本日(11/3)は、今から7年前の、2013(平成25)年11月3日、
星野仙一監督率いる、東北楽天ゴールデンイーグルスが、球団創設9年目にして、初の「日本一」を達成した日である。
2013(平成25)年の、「楽天VS巨人」の日本シリーズは、楽天が4勝3敗で巨人を破り、楽天が「日本一」の座に就いた。
私は、今から7年前、このブログで、「楽天VS巨人」の日本シリーズで、
第6戦で、シーズン24勝無敗だった、楽天の大エース・田中将大が敗れ、3勝3敗にもつれ込んだ、という記事を、リアルタイムで書いていたのだが、実は、第7戦については書きそびれてしまい、今まで「放置」していた。
だが、その第7戦は、皆様もよくご存知の通り、楽天が3-0とリードした9回表に、田中将大が登場し、最後を田中が抑えて、楽天が見事に「日本一」を達成した。
あの時は、前日(2013/11/2)の第6戦で、田中将大は9回を完投し、2-4で敗れていたので、
まさか、第7戦は田中は出て来ないかと思ったが、星野仙一監督は、第7戦も田中をベンチ入りさせて、
そして、前述の通り、楽天が3-0とリードした9回表、星野監督は田中をマウンドに送り、
そして、田中は2死1・3塁というピンチを招いたものの、巨人を無得点に抑え、楽天「日本一」が達成された。
「打倒・巨人」に、生涯の全てを懸けて来た星野仙一監督は、
こうして遂に「打倒・巨人」の悲願を成し遂げ、「日本一」の胴上げを受けたわけであるが、
このような劇的な結末に至るまで、東北楽天ゴールデンイーグルスと田中将大には、様々な紆余曲折が有った。
というわけで、今回は、「楽天と田中将大の物語」を、楽天球団創設の経緯から、改めて振り返ってみる事としたい。
まずは、楽天球団誕生を語る上で欠かせない、2004(平成16)年の「球界再編騒動」から、話を始める事とする。
<2004(平成16)年の「球界再編騒動」…近鉄・オリックスの「合併」に端を発した、前代未聞の大騒動>
以前(2019/2/20)、私はこのブログでも書いたが、
2004(平成16)年に、「球界再編騒動」という、前代未聞の大騒動が有った。
それは、大阪近鉄バファローズとオリックスブルーウェーブの「合併」に端を発した、
プロ野球界全体を揺るがす、大事件であった。
という事で、以前(2019/2/20)の記事にも書いた、2004(平成16)年の「球界再編騒動」の事実経過を、まずはご紹介させて頂く。
【2004(平成16)年「球界再編騒動」の経緯】
① 1月31日 大阪近鉄バファローズが、球団の「命名権」(所謂、ネーミングライツ)の売却を発表
② 2月5日 他球団からの猛反発を受け、近鉄が「命名権」売却を撤回
③ 6月13日 マスコミによる報道で、大阪近鉄バファローズと、オリックスブルーウェーブの「合併」画策が表面化
④ 6月17日 パ・リーグの緊急理事会で、近鉄・オリックスの合併に4球団が賛同
⑤ 6月18日 プロ野球選手会が、近鉄・オリックスの合併への反対を表明
⑥ 6月21日 プロ野球実行委員会で、近鉄・オリックス以外の10球団が、近鉄・オリックスの合併を了承(※承認ではない)
⑦ 6月30日 ライブドアの堀江貴文社長(当時)が、記者会見で大阪近鉄バファローズの買収を希望すると表明
⑧ 7月7日 プロ野球オーナー会議で、近鉄・オリックスの合併を大筋で了承。その際に、近鉄・オリックス以外の合併(ダイエー、ロッテ、日本ハム、西武の4球団)も水面下で話し合われている事が判明
⑨ 7月8日 プロ野球選手会の古田敦也会長の「オーナーの方達と話し合いたい」という申し入れを、巨人・渡邉恒雄オーナーが「無礼な事を言うな、たかが選手が」と一蹴し、拒絶
⑩ 7月10日 プロ野球選手会が、「近鉄・オリックスの合併の1年間凍結」「近鉄球団の売却(ネーミングライツを含む)の再検討」などの要望を骨子とする声明を発表。認められない場合はストライキ決行も辞さずと決議
⑪ 8月10日 近鉄・オリックスの両球団が、合併の基本合意書に調印
⑫ 9月8日 オーナー会議により、近鉄・オリックス両球団の合併が正式承認
⑬ 9月9・10日 NPB(プロ野球機構)とプロ野球選手会の団体交渉が開催。ストライキは回避
⑭ 9月16・17日 NPB(プロ野球機構)とプロ野球選手会の団体交渉が開催。選手会によるスト決行が決定
⑮ 9月18・19日 プロ野球史上初のストライキが決行、全試合が中止
⑯ 9月22・23日 NPB(プロ野球機構)とプロ野球選手会の団体交渉により、「選手会が近鉄・オリックスの合併を認める」「翌年(2005年)から、パ・リーグに新球団が新規参入し、パ・リーグ6球団制が維持される」事で、最終合意に達する
⑰ 11月2日 東北楽天ゴールデンイーグルスの、2005年からの新規参入が決定
<球団経営に行き詰った近鉄球団の「命名権」売却をプロ野球全体で拒否⇒近鉄・オリックス「合併」発表⇒近鉄・オリックス「合併」に対し、ファンが猛反発⇒ホリエモン(堀江貴文)登場⇒もう1組の「合併」と「1リーグ10球団制」案が浮上⇒ナベツネの「たかが選手が」発言に世間が猛反発⇒プロ野球選手会が史上初の「スト」決行>
以前(2020/2/20)の記事に詳しく書いたので、ここでは、改めて簡単に「球界再編騒動」について、経緯をまとめてみる事とするが、
2004(平成16)年の1/31に、大阪近鉄バファローズが、球団の「命名権」(ネーミングライツ)を売却すると発表したものの、これは、他球団やプロ野球機構全体に反対され、近鉄は、この案を取り下げざるを得なかった。
当時、それだけ近鉄の球団経営は苦しく、「命名権」売却は「苦肉の策」だったのだが、これが却下されてしまった事により、事実上、ここで近鉄球団の命運は尽きてしまったのである。
その後、プロ野球シーズン真っ最中である6/13に、大阪近鉄バファローズとオリックスブルーウェーブの「合併」の話が表面化すると、世間は大騒ぎになったが、他球団とプロ野球機構側は、概ね、この「合併」を承認する方向で、話がまとまって行った。
当時、近鉄ファンをはじめ、プロ野球ファンは、「合併」に猛反発したものの、この時は、球団経営者側の論理が優先されてしまった。
つまり、ファンの声というのは一顧だにされずに、「合併」は、どんどん進められてしまったのである。
この時から、ファンによる「合併反対デモ」が盛んに行われるなど、騒ぎは大きくなるばかりであった。
そこに登場したのが、「ライブドア」の経営者で、当時31歳だった、堀江貴文なる青年であった。
所謂「ホリエモン」の登場であるが、6/30に、「ホリエモン」は、「近鉄球団買収」を表明した。
彼には、球団を買収し、経営して行くだけの充分な資金が有るというのである。
この「異端児」の登場に、特に近鉄ファンは大喝采し、「是非とも、球団を買ってくれ!!」と、「ホリエモン」に対し、熱い声援を送った。
そして、「ホリエモン」は「救世主」と崇められるまでになったが、つまり、「ホリエモン」こと堀江貴文が有名になったのは、この時の「近鉄球団買収」の表明の時であった。
だが、プロ野球機構側は、「ホリエモン」の事を全く相手にしなかったのだが、実は、当時のプロ野球機構側には、ある「思惑」が有った事が、すぐさま判明する事となる。
近鉄とオリックスの「合併」は、実は「球界再編」の一環であり、ある大きな「陰謀」の中の、一つの動きに過ぎなかった。
実は、もう1組の球団も「合併」し、「1リーグ10球団制」に、プロ野球界を「再編」しようというのが、当時のプロ野球のオーナー達の思惑だったのである。
もう1組の「合併」は、例えば、当時、親会社が経営危機に陥っていた「ダイエー」を軸に、「ロッテとダイエー」、「ロッテと西武」など、色々と取り沙汰されていたが、いずれにしても、パ・リーグの何処かの球団同士も「合併」するという前提で、オーナー達は暗躍していた。
これでは、ファン無視も良い所であるが、球団が減らされては、それだけ働き場所も減ってしまう事になる、プロ野球選手達も、この動きには猛反発する事となった。
当時、プロ野球選手会で、選手会長を務めていたのは、ヤクルトスワローズの古田敦也だったが、
古田は、オーナー達に対し、再三、面会を求めて、「合併凍結」を求めようとしていた。
しかし、オーナー達の策謀の中心だった、巨人のオーナーの「ナベツネ」こと渡邉恒雄は、7/8に、古田からの申し入れに対し、こう言い放った。
「無礼な事を言うな、たかが選手が!!」
何とも傲慢な物言いであるが、この発言により、世間も一気にオーナー達への反発を強め、選手会支持へと靡いた。
そういう意味では、ナベツネの「たかが選手が」発言は、球史を変える一言ではあった。
9/17、プロ野球選手会と、オーナー達との話し合いが決裂し、
遂に、古田敦也会長は、史上初の「ストライキ決行」を決断した。
この「スト決行」により、9/18~9/19の公式戦は全て中止になったが、オーナー達と選手会の対立は、抜き差しならない所まで行ってしまったのである。
古田選手会長にとっても、「スト決行」は苦渋の決断だったに違いないが、
同日(9/17)夜、フジテレビのスポーツ番組「すぽると」に生出演した古田敦也に対し、
ファンからの緊急アンケートでは、ファンは圧倒的に「スト決行」を支持している、という結果が示された。
そして、番組宛のFAXで、次々に古田に対する激励のメッセージが送られているのが紹介されると、
古田は、思わず大粒の涙を流した。
この日の「すぽると」は、私も見ており、テレゴングでの電話アンケートでも、勿論、賛成のダイヤルにかけたが、
この時の古田の涙は忘れられない。
なお、当時「すぽると」の司会だった、フジテレビ・三宅正治アナウンサーは、
「プロ野球ファンは、選手会の味方です」
と、言い切っていた。
<2004(平成16)年8月22日…駒大苫小牧、「夏の甲子園」で北海道勢として初優勝!!~決勝で「駒大苫小牧13-10済美」という壮絶な打撃戦を制す~当時1年生の田中将大はスタンドで応援~同日(2004/8/22)、アテネ五輪女子マラソンで、野口みずきが金メダル獲得>
さてさて、プロ野球界が「球界再編騒動」で大揺れに揺れていた頃、
その年(2004年)の夏の甲子園で主役となったのが、北海道代表の駒大苫小牧である。
それまで、甲子園では、東北から北の学校は一度も優勝した事が無かったが、
香田誉士史監督率いる駒大苫小牧は、「北の学校は、冬の間は野球の練習が出来ない」という「常識」を覆し、真冬の雪の中でも、平気で打撃練習を行なうなど、チーム強化に励んだ。
そして、この年(2004年)の夏の甲子園で、駒大苫小牧は快進撃を見せ、遂に駒大苫小牧は、夏の甲子園の初優勝を達成してしまった。
これは、北海道勢としては勿論、初めての快挙であり、駒大苫小牧の初優勝に、当時の北海道民は熱狂した。
しかも、駒大苫小牧と済美の決勝戦は、「駒大苫小牧13-10済美」という、壮絶な打撃戦を制して、駒大苫小牧が勝ったが、私も、当時、この決勝は、テレビ中継でリアルタイムで見ていて、大興奮であった。
ちなみに、この日(2004/8/22)、駒大苫小牧が夏の甲子園で優勝したのと、全く同日に、
アテネ五輪の女子マラソンで、野口みずきが、前回大会(2000年・シドニー五輪)の高橋尚子に続き、金メダルを獲得した、という大きなニュースも有った。
しかし、野口みずきの金メダルも、駒大苫小牧の初優勝も、どちらも同じぐらいの割合で、ニュースでは大きく取り上げられていたような記憶が有る。
どちらも、素晴らしい快挙には違いなかった。
というわけで、「駒苫」は一躍、北海道民の「英雄」となったが、
この時の「駒苫」で、当時1年生だった田中将大は、まだメンバーには入っておらず、
甲子園でも、控え部員として、スタンドで応援していた。
この田中将大が、球史の表舞台に登場して来るのは、この翌年(2005年)の事である。
<「球界再編騒動」~2004(平成16)年・秋の陣~ホリエモンが「仙台ライブドア・フェニックス」結成を表明⇒「後出しジャンケン」で、「楽天」三木谷浩史・社長が、「球界参入」を表明>
さて、話は、すったもんだの「球界再編騒動」に戻る。
駒大苫小牧の1年生・田中将大が、秋に発足した新チームで、メンバー入りを目指し、奮闘していた頃、
「球界再編騒動」は、新たな局面を迎えていた。
前述の「スト決行」を経て、オーナー側と選手会側が歩み寄り、最終的には、
「近鉄・オリックスの合併承認」と、「来年(2005年)から、パ・リーグに1球団を新規参入させ、パ・リーグは6球団で存続」
という2点が、オーナー側と選手会側で合意された。
その結果、いち早く「球界参入」を表明していた、「ライブドア」の堀江貴文社長が、再び活動を活発化させ、
10月に入ると、「ホリエモン」は元阪神のトーマス・オマリーを監督に招聘し、「仙台ライブドアフェニックス」を結成すると発表した。
このまま行けば、ライブドアが球界に参入するかと思われたが、
まるで「後出しジャンケン」のように、「楽天」の社長・三木谷浩史(当時39歳)が、
突如、「球界参入」を表明した。
三木谷浩史も、インターネットの買い物サイト「楽天」を作り、若くして財を成した実業家だったが、
実は、「ホリエモン」というのは、あまりにも「異端児」だったため、球界のオーナー達という「長老」には、あまり良く思われていなかった。
そこで、「ホリエモンよりは、マシ」という事で、球界のオーナー達から、「楽天」の三木谷浩史に、「球界参入」の打診が有り、三木谷も、それを受けたというのが、真相のようである。
それはともかく、「ライブドア」と「楽天」の、どちらが球界に参入するのかは、プロ野球実行委員会の「公聴会」で、両者からの直接ヒアリングにより決定される事となった。
<「ライブドア」(ホリエモン)VS「楽天」(三木谷浩史)の「球界参入」争いが勃発!!⇒「楽天」の新規参入が承認され、「東北楽天ゴールデンイーグルス」誕生!!>
「ホリエモン」は、「球界参入」に向けて、精力的に動いた。
「球界参入の際には、宜しくお願い致します」と、
当時の宮城県知事・浅野史郎に、いち早く挨拶に行ったのも、「ホリエモン」であり、
浅野知事も「ライブドアが、歴史の新しいドアを叩いてくれている」と言って、それを歓迎していた。
また、「ホリエモン」は、「楽天」の「後出しジャンケン」が、どうしても納得が行かず、
NHK仙台放送局で、テレビ出演した際に、そこに来た三木谷浩史を待ち伏せして、
「ちょっと、どういう事なんですか?」と、問い詰めるような一幕も有った。
「まあ、こうなった以上(※プロ野球実行委員会の公聴会で、どちらが参入するのか決定される)、お互い頑張りましょう」
三木谷は笑顔でそう言ったが、「ホリエモン」は、苦虫を噛み潰したような表情であった。
そして、2004(平成16)年10月の、プロ野球実行委員会の公聴会で、
「ライブドア」と「楽天」の両者の直接ヒアリングが行われたが、これは、初めから結果は決まっている、所謂「出来レース」であった。
プロ野球機構側は、最初から「ライブドア」を選ぶつもりは無く、色々と「ライブドア」に難癖を付けていた。
つまり、プロ野球側は、ハナから「楽天」を選ぶつもりだったのだが、今にして思えばであるが、後年、「ホリエモン」に色々と問題が発覚した事を思えば、ある意味、賢明な判断だったのかもしれない。
しかし、当時は、「ホリエモン」には同情的な見方が多かった。
こうして、2004(平成16)年11月2日、
プロ野球実行委員会は、最終的には「楽天」の球界参入を認め、
ここに「東北楽天ゴールデンイーグルス」のプロ野球参入が決定した。
三木谷浩史は、新生・楽天球団の監督に田尾安志、GM(ゼネラル・マネージャー)にマーティー・キーナートを就任させる事を、併せて発表した。
<2004(平成16)年の「球界再編騒動」の余波~経営危機に陥った「福岡ダイエーホークス」を、「ソフトバンク」孫正義が買収し、「福岡ソフトバンクホークス」も誕生~「楽天」「ソフトバンク」が球界に参入し、「ライブドア」が一敗地にまみれるという結果に>
さて、2004(平成16)年の「球界再編騒動」には、「東北楽天ゴールデンイーグルス」誕生の後にも「後日談」が有る。
前述の通り、当時、福岡ダイエーホークスの親会社だった「ダイエー」も経営危機に陥っており、
一時は、ダイエーも、「合併」の話が取り沙汰されていた。
このまま行けば、ダイエーも球団存続が危ぶまれていたが、この年(2004年)、王貞治監督率いる福岡ダイエーホークスは、パ・リーグ1位になりながらも、プレーオフで西武ライオンズに敗れ、リーグ優勝を逃すという「悲劇」も味わっていた。
そして、球団の先行きも不透明であり、ホークスの関係者も、不安な日々を送っていた。
そんな中、ホークス買収に名乗りを上げたのが、
IT企業「ソフトバンク」を一代で築き上げた、孫正義(当時47歳)であった。
2004(平成16)年シーズンオフ、孫正義の「ソフトバンク」は、福岡ダイエーホークスの「買収」を、プロ野球機構側に申し入れた。
そして、「ソフトバンク」は、球界参入の「加盟料」30億円をプロ野球機構に支払い、
正式に、「ソフトバンク」の球界参入が承認されたが、何故、プロ野球機構側に30億円を支払う必要が有るのかと言えば、それぐらい即金で払える財力が無ければ、球団経営など無理だという事と(※かつては、1年ぐらいで球団経営から撤退する企業も有った)、これから、長く球団を保有するという決意を確かめる意味も有るという。
ともあれ、「ソフトバンク」がホークスを買収し、2004(平成16)年12月24日、球団名は正式に「福岡ソフトバンクホークス」と決定された。
こうして、2004(平成16)年の「球界再編騒動」の結末は、「楽天」「ソフトバンク」が新たに球界に参入し、
「ライブドア」は一敗地にまみれる、という結果に終わったが、
「東北楽天ゴールデンイーグルス」の歴史は、このように、プロ野球の歴史上、稀に見る大騒動の末に始まったのである。
(つづく)