紅白歌合戦と日本シリーズ【進撃編】~1950(前編)…『イヨマンテの夜』と1950年のセ・リーグ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1949(昭和24)年、当時、「1リーグ8球団制」だったプロ野球に、

戦後のプロ野球人気の沸騰に煽られ、続々と新規参入を表明する企業が現れた。

そして、「毎日新聞」の加盟を巡り、プロ野球は賛成派と反対派に分かれて紛糾し、

遂にはプロ野球はセ・リーグとパ・リーグの2リーグに「分裂」する事となった。

 

 

そして、同年(1949年)には、当時12歳の天才少女歌手・美空ひばり『悲しき口笛』で大ブレイクを果たし、

遂に、日本音楽史に残る、美空ひばり伝説の幕が開いた。

という事で、今回は翌1950(昭和25)年にスポットを当てるが、まずは「前編」として、

1950(昭和25)年のセ・リーグと、同年(1950年)、菊田一夫が作詞し、古関裕而が作曲、伊藤久男が歌って大ヒットした名曲『イヨマンテの夜』誕生の経緯を描いてみる事としたい。

 

<1948(昭和23)年…「ベルリン封鎖」で、「東西冷戦」の緊張が高まる⇒1949(昭和24)年…東西ドイツに「分裂」、西ドイツ(ドイツ連邦共和国)・東ドイツ(ドイツ民主共和国)が誕生>

 

 

第二次世界大戦の終結後、アメリカを中心とする資本主義陣営、所謂「西側諸国」と、

ソ連を中心とする社会主義陣営、所謂「東側諸国」の対立が深まり、

「東西冷戦」が始まった、という事は、これまで既に述べて来た。

中でも、その象徴的存在となったのが、第二次世界大戦の敗戦国・ドイツであった。

戦後、ドイツは、アメリカ・英国・フランスが占領する西側と、ソ連が占領する東側に、分断されていた。

 

 

ドイツの首都・ベルリンは、ソ連が占領する東側に在ったが、

そのベルリンも、東ベルリンと西ベルリンに分断されている状況であった。

つまり、ベルリンは、東側のドイツの中に在って、更に分断された都市となっていた。

 

 

 

1948(昭和23)年6月、アメリカによる、西ベルリンでの「通貨改革」に対抗し、

突如、ソ連が「ベルリン封鎖」を行ない、東ベルリンと西ベルリンの間の往来を完全に遮断してしまった。

東側のドイツの中に在って、西ベルリンは孤立してしまい、「陸の孤島」になってしまったが、

これに対し、アメリカは空輸によって、大量の物資や食糧を西ベルリンに送り続け、西ベルリンの苦境を救った。

それから程なくして、ソ連は「ベルリン封鎖」を解除せざるを得なくなったが、米ソの対立は、ますます深まって行った。

 

 

1949(昭和24)年5月6日、西側のドイツに「ドイツ連邦共和国」、所謂「西ドイツ」が成立すると、

同年(1949年)10月7日、東側のドイツに「ドイツ民主共和国」、所謂「東ドイツ」も樹立された。

こうして、日本のプロ野球がセ・パ両リーグに「分裂」したのと同じ年(1949年)、奇しくも、ドイツも完全に東西に「分裂」してしまった。

なお、ベルリンは東ドイツの首都となったが、前述の通り、ベルリンも東西に分裂され、西ベルリンは、東ドイツの中に在る、資本主義陣営の「飛び地」となっていた。

以後、東西ドイツの分裂は約40年も続く事となるが、1949(昭和24)年当時、ヨーロッパにおいて、「東西冷戦」は抜き差しならぬ局面となっていた。

 

<1949(昭和24)年10月1日…中国共産党・毛沢東VS中国国民党・蒋介石の「国共内戦」を制し、毛沢東の「中華人民共和国」が成立⇒蒋介石は台湾に亡命~今日の「台湾問題」の遠因に>

 

 

 

一方、当時のアジアに目を向けると、当時、中国(中華民国)を支配していたのは、蒋介石が率いる中国国民党であり、

毛沢東が率いる中国共産党は、中国国民党とは激しく対立していた。

戦時中は、日本という「共通の敵」を倒すため、国民党と共産党は仕方なく手を組んでいたが、

第二次世界大戦が終わり、改めて、蒋介石毛沢東は重慶会談を行ない、今後の中国の運営について、話し合った。

だが、元々、この2人の考え方は全く合わず、すぐに対立は顕在化した。

 

 

 

 

 

そして、1946(昭和21)年、遂に中国国民党と中国共産党による「国共内戦」が勃発した。

当時は、国民党の方が圧倒的に物量に勝り、しかも、国民党はアメリカからの支援を受けていたため、

誰がどう見ても、国民党の方が優勢と思われた。

しかし、当時の国民党政権は腐敗しきっており、しかも、戦後、中国は超インフレに見舞われ、民衆は塗炭の苦しみを味わっていた。

その民衆の怒りと失望を、共産党が巧みに汲み取り、「共産党が勝った暁には、人民に土地を分配する」と約束し、共産党は支持を増やして行った。

毛沢東は、それまで30年近くも「革命家」として、地べたを這いずり回っており、民衆の生活の苦しさは、嫌というほど、見聞きしていた。

だからこそ、「革命」の成功の鍵は、民衆の支持を、如何にして得るかにかかっているという事を、彼は知り尽くしていた。

 

 

 

やがて、いつの間にか、中国共産党と中国国民党の勢力は逆転し、

1949(昭和24)年、遂に共産党は国民党との内戦に打ち勝った。

毛沢東は、蒋介石を台湾に追い払い、1949(昭和24)年10月1日、毛沢東は北京・天安門広場で「中華人民共和国」の成立を宣言するに至った。

まさかと思われていた中国の「共産化」に、世界中が驚愕したのである。

 

 

 

一方、毛沢東率いる共産党に敗れ去った、蒋介石率いる国民党は、台湾に亡命し、

その台湾で、蒋介石と国民党は、改めて「中華民国」を名乗り、

「中国の正統政府は、中華民国である」

と、あくまでも主張し続けた。

しかし、中国全土を毛沢東と共産党に牛耳られ、蒋介石の主張は、「負け犬の遠吠え」のようであった。

その蒋介石は、台湾に「戒厳令」を敷き、軍政を敷いたが、以後、蒋介石・蒋経国親子による軍政は数十年も続いた。

(※台湾の「戒厳令」解除は1987(昭和62)年、台湾初の総統選挙は1996(平成8)年。その際に李登輝が総統に選出)

 

 

という事で、以後、中国本土と台湾の対立は延々と続き、今日に至っているが、

今日(2021年現在)も、中国と台湾の対立、所謂「台湾問題」は続いている。

習近平率いる中国共産党の中国は、今や「世界制覇」に躍起となり、虎視眈々と「台湾併合」を狙い続け、

蔡英文率いる台湾が、必死にそれに抵抗している状況であり。

台湾は「親日国」であり、台湾は今でも日本人に凄く人気が有るが、その根底には、このような「対立」が有る事を、我々も知っておいた方が良いのは間違い無い。

 

<1950(昭和25)年…「中華人民共和国」成立の挨拶のため、毛沢東がソ連のスターリンの元へ…⇒「中ソ友好同盟援助条約」調印>

 

 

 

1950(昭和25)年、毛沢東はソ連を訪れ、スターリンに表敬訪問を行なった。

毛沢東は「中華人民共和国」を成立させたばかりであり、社会主義陣営の大親分である、スターリンを訪れ、

「親分、今後ひとつ、宜しくお願い致します」

という、挨拶のつもりだったのであろう。

だが、元来、毛沢東という男は、人に頭を下げる事など大嫌いな人物であり、

しかも、生涯、中国から殆んど出なかった人である。

毛沢東にとって、この時のソ連訪問は、最初で最後の外国訪問であった。

 

 

では何故、毛沢東が、わざわざソ連を訪れ、スターリンに頭を下げたのかといえば、

勿論、ソ連に中国の後ろ盾になってもらうためである。

そして、1950(昭和25)年2月14日、「中ソ友好同盟援助条約」が調印された。

 

<1950(昭和25)年…北朝鮮の金日成、ソ連を訪れ、韓国侵攻の裁可を得る!!>

 

 

 

一方、毛沢東がソ連を訪問したのと同じ1950(昭和25)年、

北朝鮮の金日成もソ連を訪れ、スターリンの元に馳せ参じた。

そして、金日成はスターリンに「韓国侵攻」の裁可を求めた。

金日成は、南北に分断されていた朝鮮半島を、武力統一する事を狙っていたのである。

そして、スターリンは、この時、金日成に「韓国侵攻」の裁可を与え、ソ連が北朝鮮を全面的に支援すると約束した。

こうして、朝鮮半島は、一触即発の状況になった。

 

 

なお、ご存知の通り、北朝鮮は、金日成-金正日-金正恩と、3代続く「金王朝」が、今もなお牛耳っているが、

金正恩は、お祖父さんの金日成にソックリである。

というよりも、自らのカリスマ性を高めるため、容姿を金日成に似せているものと思われる。

 

<1950(昭和25)年3月10日…プロ野球「セ・リーグ」開幕!!~開幕カードは平和台球場の「巨人VS松竹」、「西日本VS広島」、下関球場の「阪神VS中日」、「大洋VS国鉄」>

 

 

 

さて、世界情勢が緊迫の度合いを増して行った頃、

1950(昭和25)年、「セ・リーグ(セントラル・リーグ)」、「パ・リーグ(パシフィック・リーグ)」に分裂したプロ野球は、

2リーグに分裂して初めてのシーズン開幕を迎えた。

「セ・リーグ」加盟球団は、下記の通りである。

 

 

読売ジャイアンツ

大阪タイガース

中日ドラゴンズ

松竹ロビンス

★大洋ホエールズ

★広島カープ

★西日本パイレーツ

★国鉄スワローズ

(★=2リーグ分裂以降の新規加盟球団)

 

セ・リーグは、巨人、阪神、中日、松竹の既存の4球団に、大洋、広島、西日本、国鉄という新規加盟の4球団が加わり、8球団でスタートした。

そして、1950(昭和25)年3月10日、平和台球場の「巨人VS松竹」、「西日本VS広島」、下関球場の「阪神VS中日」、「大洋VS国鉄」というカードで、セ・リーグは記念すべき開幕戦を行なった。

まだ小雪のちらつくような、肌寒い季節での開幕であった。

 

<1950(昭和25)年の松竹ロビンス…「水爆打線」と、大エース・真田重蔵の力投で、初代セ・リーグ優勝の栄冠に輝く!!>

 

 

 

 

 

1950(昭和25)年、記念すべきセ・リーグ初代優勝チームの栄冠に輝いたのは、小西得郎監督率いる松竹ロビンスであった。

松竹ロビンスは、小鶴誠-岩本義行-大岡虎雄という超強力クリーンアップトリオを中心とした「水爆打線」と、

39勝12敗 防御率3.05という物凄い成績を残した大エース・真田重蔵の大活躍もあり、投打に他球団を圧倒し、

松竹は、2位・中日ドラゴンズに9ゲーム差を付ける、独走での優勝であった(98勝35敗4分 勝率.737)。

その松竹が、内紛もあって、第1回日本シリーズでは、毎日オリオンズに2勝4敗で敗退してしまったというのは、既に述べた通りである。

 

<1950(昭和25)年の中日ドラゴンズ…西沢道夫が「1シーズン5本の満塁本塁打」の日本記録達成、初代応援歌『ドラゴンズの歌』(「青雲たかく」~作詞:サトウハチロー、作曲:古関裕而、唄:伊藤久男)が誕生!!>

 

 

 

 

1950(昭和25)年、天知俊一監督率いる中日ドラゴンズは、シーズン序盤は松竹ロビンスと首位争いを繰り広げたが、

やがて松竹に大きく引き離され、結局、中日は首位・松竹に9ゲーム差を付けられ、89勝44敗4分 勝率.669で2位に終わった(中日は、優勝してもおかしくない成績だったが、松竹が強すぎた)。

しかし、西沢道夫-杉山悟-杉浦清と続く、強力クリーンアップトリオは、松竹の「水爆打線」にも引けを取らず、

天知監督の愛弟子で、エース・杉下茂も27勝15敗 防御率3.21と大活躍し、チームを牽引した。

 

 

なお、この年(1950年)、打率.311 46本塁打 135打点と大活躍だった、

中日の主砲・西沢道夫は、何と「1シーズン5本の満塁本塁打」という日本記録を達成したが、

この記録は、70年以上が経過した今も、まだ破られていない。

西沢道夫こそ、「元祖・満塁男」であり、「ミスター・ドラゴンズ」と称された、西沢道夫の背番号「15」は、中日ドラゴンズの永久欠番となっている。

 

 

 

 

また、この年(1950年)、中日ドラゴンズの初代応援歌、『ドラゴンズの歌』(作詞:サトウハチロー、作曲:古関裕而、唄:伊藤久男)が誕生している。

この歌の歌い出しの歌詞である「青雲たかく」という愛称で知られた歌であり、かつては中日球場でも、よく流れていたが、

1974(昭和49)年以降は、『燃えよドラゴンズ』に取って替わられてしまい、今では殆んど歌われていない。

しかし、応援歌の名手・古関裕而が手掛け、古関の盟友・伊藤久男が朗々と歌う『ドラゴンズの歌』(「青雲たかく」)が、名曲である事に変わりはない。

なお、古関裕而・伊藤久男は、この年(1950年)、『イヨマンテの夜』という歴史的名曲を世に出すが、その事については、後述する。

 

<1950(昭和25)年の巨人…「三原脩VS水原茂」の内紛が勃発し、3位に終わるも、藤本英雄が日本プロ野球史上初の「完全試合」達成!!>

 

 

 

前年(1949年)、三原脩監督の下、戦後初優勝を達成した巨人であるが、

この年(1950年)は、「三原脩VS水原茂」の内紛が勃発し、

結局、「総監督:三原脩、監督:水原茂」という体制に落ち着いたが、三原脩には何の権限も与えられず、

三原は、毎日、球団事務所に来ては囲碁を打つだけという、鬱々とした日々を過ごしていた。

三原の、巨人や水原に対する怨念は、高まる一方であった。

 

 

 

こんな状態では、チームがまとまる筈もなく、水原監督も、チームを率いるのに苦労した。

結局、巨人は82勝54敗4分 勝率.603で、首位・松竹に17.5ゲーム差を付けられ、3位に終わった。

水原監督は、優勝を逃した責任を痛感し、一旦は辞表を提出したが、正力松太郎オーナーに慰留され、続投する事となった。

 

 

 

そんな中、巨人のエース・藤本英雄は、1950(昭和25)年6月28日、

青森球場での巨人-西日本戦で、日本プロ野球史上初の「完全試合」を達成した。

この時、巨人と西日本は帯同して北海道遠征を行なった後、青森に立ち寄って試合を行なったが、

その試合で、思いがけず、歴史的な大快挙が達成された。

しかし、藤本の完全試合が達成された巨人-西日本戦では、何と、カメラマンが1人も居らず、皆、北海道から東京に帰ってしまっていたため、試合を様子を捉えた写真は全く存在しないという。

そのため、後日、藤本が「完全試合」の表彰を受けた、この時の写真ぐらいしか、当時の写真は残っていない。

今では考えられない話だが、当時は、そんな時代であった。

 

 

 

 

また、藤本英雄の「完全試合」を、当日、青森の中学生だった寺山修司が観戦しており、

幼少期のなかにし礼は、この試合でバットボーイを務めていたという。

寺山修司、なかにし礼が、この歴史的試合を目撃していたというのは、何とも凄い話である。

 

<1950(昭和25)年の大阪タイガース…毎日オリオンズに主力がゴッソリ引き抜かれ、苦戦を強いられるも、藤村富美男が孤軍奮闘し、8球団中4位に>

 

 

大阪タイガースは、前年(1949年)シーズンオフ、若林忠志・土井垣武・別当薫らの主力選手を、毎日オリオンズにゴッソリと引き抜かれてしまった。

そのため、タイガースの戦力はガタ落ちしてしまい、タイガースの屋台骨はガタガタになってしまったが、

そんな中、戦前のタイガースの主力選手だった松木謙治郎がタイガースの監督に就任し、チームの再建を担った。

 

 

 

 

また、タイガースの主力の中で、唯一、チームに残留し、

幼少期の上岡龍太郎を感激させた、「ミスター・タイガース」藤村富美男は孤軍奮闘し、打率.362 39本塁打 146打点と大活躍し、首位打者を獲得した。

阪神は、70勝67敗3分 勝率.511で8球団中4位に終わったが、あれだけ主力を引き抜かれた事を考えると、大健闘だったと言って良い。

 

<1950(昭和25)年の大洋ホエールズ…「大洋漁業」発祥の地・下関を本拠地として誕生した新球団「大洋ホエールズ」は、新球団の中ではトップの成績(8球団中5位)を残す>

 

 

 

 

 

 

「大洋漁業」発祥の地である、下関に本拠地を構えた、新球団「大洋ホエールズ」は、

この年(1950年)、「大洋VS国鉄」という、新球団同士の開幕戦で、今西錬太郎が完封勝利を挙げ、2-0で勝利し、幸先良いスタートを切ると、「大洋ホエールズ」は、シーズン通して奮闘し、69勝68敗3分 勝率.504と、「勝率5割」をキープした。

「大洋ホエールズ」は、セ・リーグ新球団の中ではトップの、8球団中5位と大健闘であった。

「大洋漁業」の象徴である「クジラ」を意味する「ホエールズ」の船出は、まずは順調だったが、

この後、「大洋ホエールズ」の航海は嵐に見舞われ、長い低迷期を過ごす事となる。

 

<1950(昭和25)年の西日本パイレーツ…僅か1年しか存在しなかった幻の球団「西日本パイレーツ」とは!?>

 

 

 

 

1950(昭和25)年、セ・リーグに加盟した新球団の内の1つに、

九州の西日本新聞を母体とした、「西日本パイレーツ」という球団が有った。

「西日本パイレーツ」は、パ・リーグの「西鉄クリッパーズ」と共に、福岡を本拠地としたが、

地方都市である福岡に2球団というのでは、観客が分散してしまい、案の定、西日本は観客動員では大苦戦した。

 

 

 

 

「西日本パイレーツ」の監督を務めたのは、戦前、早稲田のスター選手で、その後、タイガースなどで活躍した小島利男であるが、

小島利男の妻は、戦前、松竹歌劇団(SKD)で活躍し、水の江滝子と同期だった小倉みね子(本名・小島千鶴子)であった。

「西日本パイレーツ」は、藤本英雄(巨人)に、史上初の「完全試合」を食らった球団として、球史に名を残しているが、

小島利男は、その試合、9回2死から代打を買って出て、「完全試合」阻止を試みたが、敢え無く三振に倒れ、藤本に名を成さしめた。

なお、この年(1950年)、「西日本パイレーツ」は、50勝83敗3分 勝率.376で6位に終わり、シーズンオフに「西鉄クリッパーズ」に吸収合併され、僅か1年で消滅してしまった。

「西日本パイレーツ」は、まさに「幻の球団」であった。

 

<1950(昭和25)年の国鉄スワローズ…「国鉄三大ミステリー」(1949年)の負のイメージを払拭すべく、「国鉄」がプロ野球に参入するも、8球団中7位と苦戦~しかし、後の大投手・金田正一がシーズン途中に入団!!>

 

 

 

1949(昭和24)年、「国鉄三大ミステリー」(下山事件・三鷹事件・松川事件)が起こり、

日本国民の、国鉄に対する信用は地に堕ちてしまい、国鉄のイメージは最悪になっていた。

そんな悪い印象を払拭しようと、1950(昭和25)年、国鉄はプロ野球参入を決意し、「国鉄スワローズ」を結成し、セ・リーグに加盟した。

 

 

 

 

だが、「国鉄スワローズ」の主力の大半は、日本各地の国鉄のノンプロの選手達であり、

戦力不足は如何ともし難く、「大洋VS国鉄」の新球団同士の開幕戦0-2で敗れると、後はズルズルと負け続け、スワローズ1年目は、惨憺たる有様であった。

結局、この年(1950年)、「国鉄スワローズ」は42勝94敗2分 勝率.309で8球団中7位に終わった。

 

 

 

そんな中、この年(1950年)8月、享栄商業を中退した金田正一が、「国鉄スワローズ」に入団した。

金田正一は、後に「通算400勝」を達成し、日本一の大投手になったが、この年(1950年)、8月以降の加入ながら、30試合 8勝12敗 防御率3.93という成績を残し、金田は、早くも素質の片鱗を見せている。

 

<1950(昭和25)年の広島カープ…原爆投下からの復興の象徴「広島カープ」が誕生するが、大苦戦でダントツ最下位に低迷>

 

 

 

 

1945(昭和20)年8月6日、広島に原爆が投下され、広島の街は壊滅したが、

それから5年、原爆投下からの復興の象徴として、「広島カープ」が結成された。

「広島カープ」初代監督を務めたのは、石本秀一であるが、石本は選手集めから始め、チーム結成のために奔走した。

石本監督が選手をかき集めたお陰で、「広島カープ」は結成に漕ぎ着ける事が出来たのである。

 

 

 

 

だが、「広島カープ」も、戦力不足は明らかであり、「広島VS西日本」の新球団同士の開幕戦に敗れたカープは、以後、負けに負けまくって、結局、この年(1950年)の「広島カープ」は、41勝96敗1分 勝率.299で、あの国鉄をも下回り、最下位に終わってしまった。

それでも、広島の人々は、「我らがカープ」を熱心に応援したが、この後、カープは早くも、球団存続の危機に陥ってしまうのである。

 

<1950(昭和25)年…伊藤久男『イヨマンテの夜』が大ヒット!!~アイヌの伝統の儀式を題材にした、歴史的名曲~NHK「のど自慢」で挑戦する人が続出!!>

 

 

 

 

1950(昭和25)年1月、『イヨマンテの夜』(作詞:菊田一夫、作曲:古関裕而、唄:伊藤久男)のレコードがリリースされると、『イヨマンテの夜』は、爆発的な大ヒットを記録した。

圧倒的な声量を誇る伊藤久男の本領が存分に発揮された、まさに歴史的名曲である。

 

 

 

この連載でも、度々書いているが、古関裕而・伊藤久男・野村俊夫は「福島三羽烏」として活躍し、

戦前の1940(昭和15)年には、この3人で『暁に祈る』という名曲を生み出した。

伊藤久男は、戦後、暫く低迷していたが、古関の励ましにより、『栄冠は君に輝く』を歌ったというのは、既に述べた通りである。

 

 

 

では、如何にして、『イヨマンテの夜』が生まれたのかというと、

朝ドラ『エール』でも描かれていたが、元々は、菊田一夫が脚本を書いた『鐘の鳴る丘』の劇中歌で、古関裕而が書いた「杣人(そまびと)の歌」が原曲である。

この曲は、アイヌの伝統的な儀式である「送り儀式」「熊祭り」を題材にしたものであるが、「杣人(そまびと)の歌」に自信を持っていた古関は、菊田一夫に掛け合い、この曲を『イヨマンテの夜』という曲に仕上げて、盟友の伊藤久男に歌わせた。

すると、伊藤が朗々と歌い上げる『イヨマンテの夜』は、大ウケし、爆発的な大ヒットを記録したのであった。

 

 

以後、1950(昭和25)年からの数年間、『イヨマンテの夜』はロングヒットを続け、

NHK「のど自慢」(※当時はラジオ番組)でも、『イヨマンテの夜』に挑戦する人達が、後を絶たなかった。

なお、朝ドラ『エール』のお陰で、『イヨマンテの夜』は再び脚光を浴びているが、私も、この独特なメロディーに、すっかり魅了されてしまっている。

 

<1950(昭和25)年6月25日…北朝鮮が韓国に突如、侵攻し「朝鮮戦争」が勃発!!>

 

 

藤本英雄が、史上初の「完全試合」を達成する3日前、

北朝鮮が、突如、韓国に侵攻し、遂に「朝鮮戦争」が勃発した。

北朝鮮の進撃により、「冷戦」は遂に軍事衝突に発展したが、「朝鮮戦争」は日本にも大きな影響を及ぼした。

という事で、この後、どうなるのかについては、また次回。

 

(つづく)