紅白歌合戦と日本シリーズ【躍進編】~1950(後編)…『東京キッド』と1950年のパ・リーグ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1950(昭和25)年、プロ野球は「セントラル・リーグ(セ・リーグ)」、「パシフィック・リーグ(パ・リーグ)」の2リーグに「分裂」して、初めてのシーズンを迎え、「松竹ロビンス」が、セ・リーグの初代優勝チームとなった。

その年(1950年)、『イヨマンテの夜』(作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而、唄:伊藤久男)が大ヒットし、この後、数年間、NHK「のど自慢」は『イヨマンテの夜』を熱唱する挑戦者で溢れ返った。

そして、1950(昭和25)年6月25日、北朝鮮が韓国に侵攻し、遂に「朝鮮戦争」が勃発した。

 

 

今回は、1950(昭和25)年編の「後編」として、天才少女歌手・美空ひばり『東京キッド』を大ヒットさせるなど、快進撃を続けた経緯と、1950(昭和25)年のパ・リーグに、スポットを当ててみる事としたい。

それでは、早速、ご覧頂こう。

 

<1950(昭和25)年6月25日…北朝鮮が韓国に侵攻し、「朝鮮戦争」が勃発!!⇒当初、北朝鮮が韓国を圧倒し、朝鮮半島全土の制圧が目前に⇒アメリカを中心とした国連軍が反攻し、北朝鮮軍を中朝国境まで押し返す⇒中国の「義勇軍」が国連軍・韓国軍を押し戻し、戦線は「北緯38度線」で膠着状態に>

 

 

 

1950(昭和25)年6月25日、北朝鮮が突如、韓国への侵攻を開始し、遂に「朝鮮戦争」が勃発した。

北朝鮮の指導者・金日成は、事前にソ連の独裁者・スターリンの了解を取り付け、周到に事前準備を整えた上で、

満を持して、北朝鮮は韓国に対する「奇襲」を開始したのである。

 

 

 

北朝鮮の侵攻など、全く予想していなかった韓国は、

北朝鮮の猛攻の前に、為す術も無く敗れ続け、まずは韓国の首都・ソウルは、あっという間に陥落した。

そして、北朝鮮の怒涛の進撃の前に、韓国は遂に朝鮮半島の南端、釜山まで追い詰められた。

北朝鮮の電撃作戦により、北朝鮮による朝鮮半島の全土制圧は、目前に迫った。

 

 

 

 

だが、この事態をアメリカが黙って見過ごす筈も無かった。

アメリカは、すぐさま、アメリカを中心とした「国連軍」を組織すると、

同年(1950年)9月、マッカーサー元帥が指導した仁川上陸作戦を敢行し、反撃を開始した。

そして、「国連軍」は、北朝鮮軍を押し返し、ソウルを奪還すると、北朝鮮の首都・平壌(ピョンヤン)をも占領した。

その後、今度は逆に、「国連軍」が北朝鮮軍を朝鮮半島の北端、中朝国境近くまで押し返し、「国連軍」による朝鮮半島の全土制圧は、目の前に迫った。

 

 

 

その状況を見て、ソ連のスターリンは、中国の毛沢東に対して、北朝鮮への支援を要請した。

毛沢東は、中国が全面介入する事に躊躇い、「人民義勇軍」という建前で、「朝鮮戦争」への参戦を行なった。

なお、この時、「人民義勇軍」の一員には、毛沢東の長男・毛岸英も居たが、毛岸英は激戦に巻き込まれ、命を落とした。

 

 

北朝鮮軍と、中国の「人民義勇軍」は反撃し、「国連軍」を再び押し戻した。

そして、北朝鮮と中国「人民義勇軍」は、平壌(ピョンヤン)を奪回すると、

1951(昭和26)年春頃には、戦線は「北緯38度線」付近で膠着状態に陥った。

こうして、戦闘は「朝鮮戦争」開戦当初の国境線に戻り、北朝鮮と韓国の睨み合いが続いた。

 

<1950(昭和25)年8月10日…吉田茂首相、マッカーサーの指示を受け、「警察予備隊」創設>

 

 

 

 

「朝鮮戦争」が勃発すると、当時、「日本国憲法」が施行されたばかりで、

軍隊を放棄していた日本に対し、GHQの最高司令官・マッカーサーは、日本に対する「再軍備」を指示した。

これに対し、吉田茂首相は、「今の日本には、軍隊を作るお金など無い」と言って、それを拒否したが、

マッカーサーは、アジア全体が「共産化」してしまう事を恐れ、前述の通り、「国連軍」を組織して、北朝鮮へ反攻を開始すると共に、

日本に対しても、防衛力を強化するよう、求めたのである。

 

 

 

吉田首相は、あくまでも「再軍備」は拒否し続けたが、

このまま、日本が自衛のための戦力を何も持たないというのは良くないと、考えを改め、

1950(昭和25)年8月10日、「警察予備隊」を発足させた。

この「警察予備隊」こそ、現在の「自衛隊」の元になった組織である。

 

<1950(昭和25)年…「赤狩り」「レッドパージ」の時代~アメリカと日本で、「共産主義者狩り」の嵐が吹き荒れる!!>

 

 

 

 

1950(昭和25)年といえば、日米で「赤狩り」「レッドパージ」の嵐が吹き荒れた時代でもあった。

当時、ソ連と社会主義陣営は、世界中で猛烈な勢いで勢力を伸ばし、「東西冷戦」が激化していた。

資本主義陣営の総本山・アメリカでは、ソ連と社会主義陣営に対する恐怖が渦巻いていたが、

この年(1950年)、アメリカのジョセフ・マッカーシー上院議員が提唱した「赤狩り」が始まり、ハリウッドでも、多くの映画人が「共産主義者」の烙印を押され、追放された。

その中には、チャップリンや、映画『ローマの休日』の脚本を書いた、ダルトン・ドランボなども居た。

 

 

 

 

 

 

日本にも、「赤狩り」の波は押し寄せ、GHQの指令により、多くの共産党員や、その支持者達が、公務員や民間企業において、職場を解雇されるという事態、所謂「レッドパージ」の嵐が吹き荒れた。

その数は1万人以上にも上ったが、一度、「あいつは、アカだ」という烙印を押されると、その人は容赦なく追放されてしまった。

思想信条の良し悪しはともかく、一方的な決め付けで、その人を社会的に抹殺するというのは、どう考えてもやり過ぎであろう。

全く恐ろしい時代が有ったものであるが、今でも、こういう事は、コロナ禍の「自粛警察」や、SNSの「炎上」という事で、形を変えて残っていると言っては、言い過ぎだろうか。

それはともかく、人間というのは、その場の空気に流され、「自分が正義」と思ったら、自分とは異なる考え方の人を徹底的に排除する性質が有るという事であろう。

この事は、歴史の教訓として、絶対に忘れてはなるまい。

 

<「朝鮮戦争」による「特需景気」で、日本経済が「大復活」>

 

 

 

さて、「朝鮮戦争」は、日本に対し、思わぬ副産物も、もたらした。

アメリカが、日本を「朝鮮戦争」の後方支援基地のようにしていたため、

武器や弾薬の製造のため、日本中の工場はフル稼働となった。

そのため、日本経済は急速に回復し、所謂「特需景気」と称される状況となった。

つまり、日本経済は「朝鮮戦争」のお陰で立ち直った、という言い方も出来る。

やはり、皮肉な話だが、いつの時代も戦争は儲かるのである。

 

<1950(昭和25)年の美空ひばり①~映画『憧れのハワイ航路』で、美空ひばり・岡晴夫が共演>

 

 

さて、「朝鮮戦争」で、世の中が騒然としていた頃、

前年(1949年)に『悲しき口笛』を大ヒットさせ、一躍、スターダムにのし上がっていた、

当時12歳の天才少女歌手・美空ひばりの快進撃は、翌1950(昭和25)年も続いた。

いよいよ、本格的な「美空ひばり時代」が始まったのである。

 

 

 

1950(昭和25)年4月、岡晴夫のヒット曲『憧れのハワイ航路』と同名タイトルの映画『憧れのハワイ航路』で、

岡晴夫美空ひばりが共演し、劇中で、美空ひばりは見事な歌声を披露した。

この映画では、花菱アチャコ・古川禄波(ロッパ)という人気コメディアンも出演しており、

美空ひばりは、それらの人気スター達との共演でも、堂々としており、早くもスターの風格さえ漂わせていた。

 

<1950(昭和25)年の美空ひばり②~映画『東京キッド』に主演し、同名タイトルの主題歌『東京キッド』も大ヒット!!~「ひばり旋風」、留まる所を知らず>

 

 

 

 

1950(昭和25)年9月、美空ひばりは、映画『東京キッド』に主演した。

『東京キッド』では、美空ひばりは、自らのデビューのキッカケを作ってくれた恩師で、「師匠」と慕っていた川田晴久と共演を果たし、

他にも、榎本健一(エノケン)、花菱アチャコ、堺駿二(堺正章の父親)といった、人気コメディアンも出演し、脇を固めている。

なお、『東京キッド』では、美空ひばりは、病気の母と二人暮らしで、その母を亡くした後、紆余曲折を経て、実の父親に、巡り会うという少女・マリ子役を熱演している。

 

 

 

 

 

 

美空ひばりは、映画と同名タイトルの主題歌『東京キッド』(作詞:藤浦洸、作曲:万城目正)も、劇中で披露している。

「歌も楽しや 東京キッド 粋でおしゃれで ほがらかで 右のポッケにゃ 夢がある 左のポッケにゃ チューインガム 空を見たけりゃ ビルの屋根 もぐりたくなりゃ マンホール…」

という、あの名フレーズの歌は、誰もが一度は聴いた事が有るのではないだろうか。

そして、『東京キッド』での美空ひばりは、歌が素晴らしいのは勿論、達者なタップダンスも披露し、観客を魅了した。

 

 

 

美空ひばりが歌った『東京キッド』のレコードは、大ヒットを記録し、天才少女歌手・美空ひばりの名声は不動の物となったが、

作詞:藤浦洸、作曲:万城目正のコンビは、『悲しき口笛』も手掛けており、美空ひばりの魅力を引き出す事に、大きく貢献した。

もし、彼女が、デビュー当初のような、笠置シヅ子のモノマネ路線を続けていたら、果たして、こんなに凄い歌手になっていたかどうか。

美空ひばりは、年端も行かない少女ながら、大人の感情を表現出来る、稀有な存在であり、藤浦洸・万城目正は、その事がよくわかっていた。

だからこそ、彼らは、『悲しき口笛』、『東京キッド』という名曲を、美空ひばりにプレゼントする事が出来たのであろう。

 

<1950(昭和25)年3月11日…プロ野球「パ・リーグ」開幕!!~開幕カードは西宮球場の「毎日VS西鉄」、「阪急VS南海」~パ・リーグは7球団でスタート>

 

 

 

1950(昭和25)年、プロ野球が「セ・リーグ(セントラル・リーグ)」、「パ・リーグ(パシフィック・リーグ)」に「分裂」し、最初のシーズンを迎えたが、セ・リーグが8球団でスタートしたのに対し、パ・リーグは奇数の7球団でスタートした。

その1950(昭和25)年のパ・リーグの顔ぶれは、下記の通りである。

 

 

阪急ブレーブス

南海ホークス

東急フライヤーズ

大映スターズ

★毎日オリオンズ

★西鉄クリッパーズ

★近鉄パールス

(★=2リーグ分裂以降の新規加盟球団)

 

 

パ・リーグは7球団という奇数球団制だったため、試合を行なうと、

必ず1球団が余ってしまうという不便さが有った。

そのため、セ・リーグ開幕の翌日、1950(昭和25)年3月11日にパ・リーグが開幕した時は、

パ・リーグは西宮球場の「毎日VS西鉄」「阪急VS南海」の2試合が開催され、

セ・リーグ開幕戦のように、同日に全球団揃い踏みとはならなかった。

なお、毎日オリオンズの、当時35歳のオールド・ルーキー・戸倉勝城が、初打席初本塁打を放ち、これが記念すべき「パ・リーグ第1号本塁打」となった。

 

<1950(昭和25)年の毎日オリオンズ…阪神の主力選手をゴッソリ引き抜いた毎日オリオンズ、パ・リーグを制覇し、「初代日本一」の座に輝く!!>

 

 

 

 

 

1950(昭和25)年、パ・リーグの初代優勝チームとなったのは、「毎日オリオンズ」である。

毎日オリオンズは、大阪タイガースから、若林忠志・土井垣武・別当薫らの主力選手をゴッソリと引き抜き、

その甲斐有ってか、他球団を圧倒する戦力を整えた毎日オリオンズは、MVPを獲得した別当薫、新人王を獲得した荒巻淳という投打の柱がチームを引っ張り、毎日は81勝34敗5分 勝率.704でパ・リーグ初代優勝チームとなり、第1回日本シリーズでも、毎日が松竹を4勝2敗で破り、毎日オリオンズが「初代日本一」の栄光に輝いた。

だが、露骨な選手引き抜きの影響も有ったのか、毎日は今一つ、人気が出ないままであった。

 

<1950(昭和25)年の南海ホークス…本拠地・大阪球場が完成するも、鶴岡一人監督が「放棄試合」をやらかすなど、毎日の独走を許し、2位に終わる>

 

 

 

鶴岡一人・選手兼任監督が率いる南海ホークスは、

1リーグ時代に2度優勝(1946年・1948年)しており、パ・リーグ初代優勝も狙っていたが、

この年(1950年)は、力を発揮出来ず、毎日の独走を許してしまい、南海は66勝49敗5分 勝率.574で、首位・毎日に15ゲーム差を付けられ、2位に終わった。

 

 

この年(1950年)9月12日、南海ホークスの本拠地として、

大阪・難波の地に「大阪球場」が竣工されたが、

当時のプロ野球としては最大規模の立派なスタジアムであり、「昭和の大阪城」と称され、人々を驚かせた。

 

 

1950(昭和25)年9月14日、県営富山球場での南海-大映戦で、

南海が4-3とリードして迎えた9回表、打球の「捕った」「捕らない」を巡って、大揉めになり、

結局、南海・鶴岡監督が試合続行を拒否し、「放棄試合」になってしまうという事件が有った。

鶴岡監督と南海ホークスの「汚点」となった事件であるが、鶴岡監督も、チームがなかなか思うように行かず、苛立ちが有ったのであろうか。

 

<1950(昭和25)年の大映スターズ…ロートル中心のチーム構成で、3位~ワンマン社長・永田雅一、「映画は大映、野球も大映」とは行かず>

 

 

 

 

1950(昭和25)年の大映スターズは、62勝54敗4分 勝率.534で3位に終わったが、

大映スターズは、往年の巨人の名投手・スタルヒンなど、ロートル中心のチーム構成であり、

投打共に、今一つ、決め手に欠ける所が有った。

「可も無く、不可も無く」

というのが、当時の大映スターズというチームであった。

 

 

 

大映といえば、ワンマン社長・永田雅一が率いていた映画会社であり、

「映画は大映」というキャッチフレーズで知られていたが、

残念ながら、「映画は大映、野球も大映」とは行かなかった。

だが、この年(1950年)、永田雅一の大映は、『羅生門』という傑作映画を世に送る事となるが、その事については、後述する。

 

<1950(昭和25)年の阪急ブレーブス…投打共に今一つで4位に終わるも、「浜崎真二(阪急)VS湯浅禎夫(毎日)」の、「2人合わせて97歳」の大ベテラン同士の投げ合いが実現>

 

 

 

 

1950(昭和25)年の阪急ブレーブスは、主力選手を多数、他球団に引き抜かれていた事もあり、

投打共に今一つ奮わず、54勝64敗2分 勝率.458で4位に終わったが、

そんな事より、大きな話題を集めたのが、既に毎日の優勝が決まった後、

1950(昭和25)年11月5日、西宮球場の阪急-毎日戦で、当時48歳10ヶ月の浜崎真二監督(阪急)と、当時48歳1ヶ月の湯浅禎夫監督(毎日)という、往年の名投手同士の、「2人合わせて97歳」の大ベテラン対決(共に先発で登板)が実現した事である。

 

 

浜崎真二は慶応、湯浅禎夫は明治で、共に名投手として鳴らしていたが、それは大正時代という、当時でも「大昔」の話であった。

つまり、これは完全にファンサービスだったが、オールドファンは大喜びだった。

なお、結果は浜崎が3回2/3で5失点で敗戦投手、湯浅には4回2失点で勝敗は付かず、という物であった。

プロ野球と銘打つ以上、たまには、こんな風にファンを喜ばせる企画が有っても良いと、私は思う。

 

<1950(昭和25)年の西鉄クリッパーズ…僅か1年限りで、セ・リーグの「西日本パイレーツ」と合併⇒「西鉄ライオンズ」へ>

 

 

 

 

1950(昭和25)年、パ・リーグに新規加盟した球団の中に、「西鉄クリッパーズ」という球団が有った。

西日本鉄道(西鉄)を親会社として、セ・リーグの「西日本パイレーツ」と共に、

九州・福岡の地を本拠地としていたが、地方都市・福岡では、西鉄と西日本は、観客動員の奪い合いになってしまった。

 

 

 

 

この年(1950年)、「西鉄クリッパーズ」は、51勝67敗2分 勝率.432で5位に終わったが、

結局、この年(1950年)限りで、「西鉄クリッパーズ」が「西日本パイレーツ」を吸収合併し、

球団は1つに統合され、翌1951(昭和26)年からは「西鉄ライオンズ」と改称する事となった。

言うまでもなく、現在の「埼玉西武ライオンズ」の源流である。

 

<1950(昭和25)年の東急フライヤーズ…天下の「大東急」を親会社に持ち、大下弘・白木義一郎という投打の二枚看板を擁するも、チーム全体はパッとせず、6位に低迷>

 

 

 

東急フライヤーズは、天下の「大東急」を親会社としており、

しかも、東京を本拠地とした「都会派」のチームで、

前身のセネタース時代から、ファンには妙に人気が有ったが、

チームとしては今一つという状況が続いていた。

 

 

 

 

東急フライヤーズには、大下弘・白木義一郎という投打の二枚看板が居り、

大下と白木は観客を呼べるスター選手だったが、東急は、チーム全体としては今一つであり、

1950(昭和25)年、東急フライヤーズは51勝69敗 勝率.425で、7球団中6位に終わった。

このような、ある意味、中途半端なチームカラーが、フライヤーズ~ファイターズ(現・北海道日本ハムファイターズ)らしいといえば、らしいのかもしれない。

 

<1950(昭和25)年の近鉄パールス…法政の師弟コンビ・藤田省三監督と、エース・関根潤三が入団するも、初年度は最下位>

 

 

 

 

 

1950(昭和25)年、新球団としてパ・リーグに加盟した近鉄パールスは、

法政の監督を務めていた藤田省三が初代監督に就任し、その藤田監督が、法政のエース・関根潤三や、東京六大学野球の選手達をまとめて入団させ、チーム編成を行なった。

しかし、近鉄パールスは苦戦し、44勝72敗4分 勝率.379で最下位に終わった。

1948(昭和23)年秋、法政を戦後初優勝に導いた藤田省三・関根潤三の「師弟コンビ」も、近鉄では苦難の船出となった。

 

<1949(昭和24)年…湯川秀樹が、日本人初の「ノーベル賞(ノーベル物理学賞)」受賞!!>

 

 

 

この時代、敗戦国・日本の人々に勇気を与えた出来事が、いくつか有った。

まず、1949(昭和24)年、京都大学の湯川秀樹教授が、「中間子理論」で、日本人初の「ノーベル賞(ノーベル物理学賞)」を受賞したが、

湯川秀樹の快挙は、日本人に自信を与え、「科学立国・日本」の先駆となった。

 

<1949(昭和24)年…古橋広之進が、ロサンゼルスの全米水泳選手権大会で世界新記録を連発、「フジヤマのトビウオ」と称される>

 

 

1949(昭和24)年、古橋広之進が、ロサンゼルスの全米水泳選手権大会で世界新記録を連発し、

「フジヤマのトビウオ」と称される大活躍を見せた。

当時、古橋広之進の実力は間違い無く世界レベルにあったが、当時の日本は国際社会に復帰しておらず、

古橋は、全盛期にオリンピックには参加出来なかったが、もし出場していれば、間違いなく金メダルを獲っていたであろう。

 

<1950(昭和25)年…大映映画『羅生門』(黒澤明監督、主演:三船敏郎、京マチ子)公開~翌1951(昭和26)年、日本映画で初めて、「ヴェネツィア国際映画祭」で「金獅子賞(グランプリ)」受賞!!>

 

 

 

1950(昭和25)年、黒澤明監督、三船敏郎・京マチ子主演の大映映画『羅生門』が公開された。

『羅生門』は、公開当時から批評家達に絶賛され、翌1951(昭和26)年、日本映画で初めて、「ヴェネツィア国際映画祭」で「金獅子賞(グランプリ)」を受賞するという快挙を達成した。

『羅生門』の成功により、「世界のクロサワ」「世界のミフネ」という名声を得たが、野球では天下を取れなかった(?)永田雅一は、映画人として最高の栄誉を得た事になる。

 

<1950(昭和25)年7月2日…青年僧の放火により、国宝「金閣寺」が炎上>

 

 

 

1950(昭和25)年7月2日、青年僧の放火により、国宝「金閣寺」が炎上し、全焼してしまった。

室町幕府3代将軍・足利義満の時代に建てられた「金閣寺」の炎上に、世間は衝撃を受けたが、

後に、作家・三島由紀夫が、この事件を題材に、名作『金閣寺』を書いている(※その後、金閣寺は再建され、今日に至る)。

 

<1950(昭和25)年のヒット曲…『夜来香』(山口淑子)、『水色のワルツ』(二葉あき子)、『白い花の咲く頃』(岡本敦郎)、『桑港のチャイナタウン』(渡辺はま子)etc…>

 

 

 

1950(昭和25)年のヒット曲を、いくつかご紹介させて頂く。

山口淑子『夜来香』は、彼女が李香蘭と名乗っていた1944(昭和19)年、一度、中国語版のレコードがリリースされていたが、

この年(1950年)、改めて、本名の山口淑子名義でレコーディングを行ない、リリースされたレコードが大ヒットした。

数奇な運命を辿った、「李香蘭=山口淑子」の代表曲である。

 

 

 

 

『水色のワルツ』(二葉あき子)、『白い花の咲く頃』(岡本敦郎)も、1950(昭和25)年に大ヒットしたが、

二葉あき子、岡本敦郎は、この時代を代表する人気歌手であり、後に、共に「紅白歌合戦」にも出場している。

 

 

 

 

渡辺はま子が歌った『桑港のチャイナタウン』も、この年(1950年)に大ヒットを記録し、

翌1951(昭和26)年1月3日の、「第1回紅白歌合戦」に、渡辺はま子は『桑港のチャイナタウン』を引っ提げ、初出場している。

というわけで、「朝鮮戦争」の動乱の最中、日本は世界的に躍進の気配を見せ、野球界や芸能界も、多種多彩な人材が、生き生きと活躍していた。

 

(つづく)