1950(昭和25)年は、プロ野球が「セ・リーグ」「パ・リーグ」に分裂した最初のシーズンであり、
既に述べた通り、「第1回日本ワールドシリーズ」が開催され、パ・リーグ優勝チームの毎日オリオンズが、セ・リーグ優勝チームの松竹ロビンスを4勝2敗で破り、毎日オリオンズが「初代日本一」の座に就いた。
そして、この年(1950年)は、伊藤久男の『イヨマンテの夜』や、美空ひばりの『東京キッド』などが、一世を風靡した。
「紅白歌合戦と日本シリーズ」の第1回の記事で、既に、1950(昭和25)年の「第1回日本ワールドシリーズ」と、
1951(昭和26)年1月3日に開催された「第1回NHK紅白歌合戦」については述べたが、
今回は、そこでは描き切れなかった、1951(昭和26)年の野球界や音楽界の出来事や世相について、描いてみる事としたい。
それでは、まずは創設間もない「広島カープ」が球団存続の危機に陥った話から、ご覧頂こう。
<1951(昭和26)年春①…創設間もない「広島カープ」が、解散危機!!~「広島カープ」と「大洋ホエールズ」の合併話が出るが…?>
1950(昭和25)年、原爆投下の悲劇から5年、広島市民の復興の象徴として誕生した「広島カープ」は、
初代監督・石本秀一が、様々な伝手を辿って、必死に選手をかき集め、何とか船出したが、
戦力不足は如何ともし難く、この年(1950年)、広島カープは41勝96敗1分 勝率.299で最下位に終わってしまった。
そして、市民球団としてスタートしたカープは、選手の給料遅配も起こり、早くも資金難に陥ってしまった。
翌1951(昭和26)年春、球団創設2年目を迎えた「広島カープ」であるが、
カープは資金繰りの目途が立たず、遂には球団存亡の危機に陥った。
そして、地元の新聞で「広島カープ解散」と、「広島カープと大洋ホエールズの合併」が報じられるに至った。
このニュースを知った広島市民は皆、大きなショックを受けた。
せっかく誕生した、広島の希望の星が、早くも消え去ろうとしている事を知り、広島の人々に動揺が走った。
そして、カープの選手達が泊まっている宿舎に、「カープ解散」の報道を知った人達が、続々と集まって来た。
<1951(昭和26)年春②…広島市民がカープ存続の為に立ち上がり、「樽募金」でカープ救済資金を集める!!~カープも「後援会」を組織し、資金集めに努め、「広島カープ」は球団存亡の危機を乗り越える>
そして、愛する地元チームを助けるため、広島の人々は、立ち上がった。
「広島カープ」存続のため、広島市民は「樽募金」を始め、カープの「救援金」を集めたのである。
「カープにお金が無いなら、我々がカープを助けよう!!」
広島市民の熱意により、カープを助けるため、沢山の人達が、カープのために「樽募金」で寄付を行なった。
カープ側も、「後援会」を組織して、株券を発行し、人々に株券を買ってもらい、カープ存続のための資金をかき集めた。
こうして、カープは球団存続に必要なためのお金を、どうにか、かき集め、大洋ホエールズとの合併を阻止し、広島カープは、無事に1951(昭和26)年のシーズンを迎える事が出来た。
これが、あまりにも有名な、伝説の「カープの樽募金」であるが、球団存続のため、ファンが募金まで行なったというのは、勿論、カープだけであり、それだけ、カープは広島の人達に熱烈に愛される球団であった。
こうして、広島カープは球団存亡の危機を乗り越え、今日(2021年現在)に至るまで、その命脈を保ち続けている。
という事で、カープ草創期のファンこそ、まさにプロ野球ファンの鑑だったと言って良い。
<1951(昭和26)年…「西鉄クリッパーズ」と「西日本パイレーツ」が合併し、「西鉄ライオンズ」誕生!!~三原脩は巨人を退団し、「西日本パイレーツ」⇒「西鉄ライオンズ」の監督に就任~青田昇、南村不可止の西鉄移籍が「ご破算」に…>
1951(昭和26)年、「西鉄クリッパーズ」と「西日本パイレーツ」が合併し、
新たに「西鉄ライオンズ」(現・埼玉西武ライオンズ)が誕生した。
前年(1950年)、読売に干され、1年間、閑職に回されていた三原脩は、同年(1950年)限りで巨人を退団し、
この年(1951年)から、三原は「西日本パイレーツ」の監督に就任したが、「西鉄」「西日本」の合併により誕生した「西鉄ライオンズ」の監督に、そのままスライドして就任した。
巨人を追い出され、東京から遠く離れた、九州・福岡の地に新天地を求めた三原が、「打倒・巨人」「打倒・水原茂」の怨念を滾らせ、
「水原君、いつか必ず、君に復讐する」
と、凄まじい復讐の炎を燃やしていたという事は、既に述べた通りである。
ところで、「西鉄」「西日本」の合併により、新生「西鉄ライオンズ」と巨人との間で、何人かの選手の異動の話が有った。
元々、「西日本」に在籍していた南村不可止は、そのまま「西鉄ライオンズ」入りし、
「西日本」の平井三郎は巨人に移籍、そして、巨人の青田昇は、三原監督と共に「西鉄ライオンズ」に移籍、という話が、ほぼ、まとまりかけていた。
だが、看板選手の青田昇を移籍させたくない、巨人側の猛烈な巻き返しが有り、
結局、青田昇は巨人に引き戻され、巨人に残留してしまった。
そして、南村不可止も巨人に移籍し、平井三郎も、巨人にそのまま移籍してしまった。
何の事は無い、結局、「西鉄」は青田昇、南村不可止、平井三郎を、全部、巨人に獲られてしまった。
三原脩は、またしても巨人に煮え湯を飲まされてしまったが、この事により、ますます、三原脩の「打倒・巨人」への怨念は増したのであった。
<1951(昭和26)年4月…GHQ・マッカーサー元帥の「解任」と、「朝鮮戦争」の停戦交渉の開始>
前回の記事でも述べたが、1950(昭和25)年6月25日に勃発した「朝鮮戦争」は、
当初、北朝鮮軍が猛烈な勢いで進撃し、韓国軍を朝鮮半島の南端、釜山にまで追い詰めた。
しかし、アメリカを中心とした「国連軍」が反撃し、逆に北朝鮮軍を朝鮮半島の北端、中朝国境まで追い込んだが、
今度は、中国の「人民義勇軍」の参戦により、北朝鮮軍が再度、反撃し、1951(昭和26)年春には、北朝鮮と韓国は、開戦当初の軍事境界線である、「北緯38度線」付近で、睨み合いとなった。
膠着状態に陥った、「朝鮮戦争」の戦況を打開するため、
「国連軍」を指揮していた、アメリカのマッカーサー元帥は、アメリカのトルーマン大統領に、「原爆使用」の許可まで求めたという。
しかし、トルーマン大統領は、「原爆使用など、とんでもない」と、この提案を一蹴し、1951(昭和26)年4月11日、マッカーサーを解任してしまった。
こうして、GHQの最高司令官として日本に君臨した、マッカーサーの時代は突如、終わりを告げ、同年(1951年)4月16日、マッカーサーは日本から去って行った。
マッカーサーが日本から離れる時、沿道には多くの群衆が集まり、マッカーサーを見送ったが、占領軍の司令官に対し、これだけ感謝の意を示す国民というのも、日本人ぐらいではないだろうか。
それだけ、日本人は義理堅いという事であろう。
アメリカに帰国後、マッカーサーは連邦議会で演説を行ない、
「老兵は死なず、ただ去り行くのみ」という「名言」を吐いた。
という事で、戦後日本に大きな影響を与えたマッカーサーは、静かに歴史の表舞台から去って行ったのである。
マッカーサーが去り、「朝鮮戦争」も膠着状態に陥った事もあり、
1951(昭和26)年春頃から、「朝鮮戦争」は停戦交渉に入ったが、
既に、朝鮮戦争は焦土と化し、酷い状態になっていた。
一刻も早い停戦実現が待たれたが、この時は、停戦交渉は、なかなか進まず、相変わらず睨み合いが続いた。
<1950(昭和25)~1951(昭和26)年…日本の「独立」を巡る、吉田茂とダレスの、ギリギリの攻防~アメリカからの「再軍備」の要求を、吉田首相は敢然と拒否するが…>
さて、マッカーサーの時代は幕を閉じたが、1950(昭和25)~1951(昭和26)年にかけて、
日本の吉田茂首相と、アメリカのダレス国務長官の間で、日本の「独立」を巡り、ギリギリの攻防が繰り広げられていた。
当時、「東西冷戦」が激化しており、日本も「再軍備」をするよう、ダレスは吉田首相に強く迫ったが、
吉田首相は、「冗談じゃない。日本にはそんな金は無い。金がかかる軍隊は、全てアメリカ持ちにしてくれ」と、その要求を敢然と拒否した。
その吉田首相の態度に、ダレスは苛立ち、「そんな、わからない事を言うなら、こっちも考えが有る」と、半ば脅迫気味に吉田首相に迫った。
吉田首相も抵抗したが、已む無く、「警察予備隊」の組織と、日本が「独立」を果たした後も、アメリカ軍が引き続き、日本に駐留する事を認めた。
<1951(昭和26)年9月4日…「サンフランシスコ講和(平和)条約」に調印し、日本が「独立」を回復~「日米安保条約」も「抱き合わせ」で締結し、米軍の日本駐留は継続>
1951(昭和26)年9月4日、日本全権・吉田茂は、「サンフランシスコ講和(平和)条約」に調印し、
ここに、日本は「独立」を回復し、GHQによる占領は、漸く終わりを告げた。
この時、日本は48ヶ国と「サンフランシスコ講和(平和)条約」に調印したが、
連合国55ヶ国の内の8ヶ国とは条約は調印されず、課題を残した。
また、「サンフランシスコ講和(平和)条約」と同時に、
吉田首相は、抱き合わせで「日米安保条約」にも調印し、引き続き、アメリカ軍が日本に駐留する事を認めた。
この時、日本は事実上、日本の「国防」をアメリカに委ねる決断をしたのであるが、この「日米安保条約」には、アメリカ軍には日本の防衛義務は明記されておらず、これまた、課題を残す内容であった。
<1951(昭和26)年7月4日~8日…プロ野球「第1回オールスターゲーム」開催!!~セ・パ両リーグの「雪解け」の象徴>
1950(昭和25)年の、プロ野球2リーグ「分裂」元年は、両リーグ間の対立感情が激しく、わだかまりが残っていたが、
翌1951(昭和26)年は、GHQの仲介により、「第1回プロ野球オールスターゲーム」が開催される事となった。
その「第1回プロ野球オールスターゲーム」のメンバーは、上の画像の通りであるが、
これが、当時のプロ野球を代表する、まさに豪華な「オールスター」のメンバーであった。
1951(昭和26)年7月4日、甲子園球場で、記念すべき「第1回プロ野球オールスターゲーム」の第1戦が行われたが、
試合に先立ち、セ・パ両リーグの仲介を行なった、GHQのマーカット少将からの挨拶が行われた。
この日、甲子園球場には超満員の大観衆が詰めかけ、両リーグのスター選手達の一投一打に、大声援を送った。
1951(昭和26)年7月4日、記念すべき「第1回プロ野球オールスターゲーム」の第1戦は、
1点を争う好ゲームとなったが、セ・リーグが2-1でパ・リーグを破った。
なお、この試合、甲子園球場は48,671人という超満員の大観衆で埋め尽くされたが、
この数字は、未だに破られていない、オールスターゲーム史上最多の観客動員記録である。
1951(昭和26)年7月7日、後楽園球場で開催された、オールスター第2戦は、4-2でセ・リーグ、
翌7月8日、同じく後楽園球場で開催された、オールスター第3戦は、パ・リーグが意地を見せ、パ・リーグが接戦を制し、パ・リーグが4-3でセ・リーグを破った。
こうして、記念すべき「第1回プロ野球オールスターゲーム」は、セ・リーグの2勝1敗で終わったが、以後、オールスターゲームは「真夏の祭典」として、今日まで開催されている。
(※しかし、昨年(2020年)は、コロナ禍により、オールスターゲームは史上初めて中止となった。誠に残念であった)
<1951(昭和26)年の古関裕而①~NHKラジオドラマ『さくらんぼ大将』(脚本:菊田一夫)の主題歌『さくらんぼ大将』が大ヒット!!~六郎太少年の物語『さくらんぼ大将』に、子供達が熱狂>
1951(昭和26)年、古関裕而・菊田一夫の「ゴールデン・コンビ」は、またしても、新たな名作を世に送り出した。
それが、菊田一夫が脚本を書いた、NHKラジオドラマ『さくらんぼ大将』である。
『さくらんぼ大将』は、福島の茂庭村で生まれ育った、六郎太少年が、父母を失いながらも、個性豊かな登場人物達と共に、明るく元気に過ごして行くという物語であり、その物語に、ラジオを聴いていた子供達は夢中になった。
その『さくらんぼ大将』の主題歌だったのが、
あの『とんがり帽子』も歌っていた川田孝子が、またしても明るく元気に歌った、ラジオドラマと同名タイトルの『さくらんぼ大将』(作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而)である。
『さくらんぼ大将』は、古川禄波(ロッパ)、土屋忠一が歌った劇中歌『さくらんぼ道中』(作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而)と共に、大ヒットを記録した。
『さくらんぼ大将』の歌が流れると、日本全国の子供達は、ラジオの前に集まり、夢中になって聴いていた。
1951(昭和26)年6月、菊田一夫、古関裕而、古川禄波(ロッパ)ら、
『さくらんぼ大将』のスタッフやキャスト一同は、物語の舞台となった、福島・飯坂温泉を訪れているが、
現在、福島市飯坂町の最上川ダムには、『さくらんぼ大将』の六郎太少年のモニュメントが建てられている。
それだけ、現地の人達にとっては、『さくらんぼ大将』は忘れ難き、記念碑的な作品だったという事であろう。
なお、『さくらんぼ大将』は、大人気の内に、1952(昭和27)年3月に最終回を迎えた。
<1951(昭和26)年の古関裕而②~『あこがれの郵便馬車』、『ニコライの鐘』などを作曲>
1951(昭和26)年、古関裕而は、『あこがれの郵便馬車』、『ニコライの鐘』を作曲したが、
『あこがれの郵便馬車』は、丘灯至夫が作詞、岡本敦郎が歌い、この後に続く、古関裕而の「乗り物シリーズ」の先駆けとなった。
『ニコライの鐘』は、『フランチェスカの鐘』、『長崎の鐘』に続く、古関裕而の「鐘」シリーズの一つであり、『長崎の鐘』に続き、藤山一郎が歌った。
なお、古関裕而の「鐘」シリーズには、戦争で亡くなった人に対する、鎮魂の意味が常に込められていたという。
<1951(昭和26)年の美空ひばり①…映画『とんぼ返り道中』に主演し、主題化『越後獅子の唄』が大ヒット!!~「股旅物」も難なく歌いこなす、美空ひばり>
1951(昭和26)年も、相変わらず、天才少女歌手・美空ひばりの快進撃は続いた。
1951(昭和26)年の正月映画『とんぼ返り道中』に出演した美空ひばりは、主題歌『越後獅子の唄』(作詞:西條八十、作曲:万城目正)を歌い、この曲を大ヒットさせた。
美空ひばりは、どんなジャンルの歌でも歌いこなしてしまう天才だったが、遂には時代劇の股旅物も、難なく歌いこなしてみせたのである。
<1951(昭和26)年の美空ひばり②…映画『父恋し』に主演し、主題歌『私は街の子』が大ヒット!!~切なくも、きめ細かい感情を、圧倒的な表現力で歌いこなす、美空ひばり>
この年(1951年)、美空ひばりは多数の映画に出演したが、
1951(昭和26)年3月に公開された映画『父恋し』に出演した美空ひばりは、
この映画で、またしても名曲を世に送った。
その曲こそ、『私は街の子』(作詞:藤浦洸、作曲:上原げんと)である。
「私は街の子 巷の子…」
というフレーズで有名な、『私は街の子』であるが、
当時、14歳だった美空ひばりは、切なく、きめ細かい感情を、またしても情感タップリに歌い上げ、世間を驚かせたが、
もはや、美空ひばりは、少女という枠を超え、大歌手の風格さえ漂わせるようになっていた。
そして、『私は街の子』も、当然の如く、大ヒットを記録した。
<1951(昭和26)年の美空ひばり③~映画『あの丘越えて』の主題歌『あの丘越えて』が大ヒット!!~鶴田浩二・美空ひばりのデュエットで、名曲を世に送り出す>
1951(昭和26)年11月、美空ひばりは、鶴田浩二と共演した映画『あの丘越えて』に出演した。
『あの丘越えて』は、美空ひばりにとって、とても大切な映画になった。
美空ひばりは、この映画で共演した鶴田浩二と、とても親しくなり、以後、芸能界の兄貴分として、彼の事を慕うようになったからである。
映画『あの丘越えて』と同名の主題歌『あの丘越えて』(作詞:菊田一夫、作曲:万城目正)を、美空ひばりは歌っているが、
「山の牧場の夕暮れに 雁が飛んでる ただ一羽…」
という名フレーズが印象的な、この曲は、またしても大ヒットとなった。
聴いていて情景が思い浮かぶような、そして、何処か切ない『あの丘越えて』は、美空ひばりの代表曲の一つであり、私も、とても大好きな曲である。
なお、『あの丘越えて』で、美空ひばりと鶴田浩二はデュエットを披露しているが、
当時、鶴田浩二は、1924(大正13)年生まれの27歳、美空ひばりは1937(昭和12)年生まれの14歳で、
2人は、少し歳は離れていたが、この映画での役柄同様、美空ひばりは、鶴田浩二に対し、仄かな恋心を抱いていたという話も有る。
本当は、どうたったのかはわからないが、美空ひばりにとって、鶴田浩二は大切な存在だった事は間違い無い。
<1951(昭和26)年…日本初の全編カラー映画『カルメン故郷に帰る』公開!!~木下恵介監督、主演:高峰秀子の、とにかく底抜けに明るい、解放感溢れる映画>
1951(昭和26)年といえば、日本初の全編カラー映画『カルメン故郷に帰る』が公開された年として、記憶される。
木下恵介監督、主演:高峰秀子の『カルメン故郷に帰る』は、とにかく底抜けに明るい映画で、
この頃の解放感溢れる時代の空気を象徴する映画である。
あの『秀子の応援団長』でお馴染みの(?)高峰秀子が、
この『カルメン故郷に帰る』では、家出をしていた村娘が、「リリー・カルメン」と名乗るストリッパーに変貌し、彼女の同僚のストリッパーと共に故郷に帰って来て、大騒動を巻き起こす…という役を、実に楽しそうに演じている。
そして、『カルメン故郷に帰る』は、「初の国産カラー映画」として、娯楽作品に徹している。
という事で、この時代を象徴する映画として、『カルメン故郷に帰る』は、外せない作品であると言えよう。
<1951(昭和26)年…中部日本放送(CBC)、新日本放送、朝日放送、ラジオ東京(TBS)など、民放ラジオ放送局が続々と開局!!>
1950(昭和25)年まで、日本のラジオ放送は、NHKの独占状態が続いていたが、
1951(昭和26)年、遂に民放のラジオ放送が開始された。
1951(昭和26)年9月1日、その先駆けとして、中部日本放送(CBC)の放送が開始されたが、
以後、新日本放送、朝日放送、ラジオ東京(TBS)など、民放ラジオ放送局が続々と開局されて行った。
公共放送であるNHKが、聴取者からの「受信料」を元に成り立っているのに対し、民放は、スポンサーにお金を出してもらうという形式であり、そのかわりに、放送中にスポンサーのCM(コマーシャル)を流した。
1951(昭和26)年12月24日、ラジオ東京(TBS)が放送開始し、
以後、TBSはNHKの強力なライバルとなるが、ややお堅いNHKに対し、民放は、呉楽色の強い番組が多いのが特徴であった。
ラジオ時代から、その図式は変わらず、この後、テレビ時代を迎えても、その構図は続いているというのは、皆様もご存知の通りである。
<1951(昭和26)年のヒット曲…「朝鮮戦争」の「特需景気」を反映した『トンコ節』、『ヤットン節』(久保幸江)、爆発的な大ヒット曲『上海帰りのリル』(津村謙)、抒情溢れる『高原の駅よさようなら』(小畑実)、野球ソング『野球小僧』(灰田勝彦)etc…>
「朝鮮戦争」による「特需景気」に沸き、力道山が日本初のプロレス試合を行なった、この年(1951年)は、
イケイケドンドンの世の中の空気を象徴するような、明るい調子の、景気の良い「お座敷小唄」が流行った。
久保幸江・楠木繁夫が歌った『トンコ節』(作詞:西條八十、作曲:古賀政男)は、
「特需景気」に沸く日本を象徴するような、明るく楽しい曲であるが、
この曲を作曲したのは、あの古賀政男であり、彼は、時代の空気を反映するような、軽妙な曲を作ってみせた。
続いて、久保幸江が歌ったのが『ヤットン節』(作詞:野村俊夫、作曲:不詳)であるが、
『トンコ節』、『ヤットン節』のような、軽妙な「お座敷小唄」が流行ったのも、この時代(1951年当時)ならではである。
「この頃、日本は上り調子で、元気だったんだな」
というのが、実感できるような曲である。
津村謙が歌った『上海帰りのリル』は、1951(昭和26)年に爆発的な大ヒットを記録し、
翌1952(昭和27)年、同名タイトルで映画化された。
この時代、歌と映画は密接な関係にあり、曲が流行って、そのタイトルで映画化される事もあれば、その逆も有った。
当時、映画が日本における、最強のメディアだったという事である。
なお、有名な話であるが、2018(平成30)年に桑田佳祐がリリースした『若い広場』で、
「愛の言葉をリル…」というフレーズであるが、この「リル」というのは、
勿論、『上海帰りのリル』から取られたものである。
何処か懐かしい、『若い広場』は、昭和歌謡へのリスペクトが溢れる素晴らしい曲であるが、平成の世に『上海帰りのリル』が蘇ったという言い方も出来る。
小畑実が歌った、『高原の駅よさようなら』(作詞:佐伯孝夫、作曲:佐々木俊一)も、
この年(1951年)の大ヒット曲であるが、水島道太郎、香川京子が主演した、同名タイトルの映画も大ヒットした。
『高原の駅よさようなら』は、抒情溢れる名曲である。
野球好きとしては、この曲を外すわけにはいかない。
灰田勝彦が歌った『野球小僧』(作詞:佐伯孝夫、作曲:佐々木俊一)は、
映画『歌う野球小僧』の主題歌であり、
「野球小僧に逢ったかい 男らしくて純情で…」
というフレーズも印象的な、軽快な曲である。
という事で、日本が明るい雰囲気に包まれた、1951(昭和26)年には、多種多彩なヒット曲が、世の人々を楽しませていた。
(つづく)