1951(昭和26)年、古関裕而・菊田一夫の「ゴールデン・コンビ」は、『さくらんぼ大将』を大ヒットさせた。
そして、美空ひばりは『越後獅子の唄』、『私は街の子』、『あの丘越えて』という名曲を、次々と世に送り出し、
日本初の全編カラー映画『カルメン故郷に帰る』で、主演の高峰秀子が観客を魅了した。
また、プロ野球の「第1回オールスターゲーム」が開催され、大観衆が押し寄せた。
「朝鮮戦争」が膠着状態に陥り、「サンフランシスコ講和条約」が調印され、
「平和の風」が吹いた1951(昭和26)年、日本では華やかな話題が続いたが、
翌1952(昭和27)年は、世の中は騒然とした空気に包まれた。
そんな中、美空ひばりは『リンゴ追分』という名曲を歌い、江利チエミが『テネシー・ワルツ』で衝撃のデビューを飾ったが、
今回は、「紅白歌合戦と日本シリーズ」の「本編」の「第3回編」で描き切れなかった、1952(昭和27)年に、スポットを当ててみる事としたい。
<1952(昭和27)年の騒乱①~「サンフランシスコ講和条約」の調印で、吉田茂首相の人気は頂点に達するが…~「日米安保条約」で日本への米軍駐留が常態化し、新たな問題に>
1951(昭和26)年、「サンフランシスコ講和条約」の調印により、
日本は主権を回復、「独立」を果たす事となり、国際社会に復帰した。
この時、日本全権として「サンフランシスコ講和条約」に調印した吉田茂首相の人気は頂点に達し、
「吉田時代」は全盛期を迎える事となった。
だが、「サンフランシスコ講和条約」と同時に、
吉田首相は「日米安保条約」も締結しており、これにより、日本の独立後も、アメリカ軍は、引き続き日本に駐留する事となった。
つまり、米軍の日本駐留は常態化する事となったが、吉田首相は、事実上、日本の「国防」をアメリカに委ね、
日本は経済発展に専念するという事を選択したわけである。
だが、日本独自の防衛力を保持するため、吉田首相は、1950(昭和25)年に「警察予備隊」を組織していた。
<1952(昭和27)年の騒乱②~1952(昭和27)年の通常国会で、吉田首相は「自衛のための戦力は合憲」と発言⇒国会で審議中の「破防法」反対のため、日本各地でデモが激化>
「日本国憲法」では、第9条により、日本は軍隊を持つ事を放棄しており、
それが「平和憲法」と称される所以となっていたが、今まで述べて来た通り、
当時の世界情勢は、「東西冷戦」が激化しており、日本としても、「軍隊を持たない」という理想論ばかりも言っていられなくなりつつあった。
GHQのマッカーサー元帥も、「日本の自衛権を認める」と発言しており、事実上、日本の「再軍備」を認める姿勢を見せたが、
吉田首相は「再軍備には、お金がかかる」として、この提案を拒否していた。
だが、「やはり、自前の防衛力を持つ事は必要だろう」と、吉田首相も考えるようになっていた。
1952(昭和27)年1月、通常国会で吉田首相は、「防衛隊創設」について言及したが、
これに対し、東京・新宿で反対デモが起こった。
当時は、まだ戦争が終わってから、それほど時間が経っておらず、人々の「戦争アレルギー」「軍隊アレルギー」は非常に強かった。
従って、吉田首相の発言は「再軍備」を示唆したものとして捉えられ、多くの人達が過敏に反応したのである。
その後、同年(1952年)3月、吉田首相は、通常国会で「自衛のための戦力は合憲である」と発言し、更に、火に油を注ぐ事となった。
また、当時は、日本各地で、デモやストが相次いでいた。
政治的なデモもあれば、職場の待遇改善を求めるストも頻発しており、政府は、これらの取り締まりに対し、頭を悩ませていた。
「デモやストは、共産党が裏で糸を引いている」
当時、日本共産党は「暴力革命」路線を敷いているとされ、政府は、これを危険視していたが、
共産党が、日本各地のデモやストを、裏で扇動しているとして、危険なデモやストを防止するための法律「破壊活動防止法(破防法)」を、政府・自由党は、国会に提出していた。
すると、「破防法」について、日本中から、一斉に猛反発が起こった。
「破防法は、戦前の治安維持法復活に繋がるものだ!!」
として、日本中でデモやストが更に多発した。
中でも、吉田茂の母校・東大(東京大学)でも、学生が一斉に放棄し、連日、激しいデモが起こった。
吉田首相は、日本中で起こった、激しい「拒否反応」に、苛立ちを強めた。
「俺の気苦労など、誰もわかってない!!」
元々、吉田首相は、尊大な所が有ったが、その尊大な吉田首相に対しても、反感が高まって行った。
こうして、政府と民衆の間に不穏な空気が醸成され、一触即発の状態になった。
<1952(昭和27)年の騒乱③~1952(昭和27)年5月1日「血のメーデー事件」⇒同年(1952年)7月21日「破防法」施行>
1952(昭和27)年5月1日、政府と民衆との「対立」は、遂に頂点に達した。
この日、「メーデー」のために、皇居前広場に大群衆が集まっていたが、
日頃の政府に対する反発もあり、群衆が暴徒化し、大暴動が起こった。
これに対し、警官隊も応戦し、皇居前広場は大混乱に陥った。
結局、100人以上が逮捕され、200人以上が重軽傷を負う事態となったが、
これが、所謂「血のメーデー事件」である。
「血のメーデー事件」は、日本戦後史に残る大事件となったが、当時は、良くも悪くも、民衆がちょっとしたキッカケで大暴れするような空気が有ったという事であろう。
「血のメーデー事件」という大混乱を経て、
1952(昭和27)年7月21日、遂に「破防法」は施行された。
しかし、今日に至るまで、結局、「破防法」は殆んど適用されていない。
集会・言論の自由に抵触するとして、未だに反発が根強いからであろうか。
<1952(昭和27)年10月15日…「警察予備隊」を発展的解消⇒「保安隊」発足~日本政府は、事実上の「自衛のための軍隊」創設に踏み切る>
1952(昭和27)年10月15日、それまでの「警察予備隊」は発展的解消され、
新たに「保安隊」が創設された。
吉田首相は「保安隊は、軍隊ではない」と述べていたが、
これは、事実上の「自衛のための軍隊」創設に、他ならない。
この「保安隊」が、「自衛隊」と改称されるのは、この2年後(1954年)である。
<1952(昭和27)年のプロ野球…「フランチャイズ制」が施行される~現在に続く「3連戦」システムの採用>
1952(昭和27)年のプロ野球は、画期的な出来事が有った。
それまでのプロ野球は、ドサ回り興行が多く、本拠地は一応有るとはいえ、
同じ球場で、様々なカードの試合が行われる事も多かったが、
この年(1952年)から「フランチャイズ制」が施行され、各球団の本拠地は「保護地域」とされた。
これにより、各球団の本拠地が明確化し、今に続く「3連戦」システムも採用されたが、
「フランチャイズ制」施行により、人気球団と不人気球団の格差が、ハッキリと表れるようにもなった。
1952(昭和27)年当時の観客動員を見ると、一番の人気球団は巨人(60試合主催:98万4223人、1試合平均:1万6404人)で、次いで南海(60試合主催:66万1000人、1試合平均:1万926人)で、最低だったのは近鉄(60試合主催:9万5200人、1試合平均:1763人)だった。
近鉄が、年間通して、観客動員が10万人に届かないというのは、いかにも寂しいが、当時のパ・リーグの下位球団の不人気ぶりは、本当に悲惨であった(※今のパ・リーグ人気を見ると、隔世の感が有る)。
<1952(昭和27)年6月15日…大阪球場の巨人-松竹戦で、別所毅彦が9回2死から「完全試合」を逃す~別所の「完全試合」を阻止したのは、生涯ただ1本の安打を放った、神崎安隆(松竹)>
ところで、私が、昔のプロ野球の出来事や記録などを、色々と調べていて、
特に好きなエピソードが有るので、ここで、ご紹介させて頂きたい。
それが、1952(昭和27)年6月15日、大阪球場の巨人-松竹戦で、
巨人のエース・別所毅彦(巨人)が、9回2死まで松竹打線をパーフェクトに抑えながら、惜しくも、あと1人で「完全試合」を逃した時のエピソードである。
1952(昭和27)年6月15日、大阪球場での巨人-松竹戦で、
別所毅彦(巨人)は、松竹打線に全く付け入る隙を与えず、9回2死まで、松竹打線をパーフェクトに抑え込んでいた。
別所は「完全試合」まで、あと1人に迫ったが、別所の出来から見て、「完全試合」は、もはや間違い無しと思われた。
大阪球場は、異様な雰囲気に包まれていたが、ここで、松竹・新田恭一監督は、代打に、当時19歳の神崎安隆という選手を送り込んだ。
神崎安隆は、所謂「ブルペン捕手」であり、それまで、安打は1本も放っていなかったが、
「投手よりは、マシ」という事で、新田監督も、半ばヤケクソで、神崎安隆を代打に送ったのである。
マウンド上の別所も、「完全試合」を目前にして、流石に緊張していたが、
打席の神崎も必死に抵抗し、2度、セーフティ・バントを試みるなど、別所を揺さぶった。
そして、ボールカウントが2-3となった後の、運命の6球目、神崎は別所の投球に辛うじてバットを当てると、
打球は、ショート・平井三郎の前に緩く転がるゴロとなった。
平井は、必死に前進したが、前夜来の雨で、大阪球場のグラウンドはぬかるんでおり、打球は死んでいた。
その間、神崎も必死に走り、平井がボールを拾った時は、神崎は一塁ベースを駆け抜け、打球は内野安打となった。
こうして、別所は9回2死、あとアウト1つから、惜しくも「完全試合」を逃してしまったが、
神崎安隆が、プロで放った安打は、結局、後にも先にも、この1本のみであった(通算9打数1安打)。
つまり、神崎安隆の、生涯ただ1本の安打が、よりによって、別所の「完全試合」の夢を砕く安打(※しかも、当たり損ないの内野安打)になってしまった、というわけである。
別所は、生涯、この事を悔しがっていたが、この話を振られると、彼は物凄く不機嫌になったそうである(※その後、別所には「完全試合」達成のチャンスは二度と来なかった)。
という事で、運命の悪戯というか、野球は本当に面白いものだと思い、私は、このエピソードが、とても好きなのである。
なお、大投手・別所毅彦は、当然、球史に名を残しているが、たった1本の安打により、神崎安隆なる人物も、こうして、球史に名を残したのであった。
<1952(昭和27)年…脚本:菊田一夫、音楽:古関裕而のNHKラジオドラマ『君の名は』が、史上空前の大ヒット!!>
さてさて、「紅白歌合戦と日本シリーズ」の、「第3回(1952年編)」の「本編」で、既に書いた話ではあるが、
1952(昭和27)年といえば、NHKラジオドラマ『君の名は』が、空前の大ヒットとなった年である。
『君の名は』は、脚本:菊田一夫、音楽:古関裕而という「ゴールデン・コンビ」が手掛けた作品であるが、
菊田一夫、古関裕而の2人にとっても、忘れ難き作品になった。
『君の名は』は、1952(昭和27)年4月、NHKラジオで放送開始された。
当初、脚本の菊田一夫の構想では、『君の名は』は、複数の家族の群像劇にする予定だったのだが、
出演者の病気やら、それぞれの都合などで、なかなか全員が揃わない事態になってしまった。
毎回、元気にスタジオに来るのは、出演者の中では、後宮春樹役と、氏家真知子役の2人のみであった。
「おいおい、どうするんだ!?」
菊田一夫は頭を抱えたが、当時のラジオは全て生放送であり、
いくら出演者が揃わないからと言って、放送に穴を空けるわけには行かない。
そこで、菊田一夫は、当初の構想を放棄し、『君の名は』を、春樹と真知子のラブストーリーに絞る事とした。
しかも、毎回のように、放送当日までかかって、ギリギリで脚本を書き上げる始末であった。
音楽を担当する古関裕而は、スタジオに詰め、ハモンドオルガンで曲を演奏していたが、
菊田一夫の脚本は、いつもギリギリなので、毎回、ほぼ即興で作曲していたという。
また、登場人物が、ほぼ春樹と真知子しか居ないので、菊田一夫は、仕方なく、
「春樹と真知子は、逢えそうで、なかなか逢えない」
というストーリーにして、毎回、春樹と真知子は「すれ違い」を繰り返す内容にした。
当初、菊田一夫の脚本は、全くの「苦肉の策」だったのだが、
これが世間では大ウケし、春樹と真知子の「すれ違い」のドラマは、日本全国で、ラジオのリスナーを熱狂させた。
そして、『君の名は』の放送時間になると、「銭湯の女湯が、ガラ空きになった」と言われるほどの、記録的な大ヒットとなった。
という事で、どんなキッカケで大ヒット曲が生まれるのか、世の中、本当にわからないものである。
なお、遥か後年、2016(平成28)年に、新海誠監督のアニメ映画『君の名は。』が、爆発的な大ヒットを記録したが、
勿論、かつての伝説的なラジオドラマ『君の名は』をリスペクトし、タイトルを拝借したものであるというのは、言うまでもない。
という事で、昭和と平成で『君の名は』というタイトルの作品が大ヒットしたというのは、誠に面白いものである。
<1952(昭和27)年の美空ひばり①~ラジオ東京(TBS)ラジオドラマ⇒映画化された『リンゴ園の少女』の主題歌『リンゴ追分』が、爆発的な大ヒット!!~『リンゴ追分』は、美空ひばりの代表曲に>
さて、この年(1952年)、15歳になった、天才少女歌手・美空ひばりは、
またしても、歴史に残る名曲を、世に送り出した。
1952(昭和27)年、美空ひばりは、ラジオ東京(TBS)のラジオドラマ『リンゴ園の少女』に出演していたが、
『リンゴ園の少女』は大人気となり、その後、映画化される事となった。
その映画『リンゴ園の少女』の主題歌として、美空ひばりが歌ったのが、『リンゴ追分』である。
『リンゴ園の少女』では、美空ひばりは、
津軽で、祖父と2人でリンゴ園を営む少女に扮しているが、
この映画の劇中歌として、『リンゴ追分』(作詞:小沢不二夫、作曲:米山正夫)を披露している。
美空ひばりは、当時15歳の女の子であるが、まだ、あどけなさが残っている年頃なのに、
いざ『リンゴ追分』を歌い出すと、忽ち、プロの歌手の表情になり、情感タップリに、この曲を歌っている。
「リンゴの花びらが 風に散ったよな 月夜に月夜に そっと えええ…」
『リンゴ追分』は、サビの部分には歌詞は無く、「えええ…」と、独特の節回しで歌われている。
つまり、美空ひばりの表現力に、全てが委ねられているわけであるが、彼女は、いとも易々と、この難曲を歌いこなした。
そして、『リンゴ追分』は、爆発的な大ヒットを記録し、日本中、誰もが知っているような、美空ひばりの代表曲となった。
<1952(昭和27)年の美空ひばり②~ノリノリのダンス・ミュージック(?)『お祭りマンボ』が大ヒット!!>
1952(昭和27)年、美空ひばりは、もう1つ、大ヒットを飛ばしている。
それが、ノリノリなダンス・ミュージック(?)という趣が有る『お祭りマンボ』(作詞・作曲:原六朗)である。
「私の隣のおじさんは 神田の生まれで チャキチャキ江戸っ子 お祭りさわぎが大好きで ねじり鉢巻き 揃いの浴衣…」
と、畳みかけるように続く、アップテンポな曲を、美空ひばりは抜群のリズム感で、サラリと歌いこなしている。
「この人は、どんな曲でも、何でも歌えてしまうのか!?」
人々は、美空ひばりという歌手の、底知れぬ才能に驚愕した。
『リンゴ追分』、『お祭りマンボ』という、全く毛色が違う代表曲を立て続けにヒットさせ、美空ひばりは、更に快進撃を続けて行く。
<1952(昭和27)~1953(昭和28)年…空前のジャズ・ブームが日本中を席巻!!~「渡辺晋とシックス・ジョーズ」などが大人気に>
1952(昭和27)~1953(昭和28)年にかけて、日本では空前の「ジャズ・ブーム」が起こった。
終戦直後、GHQの占領下にあった日本では、米軍基地内で、ジャズが盛んに演奏されていたが、
米軍基地では、ジャズを演奏する人手が足りず、常にジャズバンドが求められていた。
そこで、当時、職にあぶれ、ロクに楽器も弾けなかったような人達が、猫も杓子もジャズを演るようになり、米軍基地内で演奏を行なった。
1952(昭和27)年、GHQの占領が終わり、日本が独立を果たすと、米軍基地でジャズを演奏していた日本人のジャズバンドが、日本中に散って行き、都会の盛り場で、盛んにジャズを演奏するようになった。
こうして、1952(昭和27)~1953(昭和28)年、日本に空前の「ジャズ・ブーム」が到来したが、
当時、最も人気が有ったジャズ・バンドは、渡辺晋、中村八大などが結成していた、「渡辺晋とシックス・ジョーズ」であった。
その他、沢山のジャズ・バンドが腕を競い合ったが、ジャズこそが、当時の最先端の音楽であり、
当時の日本中の人々は、ジャズに熱狂していたのである。
<1952(昭和27)年…ベレス・プラート楽団『マンボNo.5』『セレソ・ローサ』が大ヒット!!>
1952(昭和27)年は、ベレス・プラート楽団の『マンボNo.5』『セレソ・ローサ』が大ヒットしたが、
マンボのラテンのリズムが人々を高揚させ、異様な熱狂を生んだ。
あの美空ひばりの『お祭りマンボ』も、そういった下地が有ったからこそ、生まれた曲なのである。
<1952(昭和27)年…当時15歳の江利チエミ、『テネシー・ワルツ』で衝撃のデビュー!!>
1937(昭和12)年1月11日、東京・下谷で、クラリネット奏者だった父・久保益雄と、東京少女歌劇の女優・谷崎歳子夫妻の、
3男1女の末娘として、智恵美という女の子が生まれた。
この久保智恵美という女の子こそ、後の江利チエミである。
彼女は、幼い頃から、抜群に歌が上手い少女だったが、長じてから、本気でプロの歌手を目指すようになった。
何故なら、父は失業、母は病気で寝たきりになり、幼くして、彼女は「歌手で身を立て、家族を助ける」という事を、ハッキリと目標に定めていたからである。
そんな智恵美の決意を知り、家族は総出で、彼女を支えた。
1949(昭和24)年、12歳になった智恵美は、米軍基地内でのステージに立ち、
本格的に芸能活動を始めたが、進駐軍のステージに立った彼女は、少女とは思えぬ抜群の歌唱力で、米兵達から、大喝采を浴びた。
彼女は、英語を覚え、英語の歌も難なく歌いこなしたが、そんな彼女は、いつしか米兵達から、「エリー」という愛称で呼ばれるようになった。
その後、久保智恵美は、「エリー」という愛称から、「江利チエミ」という芸名を名乗るようになった。
1952(昭和27)年、江利チエミに、大きな転機が訪れた。
彼女は、米軍キャンプで、米兵から教えてもらった『テネシー・ワルツ』を持ち歌としていたが、
江利チエミは、レコード・デビューを目指し、『テネシー・ワルツ』を引っ提げ、各レコード会社のオーディションに挑戦したのである。
何社も落とされてしまったが、やがて、キング・レコードが彼女の歌声を評価し、遂にデビューが決まった。
こうして、1952(昭和27)年1月、江利チエミは『テネシー・ワルツ/カモンナ・マイ・ハウス』で、念願のレコード・デビューを果たした。
江利チエミは、『テネシー・ワルツ』というバラード曲を、優しい歌声で情感タップリに歌い上げ、
『カモンナ・マイ・ハウス』では、抜群のリズム感で、アップテンポな曲を楽し気に歌った。
それは、とても15歳の少女とは思えないような、素晴らしい歌唱力と表現力であった。
同年(1952年)、江利チエミは、映画『猛獣使いの少女』に出演し、
劇中で『テネシー・ワルツ』を披露したが、江利チエミは、「美空ひばり以来の天才少女」として、一躍、大ブレイクを果たした。
『テネシー・ワルツ』は大ヒットし、江利チエミは、音楽界に華々しく登場したのであった。
こうして、美空ひばり・江利チエミの、2大スターが並び立つ時代がやって来た。
<1952(昭和27)年…『テネシー・ワルツ』に対抗して作られた、神楽坂はん子『ゲイシャ・ワルツ』(作詞:西條八十、作曲:古賀政男)が爆発的な大ヒット!!>
この年(1952年)、『テネシー・ワルツ』の大ヒットに対抗して作られたのが、
神楽坂はん子が歌った『ゲイシャ・ワルツ』(作詞:西條八十、作曲:古賀政男)である。
『ゲイシャ・ワルツ』も、大ヒットを記録し、『テネシー・ワルツ』、『ゲイシャ・ワルツ』は、一世を風靡した。
このように、1952(昭和27)年は、ジャズやマンボの大流行もあって、音楽的にも、非常に野心的な作品が数多く生まれた。
<1952(昭和27)年…フィリピンに収監されていた、日本人の戦犯の釈放に寄与した、『ああモンテンルパの夜は更けて』>
もう一つ、この年(1952年)のヒット曲で、触れておきたい曲が有る。
それが、渡辺はま子は歌った、『ああモンテンルパの夜は更けて』である。
この年(1952年)1月、歌手の渡辺はま子は、フィリピンの国会議員から、
「今も、フィリピンの刑務所には、元日本軍の人達が、戦犯として、多数収監され、既に14人が処刑されている」
という、衝撃的な事実を知らされた。
渡辺はま子は、大きなショックを受けたが、同年(1952年)6月、彼女の元に、1通の封書が届いた。
そこには「モンテンルパの歌 作詞:代田銀太郎、作曲:伊藤正康」とあった。
それは、当時、フィリピンの刑務所に収監されていた、111人の日本人の、望郷の歌だったのである。
渡辺はま子は、この曲を、早速、ビクター・レコードに持ち込むと、
すぐさまレコーディングが行われた。
こうして、1952(昭和27)年9月、『ああモンテンルパの夜は更けて』と題されたレコードがリリースされるや、忽ち、大ヒットを記録した。
同年(1952年)12月25日、渡辺はま子は、この日本人達が収監されていた、フィリピンの刑務所に慰問に訪れ、
『ああモンテンルパの夜は更けて』などを歌ったが(※後年、渡辺はま子役を、薬師丸ひろ子が演じた)、
この曲が歌われた時、一斉にすすり泣きが起こり、最後は皆で立ち上がって、涙と共に大合唱となった。
やがて、この曲の大ヒットと、渡辺はま子らの運動が実り、翌1953(昭和28)年、フィリピン政府の恩赦により、この刑務所に収監されていた日本人は全員釈放され、日本への帰国を果たした。
これは、一つの歌が、一つの国家を動かし、理不尽な目に遭っていた人々を救い出したという、感動的なエピソードとして、今日まで語り継がれている。
(つづく)