今回の記事は、このブログの「通算700投稿目」である。
そこで、今回は「通算700投稿記念」として、「通算700本塁打」の達成者、
ベーブ・ルース、ハンク・アーロン、王貞治、バリー・ボンズの4人について、ご紹介させて頂く事としたい。
ベーブ・ルース(通算714本塁打)、ハンク・アーロン(通算755本塁打)、バリー・ボンズ(通算762本塁打)の3人は、アメリカのメジャーリーグ(大リーグ)で、
王貞治(通算868本塁打)は日本のプロ野球で、それぞれ「通算700本塁打」以上を達成しているが、
野球史上、生涯で「通算700本塁打」を達成した選手は、この4人しか居ない。
つまり、彼らこそ、野球史上に残る「ホームラン・バッター」である。
また、このブログでもしばしばご紹介しているが、
王貞治は1977(昭和52)年、ハンク・アーロンの持つ「通算755本塁打」の「世界記録」を更新し、日本中を熱狂させた。
そして、王とアーロンは、後に無二の親友となった。
というわけで、「通算700投稿記念」の、偉大なる「通算700本塁打クラブ」の物語を、ご覧頂こう。
<アメリカ・メジャーリーグ(大リーグ)の通算本塁打ランキング~バリー・ボンズ(通算762本塁打)、ハンク・アーロン(通算755本塁打)、ベーブ・ルースの3人が「通算700本塁打」超え>
では、まずはアメリカ大リーグ(メジャーリーグ)の「通算本塁打ランキング」をご紹介させて頂く。
昨年(2020年)終了時点での、「通算500本塁打」以上の達成者のランキングは、下記の通りである。
【アメリカ大リーグ(メジャーリーグ)通算本塁打ランキング(通算500本塁打以上)】
①バリー・ボンズ 762
②ハンク・アーロン 755
③ベーブ・ルース 714
④アレックス・ロドリゲス 696
⑤アルバート・プホルス 662
⑥ウィリー・メイズ 660
⑦ケン・グリフィー Jr. 630
⑧ジム・トーミ 612
⑨サミー・ソーサ 609
⑩フランク・ロビンソン 586
⑪マーク・マグワイア 583
⑫ハーモン・キルブルー 573
⑬ラファエル・パルメイロ 569
⑭レジー・ジャクソン 563
⑮マニー・ラミレス 555
⑯マイク・シュミット 548
⑰デビッド・オルティス 541
⑱ミッキー・マントル 536
⑲ジミー・フォックス 534
⑳ウィリー・マッコビー 521
⑳テッド・ウィリアムス 521
⑳フランク・トーマス 521
㉓エディー・マシューズ 512
㉓アーニー・バンクス 512
㉕メル・オット 511
㉖ゲイリー・シェフィールド 509
㉗エディー・マレー 504
ご覧の通り、メジャーリーグにおける「通算500本塁打」以上は27人、
「通算600本塁打以上」は9人、
「通算700本塁打以上」は3人であるが、「通算700本塁打」は、まさに「神の領域」であると言って良い。
つまり、ベーブ・ルース、ハンク・アーロン、バリー・ボンズは「野球の神様」と言っても過言ではあるまい。
<日本プロ野球の「通算本塁打ランキング」~王貞治が「通算868本塁打」で、ダントツのトップ>
では続いて、昨年(2020年)終了時の、日本プロ野球の「通算本塁打ランキング」をご覧頂く。
日本プロ野球の「通算本塁打ランキング」のベスト10は、下記の通りである。
【日本プロ野球 通算本塁打ランキング】
①王貞治 868
②野村克也 657
③門田博光 567
④山本浩二 536
⑤清原和博 525
⑥落合博満 510
⑦張本勲 504
⑦衣笠祥雄 504
⑨大杉勝男 486
⑩金本知憲 476
日本プロ野球では、王貞治の「通算868本塁打」が、2位・野村克也の「通算657本塁打」を200本以上も引き離し、
王貞治がダントツのトップである。
つまり、王貞治こそが、日本プロ野球史上最強打者と言って良い。
王は、日本プロ野球でただ1人、「通算700本塁打クラブ」の仲間入りを果たした、物凄い選手である。
<「野球王」ベーブ・ルースの生涯①~札付きの「悪ガキ」が、感化院(セント・メアリー工業学校)でのマシアス先生との出逢いで、野球の才能が開花~1914年…ボルチモア・オリオールズに入団し、プロ入りを果たす!!~オリオールズでは「ベーブ」という愛称を付けられる>
では、まずはベーブ・ルースについて書かせて頂く。
ベーブ・ルース(Babe Ruth)は、実は本名ではない。
彼の本名はジョージ・ハーマン・ルース(George Herman Ruth)なのだが、終生、彼は子供っぽい所が有り、
皆から「ベーブ」という愛称を付けられ、それが彼の通り名になった。
以下、「ベーブ・ルース」として、話を進める。
なお、私は子供の頃、ベーブ・ルースの伝記漫画を読み、ベーブ・ルース、そしてアメリカ大リーグに興味を持ったが、
その伝記漫画などに基づき、ルースの生涯をご紹介させて頂きたい。
ベーブ・ルースは1895(明治28)年2月6日、アメリカのメリーランド州ボルチモアに生まれた。
ルースは、酒場を経営する、イタリア系移民の両親の間に生まれたが、両親は仕事が忙しく、ルースにはあまり構ってやれなかったという。
そのせいかどうか、彼は小さい頃から、札付きの「悪ガキ」であり、近所の鼻つまみ者であった。
両親も、ルースには、ほとほと手を焼いていたという。
そこで、1902年、ルースが7歳になった頃、両親はルースを「セント・メアリー工業学校」という感化院に入れる事にした。
「セント・メアリー工業学校」は、キリスト教のカトリックの団体が運営する学校であり、生徒達に職業訓練なども行なっていた。
ルースは、この学校で結局12年間を過ごす事になるが、ここでルースの生涯を変える事になる、劇的な出逢いが有った。
それが、「セント・メアリー工業学校」で教師を務めていたマシアス神父(brother matthias boutlier)である。
この「マシアス先生」は、どうしようもない不良だったルースに対し、心から向き合い、彼を「更生」させたのだが、
何と言っても、マシアス先生はスポーツ万能で、特に野球が大の得意であった。
当時、この学校では野球が盛んで、野球のクラブも有ったが、マシアス先生は野球クラブの顧問を務めていた。
マシアス先生は、片手にバット、片手にグラブを持ち、強烈な打球をガンガン打ち、生徒達にノックをしていたが、
ルースは、そのマシアス先生の姿を見て、衝撃を受けた。
「僕が、立派な野球選手になりたいと思ったのは、その時だった」
と、後にルースは語っているが、ルースはマシアス先生に、自分にも野球を教えて欲しいと頼み、野球クラブに入った。
そして、マシアス先生はルースを懇切丁寧に指導し、ルースはマシアス先生から、野球のイロハを学んで行った。
すると、ルースの野球の才能は開花し、ルースはセント・メアリーの野球クラブの「エースで4番」を張るようになった。
元々、ルースは身体が大きく、エネルギーが有り余っていたが、そのルースの野球の才能を開花させたのは、マシアス先生であった。
ルースは野球に熱中し、その名は野球界で知れ渡るようになって行った。
1914年、ルースは19歳になっていたが、彼は将来は洋服の仕立て屋になり、生計を立てようとしていた。
当時、ルースは自分が野球で身を立てられるとは、全く思っていなかった。
だが、そんなルースの元に、ルースの野球の腕前を聞きつけた、プロ野球の球団からスカウトがやって来た。
その球団とは、マイナー・リーグの球団「ボルチモア・オリオールズ」である。
1914年2月14日、ルースはオリオールズと契約し、遂にプロ入りを果たした。
こうして、遂にルースのプロ野球人生は始まった。
なお、ルースは天真爛漫で子供っぽい性格であり、オリオールズのチーム・メイトから「ベーブ」という愛称を付けられた。
というわけで、札付きのワルだったルースが、プロ野球選手になれたのは、間違い無く、マシアス先生のお陰であった。
ルースは、生涯、恩師・マシアス先生を尊敬し、慕っていたという。
この例を見ると、人の一生において、人との出逢いが非常に大きいという事が、よくわかる。
ベーブ・ルースとマシアス先生との出逢いは、ヘレン・ケラーとサリバン先生の出逢いにも匹敵するような、歴史的な出逢いだったと言って良い。
<「野球王」ベーブ・ルースの生涯②~1914(大正3)年7月9日…ルース、アメリカ大リーグ「ボストン・レッドソックス」へ移籍~「ベーブ・ルース」「バンビーノ」という愛称が定着し、「投打二刀流」で大活躍!!>
1914(大正3)年、入団したボルチモア・オリオールズで大活躍していたベーブ・ルースは、
同年(1914年)7月9日、遂にアメリカ大リーグの球団「ボストン・レッドソックス」に移籍した。
ルースは当時19歳にして、メジャー・リーグの選手となったのである。
ルースは、オリオールズ時代に、既に「ベーブ」という愛称を付けられていたが、
「ベーブ・ルース」という愛称は、レッドソックス時代に、すっかり定着した。
また、レッドソックスでは、「大きな赤ん坊」を意味する「バンビーノ」というあだ名でも呼ばれた。
さて、そんなベーブ・ルースであるが、レッドソックス在籍時は、投手もやれば打者も試合に出場するという「投打二刀流」で大活躍した。
遥か後年に、大谷翔平が「投打二刀流」で注目されたが、ベーブ・ルースこそが、「投打二刀流」の大先達である。
結局、ベーブ・ルースは1914(大正3)年~1919(大正8)年にレッドソックスに在籍し、
この間、投手として「通算94勝46敗4セーブ」という成績を残し、
ルース在籍時に、レッドソックスは3度(1915、1916、1918年)もワールドシリーズを制し、「世界一」の座に就いた。
そして、ベーブ・ルースは1918(大正7)年には11本塁打、1919(大正8)年には29本塁打と、それまでのメジャーリーグのシーズン最多本塁打記録を大幅に更新する大活躍を見せた(※それまでは、シーズン2桁本塁打を達成すれば強打者とされる時代だった)。
<「野球王」ベーブ・ルースの生涯③~1920(大正9)年、ニューヨーク・ヤンキースに移籍し、「シーズン60本塁打」などの大記録を達成!!~「大統領より稼ぐ男」としてスーパー・スターに>
1920(大正9)年、ベーブ・ルースはボストン・レッドソックスからニューヨーク・ヤンキースに移籍した。
当時、レッドソックスのオーナーが、ブロードウェイのミュージカルの興行のためのお金欲しさに、ルースをヤンキースに売り払ったと言われているが、それ以来、ヤンキースは黄金時代を築き、レッドソックスは長らく「世界一」から遠ざかった。
レッドソックスは1918(大正7)年を最後に「世界一」から遠ざかり、レッドソックスが次に「世界一」になったのは、それから86年も経った2004(平成16)年である。
つまり、ベーブ・ルースの移籍が、レッドソックスとヤンキースの運命を変えた事になるが、これを称して、レッドソックスの「バンビーノの呪い」と言われている。
それはともかく、ベーブ・ルースはヤンキースに移籍し、更なる大活躍を見せた。
ベーブ・ルースは、移籍初年度の1920(大正9)年、いきなり「シーズン54本塁打」を放つと、
翌1921(大正10)年には「シーズン59本塁打」を放ち、人々の度肝を抜いた。
ファンは、ルースが放つ大ホームランの数々に熱狂し、スタジアムにはルース見たさに観客が押し寄せるようになった。
そして、1927(昭和2)年、ベーブ・ルースは自らの記録を更新する「シーズン60本塁打」の大記録を作った。
結局、ベーブ・ルースは1920(大正9)~1934(大正9)年までヤンキースに在籍し、
その間、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリッグの強打のコンビをはじめ、ヤンキースは超強力メンバーを揃え、
ルース在籍時だけで、ヤンキースはリーグ優勝7回(1921~1923、1926~1928、1932)、世界一4回(1923、1927~1928、1932)を達成している。
ヤンキース時代、ベーブ・ルースは「大統領よりも稼ぐ男」と称され、まさに全米一のスーパー・スターになっていた。
<「野球王」ベーブ・ルースの生涯④~1934(昭和9)年に来日し、日本プロ野球誕生のキッカケを作る~「通算714本塁打」の大記録を残し、現役引退~1948(昭和23)年8月16日、享年53歳で死去>
ベーブ・ルースの名前は、「野球王ベーブ・ルース」として、日本でも有名だった。
そこで、1934(昭和9)年、読売新聞社社長・正力松太郎は、ルースの人気に目を付け、
ベーブ・ルースを筆頭とする、アメリカ大リーグ選抜チームを日本に招聘し、日米野球を開催する事とした。
正力松太郎は、アメリカ大リーグ通として知られる鈴木惣太郎をアメリカに派遣し、ベーブ・ルースの来日を実現させた。
ベーブ・ルースの来日は、日本国民の大歓迎を受け、日本中がルースに熱狂したが、
ルースは、日本のファンの期待に応え、この1934(昭和9)年の日米野球では、全18試合で13本塁打を放ち、ファンを喜ばせた。
そして、ベーブ・ルース来日の熱気も冷めやらぬ中、この時の全日本チームが母体となり、大日本東京野球倶楽部、後の東京巨人軍が結成され、日本にもプロ野球が生まれたというエピソードは、このブログでも何度もご紹介している。
つまり、ベーブ・ルースは「日本プロ野球の生みの親」でもあったわけである。
しかし、1934(昭和9)年の来日当時、ベーブ・ルースは既に全盛期を過ぎており、同年(1934年)限りでヤンキースを退団した。
そして、翌1935(昭和10)年、ベーブ・ルースはボストン・ブレーブスに移籍したが、同年(1935年)は僅か6本塁打に終わった。
そして、この年(1935年)限りで、遂にベーブ・ルースは現役引退した。
ベーブ・ルースは通算22年で、 2503試合 8398打数2871安打 打率.342 714本塁打 2217打点という成績を残し、グラウンドを去った。
「通算714本塁打」という金字塔を打ち立てたベーブ・ルースだったが、長年の不摂生が祟ったのか、現役引退後は身体を壊し、
1948(昭和23)年8月16日、享年53歳で波瀾の生涯を閉じた(※死因は癌だったという)。
まさに「野球王」の名に相応しい生涯であった。
<ベーブ・ルースの「通算714本塁打」を破り、「通算755本塁打」を放った、ハンク・アーロン~「黒人差別」を乗り越えた、偉大なスラッガー>
では続いて、ハンク・アーロンのお話である。
ハンク・アーロン(Hank Aaron)は、ベーブ・ルースが来日した年、1934(昭和9)年2月5日、アメリカのアラバマ州モービルに生まれた。
アーロンは、幼い頃から野球が得意な少年だったが、当時のアメリカは、とにかく黒人差別が酷い時代だった。
アメリカ大リーグも、当時は白人しか入団する事が出来ず、黒人は独自のリーグ(※当時の名称は「ニグロ・リーグ」)を組織していたが、
アーロンは、その黒人リーグのインディアナポリス・クラウンズで活躍していた。
アーロンの強打は当時からよく知られていたが、この頃、アーロンは何とバットのグリップを、通常の右打者とは逆の持ち手(左手が上)で打っていた。
「こんなクロス・ハンズで、これだけ打つのだから、普通の持ち方だったら、どれだけ打つのか」
アメリカ大リーグの関係者は、アーロンの素質にビックリしていた。
なお、1947(昭和22)年にジャッキー・ロビンソンがブルックリン・ドジャースに入団したのを機に、黒人にもアメリカ大リーグ入団の道は開かれるようになっていた。
1954(昭和29)年、当時20歳のハンク・アーロンは、ミルウォーキー・ブレーブスに入団した。
ブレーブスといえば、ベーブ・ルースが最後に在籍した球団であるが、この頃には、本拠地をボストンからミルウォーキーに移転していた。
以来、アーロンはブレーブスの主軸として大活躍し、毎年、多数のホームランを量産した。
アーロンは、意外にも「シーズン50本塁打」以上は一度も達成していないが、毎年、40本塁打前後をコンスタントに打ち続ける強打者であった(※ちなみに、1966(昭和41)年以降、ブレーブスは本拠地をアトランタに移転し「アトランタ・ブレーブス」に改称)。
1973(昭和48)年のシーズン終了時点、ハンク・アーロンの本塁打数は、「通算713本塁打」となった。
遂に、ハンク・アーロンはベーブ・ルースの「通算714本塁打」まで、「あと1本」に迫っていた。
だが、この年(1973年)のシーズンオフ、アーロンの元には多数の脅迫状が舞い込み、
「黒人のお前が、神様ベーブ・ルースの記録に並ぶ事は許さない」
といった、酷い内容の物も沢山有った。
これで、アーロンは精神的にまいってしまい、一時は引退も考えたというが、周囲の励ましもあり、何とか翌1974(昭和49)年のシーズンを迎えた。
そして迎えた1974(昭和49)年のシーズンで、4月4日、シンシナティ・レッズとの開幕戦で、
ハンク・アーロンはジャック・ビリンガム投手からホームランを放ち、「通算714本塁打」で、遂にベーブ・ルースと肩を並べた。
その4日後、1974(昭和49)年4月8日、ハンク・アーロンはロサンゼルス・ドジャースのアル・ダウニング投手から、歴史的な「通算715号ホームラン」を放ち、「通算715本塁打」で、とうとうベーブ・ルースの記録を更新した。
この時、興奮した2人の白人ファンがグラウンドに飛び降り、アーロンを祝福するという一幕も有った。
当時、心ない事をいう白人も沢山居たが、アーロンを認め、彼を大好きな白人ファンも沢山居たのである。
アーロンはゆっくりとベース一周し、ホームインしたが、そのアーロンを待ち構えていた、彼の母親が、アーロンを力いっぱい抱き締めた。
「ママが、あんなに力が強いとは知らなかったよ」
よ、後にアーロンは語っているが、アーロンの母親も、黒人差別と闘い、偉業を成し遂げた息子の姿に、胸がいっぱいだった事であろう。
そして、1976(昭和51)年、ハンク・アーロンは「通算755本塁打」という大記録を残し、現役引退した。
(ハンク・アーロンの通算成績:3298試合 12364打数3771安打 打率.305 755本塁打 2297打点)
<王貞治とハンク・アーロンの友情~日米の「本塁打王」の交流、そしてハンク・アーロンの死去(2021/1/22)>
さて、王貞治の話である。
ベーブ・ルースがマシアス先生と出逢い、その才能を開花させたように、
王貞治も荒川博コーチと出逢い、ホームラン・バッターとしての才能を開花させ、大打者としての道を歩んで行ったというのは、
このブログで、既に何度も書いている。
やはり、人生で最も大事なのは、人と人との出逢いであろう。
1974(昭和49)年シーズンオフ、ハンク・アーロンが来日し、
王貞治とハンク・アーロンはホームラン競争を行なった。
この時、王とアーロンは意気投合し、それ以来、王とアーロンは無二の親友同士となった。
王貞治は、1977(昭和52)年、ハンク・アーロンの記録を破る「通算756号ホームラン」を打ち、日本中を熱狂させたが、
王は、「通算868本塁打」まで記録を伸ばし、1980(昭和55)年に現役引退した。
その後も、王とアーロンの交流は続き、2人で缶コーヒーのCMで共演したり、「世界少年野球大会」を共催したりと、
公私共に、2人は良い関係を築いた。
日米の「ホームラン王」の交流は、ファンとしても、見ていて嬉しかったものである。
そんなハンク・アーロンも、今年(2021年)1月22日、享年87歳で亡くなった。
長年の盟友・王貞治も、アーロンの死を悼んだが、ハンク・アーロンこそ、
黒人差別と闘い、その壁を突き破った、まさに「真のヒーロー」だった。
私も、謹んで哀悼の意を表したい。
<「シーズン73本塁打」「通算762本塁打」を達成した稀代の大打者、バリー・ボンズ~しかし、ステロイド疑惑に塗れた「汚れた英雄」に…>
さてさて、「通算700本塁打クラブ」のお話の掉尾を飾るのは、バリー・ボンズである。
バリー・ボンズ(Barry Bonds)は、アメリカのカリフォルニア州リバーサイドで、
アメリカ大リーグの名選手として活躍していた、ボビー・ボンズ(Bobby Bonds)の長男として生まれた。
バリー・ボンズは1986(昭和61)年にピッツバーグ・パイレーツに入団し、走・攻・守の三拍子揃った名選手として大活躍していた。
その後、バリー・ボンズは1993(平成5)年、サンフランシスコ・ジャイアンツに移籍し、
そこでも、打って走って守れる、超一流選手として活躍した。
だが、当時のボンズには不満が有った。
1998(平成10)年、マーク・マグワイアが「シーズン70本塁打」、サミー・ソーサが「シーズン66本塁打」と、
とんでもない本数でのホームラン王争いを繰り広げ、全米中を熱狂させていたが、
ボンズは、いくら自分が活躍しても、注目されるのはマグワイアとソーサのホームランばかりであるという事に、不満を募らせていた。
「それなら、俺も沢山ホームランを打てる事を、見せてやる」
こうして、ボンズは「禁断の薬」に手を出す事になってしまった。
ボンズは、元々、スマートな体型の選手だったが、
ホームランを沢山打てるようになるため、彼は筋肉増強剤であるステロイドに手を出した。
こうして、身体を巨大化させたボンズは、元々の打撃力を更に強化させ、
2001(平成13)年、遂に「シーズン73本塁打」という、まさに化け物じみた大記録を達成してしまった。
バリー・ボンズも、一躍「全米の英雄」になり、2007(平成19)年には、遂にバリー・ボンズは「通算756号ホームラン」を放ち、ハンク・アーロンの記録を更新した。
だが、この頃には、ボンズのステロイド疑惑が取り沙汰され、「シーズン73本塁打」を達成した時のような熱狂は、もはや無かった。
そして、疑惑まみれの「汚れた英雄」となったバリー・ボンズは、同年(2007年)、シーズン28本塁打を放ちながらも、「通算762本塁打」の記録を残し、引退に追い込まれた。
ボンズの実績は文句無しだが、果たして、ステロイドの力を借りて作った記録を、どのように評価するのか、未だに論争を呼んでいる。
(バリー・ボンズの通算成績:2986試合 9847打数2935安打 打率.298 762本塁打 1996打点)
というわけで、「通算700投稿記念」の「通算700本塁打クラブ」のお話を、駆け足で紹介したが、
彼らの生涯と、当時のメジャーリーグの物語は、また別の機会に書かせて頂く事としたい。
そして、私も今度は「通算800投稿」を目指し(?)書き続けて行きたいと思っている。