は「534」本である。

そして、巨人は「V8」(8年連続日本一)となった。

 

<1973(昭和48)年…王貞治、遂に初の「三冠王」達成!!~巨人は不滅の「V9」(9年連続日本一)達成>

 

 

1973(昭和48)年、王貞治は打率.355 51本塁打 114打点という成績を残し、

「首位打者(3年振り4度目)」&「本塁打王(12年連続)」&「打点王(3年連続8度目)」を全て獲得、遂に初の「三冠王」を達成した。

これまで何度も惜しい所で逃して来た「三冠王」を遂に達成し、王の通算ホームラン数は「585」本となった。

 

 

 

この年(1973年)、巨人は不滅の「V9」(9年連続日本一)を達成した。

この「V9」は、間違いなく「ON」が居たからこそ、成し遂げられたものであり、

巨人こそ、「高度経済成長」を突き進む、当時の日本を象徴する存在であった。

まさに、「大正義・巨人軍」である。

 

<1974(昭和49)年…王貞治、史上初の「通算600号」&「通算2000安打」&「2年連続三冠王」達成~長嶋茂雄が引退し、巨人は「V10」を逃す>

 

 

 

 

1974(昭和49)年5月30日、甲子園球場での阪神-巨人戦で、

王貞治は谷村智博(阪神)からシーズン「15号」ホームランを放ち、遂に史上初の「通算600号」ホームランを達成した。

王は、プロ野球史上、前人未踏の領域に足を踏み入れ、誰も到達した事が無い高みへと、登り詰めようとしていた。

 

 

 

 

同年(1974年)8月4日、王貞治は甲子園球場での阪神-巨人戦で、

「通算2000安打」を達成した(※通算「2019試合目」での達成)。

ちなみに、当時「通算2000安打」は、史上8人目であった。

 

 

結局、この年(1974年)、王は打率.332 49本塁打 107打点で、

またしても、「首位打者(2年連続5度目)」&「本塁打王(13年連続)」&「打点王(4年連続9度目)」を全て獲得し、史上初の「2年連続三冠王」を達成した。

同年(1974年)終了時点の、王の通算ホームラン数は「634」本である。

 

 

 

なお、この年(1974年)、巨人は中日ドラゴンズに20年振りの優勝を許し、遂に「V10」を逃した。

そして、この年(1974年)限りで「ミスター・ジャイアンツ」長嶋茂雄が、現役引退し、「ON時代」に終止符が打たれた。

1974(昭和49)年10月14日、後楽園球場での巨人-中日戦は、長嶋の引退試合となったが、中日はこの日、地元・名古屋で優勝パレードを行なっており、主力選手は欠場しており、二軍の若手メンバーが出場したが、この時、中日ドラゴンズの代表として、長嶋に花束を贈呈したのが、当時、プロ入り6年目の24歳だった、大島康徳である。

 

<1975(昭和50)年…王貞治、「13年連続ホームラン王」でストップ、田淵幸一(阪神)にホームラン王を明け渡す~「打点王(5年連続10度目)」は死守>

 

 

 

1975(昭和50)年、王貞治はキャンプでの怪我で開幕に出遅れたのが響き、

打率.285 33本塁打 96打点と、不振に終わり、「43本塁打」を放った田淵幸一(阪神)に、遂にホームラン王の座を明け渡し、王は「13年連続ホームラン王」はストップしてしまったが、「打点王(5年連続10度目)」は死守し、面目は保った。

なお、長嶋茂雄が新監督に就任した巨人は、球団史上初の最下位に沈み、巨人にとっても、王にとっても、屈辱のシーズンとなった。

この年(1975年)終了時点の、王の通算ホームラン数は「667」本である。

 

<1976(昭和51)年7月23日…王貞治、遂に史上初の通算「700号」ホームラン達成!!~難産の末、遂に辿り着いた「通算700号」の偉業>

 

 

1976(昭和51)年、王貞治は「リベンジ」に燃えていた。

前年(1975年)に失った「ホームラン王」の座を奪還するため、そして巨人の優勝のために、

王は開幕から飛ばしに飛ばし、快調なペースで打ちまくった。

 

 

1976(昭和51)年6月末の時点で、王のシーズン本塁打数は「29本」となり、

通算ホームラン数は「696本」に達したが、この頃から、急にマスコミとファンが騒ぎ始めた。

「王貞治、前人未踏の通算700号は間近!!」

と、連日のように大きく報道されたが、

7月2日、ナゴヤ球場の中日-巨人戦で、王は星野仙一から、シーズン「30号」、通算「697号」を放つと、

翌7月3日、同じくナゴヤ球場の中日-巨人戦で、王は青山久人、鈴木孝政から、2打席連続となる「31号」「32号」を放ち、通算「698号」「通算699号」を連発した。

遂に「通算700号」に王手がかかり、ここに「通算700号狂騒曲」が始まったが、王はここから全くホームランが打てなくなり、スランプに苦しんだ。

流石の王も、周りが大騒ぎしていた事で、重圧に苦しんでいたようである。

 

 

 

 

 

 

そして、王が「通算700号」まで、あと1本に迫ってから3週間後、

1976(昭和51)年7月23日、川崎球場での大洋-巨人戦で、

遂に王貞治は、鵜沢達雄(大洋)から、シーズン「33号」を放ち、通算「700号」ホームランを達成した。

 

 

 

 

 

こうして、難産の末に、王貞治史上初の「通算700号」ホームランを達成したが、

王は後に「周りが急に、700号、700号って騒ぎ出すから、流石にプレッシャーを感じた。でも、この時の経験が、後のホームラン世界新記録の時に活きた」と、語っている。

重圧に打ち勝ち、大記録を成し遂げたという経験が、何よりも大きかったというのである。

なお、王に「通算700号」を打たれた鵜沢達雄は、他にこれと言った実績は無いが、この一発により、球史に名を残した。

これは、王に「通算755号」を打たれた三浦道夫、「通算800号」を打たれた大川浩もそうだが、彼ら大洋の投手陣は、プロでの実績は今一つだったが、王に「記念ホームラン」を打たれた事で、球史に名を残したというのが、共通点である。

 

 

なお、川崎球場には、「王貞治 通算700号ホームラン」のモニュメントが有ったが、

その川崎球場は、今は取り壊されてしまった。

という事で、今から45年前、王は紆余曲折を経て、前人未踏の大記録、「通算700号ホームラン」に辿り着いたのであった。