【1960秋・早慶6連戦①】1960/11/6…「早稲田2-1慶応」~伝説の死闘の幕開け~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

今年(2020年)秋の東京六大学野球は、

明日(11/7)からの最終週の「早慶戦」で、早慶両校が、優勝をかけて激突する事となった。

つまり、早稲田と慶応の両校に優勝の可能性が有る、「天下分け目の早慶戦」である。

そして、私がもう何度も、このブログで書いて来たネタではあるのだが、

今から、ちょうど60年前の1960(昭和35)年秋、早稲田と慶応が優勝をかけて、計6度も激突した、

「早慶6連戦」という、伝説の死闘が有った。

 

 

本日(11/6)は、今から60年前の1960(昭和35)年11月6日、

その「早慶6連戦」の第1戦が行われた日である。

という事で、今回は「早慶6連戦」60周年を記念して、その6試合について、1試合ずつ「追体験」する記事を書いてみる事としたい。

それでは、まずは第1戦の前に、この「早慶6連戦」の前段階として、1960(昭和35)年春の東京六大学野球から、振り返ってみる事としたい。

 

<1960(昭和35)年春の東京六大学野球…法政が12年振りの優勝!!~優勝目前の早稲田は、慶応に連敗し、優勝を逃す>

 

 

 

1960(昭和35)年春の東京六大学野球は、早稲田法政が激しい優勝争いを繰り広げた。

石井連蔵監督率いる、早稲田のエースは、アンダースローの安藤元博投手であり、

安藤は、投げろと言われれば何連投でも辞さない、非常にタフな投手であった。

早稲田は、安藤の大車輪の活躍で、3カード連続で勝ち点を挙げた(※3カードを終えて、早稲田は6勝2敗、勝ち点3)。

一方、1948(昭和23)年秋に、エース・関根潤三投手で、戦後初優勝を達成して以来、

12年も優勝から遠ざかっていた法政は、服部力監督が就任して4年目を迎え、山崎正之、新山彰忠のWエースと、鈴木孝雄捕手のバッテリーを中心に、鉄壁の守備陣で、接戦を勝ち抜く野球で、法政は、開幕から慶応、明治、立教と3カード連続で勝ち点を奪い、法政は6勝1敗の「勝ち点3」で、優勝戦線のトップを走っていた。

 

 

こうして、「勝ち点3」同士の早稲田と法政が激突した「天王山」は、大接戦となった。

1回戦は、早稲田の安藤が完封勝利を収め、早稲田が2-0で勝利したが、

2回戦は、法政が4-2で逆転勝利を収め、1勝1敗で3回戦へともつれ込んだ。

そして、3回戦は、1-1で迎えた8回裏、早稲田の4番・徳武定祐のホームランが飛び出し、早稲田が2-1で勝利した。

これで、早稲田は法政との激闘を制し、早稲田は8勝3敗で「勝ち点4」となった。

一方、惜しくも早稲田に敗れてしまった法政は、最後の東大との対決に連勝し、9勝3敗の「勝ち点4」で全日程を終え、後は、最終週の早慶戦の結果次第で、法政優勝の可能性が残された。

 

 

 

 

 

その1960(昭和35)年春の最終週の早慶戦であるが、早稲田は「勝ち点」を取れば優勝、という状況だったものの、

早稲田は、2-3、2-3と全く同じスコアで慶応に連敗を喫してしまった。

早稲田のエース・安藤元博の連投にも関わらず、早稲田は「不覚」を取ったのである。

その結果、1948(昭和23)年秋以来、実に12年振りの法政優勝が決定し、法政野球部や学生、ファン達は、12年振りの歓喜に酔った。

 

 

 

一方、優勝を目前にしながら、慶応に連敗してしまった早稲田は、誠に悔しい敗戦となってしまったが、

慶応は、既に優勝の可能性は無くなっていたものの、

「たとえ優勝は無くても、早慶戦だけは勝たなければならない」

という、まさに「伝統の早慶戦」に懸ける意気込みが強く、慶応は意地を見せて、早稲田の優勝を阻止してみせた。

このように、「早慶戦」とは、早慶両校の、意地と誇りと名誉をかけた、特別な一戦なのである。

また、不思議と「早慶戦は、弱い方が勝つ」と、俗に言われるように、下馬評が低い方が勝つという「ジンクス」も有るようである。

 

<1960(昭和35)年春と秋の間に…その①~「60年安保闘争」が激化し、東大生・樺美智子が死去⇒日米安保条約改定は成立したが、岸信介首相は退陣>

 

 

 

さて、1960(昭和35)年春の東京六大学野球が、法政の12年振り優勝で幕を閉じた後、

1960(昭和35)年6月は、世の中が大変な事になっていた。

「日米安保条約」の改定を巡り、日本中で猛反発が起こり、連日、デモ隊が国会議事堂を取り囲む事態となっていたのである。

所謂「60年安保闘争」であるが、東大の学生を中心に結成された「全学連」が主導した、何万人、何十万人もの大群衆が、毎日毎日、「安保反対!!」というシュプレヒコールを上げ、そして、デモ隊と警官隊による小競り合いが続いていた。

 

 

 

1960(昭和35)年6月15日、デモ隊が国会議事堂への突入を試みた際に、

デモ隊と警官隊が激しく衝突する中で、デモ隊に参加していた東大生・樺美智子が亡くなるという、痛ましい出来事も有った。

こうして、「60年安保闘争」の火は燃え盛っていたが、6月19日、「安保条約」改定は国会で成立した。

 

 

 

 

 

「日米安保条約」改定を成し遂げた、岸信介首相は、当時、兎角に高圧的な姿勢が目立ち、

それが国民の反発を招いていたが、ともかく「日米安保条約」改定という所期の目標を、断固たる決意で達成した。

しかし、岸首相は、「安保闘争」という混乱を招いた責任を取り、6月23日、退陣を表明した。

なお、言うまでもなく、岸信介安倍晋三のお祖父さんである。

 

<1960(昭和35)年春と秋の間に…その②~「寛容と忍耐」「所得倍増」を掲げる池田勇人が後継首相に就任~日本は「政治の季節」から「経済の季節」へ>

 

 

 

1960(昭和35)年7月、岸信介首相の後を受け、自民党の後継総裁には、池田勇人が就任した。

そして、1960(昭和35)年7月19日、池田勇人内閣が成立したが、池田首相は、

初の女性大臣として、厚相に中山マサを起用している。

 

 

池田首相は、「安保闘争」で、日本国民が自民党と日本政府に対し、厳しい視線が送られている事を鑑みて、

まずは、ひたすら「低姿勢」に徹したが、池田首相は「寛容と忍耐」「所属倍増」というスローガンを掲げ、

「これからの日本は、経済成長に邁進する!!」

という方針を、ハッキリと打ち出した。

つまり、日本は「安保闘争」という「政治の季節」から、「経済の季節」へと移り変わって行ったのである。

 

<1960(昭和35)年春と秋の間に…その③~1960(昭和35)年の夏の甲子園で、法政の「弟分」の法政二高が優勝!!~田丸仁監督、エース・柴田勲の力投で、法政二高が深紅の大優勝旗を掴む>

 

 

 

1960(昭和35)年夏の甲子園は、名将・田丸仁監督が率いて、エース・柴田勲が大活躍した、

神奈川代表の法政二高が、強敵だった浪商・尾崎行雄を倒すなど、快進撃を続け、遂に法政二高が甲子園初優勝を果たした。

東京六大学野球の法政に続き、「弟分」の法政二高も頂点に立ったわけであるが、柴田勲は後に巨人に入団し、野手に転向して、スター選手となった。

また、田丸監督は、後に法政大学の監督に就任し、法政黄金期を築く事となる。

 

<1960(昭和35)年春と秋の間に…その④~「ローマオリンピック」と「ダッコちゃん人形」に沸いた、1960(昭和35)年夏>

 

 

 

 

1960(昭和35)年8月25日~9月11日、「ローマオリンピック」が開催され、

当時、徐々に各家庭に普及し始めていたテレビによって、日本でも多くの人が、「ローマオリンピック」を見る事が出来た。

恐らく、お茶の間で、人々がオリンピック中継を楽しむようになったのは、この時ぐらいからであろう。

 

 

 

「ローマオリンピック」といえば、何と言っても、男子マラソンで、

裸足のままに走り通して、金メダルを獲ってしまった、エチオピアのアベベである。

アベベは、一躍「裸足のアベベ」として、世界的に有名になったが、

エチオピアといえば、かつてはイタリアの植民地だった事もあり、

そのエチオピアの選手が、イタリアの首都・ローマで金メダルを獲ったというのは、何とも痛快であった。

 

 

「ローマオリンピック」が、大盛り上がりの内に幕を閉じると、

閉会式の会場では、「次は、東京オリンピック」という文字が、電光掲示板に映し出された。

そう、次回の1964(昭和39)年は、遂に「東京オリンピック」が開催されるのである。

当時の日本は、戦後復興が急ピッチで進み、まさに「東京オリンピック」に向けて、国民が一丸となっている観が有った。

 

 

 

 

「ローマオリンピック」で、日本中が盛り上がっていた頃、

同じ1960(昭和35)年夏に、何故か「ダッコちゃん人形」が、謎の大ブームを巻き起こした。

もし、当時の日本にSNSが有ったら、きっと「ダッコちゃん人形」で、みんな「インスタ映え」を狙い、夥しい数の写真がアップされたに違いないが、当時は、SNSはおろか、インターネットなど影も形も無い時代で、このような大ブームが起こったというのは、非常に興味深い。

ともあれ、日本という国は、時々、このような謎の大ブームが起こる、面白い国である。

 

<1960(昭和35)年秋…9月、「東京六大学野球」秋季リーグ開幕と、アメリカ大統領選挙の「ケネディ(民主党)VSニクソン(共和党)」のテレビ討論>

 

 

1960(昭和35)年9月17日、1960(昭和35)年の「東京六大学野球」秋季リーグが開幕した。

舞台は勿論、神宮球場であるが、当時、「東京六大学野球」は大変、人気が有り、

「早慶戦」だけでなく、他のカードでも、好カードであれば観客席は満員となり、

各校の熱戦に、応援団や学生、ファン達は大声援を送っていた。

 

 

 

さてさて、今まさに、今年(2020年)のアメリカ大統領選挙が行われており、

現職のアメリカ大統領、共和党のドナルド・トランプと、民主党の大統領候補、ジョー・バイデンが争っているが、

トランプバイデンによる大統領選挙は、何だか大変な泥沼の事態になっている。

そのアメリカ大統領選挙で、重要な要素となっているのが、大統領候補同士によるテレビ討論会であるが、その大統領候補同士によるテレビ討論会は、1960(昭和35)年の東京六大学野球の秋季リーグが開幕して間もない、1960(昭和35)年9月26日、民主党のジョン・F・ケネディ候補と、共和党のリチャード・ニクソン候補との間で、史上初めて行われた。

 

 

 

この1960(昭和35)年9月26日が、史上初の「アメリカ大統領選挙のテレビ討論会」となったわけであるが、

若きケネディ候補が、入念にメーキャップをして、テレビ映りが良くなるよう、意識していたのに対し、

ニクソンは、あまり顔色も良くないように映ってしまい、それが、大統領選挙の本番で、結果を大きく左右したと言われている。

当時は、既に「テレビ時代」が到来しており、当時43歳のケネディの方が、その時代の空気を、いち早く察していたわけである(※ニクソンは、当時47歳)。

そして、現代のトランプ大統領は、「SNS時代の申し子」のような所が有るが、今年(2020年)のアメリカ大統領選挙の最終的な決着は、果たして、いつになるのであろうか。

 

<1960(昭和35)年のプロ野球…早稲田OBの三原脩監督率いる大洋ホエールズが、「三原マジック」で初優勝⇒奇跡の日本一!!>

 

 

 

さてさて、話を1960(昭和35)年秋の、日本の野球界に戻す。

この年(1960年)のプロ野球は、早稲田OBで、かつて「早慶戦」でも大活躍した、三原脩監督率いる大洋ホエールズが、快進撃を続けていた。

大洋ホエールズは「6年連続最下位」に沈み、「万年最下位」と言われていたが、その大洋の監督に就任した三原脩は、「三原マジック」と称された、縦横無尽な采配により、大洋ホエールズを一躍、初優勝に導いてしまった。

 

 

 

そして、大洋ホエールズは、大毎オリオンズと対戦した日本シリーズでも、

大毎が圧倒的有利と言われた下馬評を覆し、何と、大洋は全て1点差で、ストレートの4連勝をやってのけ、大洋が、まさかまさかの「日本一」を達成してしまった。

この「三原マジック」による大洋の「日本一」は、世間をアッと驚かせた。

 

<1960(昭和35)年10月12日…「大洋VS大毎」の日本シリーズ第2戦の真っ最中、日比谷公会堂の「3党首・立会演説会」で、社会党・浅沼稲次郎委員長が、右翼少年・山口二矢に刺殺される>

 

 

 

前述の「大洋VS大毎」の、日本シリーズ第2戦が行われている真っ最中、

日比谷公会堂で、自民党・池田勇人(首相)、社会党・浅沼稲次郎、民社党・西尾末広という、

「3党首・立会演説会」が開催されていたが、その立会演説会で、社会党の浅沼委員長が、右翼少年・山口二矢に刺殺されるという、大変ショッキングな事件が起こった。

白昼堂々、衆人環視の中で起こった、衝撃的なテロ事件であり、この事件は世間を震撼させた。

騒然とした1年だった、1960(昭和35)年という年を象徴するような事件ではあったが、有ってはならない事件であった。

 

<1960(昭和35)年秋の「東京六大学野球」~「鬼の連蔵」石井連続監督の早稲田と、「エンジョイ・ベースボール」前田祐吉監督率いる慶応が、優勝争いを繰り広げる~「早慶戦」を前にして、慶応は「8勝2敗、勝ち点4」、早稲田は「7勝3敗、勝ち点3」>

 

 

 

という事で、「前置き」が長くなったが、ここからが今回の「本題」である。

当時、早稲田を率いていたのは、「鬼の連蔵」という異名を取り、

滅茶苦茶、厳しい猛練習で、選手を鍛え上げていた、当時28歳の石井連蔵監督である。

石井連蔵監督率いる早稲田は、1960(昭和35)年秋は、3カード連続で順調に「勝ち点」を挙げ、「勝ち点3」となった後、このシーズンで最下位に沈んだ、不振の明治相手に不覚を取ってしまった。

早稲田は明治と1勝1敗1分で、4回戦にもつれ込んだ後、1-1の同点で迎えた5回裏、石井監督がエース・安藤を登板させたが、

安藤は、連投に次ぐ連投で、疲労が蓄積していたのか、明治打線に捕まり、何と、この回、5安打で一挙7失点を喫し、早稲田は明治に、1-10で大敗してしまった。

これで、明治に「勝ち点」を落とした早稲田は、「7勝3敗、勝ち点3」で、「早慶戦」を迎える事となった。

 

 

 

 

一方、早稲田の「鬼の連蔵」とは対照的に、

選手の自主性を重んじて、「エンジョイ・ベースボール」を掲げ、慶応を率いていたのが、当時30歳の前田祐吉監督である。

前田祐吉監督率いる慶応は、立教・明治・東大・法政と、4カード連続で「勝ち点」を挙げ、

慶応は、「早慶戦」を前にして「8勝2敗、勝ち点4」という成績であった。

 

<1960(昭和35)年秋の「早慶戦」~早慶両校の「優勝」の条件とは!?>

 

 

という事で、1960(昭和35)年秋の東京六大学野球は、「早慶戦」の段階で、

優勝争いの行方は、早慶両校に絞られていた。

前述の通り、慶応は「8勝2敗、勝ち点4」であり、早稲田は「7勝3敗、勝ち点3」だったが、

1960(昭和35)年秋の「早慶戦」での、両校の「優勝」の条件は、下記の通りである。

 

・慶応(8勝2敗・勝ち点4)⇒早慶戦で「勝ち点」を取れば、慶応優勝

・早稲田(7勝3敗・勝ち点3)⇒早慶戦で連勝すれば、早稲田優勝

・早稲田の2勝1敗の場合⇒早慶両校が9勝4敗で並び、優勝決定戦(プレーオフ)

 

という事で、慶応は早慶戦で「勝ち点」さえ取れば、文句無しに優勝であるが、

早稲田も、この早慶戦で連勝すれば逆転優勝となり、

早稲田が2勝1敗の場合は、早慶両校が9勝4敗で並び、同率首位で優勝決定戦(プレーオフ)が行われる。

本当に、ワクワクするような状況であり、果たして、どのような戦いになるのか、野球ファンの注目が集まった。

 

<対照的な早慶両校の陣容~エース・安藤元博頼みの早稲田VSエース・清沢忠彦ら4人の先発投手を擁する慶応>

 

 

という事で、ここで、当時の早慶両校の陣容を、ご紹介させて頂く。

早稲田は、一にも二にも、エース・安藤元博投手が頼りであった。

早稲田には、安藤以外にも、金沢宏という投手が居たが、金沢は早慶戦の前に怪我をしてしまい、万全の状態ではない。

その安藤や金沢をリードするのが、捕手・野村徹である。

なお、安藤は3年生、野村は4年生である。

 

 

早稲田の野手陣は、何と言っても、4番・三塁の徳武定祐が軸となっていたが、

他にも、村瀬栄治、石黒行彦ら、強力な野手陣が居り、

彼らが、石井連蔵監督の下、「鉄の結束」を誇っていた。

 

 

一方の慶応は、左腕のエース・清沢忠彦を中心に、

清沢忠彦、角谷隆、三浦清、丹羽宏という、先発投手陣が4人も居るという、盤石の体制である。

彼ら4人は、いずれも好投手であり、前田祐吉監督が、彼らを状況に応じて、巧みに起用していた。

 

 

 

慶応の野手陣は、1番・遊撃手の安藤統夫、3番・中堅手の渡海昇二、4番・捕手の大橋勲らが中心であるが、

安藤は後に阪神、渡海、大橋は後に巨人に入団している。

それだけ、慶応野手陣も、非常に充実していたと言って良い。

その早慶両校が、いよいよ、1960(昭和35)年秋の「優勝」を懸けて、伝統の早慶戦で激突する事となった。

 

<1960(昭和35)年11月6日(日)…超満員の神宮球場で「早慶戦」1回戦が行われ、早稲田が2-1で先勝!!~歴史的な「死闘」が幕を開ける>

 

 

 

 

 

1960(昭和35)年11月6日(日)、遂に、天下分け目の大一番の「早慶戦」が、幕を開けた。

本来は、前日の11月5日(土)に始まる予定であったが、雨のため1日順延された上での試合開始である。

神宮球場は、何と65,000人もの大観衆で埋め尽くされ、ギッシリ超満員だったが、一塁側は早稲田、三塁側は慶応の学生が陣取った。

 

 

 

一塁側の早稲田側のスタンド上部では、早稲田のマスコット(?)だった、「フクちゃん」の巨大な看板が設置され、

三塁側の慶応側のスタンド上部では、当時、これまた慶応のイメージキャラクター(?)だった、「ミッキーマウス」の巨大な看板が置かれていた。

早稲田の「フクちゃん」は、恐らく、「早稲田っぽい角帽を被っているから」という理由で、早稲田のマスコット的な存在になっているのは何となくわかるのだが、何故、慶応のイメージキャラクターが「ミッキーマウス」だったのだろうか?

ちなみに、「東京ディズニーランド」が開園するのは、この時から23年後の、1983(昭和58)年の事である。

 

 

 

「早慶戦」1回戦の先発メンバーは、ご覧の通りであるが、

早稲田は安藤元博、慶応は清沢忠彦という、両校のエースが先発した。

神宮球場では、試合前から、早慶両校の応援団が主導し、試合が始まる遥か前から、両校の応援合戦がヒートアップしていた。

そして、13時32分、遂に運命のプレーボールの時を迎えた。

 

 

 

 

 

 

 

「早慶戦」1回戦は、1点を争う緊迫した展開となった。

0-0で迎えた5回表、早稲田は2死1・2塁のチャンスを作ると、2番・末次義久レフト線へタイムリー二塁打を放ち、早稲田が1-0と1点を先取すると、7回表、早稲田は2死1・2塁で3番・村瀬栄治タイムリーを放ち、早稲田が貴重な1点を追加し、2-0とリードを広げた。

早稲田の先発・安藤元博は、粘り強く投げ、8回まで慶応を無得点に封じていたが、

9回裏、慶応は漸く安藤を捉え、反撃に転じ、4番・大橋勲のタイムリーで1点を返し、1-2と1点差に迫った。

しかし、慶応の反撃もそこまでで、安藤が後続を抑え、結局、早稲田が2-1で慶応を破り、早稲田が先勝した。

 

 

こうして、早稲田は安藤の6安打1失点の完投勝利により、早稲田が「優勝」に「王手」を掛け、

早稲田側のスタンドは「紺碧の空」「都の西北」の大合唱で、大いに気勢を上げたが、勿論、慶応にも、まだまだ勝機は有った。

そして、これは、血みどろの「死闘」の始まりに過ぎなかったのである。

 

(つづく)