紅白歌合戦と日本シリーズ① ~1950/1951 「第1回紅白歌合戦」と「毎日VS松竹」~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

昨年(2020年)12月31日に開催された、「第71回NHK紅白歌合戦」は、大変面白かった。

今回は、「コロナ禍」の影響により、史上初めて「無観客」で紅白が開催されたが、

無駄な演出も無く、出場歌手の歌だけにスポットを当てた、シンプルな構成が功を奏し、近年稀に見る、素晴らしい「紅白」だったと思う。

基本的には、毎年「紅白」を見ている、「紅白ウォッチャー」の私も、大満足の出来であった。

 

 

ところで、「NHK紅白歌合戦」が「第71回」なら、

プロ野球の日本シリーズも、昨年(2020年)の「ソフトバンク-巨人」の対決は、「第71回」の日本シリーズであった。

そう、つまり「紅白歌合戦」と「日本シリーズ」は、全く同じ回数であり、同じ歩みで歴史を刻んで来たのである。

私は、その事に目を付け、「紅白歌合戦と日本シリーズの歴史を、一緒に書いてみよう」と、思い付いた。

 

 

 

昨年(2020年)は、「コロナ禍」で、一時はどうなるかと思ったが、

「日本シリーズ」も「紅白歌合戦」も、共に「第71回」が無事に開催され、歴史は継続された。

という事で、今年(2021年)最初の記事は、この「紅白歌合戦と日本シリーズ」「第1回」について、書いてみたいと思う。

これは、実は、いつか書きたいと思っていたネタであり、遂に書く時が来たか、といった感じである。

では、まずは1951(昭和26)年1月3日に開催された、「第1回NHK紅白歌合戦」に先立ち、

終戦直後の1945(昭和20)年12月31日に開催された、「紅白」の源流であり、「第0回NHK紅白歌合戦」とも言うべき、

「紅白歌試合」について、少しだけ、ご紹介させて頂く。

 

<1945(昭和20)年12月31日~終戦直後の日本国民を励まそうと、NHKラジオの特別番組「紅白音楽試合」が開催!!~NHKディレクター・近藤積が剣道部出身だった事から、「紅白音楽試合」と命名される>

 

 

 

現在、NHKが公式に「第1回NHK紅白歌合戦」として認定しているのは、

1951(昭和26)年1月3日に、ラジオの特別番組として放送されたものであり、

以後、今日に至るまで、「71回」を数える、伝統と格式有る特別番組となっているが、

実は、その6年前に「紅白」の「源流」とも言うべき特別番組が有った。

それが、終戦から僅か4ヶ月後の大晦日、1945(昭和20)年12月31日にNHKラジオで放送された「紅白音楽試合」である。

 

 

 

2018(平成30)年12月31日に放送された、「第69回NHK紅白歌合戦」(※サザンとユーミンが共演した、伝説の回である)にて、この1945(昭和20)年の「紅白音楽試合」の誕生秘話について、チコちゃん岡村隆史が「紅白」の舞台に登場し、紹介していた。

そもそも、何故、「紅白」が「紅白」というネーミングになったのか、というと、下記のような理由だったからだという。

 

 

 

 

終戦直後の、荒廃した日本を励まそうと、当時のNHKのディレクター・近藤積が、

NHKラジオで、大晦日に音楽の特別番組を放送しようと思い立ったのだが、その近藤積は剣道部出身だったという。

そこで、出場歌手を男女のチームで分けて、女性を「紅組」、男性を「白組」と名付け、番組名を「紅白音楽試合」としたが、それは、剣道の紅白試合から取られたものであった、というようなエピソードである。

…という事であるが、今回の記事の主眼は、この時の「第0回」の「紅白」ではなく、改めて1951(昭和26)年1月3日に放送された「第1回NHK紅白歌合戦」についてである。

従って、1945(昭和20)年の「紅白音楽試合」については、別途、改めて詳細を書かせて頂く事としたい。

 

<1950(昭和25)年のプロ野球…大喧嘩の末に「セ・リーグ」と「パ・リーグ」に分裂し、「2リーグ制」がスタート!!~セ・パ両リーグは、苛烈な引き抜ぎ合戦で「仁義なき戦い」を繰り広げ、「不倶戴天の敵同士」に…同年(1950年)はオールスターゲームも開催されず>

 

 

 

さてさて、「第1回NHK紅白歌合戦」よりも前に開催された、1950(昭和25)年のプロ野球の状況について、話を進める。

このブログでは、折に触れて書いて来た事であるが、プロ野球は1949(昭和24)年までは「1リーグ8球団制」だったが、

同年(1949年)のシーズンオフ、毎日新聞がプロ野球への新規加盟を申請した事に端を発し、

既存の8球団は、毎日の加盟賛成派と反対派に、真っ二つに分かれ、結局、2つのリーグに「分裂」してしまった。

その辺りの詳細は、このブログでも詳しく書いて来たので、ここでは割愛するが、

読売新聞(巨人)が中心の「セントラル・リーグ(セ・リーグ)」8球団と、

新加盟の毎日新聞(毎日オリオンズ)が中心の「パシフィック・リーグ(パ・リーグ)」7球団という、

2リーグ制の時代が、期せずして始まったわけである。

 

 

新球団の加盟が相次ぎ、プロ野球は、1949(昭和24)年までの「1リーグ8球団制」の時代から、

1950(昭和25)年には、一挙に「2リーグ15球団制」へと、球団が、ほぼ倍増してしまった。

そのため、各球団とも、お金に物を言わせた、苛烈な引き抜き合戦を繰り広げた。

それは、さながら「仁義なき戦い」であったが、この引き抜き合戦のせいで、両リーグ間には、抜き難い「憎悪」が生まれてしまった。

セ・リーグとパ・リーグは「不倶戴天の敵同士」になってしまい、この年(1950年)はオールスターゲームも開催されなかったのである。

 

<新球団・毎日オリオンズのチーム編成①~都市対抗野球の優勝チーム「別府星野組」のメンバー達を、そのまま大量に採用~荒巻淳・西本幸雄らが「毎日」に入団>

 

 

 

さて、兎にも角にも、プロ野球に参入を果たした、新球団・毎日オリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)は、

大急ぎで、チームを編成する必要に駆られていた。

オリオンズの母体・毎日新聞は、社会人野球の「都市対抗野球大会」を主催していた事もあり、社会人野球と関係が深かった。

そこで、毎日オリオンズは、1949(昭和24)年の「都市対抗野球」で優勝した「別府星野組」の主力メンバー達を、そのまま大量に採用した。

 

 

 

その「別府星野組」出身のメンバーの中には、

「火の玉投手」と称された荒巻淳や、後に大毎・阪急・近鉄の3球団を優勝させ、「闘将」と称される事となる、西本幸雄らが居た。

こうして、毎日オリオンズは、まずは幸先良く、社会人野球の有望選手を結成メンバーとする事が出来た。

 

<新球団・毎日オリオンズのチーム編成②~毎日が阪神タイガースから若林忠志・土井垣武・別当薫らを、ゴッソリと「大量引き抜き」!!~毎日は阪神ファンにすっかり嫌われ、「悪役」のような存在に…⇒上岡龍太郎、この時の義侠心から阪神ファンに!?>

 

 

先程、私は、セ・リーグとパ・リーグの間で、苛烈な選手の引き抜ぎ合戦が有り、

それは「仁義なき戦い」であったと書いた。

その最たるものと言えば、毎日オリオンズが、阪神タイガース主力選手を、ゴッソリと引き抜いてしまった事であろう。

毎日は、若林忠志・土井垣武・別当薫・本堂保次・呉昌征らの主力選手を、一挙に引き抜いてしまった。

当時の阪神の主力で、毎日に移籍しなかったのは藤村富美男ぐらいのものであり、後は全員、毎日に行ってしまった。

当然、これで阪神の屋代骨はガタガタになってしまい、阪神は壊滅状態になってしまったが、このため、毎日は阪神ファンから、すっかり嫌われてしまったのである。

毎日は、スタート早々、「悪役」になってしまった。

なお、毎日が何故、こんな事をやったのかと言えば、阪神が、当初は毎日の加盟賛成派だったのに、土壇場で反対派に寝返り、巨人の側に付いた。

毎日は、その事を根に持ち、阪神に「報復」をしたのだと、後に西本幸雄は語っている。

 

 

なお、余談であるが、熱狂的な阪神ファンとして知られる上岡龍太郎は、この時から、阪神を本格的に応援するようになったという。

「若林や土井垣や別当が、みんな、金で毎日に行った。でも、藤村だけは毎日には行かなんだ。それで、ホンマの事を言うと、僕はこの時から藤村富美男のファンになり、僕の阪神ファン人生は、この時から始まったんや」

と、後に上岡龍太郎は語っている。

ちなみに、上岡龍太郎は1942(昭和17)年生まれなので、毎日の大量引き抜き事件の時は、7歳の少年であった。

 

<繊維会社「田村駒」の社長・田村駒治郎がオーナーを務める「大陽ロビンス」⇒映画会社「松竹」に命名権(ネーミング・ライツ)を売却し「松竹ロビンス」誕生!!~小西得郎が監督を務め、真田重蔵・小鶴誠ら強力メンバーを揃える!!>

 

 

 

一方、セ・リーグでは、繊維会社「田村駒」の社長・田村駒治郎がオーナーを務める「大陽ロビンス」(※「太陽」から「点」を取るという意味で「大陽」を名乗った)が、積極的な動きを見せていた。

まず、田村駒治郎は、同族経営の会社では、どうしても球団経営には限界が有るとして、一つの手を考えた。

 

 

 

田村駒治郎は、球団経営は、従来どおり自分が行なうが、

映画会社「松竹」に、ロビンスの命名権(ネーミングライツ)を売却し、「松竹」にスポンサーになってもらった。

こうして、球団名を「松竹ロビンス」と改称した。

ちなみに「ロビンス」とは「駒鳥」の事であるが、勿論、これはオーナーの名前の「駒治郎」から取られている。

 

 

 

 

 

田村駒治郎オーナーは、新生「松竹ロビンス」の監督として、戦前から野球界で活躍していた小西得郎を起用した。

そして、小西得郎監督の下、「松竹ロビンス」は強力メンバーを揃えて行ったが、

中でも、大陽ロビンス時代からの生え抜きの大エース・真田重蔵と、大映スターズから引き抜いた小鶴誠が、投打の柱であった。

 

<「悪役」毎日オリオンズも、湯浅禎夫監督(※大正時代に「大毎球団」に在籍)の下、スタートを切る!!>

 

 

 

 

そして、すっかり「悪役」になってしまった毎日オリオンズは、そんな事はお構い無しに(?)、着々とチームの陣容を整えた。

監督には、大正時代に、大阪毎日新聞が結成していたノンプロ球団「大毎球団」に在籍経験が有った、湯浅禎夫が就任したが、

毎日は、何としてもパ・リーグ初年度で優勝しようと、本気で狙っていたのである。

だからこそ、あんな風に、なりふり構わない「補強」をしたわけだ。

こうして、毎日オリオンズも、プロ野球の荒海へと漕ぎ出して行った。

 

<1950(昭和25)年のプロ野球…セ・リーグは「松竹ロビンス」、パ・リーグは「毎日オリオンズ」が優勝!!~MVPは小鶴誠(松竹)・別当薫(毎日)、新人王は大島信雄(松竹)・荒巻淳(毎日)>

 

 

では、1950(昭和25)年のプロ野球が、どうなったのかといえば、

やはりというか、戦力補強が大変上手く行った、前述の2球団が、やはり強かった。

セ・リーグは「松竹ロビンス」が、パ・リーグは「毎日オリオンズ」が、それぞれ、ぶっちぎりで優勝を飾ったのである。

 

 

 

そして、両リーグのMVPは、下記の通りである。

セ・リーグMVP:小鶴誠(松竹) 打率.355 51本塁打 161打点

パ・リーグMVP:別当薫(毎日) 打率..335 43本塁打 105打点

 

また、両リーグの新人王は、下記の左腕投手2名であった。

セ・リーグ新人王:大島信雄(松竹) 34試合 20勝4敗 防御率2.03

パ・リーグ新人王:荒巻淳(毎日) 48試合 26勝8敗 防御率2.06

 

<セ・リーグは、「水爆打線」が大爆発した「松竹ロビンス」が優勝!!~小西得郎監督、史上初の「胴上げ」を受ける!!~「胴上げ」は「異常な状態の人をシラフに戻すため」!?(※byチコちゃん)>

 

 

 

 

 

 

セ・リーグ初代優勝チームとなった「松竹ロビンス」は、とにかく、打線が物凄い強力な球団であった。

各チームの主力選手の「寄り合い世帯」でありながら、百戦錬磨の小西得郎監督が、見事な統率力で、その猛者達を、よくまとめ上げた。

小西得郎は、田村駒治郎オーナーの期待に、よく応えてみせたのである。

松竹ロビンスは、2位・中日ドラゴンズに9ゲーム差という大差を付ける、独走優勝であった。

 

 

 

 

 

松竹ロビンスは、岩本義行-小鶴誠-大岡虎雄という、物凄い強打者の3~5番の「クリーンアップトリオ」が火を噴き、

年間通して、とにかく打ちまくったが、破壊力抜群の松竹打線は「水爆打線」という異名を取った。

何とも物騒な名前だが、それだけ、「水爆打線」は他球団の投手陣から恐れられたという事である。

 

 

ところで、前述の通り、1950(昭和25)年のセ・リーグMVPは、小鶴誠が受賞したが、確かに小鶴は文句無しの成績を残し、MVPは妥当と思われた。

しかし、松竹のエース・真田重蔵も、この年(1950年)は、61試合 39勝12敗 防御率3.05という、抜群の成績を残している。

従って、真田がMVPでもおかしくなかったのだが、結果としては小鶴が受賞してしまった。

真田は「沢村賞」は獲得したが、松竹は、チーム内で「小鶴派」「真田派」に分かれ、不穏な空気が漂っていたという。

投打の柱が、共に抜群の成績を残したからこそ、そういう事になってしまったとしたら、皮肉なものである。

 

 

ところで、松竹ロビンスが優勝を決めた時、小西得郎監督は、ロビンスの選手達から胴上げされたが、

実は、これが日本野球史上初の、優勝監督の胴上げであった。

以後、優勝監督が胴上げされるのは、日本野球の慣例となって行った。

 

 

 

 

 

そして、またまた「チコちゃん」ネタであるが、

チコちゃんによると、そもそも「胴上げ」というのは、元々は「異常な状態の人を、シラフに戻すため」という意味合いが有ったという。

それが、野球では優勝監督が胴上げされるようになった、というのが、実に面白い。

 

<1950(昭和25)年のパ・リーグ…毎日オリオンズが、投打に他球団を圧倒し、ぶっちぎりで優勝!!>

 

 

 

 

 

 

一方、パ・リーグは、呉昌征・別当薫・土井垣武・本堂保次ら、阪神からの大量引き抜きの主力選手達が、揃って活躍した事もあり、

毎日オリオンズが、2位・南海ホークスに15ゲーム差を付け、ぶっちぎりの大独走で、パ・リーグ初代優勝チームとなった。

前述の通り、新人王・荒巻淳も、26勝を挙げ、エースとして毎日投手陣を牽引したが、毎日は投打共に全く隙が無く、危なげなく突っ走ったのである。

 

<1950(昭和25)年…「松竹ロビンスVS毎日オリオンズ」で「第1回日本ワールドシリーズ」開催!!>

 

 

 

 

前述の通り、この年(1950年)は、セ・パ両リーグは激しく対立し、おーすスターゲームは開催されなかったが、

GHQの仲介により、両リーグは「和解」し、両リーグの優勝チーム同士による、「日本一決定戦」が開催される事となった。

こうして、アメリカ大リーグの「ワールドシリーズ」に倣い、「先に4つ勝った方が日本一」という、

「第1回日本ワールドシリーズ」が、「松竹ロビンスVS毎日オリオンズ」という顔合わせで、開催される事となった。

こうして、今に続く「日本シリーズ」の歴史が幕を開けたのである。

 

<1950(昭和25)年11月22日~11月28日…6球場持ち回りで「第1回日本ワールドシリーズ」開催~毎日オリオンズが、松竹ロビンスを4勝2敗で破り、毎日オリオンズが初代日本一!!>

 

 

 

では、スペースの都合も有るので、「第1回日本ワールドシリーズ」の試合経過を、簡単にご紹介させて頂く。

松竹も毎日も、決まった本拠地球場が無かった事もあり、「第1回日本ワールドシリーズ」は、全試合、各球場持ち回りで開催されたが、

これは、今に至るまで、日本シリーズ史上、唯一である。

1950(昭和25)年11月22日、「日本ワールドシリーズ」の記念すべき開幕戦は、神宮球場で行われ、始球式では、来日中のジョー・ディマジオ(ニューヨーク・ヤンキース)が打者、GHQのマーカット少将が捕手を務めた。

 

 

その第1戦、毎日の湯浅禎夫監督は、大方の予想では荒巻淳が先発すると思われていたところ、

何と、当時42歳の老雄・若林忠志を先発に起用し、ファンを驚かせた。

若林は、1ヶ月も前から、頭の中で、念入りに配球を組み立てて行ったという。

 

 

かつて阪神の大エースとして活躍した若林であるが、既に往年の力は無い。

しかし、若林は、実に頭脳的な投球で、1球1球を丁寧に投げ、松竹の「水爆打線」を翻弄して行った。

一方、松竹の先発は、大エースの真田ではなく、新人王・大島信雄である。

「真田は、一体どうしたのか?何故、投げないのか?」

と、様々な憶測を呼んだが、中には、松竹に「内紛」が有るのではと、勘繰る向きも有ったという。

 

 

 

 

試合は、若林忠志・大島信雄の両投手の投げ合いで、1-1のまま延長戦へと突入したが、

1-1の同点で迎えた延長12回表、毎日は、伊藤庄七が値千金の勝ち越し2点タイムリーを放った。

その裏、若林は松竹の反撃を1点に抑え、結局、42歳の若林が、延長12回完投勝利で、3-2で毎日が初戦を白星で飾った。

この若林の好投が、シリーズ全体の流れを決めたと言っても良かった。

 

 

 

続く第2戦は、場所を移して後楽園球場で開催され、

毎日・野村武史、松竹・江田貢という両投手が先発したが、

毎日は、野村が1失点完投勝利を挙げ、毎日が5-1で松竹を破り、毎日が連勝スタートとなった。

松竹は、相変わらず真田の登板は無かった。

 

 

 

 

11月25日、今度は試合会場は甲子園球場へと移り、第3戦が行われたが、

ここで漸く、松竹は真田重蔵が先発投手で登場したが、

真田は、シーズン中の状態からは程遠く、どう見ても本調子ではなかった。

どうやら、肩を痛めていたようであるが、もしかしたら、精神的にも、今一つの状態だったのかもしれない。

この第3戦はシーソーゲームとなり、4-6とリードされた9回裏、松竹は1点を返し、なおも1死満塁という好機となった。

ここで、松竹の2番・三村勲が、毎日・荒巻淳から、劇的な逆転サヨナラタイムリーを放ち、松竹が1勝をもぎ取り、対戦成績は松竹の1勝2敗となった。

 

 

 

 

11月26日、第4戦の舞台は、西宮球場である。

両チームの先発は、第1戦と同じ、毎日・若林忠志、松竹・大島信雄の両投手だったが、

今度は、若林が小鶴誠・岩本義行らの「水爆打線」に捕まり、投げても大島が完投勝利を挙げ、

松竹が5-3で毎日を破り、これで対戦成績は2勝2敗のタイとなった。

これで、シリーズの行方は、全くわからなくなった。

 

 

 

11月27日、2勝2敗で迎えた第5戦は、中日球場で開催された。

毎日・野村武史、松竹・真田重蔵の両先発で始まった試合は、1点を争う緊迫した展開となったが、

2-2の同点で迎えた9回表、毎日は2死1・2塁のチャンスを作ると、代打・片岡博国は一塁方向へ高いフライを打ち上げた。

この打球を追った、松竹の二塁手・金山次郎と、一塁手・大岡虎雄は激突してしまい、落球したが、その間、2塁ランナー・西本幸雄が決勝のホームを踏み、毎日が3-2で接戦を制した。

これで、毎日が遂に「日本一」に王手をかけた。

 

 

 

 

 

11月28日、毎日の3勝2敗で迎えた第6戦は、凄まじい点の取り合いとなった。

細かな試合経過は省くが、両チームの激しい攻防が続き、7-7の同点のまま、延長戦へと突入した。

そして、7-7の同点で迎えた延長11回裏、毎日は2死1・3塁のチャンスを作ると、

ここで打席に入った、毎日のラッキー・ボーイ、伊藤庄七が三塁ゴロを放った。

この時、松竹は総力戦で、三塁を真田重蔵が守っていたが、真田は二塁へ送球したところ、

何と、二塁手・金山次郎が、この送球を落球してしまい、その間に3塁ランナー・河内卓司がサヨナラのホームを踏んだ。

この瞬間、毎日が8-7でサヨナラ勝ちを収め、毎日オリオンズが4勝2敗で松竹ロビンスを破り、毎日の「初代日本一」が決定した。

そして、試合後には、毎日・湯浅監督の歓喜の胴上げが行われた。

 

 

 

 

こうして、毎日オリオンズが、記念すべき、「第1回日本シリーズ」を制し、「初代日本一」の栄冠を手にしたが、

MVPには、6試合で24打数12安打と大活躍した、別当薫が選出された。

まさに、毎日は「初代日本一」に相応しい、素晴らしい戦いぶりだったと言って良い。

そして、毎日オリオンズの伝統は、現代の千葉ロッテマリーンズへと引き継がれている。

 

 

 

一方、健闘空しく敗れてしまった松竹ロビンスは、

自慢の「水爆打線」は、シリーズを通して、本調子ではなく、エース・真田重蔵も不完全燃焼に終わってしまった。

そして、シリーズ終了後、小西得郎監督は、敗戦の責任を取って辞任してしまったが、

「江戸っ子」の小西にとって、「バカらしくて、やってられるか!!」という思いは有ったのかもしれない。

なお、この後、僅か3年後に、松竹ロビンスは大洋ホエールズと合併され、単独球団としての歴史に、アッサリと幕を閉じてしまうのである。

松竹ロビンスの、あまりにも短すぎる栄光であった。

 

<1951(昭和26)年1月3日…20:00~21:00の、NHKラジオの1時間番組として、「第1回NHK紅白歌合戦」開催!!~記念すべき第1回「紅白」の勝利は「白組」>

 

 

 

 

さてさて、「第1回日本ワールドシリーズ」が、大熱戦の末に幕を閉じた後、

翌1951(昭和26)年1月3日、記念すべき「第1回NHK紅白歌合戦」が開催された。

そう、日付を見て頂くとわかる通り、当時の「紅白」は年末ではなく、年明けに行われていたのである。

そして、「第1回NHK紅白歌合戦」は、20:00~21:00という、僅か1時間の番組として、NHKラジオで放送された。

当時は、日本には、まだテレビは無い時代であった(※テレビの登場は、2年後の1953(昭和28)年)。

そして、「第1回NHK紅白歌合戦」の出場者は、下記の通りである。

司会者は、紅組・加藤道子、白組・藤倉修一という両人であり、紅組・白組が交互に歌い、最後に勝敗を決めるというスタイルは、既にこの時から行われていた。

 

 

<紅組>

赤坂小梅(初)『三池炭鉱節』

暁テル子(初)『リオのポポ売り』

菊池章子(初)『母紅梅の唄』

菅原都々子(初)『憧れの住む街』

二葉あき子(初)『星のためいき』

松島詩子(初)『上海の花売り娘』

渡辺はま子(初)『桑港のチャイナタウン』

 

<白組>

近江俊郎(初)『湯の町エレジー』

楠木繁夫(初)『紅い燃ゆる地平線』

東海林太郎(初)『赤城かりがね』(?)

鈴木正夫(初)『常磐炭坑節』

鶴田六郎(初)『港の恋唄』

林伊佐緒(初)『銀座夜曲』

藤山一郎(初)『長崎の鐘』

 

 

 

 

ところがである。

この「第1回NHK紅白歌合戦」というのは、実は、NHKにも資料はあまり残っておらず、写真も殆んど残されていない。

ましてや、ラジオの音源なども残っていないため、紅白両軍が、どのような順番で歌ったのかという事や、歌われた曲名すら、曖昧な部分が多いという。

だが、この「第1回NHK紅白歌合戦」が始まるや否や、ラジオを聴いていた聴取者から、NHKに電話が殺到し、大反響だった事だけは確かなようである。

そして、審査の結果、藤山一郎キャプテンが率いる白組が、「第1回NHK紅白歌合戦」で勝利を収め、藤山一郎を中心に、「エイエイオー!!」という勝鬨が上がった、という記録が残されているという。

ともあれ、6年前(1945年)に一度だけ放送された「紅白音楽試合」は、装いも新たに「紅白歌合戦」として再スタートを切り、

第1回から、大好評となったのを受けて、以後、毎年放送される事となるのである。

国民的お化け番組「紅白歌合戦」の歴史は、こうして幕を開けたのであった。

 

(つづく)