紅白歌合戦と日本シリーズ【黎明編】~1945/12/31「紅白音楽試合」と、プロ野球復活~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

前回の記事で、私は「紅白歌合戦と日本シリーズ」の「第1回」について書いたが、

その時の記事でも少し書いた通り、現在、NHKが正式に「第1回 NHK紅白歌合戦」として認定されている、

1951(昭和26)年1月3日にNHKラジオで放送された「紅白歌合戦」の6年前の大晦日(1945(昭和20)年12月31日)、

「紅白」の「源流」とも言うべき特別番組が、NHKラジオで放送されていた。

その特別番組こそ、「紅白音楽試合」である。

 

 

というわけで、今回は「紅白歌合戦と日本シリーズ」の「黎明編」として、

1945(昭和20)年の「紅白音楽試合」誕生秘話と、同年(1945年)のプロ野球復活について、描いてみる事としたい。

長かった戦争が終わり、日本中が焼け野原となった中で、人々に活力を与えた物こそ、「音楽」と「野球」であった。

それでは、前置きはこれぐらいにして、まずは1945(昭和20)年8月15日、戦争の終わりを告げた、昭和天皇「玉音放送」の頃を、ご覧頂こう。

 

<1945(昭和20)年8月15日…昭和天皇の「玉音放送」で、「終戦の大詔」が発表~太平洋戦争の終結>

 

 

1937(昭和12)年に始まった日中戦争、そして1941(昭和16)年に始まった太平洋戦争により、

日本は、世界を相手に戦争を行なったが、日本は、やがて物資が枯渇し、戦況は見る見る内に悪化して行った。

そして、1945(昭和20)年、日本中はアメリカ軍から大空襲を受け、沖縄戦⇒原爆投下などで、甚大な被害を受けた。

そのため、昭和天皇は、これ以上は戦争を継続するのは不可能として、連合国が日本に突きつけた「ポツダム宣言」(無条件降伏文書)を受諾する事を決意した。

昭和天皇は、日本国民に向け、自らの言葉で、「終戦」を告げるために、レコード盤に「終戦の大詔」を録音した。

 

 

1945(昭和20)年8月15日の正午、日本国民に向けた「重大放送」が行われると、

新聞などで告知が有ったが、どんな放送が有るのか、何も知らされていない、当時の国民は、

「もしかしたら、いよいよ本土決戦が行われるのか」

と、予想する向きも有ったという。

当時、日本は既に、米軍の空襲により、甚大な被害を受けていたが、

そうなれば、更に多くの人達が亡くなり、日本という国は、草木一本、残らない程、壊滅的な被害を受ける事は明白であった。

 

 

 

だが、この「重大放送」というのは、前述の昭和天皇の「終戦の大詔」の発表であった。

所謂、昭和天皇「玉音放送」であるが、この時、日本国民は、漸く、長かった戦争が終わった事を知った。

つまり、日本は戦争に負けたのであるが、あまりにも膨大な犠牲を払い、日本中が廃墟と化した後、

日本の、長い長い戦争の時代は終わったのである。

 

<1945(昭和20)年8月30日…連合国軍総司令部(GHQ)の最高司令官・マッカーサー元帥が来日>

 

 

 

日本は戦争に負けたため、アメリカを中心とする、連合国軍総司令部(GHQ)に、占領される事となった。

1945(昭和20)年8月30日、そのGHQの最高司令官のダグラス・マッカーサーが来日し、厚木飛行場に降り立った。

このマッカーサーとGHQは、「紅白」誕生にも深く関わって来る事となるが、その事については、後述する。

ともかく、日本は、マッカーサー率いるGHQに支配される時代となった。

 

<1945(昭和20)年9月2日…アメリカ戦艦・ミズーリ号で、日本全権の重光葵・梅津美治郎が降伏文書に調印~太平洋戦争が正式に終結>

 

 

 

1945(昭和20)年9月2日、東京湾上に停泊する、アメリカ軍艦ミズーリ号で、

日本が「ポツダム宣言」を受諾し、無条件降伏を受け入れるという旨の降伏文書に調印するため、

日本全権の重光葵・梅津美治郎が、ミズーリ号の甲板を訪れた。

この時、日本が降伏文書に調印する瞬間を見届けようと、ミズーリ号は、ご覧の通り、アメリカ海軍の兵士達が、ビッシリと鈴なりになっていた。

 

 

そして、重光葵が降伏文書に調印し、ここに正式に太平洋戦争は終結した。

というわけで、日本では「終戦の日」といえば8月15日なのだが、

法的に、正式に戦争が終わった日は、実は9月2日の事である。

 

<日本中が焼け野原となる中、生きて行くために立ち上がった人々~焼け跡には「闇市」が立ち並ぶ>

 

 

 

戦争は終わったが、戦時中、日本は米軍から容赦ない空襲を受けていた。

そのため、漸く戦争が終わった時、日本中はご覧の通り、文字どおりの焼け野原で、廃墟と化していた。

日本は、戦争により、まさに何もかも失ってしまっていた。

 

 

 

だが、戦争が終わり、兎にも角にも生き延びた人達は、生きて行くために立ち上がった。

廃墟には沢山のバラックが立ち並び、焼け跡には沢山の「闇市」が並んだ。

こうして、戦後という時代が始まり、人々は、その日一日を生きて行くために、誰もが必死であった。

 

<戦後の「野球復活」~神宮球場はGHQに接収され、「ステートサイド・パーク」と改称させられるが、1945(昭和20)年10月28日「六大学OB紅白戦」、11月18日「全早慶戦」が開催>

 

 

GHQは、荒廃した日本人の人心を安定させるため、

占領政策の一環として、「野球と映画」を奨励した。

元々、日本人という民族は、大の野球好きであるが、

「日本人に、アメリカに対する悪感情を抱かせないためには、野球が一番」

という判断も有り、アメリカ生まれのスポーツである野球は、GHQにより、積極的に奨励されたのであった。

終戦直後、神宮球場はGHQに接収され、「ステートサイド・パーク」と改称させられてしまったが、

その「ステートサイド・パーク(神宮球場)」で、1945(昭和20)年10月28日「六大学OB紅白戦」、11月18日「全早慶戦」が開催され、「野球復活」の狼煙が上げられた。

戦争が終わってから、僅か2~3ヶ月で、しかも、まだまだ日本中が焼け野原だった時代に、早くも野球の試合が行われたというのは、驚嘆すべき出来事であった。

やはり、それだけ日本人は野球が好きだという事であろう。

 

<「昭和天皇よりも偉い」マッカーサー~戦後、日本の「文化復興」の機運が高まるが、GHQから様々な横槍が入り、日本文化への締め付けが行われる>

 

 

戦争が終わり、世の中が徐々に落ち着いて来ると、

人々は、食べて行く事だけではなく、「文化」を求めるようになって来るものである。

そこで、戦時中は軍部によって抑圧されていた、芸能や音楽などの復活、所謂「文化復興」の機運が高まった。

だが、当時の日本は、GHQに占領されており、GHQには絶対に逆らえない時代であった。

上の、昭和天皇とマッカーサーによる記念撮影に、その構図が象徴的に表れているが、

この写真などは、「マッカーサーは、昭和天皇よりも偉い」という事を印象付けるために、新聞で発表され、当時の日本国民にショックを与えた。

しかし、この時、実は昭和天皇は「私の身はどうなっても構わないから、飢えに苦しんでいる日本人を助けて欲しい」とマッカーサーに申し入れ、マッカーサーを感激させたというエピソードが残っている。

 

 

 

戦時中、日本国内では、アメリカ映画などは「敵国の映画」だという事で、全く上映が許されていなかった。

しかし、戦争が終わり、アメリカ映画が一気に「解禁」され、大量のアメリカ映画が日本で上映されたが、焦土と化した日本では、人々はアメリカ映画に飛び付き、夢中になった。

そこには、辛い現実をひと時でも忘れられるような、華やかで夢の有る世界が広がっていた。

そう、日本人は、映画という物がこの世に出来てから、アメリカ映画が大好きであり、戦時中、禁止されていたアメリカ映画を、また、見る事が出来るという事で、また大喜びで見に行ったのである。

というわけで、GHQの思惑どおり、日本人は「映画と野球」により、アメリカに対する憎しみや悪感情を、かなり和らげる事となった。

 

 

一方、GHQは、日本人による映画制作や、芝居などの内容については、厳しい制限を行なった。

軍国主義的な映画は勿論ダメ、封建的な思想を連想させる時代劇もダメ、歌舞伎も興行禁止…。

とにかく「あれもダメ、これもダメ」と、色々と注文を付け、映画のフィルムにも厳しい検閲を行なった。

とにかく、日本という国を効率的に占領するために、戦前の日本を想起させるような文化を禁止しようとしていたのである。

要するに、アメリカは日本を完全に「属国」扱いして、映画や芝居も、アメリカに都合の良い物しか、作らせないようにしていた。

「これじゃあ、戦前の軍部が、GHQに変わっただけじゃないか!!」

当時の日本映画界は、GHQに対して、激しい憤りと怒りを感じていた。

せっかく戦争が終わったのに、好きなように映画も作れないのでは、やってられないというのが、当時の日本映画界の偽らざる心境だった事であろう。

 

<黒澤明、映画『虎の尾を踏む男達』を巡り、GHQ検閲官と大喧嘩⇒『虎の尾を踏む男達』は上映中止に(※日本が独立を回復した後、1952(昭和27)年に漸く公開>

 

 

 

そんなGHQの横暴に対し、あの黒澤明監督も、激しい怒りを感じていた。

黒澤明は、戦前から戦後にかけて、歌舞伎の「勧進帳」をテーマにした、映画『虎の尾を踏む男達』を製作していたが、

せっかく完成した映画も、GHQから、何だかんだとイチャモンを付けられ、「こんな、くだらない映画を作って、どうする気だ」と言われてしまった。

そうまで言われ、黒澤明も、とうとう堪忍袋の緒が切れて、GHQの検閲官の「若造」に対し、こう言い放ったという。

「くだらん奴が、くだらんという事は、くだらんものではない証拠であり、つまらん奴が、つまらんという事は、大変面白いという事でしょう」

黒澤明は、日頃の鬱憤を、ここぞとばかりにぶつけた。

黒澤に、そう言われたGHQの検閲官は、顔を真っ赤にして怒ったというが、

黒澤は「どうせ、こんな若造には、何の権限も無いだろう」という事で、「言いたい事を言ってやった」のだという。

だが、その後、『虎の尾を踏む男達』は、GHQにより上映中止が決定され、この映画が陽の目を見たのは、それから7年後、日本が独立を回復した、1952(昭和27)年の事であった。

 

<1945(昭和20)年11月…菊田一夫・古関裕而のコンビで、戦後初のNHKラジオドラマ『山から来た男』が放送>

 

 

 

1945(昭和20)年11月、演出家・菊田一夫、作曲家・古関裕而のコンビで、

戦後初のNHKラジオドラマ『山から来た男』が放送された。

菊田一夫・古関裕而は、戦前にもコンビを組んだ事が有ったが、この2人は妙に馬が合った。

『山から来た男』も、2人のコンビネーションで、大変面白い作品に仕上がり、連続ラジオドラマとして大好評を博した。

後に、菊田一夫・古関裕而名コンビは、『君の名は』など、名作を次々に世に送り出す事となる。

なお、菊田一夫は、後に「紅白音楽試合」にも、大きく関わる人物である。

 

 

ちなみに、NHKの朝ドラ『エール』では、菊田一夫がモデルの池田二郎(北村有起哉)、古関裕而がモデルの古山裕一(窪田正孝)が、コンビを組んで、名作ラジオドラマを次々に生み出して行く様子が描かれていたが、

当時のラジオドラマは、全て生放送であり、やり直しの利かない「一発勝負」であった。

これは、「紅白音楽試合」も、勿論そうであり、「紅白」でも、色々とドタバタ劇が有った。

 

<1945(昭和20)年11月23日…戦後初のプロ野球「東西対抗戦」が神宮球場(ステートサイド・パーク)で開催され、プロ野球が「復活」!!~新鋭・大下弘(セネタース)が颯爽と登場>

 

 

 

1945(昭和20)年11月23日、神宮球場(ステートサイド・パーク)で、

戦後初のプロ野球の試合となった「東西対抗戦」が開催された。

終戦後、僅か3ヶ月にして、紆余曲折を経て、プロ野球は「復活」を果たした事となるが、

この「東西対抗戦」で、颯爽とデビューしたのが、新鋭・大下弘(セネタース)である。

大下弘は、「戦後初のホームラン」を放つなど、「東西対抗戦」で大活躍し、一躍、大スターとなって行くのであるが、

今回の記事の主眼は「紅白音楽試合」についてであり、この「東西対抗戦」と、大下弘の大活躍については、

また改めて、別の機会で述べる事としたい。

 

<1945(昭和20)年10月11日…映画『そよかぜ』公開~主演・並木路子が歌った『リンゴの唄』は、後に「戦後初の大ヒット曲」に!!>

 

 

 

 

さて、プロ野球「東西対抗戦」で、大下弘が颯爽とデビューする、その少し前、

1945(昭和20)年10月11日に、映画『そよかぜ』が公開された。

『そよかぜ』は、並木路子が主演であり、レビュー劇場の照明係だった女の子が、周囲の人々の支えもあり、

やがて、歌手としてデビューし、スターになって行く…という、所謂「スター誕生」の物語である。

映画の出来自体は、ハッキリ言ってそれほどでもなく、興行的にも今一つだったようだが、

この映画は、今や日本映画史に残る作品として、語り継がれている。

何故かといえば、主演の並木路子が、この映画の劇中歌として、あの『リンゴの唄』を歌っていたからである。

 

 

 

 

1921(大正10)年生まれの並木路子は、当時24歳だったが、

映画『そよかぜ』へ主演し、その劇中歌として『リンゴの唄』を歌った。

『リンゴの唄』は、作詞・サトウハチロー、作曲・万城目正のコンビで作られたが、

実は当時、並木路子は戦争により両親や兄を亡くしており、悲しみに打ちひしがれていたという。

だが、作曲者の万城目正は、彼女に対し、

「『リンゴの唄』は、人々に希望を与える歌だから、明るい声で歌って欲しい」

という注文を付けた。

そこで、並木路子は、肉親を亡くした悲しみを必死に堪え、努めて明るい調子で歌った、というエピソードが残っている。

 

 

 

こうして、『リンゴの唄』は誕生したが、実は、この年(1945年)は、『リンゴの唄』はレコード化はされておらず、『リンゴの唄』がレコード化され、大ヒットしたのは、翌1946(昭和21)年であった。

つまり、当初は、劇場で映画『そよかぜ』を見た人しか、『リンゴの唄』は聴いていなかったのだが、

やがて、年末の「紅白音楽試合」で、並木路子が『リンゴの唄』を歌ったのをキッカケに、『リンゴの唄』は大ブレイクを果たすのである。

そして、大下弘並木路子は、戦後日本の復興の象徴的存在となって行く。

 

<NHK音楽部のディレクター・近藤積が、「人々に希望を与えるため」の、大晦日の特別音楽番組を企画⇒剣道部に在籍していた経験から「紅白歌合戦」というタイトルを思い付く⇒GHQからの横槍で「紅白音楽試合」というタイトルに決定!!>

 

 

 

さてさて、そんな風に役者が揃って来たところで、「紅白音楽試合」誕生の話を書く。

1945(昭和20)年の終戦直後、NHK音楽部のディレクター・近藤積は、

「人々を元気付けるため」に、この年(1945年)の大晦日に、NHKラジオで、特別音楽番組を作ろうと、思い立った。

大変な時代だからこそ、人々に希望を与えるような番組が必要であると、彼は確信していたのである。

 

 

 

 

 

近藤積は、「人気の流行歌手を揃え、男と女の2組に分かれ、対抗戦を行なう」という、番組の骨格を考えた。

そして、番組名については、彼が学生時代に剣道部に所属し、剣道の対抗戦である「紅白戦」に、よく出ていたという経験を活かし、

「紅白歌合戦」

というタイトルにする事を思い付いた。

そう、終戦から間もない時期に、今に続く「紅白歌合戦」の概念は、誕生していたのであった。

 

 

 

だが、またしても、ここでGHQから横槍が入った。

「戦争を想起させる、『合戦』という言葉を使うのは、けしからん!!」

と、GHQからイチャモンを付けられた。

そこで、近藤は「合戦」という言葉を使わず、「紅白音楽試合」という番組名に変更し、漸く、GHQの許可を得た。

 

 

 

 

 

すると、今度は、出場歌手の1人だった、川田正子が歌う予定だった『兵隊さんの歌』について、

GHQから「兵隊の歌を歌うとは、何事か!?」という文句が付けられた。

全く、いちいちうるさすぎると思ってしまうが、やむなく、『兵隊さんの歌』は、歌詞の内容を変え、

『汽車ぽっぽ』という歌に、リニューアルされた。

結果として、『汽車ぽっぽ』は今も歌い継がれる名曲となったのだから、皮肉なものである。

なお、川田正子・孝子の姉妹は、童謡の歌い手として、当時、大人気であった。

 

<1945(昭和20)年12月31日…歴史的な「紅白音楽試合」がNHKラジオで放送!!~資料が少なく、謎多き「紅白音楽試合」>

 

 

 

という事で、様々な紆余曲折を経て、1945(昭和20)年12月31日、終戦の年の大晦日の夜、22時30分から、

NHKラジオで、歴史的な「紅白音楽試合」が放送開始された。

今に続く「紅白」の原型であり、「第0回紅白歌合戦」とも言うべき、記念碑的な番組である。

 

 

 

前述の通り、「紅白音楽試合」は、男と女が2組に分かれて、対抗戦を行なうという形式だったが、

紅組は女性軍、白組が男性軍であり、紅白両軍それぞれに司会者が居るというのも、今の「紅白」と同じである。

この「紅白音楽試合」で、紅組の司会を務めたのは、

戦前、SKD(松竹歌劇団)で、男装の麗人「ターキー」として大人気だった、水の江滝子である。

 

 

 

 

 

一方、白組の司会は、「ロッパ」こと「古川禄波」である。

言うまでもなく、「エノケン」こと榎本健一と、人気を二分していた喜劇役者であり、

「エノケン・ロッパ」と言えば、当時、知らぬ者は居ない、大スターであった。

という事で、紅白両軍とも、まずは司会者に大物を起用する事に成功した。

流石は、天下のNHKである。

ちなみに、古川禄波が、「紅白」の司会を頼まれたのは、何と、本番の数日前、12月25日頃だったというから、何とも呑気な時代であった。

 

 

「紅白音楽試合」の演出を手掛けたのは、前述の、あの菊田一夫であった。

菊田一夫といえば、演劇畑出身の人であり、演出家・脚本家として著名だったが、

「紅白」の番組プロデューサーも務めていたというのは、今から思えば、少し意外である。

 

 

 

では、1945(昭和20)年12月31日に放送された、「紅白音楽試合」の出場者を、ご紹介させて頂く。

なお、「紅白音楽試合」は、NHKにも殆んど資料が残っておらず、不明な部分の多い「幻の番組」であるが、流行歌手だけではなく、オペラ歌手、ヴァイオリニスト、琴や尺八の奏者も出演したというから、まさに「音楽試合」であった。

(※「紅白音楽試合」の曲順は不明であり、NHKの「紅白」歴史本では、50音順で紹介されている)

 

<紅組>

(※司会)水の江滝子『ポエマタンゴ』

芦原邦子『すみれの花咲く頃』

市丸『天竜下れば』

川崎弘子『六段の調べ』(琴)

川田正子『汽車ぽっぽ』

近藤泉『ユーモレスク』(ヴァイオリン)

小夜福子『小雨の丘』

長門美保『松島音頭』

並木路子『リンゴの唄』

比留間絹子四重奏団

『サンタルチア』(マンドリン)

二葉あき子『古き花園』

松島詩子『マロニエの木蔭』

松田トシ『村の娘』

松原操『悲しき子守唄』

 

<白組>

(※司会)古川禄波『お風呂の歌』

加賀美一郎『ペチカ』 

霧島昇『旅の夜風』

楠木繁夫『緑の地平線』

桜井潔楽団『長崎物語』

下八川圭祐『ヴォルガの舟歌』

浪岡惣一郎(曲目不明)

平岡養一『峠の我が家』(木琴)

福田蘭童『笛吹童子』(尺八)

藤原義江『出船の港』

松平晃『花言葉の唄』

柳家三亀松(新内流し)

(※2組不明)

 

 

上記の出場者を見ると、前述のように、流行歌手だけではなく、

クラシック畑の人や、マンドリンや琴や尺八の奏者など、

色々なジャンルの音楽の人達が出演していたようであり、なかなかバラエティに富んで、面白そうな内容である。

もしかしたら、今の「紅白」も、これぐらい多種多様なジャンルの人達が出場すれば、更に面白くなるかもしれない。

それはともかく、この「紅白音楽試合」は、何しろ初めての試みであり、舞台裏では色々とバタバタしていたようであるが、

2015(平成27)年、NHKでは、この「紅白」誕生秘話について『紅白が生まれた日』というタイトルで、ドラマ化している。

(※出演者:松山ケンイチ、本田翼、miwa、星野源、高橋克実など)

 

 

 

 

「紅白音楽試合」では、あの並木路子の『リンゴの唄』も披露されたが、

この時、多くの人達が、初めて『リンゴの唄』を聴いたという事になる。

そして、「紅白」をキッカケに『リンゴの唄』は大評判を呼び、翌年(1946年)のレコード化⇒大ヒットへと繋がって行く事となる。

ちなみに、前述の『紅白が生まれた日』では、miwaが並木路子の役を演じている。

 

 

 

「紅白音楽試合」は、1回限りの、大晦日の特別番組というつもりで製作されたので、

資料もあまり残されておらず、出演者自身も、当時は「紅白」と言われても、名誉な事でもなく、あまり覚えていない人が多かったようである。

だが、放送中から、NHKには聴取者からの反響の電話が殺到し、大評判だったという。

だが、とにかく慣れない事ばかりで、生放送ならではの失敗談も色々有ったようだ。

例えば、当初の予定では、番組の終わりで、徳川夢声が挨拶する予定だったのに、プロデューサーの菊田一夫が、

出場者の1人・伊藤久男の持ち時間である2分間を計算し忘れており、そのせいで、徳川夢声の挨拶の時間が無くなってしまった、という事も有ったようである。

しかし、その伊藤久男が出場していたかどうかも、実は曖昧であり、NHKに残された資料では、「紅白音楽試合」の出場者の中に、伊藤久男の名前は無く、このエピソードは菊田一夫の回想録にのみ、登場するという。

 

 

 

また、紅組の松田トシは出場しておらず、高峰秀子『煙草屋の娘』が歌われたという説や、

白組の「不明2組」は、伊藤武雄・永田絃次郎である、という説が有るという。

いずれも、真偽は不明であるが、何しろ、今から75年前の番組なので、色々とわからない部分が多い。

という事で、色々有った「紅白音楽試合」であるが、この6年後の1951(昭和26)年1月3日、改めて仕切り直しで「紅白」の「第1回」が放送され、「紅白」は今日まで続いているが、75年前の大晦日の「紅白音楽試合」が、全ての始まりであった。

 

(つづく)