サザン史・外伝【連続ブログ小説】「クワタとハラ坊」⑩(1966) ~「Dear John」~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1965(昭和40)年、当時9歳で小学校4年生だった桑田佳祐少年は、

地元・茅ヶ崎が生んだ「湘南サウンド」の確立者にして、スーパー・スターの加山雄三がオーナーを務める、

「パシフィック・ホテル」の華々しいオープニング・イベントを、彼の母親と共に見に行き、華々しい世界を垣間見た。

桑田佳祐が見た加山雄三は、まさに光り輝く、雲の上の大スターであった。

 

 

そして、翌1966(昭和41)年、戦後日本の歴史に残る、一大事件が起こる。

あのザ・ビートルズ(THE BEATLES)が、遂に日本にやって来たのである。

「ビートルズ来日」は、まさに日本にやって来た「超大型台風」のような物であり、

日本の音楽界に大きな影響を与えたが、当時、まだ子供だった桑田佳祐原由子に与えた影響も大きかった。

という事で、今回の「サザン史・外伝【連続ブログ小説】クワタとハラ坊」は1966(昭和41)年の「ビートルズ来日騒動」を中心に、描いてみる事としたい。

 

<1964(昭和39)年…ビートルズが「日本デビュー」を果たし、桑田佳祐の姉・えり子がビートルズに狂う!?>

 

 

 

 

以前に、この連載で書いたが、桑田佳祐の4歳年上の姉・えり子は、

1964(昭和39)年にビートルズが「日本デビュー」を果たして以降、突如、ビートルズに狂い始めた。

元々、明るくて社交的な性格の姉で、新し物好きな所が有ったが、そんな彼女の琴線に、ビートルズが触れたのである。

 

 

 

現在、桑田佳祐「週刊文春」で連載しているエッセイによると、

桑田の姉のビートルズへのハマリっぷりは、それはもう凄まじいの一言だったようである。

何と、桑田の姉は、夜な夜なビートルズのレコードを大音量で聴きながら、

「トランス状態に入り、踊り狂いながら泣き叫んでいた」

というのだから、物凄い傾倒ぶりである。

特に、姉はジョン・レノンが大のお気に入りで、ビートルズの曲を聴きながら、

「ジョーン!!」

と絶叫し、ヘッド・バンギングをしたかと思えば、

『ビートルズ・フォー・セール』のアルバムのジャケットを見ながら、ウットリと恍惚の表情を浮かべていたという。

当時、世に「ビートルズ狂い」の人は、日本にも沢山居たと思われるが、桑田の姉は、かなり凄い部類だったのではないだろうか。

それはともかく、桑田は姉・えり子を通して、ビートルズの存在を知り、彼女にビートルズの素晴らしさを力説されて行く内に、

桑田自身も、ビートルズにハマって行った。

 

<1966(昭和41)年の原由子…「リウマチ熱」で膝や足首が腫れ上がり、あまり運動できない身体に…しかし本人は「悲劇のヒロイン」気取り!?>

 

 

 

一方、原由子の方はと言うば、小さい頃から、とにかくお転婆で、近所中を走り回るような女の子だった事は、既に述べたが、

小学校3年生のお正月(1966年のお正月)を過ぎた頃から、突如、両足の膝や足首が腫れあがる症状に悩まされ、

病院で検査の結果「リウマチ熱」と診断された。

この時、「たとえリウマチ熱が治っても、心臓弁膜症になる可能性が有る」と医者から言われたが、

それを聞いて、原由子の母親は、とても焦ったという。

それまで、「怒ると鬼のように怖かった」母親は、病院から帰る時も、おんぶにタクシーであり、普段の生活でも、「気持ち悪いぐらい、優しくなった」そうである。

後年、原由子自身も子供を産んだ時に、漸く、この時の母親の心境がわかったと述べているが、

「あの時、母は目の前が真っ暗になったんじゃなかと思う」

と、後に原由子はこの時の母親の気持ちを推察している。

 

 

ともあれ、この時以来、原由子は過度な運動が出来なくなり、学校の体育の時間も、いつも見学するようになった。

しかし、心配する周囲をよそに、「私って、悲劇のヒロインね!!」と、彼女自身は、何だかワクワクするような気持ち(?)になっていたようである。

幸い、原由子の病気の症状は悪化する事は無かったが、この後、原由子は思いもよらぬ苦難の日々を送る事になってしまうのである。

 

<1965(昭和40)年11月8日…日本テレビの深夜番組「11PM」放送開始~放送作家・大橋巨泉が司会で登場>

 

 

 

 

1965(昭和40)年11月8日、日本テレビの深夜番組「11PM」が放送開始された。

「11PM」は、深夜番組の先駆的存在の番組であるが、お色気から、競馬やゴルフや麻雀、そして硬派な社会問題まで幅広く扱う、

画期的な番組であり、それまでジャズ評論家や放送作家など、「裏方」だった大橋巨泉が司会を務めた。

大橋巨泉は、プロ野球の巨人の人気に便乗し、「野球は巨人、司会は巨泉」というフレーズを使い、一躍、お茶の間の人気者となったが(大橋巨泉自身も、巨人ファンだった)、

アシスタントを務める朝丘雪路「朝はまるで弱い、朝丘雪路です」という名文句(?)で、これまた人気を集めた。

「僕は、子供に迎合した番組は作らない。大人向けの面白い番組を作れば、子供も勝手に見る」

というのが、大橋巨泉のポリシーだったが、その言葉どおり、「11PM」は、子供達も親に内緒でコッソリと見るほど、大人気の番組となった。

 

<1965(昭和40)年…音楽雑誌「ミュージック・ライフ」の星加ルミ子・編集長、英国に渡り、ビートルズ単独取材に成功!!>

 

 

当時、「ミュージック・ライフ」という、洋楽を紹介する音楽雑誌は、何度かの休刊を経た後、復刊されていたが、

日本でも高まる一方のビートルズ人気を受けて、「ミュージック・ライフ」でも、度々ビートルズを特集していた。

そして、1965(昭和40)年、「ミュージック・ライフ」の星加ルミ子編集長は英国に飛び、日本人として初めて、ビートルズの単独取材に成功した。

この時、彼女はビートルズの日本への印象を、かなり良くする事にも成功したと思われる。

「日本という国に、行ってみたいな」

ビートルズのメンバー達は、日本に興味を持ち、日本に行ってコンサートをやりたいという希望を持つに至った。

 

<1966(昭和41)年4月…桑田佳祐や原由子も夢中になった、洋楽紹介番組「ビート・ポップス」(司会:大橋巨泉)が放送開始!!>

 

 

 

 

1966(昭和41)年4月、前述の大橋巨泉が司会を務める、洋楽を紹介する音楽番組「ビート・ポップス」が、フジテレビで放送開始された。

「ビート・ポップス」も、ビートルズ人気に便乗し、日本で洋楽ブームが起こっていた事に目を付け、スタートした番組だったが、

この番組を、まだ小学生だった桑田佳祐原由子も、夢中になって見ていたという。

「何て、カッコいい音楽なんだ!!」

子供心に、桑田佳祐原由子も、洋楽のカッコ良さにシビレっぱなしであった。

なお、この番組には、あの星加ルミ子も後にレギュラー出演しているが、

大橋巨泉という男も、流行に敏感というか、「流行を作り出す」事に長けた才人だったと言って良い。

 

<1966(昭和41)年のビートルズ①…ビートルズ、日本公演を希望し、日本のプロモーターに打診⇒破格のギャラの安さと入場料の安さを提示され、日本のプロモーターも受諾~「ビートルズ来日」が決定!!>

 

 

 

さて、その1966(昭和41)年、ビートルズから日本のプロモーターに対して、こんな打診が有った。

「是非とも、日本でコンサートを開きたい」

当時、海外アーティストを招く興行会社を興していた、プロモーターの永島達司は、仰天した。

ビートルズといえば、今や世界一の人気者であり、前年(1965年)には、史上初めて、5万人規模のスタジアム・コンサートを成功させている。

「そんなビートルズのコンサートなんて、とてもじゃないが、日本では出来っこない」と、当初、永島は断った。

何よりも、ビートルズのギャラなど、とても払えないというのも、その理由の一つだった。

 

 

だが、ビートルズ側は、ギャラを破格の安さで良いと、更に打診して来たばかりか、

コンサートのチケット代も、レコードと同じ代金で良いという、物凄く安い値段設定で良いと言って来たのである。

これには、永島も断わる理由を無くしてしまい、腹を括って、ビートルズの日本でのコンサートの打診を受諾した。

こうして、遂に「ビートルズ来日」が決定したのである。

 

<1966(昭和41)年のビートルズ②…「ビートルズ来日」が決定し、会場は日本武道館に決定!!~しかし、激しい「拒否反応」が…!?>

 

 

1966(昭和41)年4月27日、「ビートルズ来日」が、マスコミで大々的に発表されるや、

「遂に、日本にビートルズがやって来る!!」

と、日本中が大騒ぎになった。

かつてない規模で、世界中で大人気になっている、あのビートルズがやって来るという事で、まさに国中が蜂の巣をつついたような大騒ぎとなった。

 

 

なお、「ビートルズ来日公演」の会場は、日本武道館に決定した。

日本武道館は、この2年前、1964(昭和39)年の東京オリンピックのために作られたばかりの会場であった。

では、何故、武道館がビートルズのコンサートの会場に選定されたのかといえば、

ビートルズのライブの予定は、6月下旬~7月初旬という事で、日本では、ちょうど梅雨時に当たっていたからである。

勿論、後楽園球場などの巨大なスタジアムで開催するという選択肢も有ったが、それだと雨天中止のリスクが有る。

従って、雨天中止を避けるため、屋内で開催される事になったのだが、当時の日本には、大規模なコンサートを開催できるような施設など、他には無かった。

だから、日本武道館以外には、選択肢は無かったのである。

 

 

 

「ビートルズ来日公演」が決まり、会場が日本武道館に決定したという報を受け、

読売新聞のボス・正力松太郎「ペートルスというのは、何者だ!?」と言ったり、

時の佐藤栄作首相が「ビートルズの武道館公演は考えものだ」と発言したりと、

早速、各界から「拒否反応」が有った。

恐らく、「神聖な日本の武道の舞台を、外人のタレントに使わせるな」というような、凝り固まった考え方が、彼らには有ったのかもしれない。

 

 

 

更には、右翼の街宣車が、「ビートルズを日本から叩き出せ!!」と、抗議の声を上げたりもしていた。

まだ、ビートルズが来てもいないのに、「ビートルズは出て行け!!」というのも、何だか妙な話だが、

それだけ、当時のビートルズに対し、戦々恐々としていたという事であろう。

そもそも、ビートルズとは、彼らにとっては「得体の知れない黒船」のような、不気味な存在に映っていたのであろう。

 

<1966(昭和41)年のビートルズ③~大人達がビートルズに戦々恐々とする中、若者達はヒートアップ!!~桑田佳祐の姉が、「ビートルズ禁止令」に抗議し、学校の職員室に特攻!?>

 

 

 

そのように、大人達が戦々恐々とする中、

日本の若者達は、「ビートルズ来日決定」の報せに狂喜し、今か今かと、ビートルズ来日の、その時を待っていた。

世界中の若者達がそうであったように、日本の若者達も、ビートルズに熱狂し、彼らの音楽に夢中になっていた。

いつの世も、若者達こそが、真っ先に新たな文化に飛び付き、新たなトレンドを作るという構図は変わらない。

 

 

かの桑田佳祐の姉も、この頃、「常軌を逸した」行動を取っている。

当時、桑田の姉・えり子は中学校3年生だったが、彼女の通っていた学校では、

「ビートルズ禁止令」が出され、その事に激怒した彼女は、何と、抗議のプラカードを持って、職員室に特攻したという。

「その時は、追い返されちゃったらしいけどね、姉貴は、本当にビートルズに狂ってたからね…」

桑田は、後に当時の事を、そう述懐しているが、桑田の姉の例は極端な事例(?)かもしれないが、日本全国の学校で、似たような光景が見られた事であろう。

「ビートルズ来日」は、「大人VS若者」という対立構図をも生み出していたのであった。

 

<1966(昭和41)年のビートルズ④~「ビートルズ来日公演」のチケットは、完全抽選制、「ビートルズ警備」は警視庁が異例の「超厳戒態勢」を施行…>

 

 

 

 

そうこうしている内に、「ビートルズ来日公演」の時が迫って来た。

「ビートルズ来日公演」は、1966(昭和41)年6月30日~7月2日までの計3日間5公演が、全て日本武道館で開催される事となったが、

チケットは、全て完全抽選制であり、事前にハガキでチケットを申し込み、抽選で当たった人だけがチケットを買える、という形が取られた。

日本全国からハガキが殺到し、「ビートルズ来日公演」は超プレミアチケットとなったが、幸運にも当選した人達が、伝説の目撃者となる事が出来たわけである。

ちなみに、当時、私の母は高校生だったが、母は残念ながらビートルズは見に行けなかったが、母の友人が、レコード会社の伝手を頼って、どうにか、このチケットを入手し、武道館まで見に行っていたと、母が話していた。

 

 

そして、「ビートルズ来日公演」に際して、警視庁は異例の「超厳戒態勢」が敷かれる事になった。

当時、警視庁の警備責任者が、日本武道館に下見に行った時、女子中学生が屯(たむろ)していたので、

彼は「君達も、ビートルズを見に行くのか?」と聞いたところ、彼女達は、こう答えた。

「勿論、見に行くし、足の一本ぐらい折れても構わないから、ステージに飛び上がってキスしたい!!」

その言葉を聞いて、警備責任者は青ざめた。

「その時の彼女達の言葉が、ビートルズ警備の方針の全てを決めたわけだ」

こうして、水も漏らさぬような、超厳しい警備態勢が取られる事となったが、その事については後述する。

 

<1966(昭和41)年のビートルズ⑤~1966(昭和41)年6月29日 午前3時44分…遂にビートルズが日本にやって来た!!~そのままホテルに直行し、E・H・エリックのインタビューを受ける>

 

 

 

 

 

1966(昭和41)年6月29日 午前3時44分、遂にビートルズが日本にやって来た。

羽田空港に、ビートルズを乗せた飛行機が着陸したのである。

ビートルズが乗っていた日本航空(JAL)の飛行機は、実は台風のために日本への到着が遅れ、

こんな深夜の時間になってしまっていたが、ビートルズの面々は、タラップから降りて登場すると、

何と、4人とも「JAL」と書かれたハッピを着ており、4人は長旅の疲れも感じさせず、笑顔で手を振っていた。

「ビートルズ来日」を象徴する名場面であるが、この時、ビートルズを出迎えたのは夥しい数の警官隊と報道陣だけであり、一般のファンは一切排除されていた。

これには、ビートルズも拍子抜けしたかもしれないが、これは勿論、あの警視庁の警備責任者による方針である。

ともあれ、「ビートルズ台風」が遂に上陸し、「日本を揺るがした5日間」は、こうして始まった。

 

 

ちなみに、異例の事ではあるが、ビートルズのメンバー達は、機内で既に日本への入国手続きは済ませていた。

そして、ビートルズは、羽田空港に待機していたリムジンに乗り込むと、そのまま宿泊先である、赤坂の東京ヒルトンホテルへと直行した。

この時、ビートルズのために、首都高は全面封鎖されていたため、ビートルズを乗せた車は、警察のパトカーに先導され、僅か10数分で東京ヒルトンホテルへと到着している。

そして、「ビートルズ来日」の公式カメラマンとして、浅井慎平が、ビートルズ来日の瞬間から、彼らを撮り続けた。

 

 

 

ビートルズが東京ヒルトンホテルに到着すると、そこには、「ビートルズ来日公演」で司会を務めるE・H・エリック(岡田真澄の兄)が待ち構えており、ビートルズに、インタビューを行なった。

「女王陛下から勲章を貰いましたが、女王陛下の印象は、いかがでしたか?」

「まあ、いいんじゃない。彼女は最高だよ」

そんなやり取りが有った後、彼らは部屋へと入って行った。

 

<1966(昭和41)年のビートルズ⑥~来日直後、ビートルズの記者会見が開催~一方、ファンは「完全排除」>

 

 

 

 

 

ビートルズが来日した当日(1966(昭和41)年6月29日)、ひとまず眠って身体を休めたビートルズは、

日本の報道陣との記者会見に臨んだ。

「日本には、どのような印象が有りますか?」と聞かれ、

ポール・マッカートニー「本で読んだり、映画で見たりした程度しか知らないんだ」と、正直に答えているが、

後に、ポールは何度も来日するのど、大の日本好きになった事は、ご存知の通りである。

そして、ジョン・レノンも、この後、日本人女性のオノ・ヨーコと結婚する運命にあった。

 

 

一方、ビートルズの宿泊先の周りには、沢山のファンが押し寄せ、ビートルズを一目見ようとしていたが、

警視庁により厳重な警備態勢が敷かれていたため、ファンは警察に、すぐに追い返されていた。

「ビートルズは、ホテルと武道館の往復以外は、一切、外出させず、ホテルにカンヅメにする」

これが、警視庁が敷いた警備態勢の方針だったのである。

更に、ビートルズの行動は、分単位で厳しく管理されていた。

 

<1966(昭和41)年のビートルズ⑦~「カンヅメ」のビートルズを、加山雄三、星加ルミ子、湯川れい子などが訪ね、無聊を慰める>

 

 

 

このように、ビートルズは一切外出を許されず、ホテルに「カンヅメ」にされていたが、

そんなビートルズの無聊を慰めようと、様々な人達がビートルズを訪問していた。

当時、人気絶頂だった加山雄三は、「日本の芸能界代表」として、ビートルズに逢いに行ったが、

ビートルズが「すき焼きを食べたい」と言うので、ビートルズと加山雄三は、一緒にすき焼き鍋をつつき、音楽談義に花を咲かせた(?)。

 

 

 

前年(1965年)に、ビートルズに単独取材をしていた、「ミュージック・ライフ」の星加ルミ子も、ビートルズを訪ね、

ビートルズと星加ルミ子は、再会を喜び合ったが、彼女は、当時、大流行していた、

『おそ松くん』のイヤミの「シェー!」のポーズをビートルズに教えたりして、場を和ませた。

 

 

音楽評論家の湯川れい子は、その身分を隠し(?)、

ファンの女の子の一人という体で、ビートルズに逢いに行き、彼らと一緒にお茶を飲んだ。

「誰と一緒に写真を撮りたい?」と聞かれた湯川れい子は「リンゴ!!」と即答し、リンゴ・スターと一緒に記念撮影をした。

このように、次から次に人が訪ねたり、部屋に日本の業者が訪ね、ビートルズに買物を楽しんでもらったりと、

カンヅメにされて可哀想な彼らのために、日本側は精一杯の「おもてなし」をした。

だが、厳重な警備を掻い潜り、ジョン・レノンポール・マッカートニーは脱走を企てたりして、関係者を慌てさせる一幕も有った。

 

<1966(昭和41)年のビートルズ⑧~ジャッキー吉川とブルーコメッツ、尾藤イサオ、内田裕也、ザ・ドリフターズなどが「ビートルズ来日公演」の「前座」を務める~この時、客席から、当時高校2年生の志村けんがドリフを目撃!!>

 

 

 

こうして、いよいよ「ビートルズ来日公演」の時を迎える事となったが、

ビートルズが登場する前に、各公演では、ジャッキー吉川とブルーコメッツ、尾藤イサオ、内田裕也、ザ・ドリフターズなどが「前座」を務めている。

この時、ザ・スパイダースは「前座」ではなく、観客席から見ていたが、スパイダースのメンバー・かまやつひろしは、

「日本の前座の人達の演奏は、ビートルズに比べると、明らかに音量を下げられていた。差別を感じたね」

と、後に語っている。

 

 

 

 

 

ご存知、ザ・ドリフターズは、『のっぽのサリー』を演奏したが、

「どうせ、俺達の演奏なんて、誰も聴いちゃいねえだろ」

とばかり、彼らはステージ狭しと走り回り、暴れ回って演奏を行なった。

そして、出番が終わった後、加藤茶「バッカみたい!」と捨て台詞を吐き、

いかりや長介「逃げろ!!」という合図の後、ドリフのメンバー達はステージから去って行った。

 

 

この時、観客席で、観客の1人でドリフの「前座」を見ていたのが、当時、高校2年生だった、志村けんである。

ドリフも志村けんも、この時は、まさか、後に志村けんがドリフに入り、日本一のコメディアンに成長して行く事など、全く知る由も無かった。

志村けんが、運命に導かれ、ドリフに入るのは、この8年後の事である。

 

<1966(昭和41)年のビートルズ⑨~超厳戒態勢の下、「ビートルズ来日公演」が開催!!>

 

 

 

 

 

 

そして遂に、ビートルズが日本のファンの前に姿を現した。

ビートルズが登場した瞬間、観客席を埋め尽くした女の子達からは、凄まじい大歓声と絶叫が起こった。

それは、世界中、何処の会場でも見られた光景だったが、一つだけ違うのは、超厳重な警備態勢である。

警視庁の方針の下、観客は一切、座席から立ち上がる事を許されず、観客席の通路には警官隊がビッシリと配備されていた。

また、アリーナ席も設けられず、ライブ中も電気は点けられたままで、ステージの周りは、ぐるりと警官が取り囲んだ。

とにかく、万が一にも、トラブルが起こらないような態勢が敷かれていたのであった。

 

 

 

 

ビートルズも、その様子を見て、ちょっとガッカリしたような表情を見せていたというが、

それでも、観客達は、遂に目の前に現れたビートルズに熱狂した。

この時、前述の志村けんをはじめ、宇崎竜童など、後に有名人になった人も、多数観客席に居たが、

志村けんは「自分は、ジョージ・ハリスンみたいなつもりでいたからね」と語り、

宇崎竜童も「ビートルズのお陰で、音楽って、自分達で好きなように曲を作って良いんだっていう事に、気付かされた」と、後に言っている。

なお、この時の公演自体は、1公演で11曲、僅か35分ほどで、あっという間に終わっている。

 

<1966(昭和41)年のビートルズ⑩~1966(昭和41)年7月3日…ビートルズが離日し、「嵐の5日間」が終わる~次の公演先のフィリピンで、ビートルズは酷い目に遭い、日本の素晴らしさを再認識!?>

 

 

1966(昭和41)年7月3日、ビートルズの面々は無事に全ての日程を終了し、日本を去って行った。

こうして、日本中を揺るがせた「嵐の5日間」は終わりを告げたが、

この後、日本の音楽界は「ビートルズ台風」の余波が、更に吹き荒れて行く事となる。

 

 

「大役」を無事に終えた、警視庁の警備責任者は、ホッと胸を撫で下ろしたが、

ビートルズのメンバー達が、ライブ中に、ちょっと物足りなさそうな、寂しそうな表情をしていたのを見て、

「警備を、ちょっと厳しくやりすぎたかな…」

という思いが有ったという。

だが、ビートルズが日本の次に行ったフィリピンでは、警備態勢が甘く、彼らは酷い目に遭った。

「フィリピンは、本当に酷かった。それに比べると、日本は本当に素敵だったよ!!」

彼らは、日本に居る間は「まるで、軍隊か刑務所に居るみたいだ」と、不満タラタラだったというが、

フィリピンで危険な目に遭った事で、日本の素晴らしさを再認識していた。

「それを聞いて、警備をしっかりやっておいて良かったなと思いましたね」

かの警備責任者は、そう言って笑顔を浮かべていたのであった。

こうして、「ビートルズ来日騒動」は、幕を閉じた。

 

(つづく)