サザンオールスターズの桑田佳祐・原由子夫妻の音楽人生にスポットを当て、
「もしも、2人の人生が朝ドラになったら」というコンセプト(?)で書き始めた、
「サザン史・外伝【連続ブログ小説】クワタとハラ坊」は、現在、「1965(昭和40)年編」までを書いている。
当時、桑田佳祐は小学校4年生、桑田よりも1学年下の原由子は小学校3年生の頃である。
「クワタとハラ坊」の第⑧話「1965(昭和40)年編」は、昨年(2020年)の8/1に書いたが、
今回は、その続編として、桑田佳祐の音楽のルーツである「湘南サウンド」にスポットを当ててみる事としたい。
この年(1965年)、茅ヶ崎に住む上原謙・加山雄三の親子がオーナーとなった「パシフィック・ホテル」が華々しくオープンしたが、この「パシフィック・ホテル」は、桑田佳祐少年の音楽人生の「原風景」となった。
という事で、「クワタとハラ坊」の「続・1965年編」をご覧頂こう。
<世紀の美男子・上原謙~立教大学を経て松竹に入社し、一躍、人気スターに>
加山雄三の父・上原謙(うえはら・けん)、本名・池端清亮(いけはた・きよあき)は、
1909(明治42)年11月7日、東京都牛込区で、職業軍人・池端清武の長男として生まれた。
清亮は大変な美男子であり、大の音楽好きだったが、成城高校-立教大学では、オーケストラでトランペットを吹いていた。
1933(昭和8)年、立教大学在学中、清亮の友人が彼に無断で、清亮の写真を松竹に送ったところ、その美男子ぶりが見込まれ、清亮はすぐに松竹に採用された。
1935(昭和10)年、松竹に入社後、清亮は芸名を上原謙と名乗り、早速、映画デビューを果たしたが、
同年(1935年)、上原謙は『彼と彼女と少年達』で初主演を務めた。
この映画で共演した、上原謙と桑野通子は「アイアイ・コンビ」として人気を博した。
<1936(昭和11)年10月…上原謙と小桜葉子が結婚~周囲の猛反対を押し切って結婚に踏み切る>
1936(昭和11)年10月、上原謙は、女優・小桜葉子と結婚した。
上原謙は当時27歳、小桜葉子(こざくら・ようこ)は1918(大正7)年3月4日生まれの当時18歳だったが、
2人の結婚は、当初、周囲から猛反対されたという。
上原謙も小桜葉子も、まだ売り出し中の新進気鋭の役者同士であり、
「結婚は、まだ早い」
という意見が多かったが、2人はその猛反対を押し切って、結婚に踏み切った。
なお、当時、上原謙は桑野通子との恋仲が噂されていたが、実際には小桜葉子と交際していたのであった。
<上原謙・佐分利信・佐野周二の「松竹三羽烏」が大人気に>
上原謙が小桜葉子との結婚に踏み切った頃、
松竹では、上原謙・佐分利信・佐野周二の「松竹三羽烏」が大人気になっていた。
この3人は、1936(昭和11)年、五所平之助監督の映画『新道』で共演し、大人気となっていたが、
翌1937(昭和12)年、上原謙・佐分利信・佐野周二の3人を前面に押し出した、島津保次郎監督の映画『婚約三羽烏』が大ヒットし、「松竹三羽烏」の人気は決定的となった。
なお、皆様もご存知の通り、佐野周二は関口宏の父親である。
<1937(昭和12)年4月11日…加山雄三(本名・池端直亮)が誕生!!~同年(1937年)12月24日、平尾昌晃も誕生~1939(昭和14)年、上原謙一家は横浜から茅ヶ崎に転居>
1937(昭和12)年4月11日、上原謙・小桜葉子夫妻に、待望の長男・直亮が誕生した。
池端直亮、後の加山雄三である。
直亮が誕生した当時、上原謙・小桜葉子夫妻は横浜に住んでいたが、
直亮は、子守歌でディキシーランドスタイルの『セントルイス・ブルース』や、ジョー・ダニエルスのドラムソロなどを聴くと、不思議とよく眠ったという。
つまり、直亮は幼少期から音楽が大好きな子だったのである。
なお、同年(1937年)12月24日、後に「湘南サウンド」の立役者の1人となる平尾昌晃も生まれている(※平尾昌晃は東京に生まれ、藤沢に育ち、戦後に茅ヶ崎に転居)。
1939(昭和14)年、直亮が2歳になった頃、母親の「この子を、強い子供に育てたい」という教育方針により、
上原謙の一家は、横浜から茅ヶ崎へと移り住んだ。
以来、直亮は茅ヶ崎ですくすくと育って行ったが、現在、加山雄三の実家が有った辺りは、「雄三通り」と命名され、茅ヶ崎の「観光名所」の一つになっている。
名優・上原謙の家なだけあって、かなりの豪邸であった。
<1938(昭和13)年…上原謙・田中絹代が主演の映画『愛染かつら』が大ヒット!!~しかし、上原謙は…?>
待望の長男・池端直亮が誕生し、公私ともに順調な生活を送っていた上原謙であるが、
1938(昭和13)年、上原謙・田中絹代が共演した映画『愛染かつら』が空前の大ヒットを記録した。
『愛染かつら』は日本映画史上に残る金字塔となったが、当の上原謙自身は、実はこの映画を気に入らなかったという。
「下らない。こんな馬鹿馬鹿しいストーリー展開など、有り得ない」
と、上原謙は吐き捨てるように言っていたというが、そんな映画が大ヒットし、自らの代表作になってしまったのだから、
彼としては複雑な心境だったかもしれない。
<大手船会社の重役・石原潔の一家、1942(昭和17)年に小樽から逗子に転居~石原慎太郎・石原裕次郎兄弟の「湘南」での生活が始まる>
さて、上原謙が映画界で大活躍し、上原謙の長男・池端直亮(後の加山雄三)が茅ヶ崎の地ですくすくと育っていた頃、
山下汽船という大手船会社の重役だった石原潔の一家は、北海道の小樽に住んでいた。
1932(昭和7)年9月30日、石原家の長男として石原慎太郎、2年後の1934(昭和9)年12月28日、石原家の次男・石原裕次郎が相次いで誕生したが、慎太郎・裕次郎の兄弟は神戸で生まれた後、生後すぐに北海道の小樽へと転居していた。
1942(昭和17)年、慎太郎が10歳、裕次郎が8歳の頃に、
石原家は小樽から神奈川県の逗子へと転居した。
以来、石原家は「湘南」の地で過ごす事となったが、戦時中にも関わらず、
裕福な石原家は、割と呑気に過ごしていたようである。
上原謙の一家も、石原家も、「湘南」のブルジョワ家庭だった、という共通点が有ったのである。
<1945(昭和20)年…池端直亮少年、ピアノを覚える~戦後、石原兄弟は父親にヨットを買い与えられる>
1944(昭和19)年、池端直亮少年は、地元・茅ヶ崎小学校に入学した。
翌1945(昭和20)年、当時8歳で小学校2年生だった直亮は、叔父夫婦が演奏していたオルガンに興味を示し、
自らも、見様見真似でピアノを弾くようになった。
元々、彼には天才的な音楽のセンスが有ったようで、あっという間にピアノが弾けるようになったという。
そして、この後、直亮は好きな音楽にのめり込んで行くようになった。
一方、石原家では、戦後、慎太郎・裕次郎の兄弟が、父親にせがんで、何と、ヨットを買い与えられた。
お金持ちの石原潔ではあったが、流石にヨットを買うとなると、二の足を踏んだようであるが、
妻・光子の「女の子ならピアノを買ってくれとせがむ所だけど、あの子達は男の子なんだし、ヨットを買ってやったらどうですか?」という言葉に背中を押され、とうとう2人の息子のためにヨットを買い与えた。
「そのかわり、しっかりと手入れをしなければダメだぞ」
父親にそう言われるまでもなく、慎太郎・裕次郎は、熱心にヨットを整備し、夢中になってヨット遊びをしていた。
「海の男」としての石原兄弟の人生が、この時に始まったのであった。
<1951(昭和26)年…池端直亮、人生初の楽曲『夜空の星』を作曲~石原裕次郎、慶應義塾高校に編入学~石原兄弟の父・石原潔が急死>
1951(昭和26)年、当時、中学校2年生で、14歳だった池端直亮少年は、
人生初の楽曲である『夜空の星』を作曲した。
後に、加山雄三はモーツァルトを真似して、自ら作曲した曲に「K」というアルファベットと「通し番号」を付けたが、
記念すべき最初の曲、「K-001」は『夜空の星』であった。
このように、直亮には音楽家としての天分が有ったが、彼は音楽だけではなく、スポーツも万能で、スキーやテニスなどに抜群の腕前を発揮した。
まさに、「若大将」を地で行く存在だったのである。
一方、この年(1951年)、石原家を不幸が襲った。
兄・石原慎太郎は湘南高校を経て一橋大学に通う大学1年生、弟・石原裕次郎は慶應農業高校から慶應義塾高校に編入学したばかりの高校2年生だったが、その石原兄弟の父親・石原潔が、脳溢血のために急死してしまったのである。
この時、葬儀が終わり、荼毘に付された父親の遺骨の一部を、裕次郎はそっとポケットに忍ばせていたという。
「何で、あんな事をしたんだ?」
後に、慎太郎に聞かれた裕次郎は、こう答えた。
「兄貴の本棚に有った、誰かの小説に書いてあった事を真似したんだ」
その後、裕次郎は父親の遺骨を、仏さんのためにも良くないと、叔母(父親の姉)に叱られ、捨ててしまったという。
「何処に捨てたんだ?」
慎太郎に問われ、裕次郎は言った。
「もちろん、海さ」
こうして、石原兄弟は父親と永遠の別れをしたが、この後、石原家の家運は急速に傾いて行く事となった。
裕次郎が荒れてしまい、放蕩三昧の生活を送るようになったからであった。
<石原裕次郎、膝の怪我でバスケットボールを断念し、父親の財産を湯水のように使い果たす>
石原裕次郎は、スポーツ万能な少年であり(※ここでも、加山雄三との共通点が有る)、
中学・高校時代はバスケットボールに熱中し、慶應義塾高校ではバスケ部で活躍していた。
ところが、裕次郎は膝を故障してしまい、バスケを断念せざるを得なくなってしまった。
裕次郎は挫折し、深い失意の底にあった。
この頃、裕次郎が大好きだった父親が亡くなってしまった事もあり、
すっかりタガが外れてしまった裕次郎は、父親が遺した財産を湯水のように使い、
裕次郎は夜の街を遊び歩き、放蕩三昧の生活をするようになってしまった。
この頃、裕次郎は学生の身分には分不相応な、高級なトレンチコートなども着こなし、
「ミスター・トレンチ」などと言われ、女学生の注目の的になったりしていたが、そのお金は全て父親の遺産で買った物であった。
そんな裕次郎の事を、兄・慎太郎は苦々しい思いで見ていた。
父親が亡くなり、「俺が家長にならなければ」と、慎太郎は責任感に駆られ、一橋大学で公認会計士になるための勉強をしていたが、そんな兄貴を尻目に、毎晩、遊び歩いている裕次郎を見て、「人の気も知らないで…」と、慎太郎は憤っていたのである。
<1953(昭和28)年…石原裕次郎は慶應義塾大学に入学~同年(1953年)…池端直亮(加山雄三)と平尾昌晃、慶應義塾高校に入学~平尾昌晃は高校を中退し、「チャック・ワゴンボーイズ」で音楽活動を開始~1956(昭和31)年、桑田佳祐と原由子が誕生!!>
1953(昭和28)年、相変わらず毎晩のように遊び歩いていた石原裕次郎は、
無事に(?)慶應義塾大学へと進学した。
遊んでいても、ちゃんと大学には進めたわけであるが、この頃、裕次郎のせいで石原家の家計は「火の車」であった。
だが、裕次郎は一向に夜遊びを辞めようとはしなかった。
裕次郎の「放蕩の季節」は続いていた。
そんな風に、石原裕次郎が毎晩遊び歩いていた頃、
1953(昭和28)年、池端直亮(加山雄三)は、慶應義塾高校へと入学した。
この時、平尾昌晃も同学年として一緒に慶應義塾高校へと入学したが、平尾昌晃は音楽活動に明け暮れ、あまり勉強は熱心ではなかった。
その後、平尾昌晃は1955(昭和30)年に慶應義塾高校を中退してしまい、
人気ウエスタン・バンド「チャック・ワゴンボーイズ」のボーカルとして音楽活動を開始した。
平尾昌晃は、10代にして、自らの生きる道を、音楽の道へと定めていたのであった。
そして、加山雄三や石原裕次郎が、地元・湘南を遊び場として、「湘南ボーイ」「慶應ボーイ」として学生生活を謳歌していた頃、
1956(昭和31)年、桑田佳祐と原由子が生まれたのである。
桑田佳祐(くわた・けいすけ)は1956(昭和31)年2月26日に茅ヶ崎で、
原由子(はら・ゆうこ)は1956(昭和31)年12月11日に横浜で、それぞれ誕生したが、
2人がこの世に生まれた頃、石原慎太郎が『太陽の季節』を書き、石原裕次郎が『太陽の季節』の映画化作品で、颯爽と映画界にデビューしたのである。
<1956(昭和31)年…兄・石原慎太郎の『太陽の季節』が芥川賞を受賞し文壇に登場、弟・石原裕次郎が『太陽の季節』でデビュー~「太陽族」ブームが巻き起こり、石原裕次郎の『狂った果実』で「湘南サウンド」が誕生!!>
さてさて、弟・裕次郎の放蕩三昧の生活に業を煮やした慎太郎は、ある日、裕次郎と大喧嘩をしてしまった。
しかし、その日を境に、母親と石原兄弟は、一種、開き直ったような、妙に清々しい心境になったという。
そして、慎太郎は公認会計士の勉強に見切りをつけ、裕次郎と一緒に遊び歩くようになった。
慎太郎は真面目だったので、裕次郎と彼の仲間達の遊び場に行くのは、とても新鮮だったが、
裕次郎は、夜の盛り場や、地元・湘南の海で、悪い仲間達(?)と一緒に、実に楽しそうに活き活きとしていた。
そんな石原裕次郎と、彼の仲間達との「生態」をモデルとして、
石原慎太郎は『太陽の季節』という小説を書くと、この小説が史上最年少(当時)の23歳で芥川賞を受賞してしまい、石原慎太郎は一躍、「時の人」となった。
そして、『太陽の季節』から派生した「太陽族」が現れ、社会現象を巻き起こすに至った。
つまり、石原慎太郎は、弟・石原裕次郎の放蕩のお陰で、『太陽の季節』が書けたという言い方も出来る。
そんな「太陽族」の生けるシンボルとして、石原裕次郎は『太陽の季節』で、映画デビューを果たした。
『太陽の季節』の主演は、桑田佳祐とソックリな(?)長門裕之、共演は南田洋子だったが、
石原裕次郎は、脇役ながらも強烈な存在感を発揮した。
そもそも、『太陽の季節』は、石原裕次郎をモデルにした作品なのだから、それも当然であった。
同年(1956年)、石原裕次郎は、兄・石原慎太郎が原作・脚本の『狂った果実』で、早くも映画初主演を果たしたが、
この時、ウクレレを爪弾いて歌う石原裕次郎の『狂った果実』が、「湘南サウンド」の嚆矢とも言われている。
ともあれ、石原慎太郎・石原裕次郎が「湘南」という土地の知名度を上げた頃に、桑田佳祐と原由子は生まれたのであった。
<1957(昭和32)年…石原裕次郎の『嵐を呼ぶ男』に平尾昌晃が登場~翌1958(昭和33)年「日劇ウエスタン・カーニバル」で、平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチスの「ロカビリー三人男」が大ブレイク!!>
翌1957(昭和32)年、石原裕次郎の人気を決定付けた映画『嵐を呼ぶ男』は、
当時の日本の芸能界を舞台とした映画だが、この映画の冒頭で、
当時20歳の平尾昌晃が、銀座のナイト・クラブで歌う歌手の役で出演している。
平尾昌晃の「ブレイク前夜」の貴重な映像である。
そして、翌1958(昭和33)年、「日劇ウエスタン・カーニバル」で、
平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチスの「ロカビリー三人男」が大ブレイクを果たす。
有楽町の日劇には、連日、沢山の女の子が詰めかけ、彼らに熱狂し、大変な騒ぎとなったが、
彼らこそ、日本初の「ロック・スター」であった。
平尾昌晃、当時21歳の頃である。
<池端直亮、慶應義塾大学の「カントリー・クロップス」でバンド活動を始め、1960(昭和35)年に東宝に入社し「加山雄三」として『男対男』で映画デビュー!!>
一方、池端直亮は、石原慎太郎・石原裕次郎兄弟がデビューし、
桑田佳祐と原由子が生まれた1956(昭和31)年、慶應義塾大学へと進学した。
そして、直亮は大学の仲間達と共に「カントリー・クロップス」というバンドを結成し、バンド活動を始めた。
1960(昭和35)年、池端直亮は慶應義塾大学を卒業と同時に東宝に入社した。
そして、当時21歳の池端直亮は「加山雄三」という芸名を名乗り、芸能活動を始めたが、
同年(1960年)、三船敏郎主演の映画『男対男』で映画デビューを果たしている。
あの上原謙の御曹司という事で、加山雄三は、東宝から大きな期待を受けていた。
<1961(昭和36)年…加山雄三、「若大将シリーズ」第1作『大学の若大将』に主演!!~以後、「若大将シリーズ」が次々に製作~「若大将・加山雄三、青大将・田中邦衛、ヒロイン・星由里子」の黄金メンバーが大人気に>
1961(昭和36)年、加山雄三は『大学の若大将』に主演した。
この映画こそ、加山雄三の代名詞となった「若大将シリーズ」の記念すべき「第1作」であるが、
慶應がモデルと思われる「京南大学」を舞台に、「若大将・加山雄三、青大将・田中邦衛、ヒロイン・星由里子」という黄金メンバーが顔を揃えている。
加山雄三、田中邦衛、星由里子という三者三様の魅力が味わえる作品である。
以後、加山雄三主演の「若大将シリーズ」は、下記の通り、次々に製作されて行った。
①『大学の若大将』(1961(昭和36)年)
②『銀座の若大将』(1962(昭和37)年)
③『日本一の若大将』(1962(昭和37)年)
④『ハワイの若大将』(1963(昭和38)年)
⑤『海の若大将』(1965(昭和40)年)
「若大将シリーズ」は、ワンパターンというか、どれを見ても同じといえば同じなのだが、
「若大将」加山雄三と、「若大将」のライバル「青大将」田中邦衛と、「澄ちゃん」星由里子が登場するだけで、観客は大喜びしたものである。
そして、「若大将シリーズ」を通して、加山雄三の人気は不動の物となって行った。
<「作曲家・弾厚作」の誕生~音楽家・歌手としての加山雄三~日本のシンガー・ソングライターの草分け的存在に>
加山雄三は、前述の「若大将シリーズ」主演と並行して、歌手としても活動を開始していた。
1961(昭和36)年、加山雄三は『夜の太陽』(作詞:三田恭次、作曲:中村八大)で歌手デビューを果たしたが、
やがて、加山雄三は持ち前の音楽の才能を遺憾なく発揮する事となって行く。
加山雄三は、團伊玖磨、山田耕筰という、2人の偉大な作曲家にあやかって、
「弾厚作」というペンネームを名乗り、作曲活動も行なったが、加山雄三は「弾厚作」と名乗って作った初めての楽曲である、
『恋は赤いバラ』(作詞:岩谷時子、作曲:弾厚作)を1963(昭和38)年にリリースし、大ヒットさせている。
加山雄三は、俳優だけでなく、「音楽家・作曲家」としても華々しい脚光を浴び、日本の「シンガー・ソングライター」の草分け的存在となった。
まさに、加山雄三は「湘南」「茅ヶ崎」が生んだスーパー・スターとなり、「湘南サウンド」を定着させて行った。
<1965(昭和40)年…加山雄三の『エレキの若大将』と、「パシフィック・ホテル」~華やかな「パシフィック・ホテル」で、桑田佳祐少年が見た風景とは!?>
1965(昭和40)年、「若大将シリーズ」の第6作『エレキの若大将』が封切られ、大ヒットを記録したが、
この映画は、当時、日本中で巻き起こった「エレキ・ブーム」を題材としている。
「若大将」加山雄三が、颯爽とエレキ・ギターを弾きこなしており、劇中歌として、あの名曲『君といつまでも』を披露している。
『君といつまでも』は、勿論、作曲者は弾厚作である(作詞は岩谷時子)。
『エレキの若大将』が大ヒットした1965(昭和40)年、加山雄三の故郷・茅ヶ崎に華々しくオープンしたのが、
上原謙・加山雄三の親子がオーナーとなった、「パシフィック・ホテル」であった。
田舎町・茅ヶ崎に、突如、出現した、あまりにも豪華で立派なホテルに、人々は目を見張った。
1965(昭和40)年夏、「パシフィック・ホテル」のオープン記念イベントでの出来事である。
この時、「パシフィック・ホテル」のオープンを祝して、芸能界からも多数の俳優や歌手などが出席し、華々しい式典が開催されたが、
この時、加山雄三の大ファンだったという、桑田佳祐の母親が、佳祐少年を連れて、このイベントを見に行っていた。
桑田母子は、最前列で、この華やかなセレモニーを食い入るように見ていたが、
この時、何を思ったのか、母親は佳祐少年の背中をドーンと押すと、佳祐少年は加山雄三とぶつかってしまった。
「いやー、坊や、可愛いねー」
加山雄三は、笑顔で佳祐少年を抱き上げ、それを見た佳祐少年の母親は感極まって涙を流し、嗚咽していたという。
こうして、華々しくオープンした「パシフィック・ホテル」であるが、やがて客足は遠のいて行き、
誠に残念な事であるが、経営破綻し、廃墟のような建物となり、1988(昭和63)年を以て廃業となってしまった。
その後、上原謙・加山雄三親子の「夢の城」は、無残にも1998(平成10)年秋に完全に取り壊された。
遥か後年、サザンオールスターズは2000(平成12)年に『HOTEL PACIFIC』という楽曲をリリースしたが、
この曲は、勿論、あの「パシフィック・ホテル」の華やかな光景の思い出を、桑田佳祐が「失われた少年時代の原風景」として描いたものである。
また、余談であるが、サザンオールスターズがデビューした後、
桑田佳祐は加山雄三と会った時に、あの「パシフィック・ホテル」での思い出について話し、
「こんな事が有ったのですが、覚えていますか?」と聞いてみたところ、
加山雄三は「覚えてるよー!」と答えたという。
桑田は、「いや、絶対覚えてなかったと思います(笑)」と、後に語っていた。
ともあれ、加山雄三と「パシフィック・ホテル」は、サザン史を語る上でも、絶対に欠かせない存在である。
(つづく)