【今日は何の日?】1976/11/2…阪急ブレーブス、長嶋巨人を倒し日本一(前編) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

本日(11/2)は、今から44年前の、1976(昭和51)年11月2日、

上田利治監督率いる阪急ブレーブスが、3勝3敗で迎えた日本シリーズ第7戦で、長嶋巨人を破り、阪急ブレーブスが「2年連続日本一」を達成した日である。

そして、阪急ブレーブスは、実に日本シリーズで6度目の挑戦にして、初の「打倒・巨人」の悲願を達成した。

 

 

阪急ブレーブスは、西本幸雄監督時代に、5度、リーグ優勝を達成したが、

その5度とも、川上哲治監督率いる巨人という、分厚い壁に跳ね返され、全て、日本シリーズで巨人に敗退していた。

つまり、阪急ブレーブスにとって、「打倒・巨人」は、長年の「悲願」だったわけである。

 

 

 

しかも、1976(昭和51)年の日本シリーズは、先に阪急が3連勝で、「日本一」に早々と「王手」を掛けていながら、

そこから長嶋巨人の反撃に遭い、阪急は3連敗を喫し、3勝3敗で最終戦に持ち込まれるという、言わば、阪急にとっては「絶体絶命」の状況であった。

しかし、その土壇場の最終戦で、阪急のベテラン・足立光宏投手の完投勝利で、阪急が遂に4-2で巨人を破り、上田監督が後楽園球場で悲願の「日本一」の胴上げを受けた。

という事で、今回は阪急ブレーブスの「打倒・巨人」達成までの道のりに、スポットを当ててみる事とするが、

まずは、その「前編」として、西本幸雄監督時代の阪急ブレーブスの、1967(昭和42)~1969(昭和44)年の、リーグ初優勝からの「3連覇」と、日本シリーズでの川上巨人との対決について、ご覧頂こう。

 

<1967(昭和42)年10月1日…阪急ブレーブス、球団創立32年目の「初優勝」!!~西本幸雄監督、西京極球場で「阪急初優勝」の胴上げ~試合後の祝勝会で西本監督は大ハシャギして、選手を驚かせる!?>

 

 

 

 

 

1967(昭和42)年10月1日、西本幸雄監督率いる阪急ブレーブスは、

「マジック2」で、西京極球場での阪急-東映戦のダブルヘッダーに臨んだが、

阪急は、第1試合で東映を破り、「初優勝」に「王手」を掛けると、

阪急の第2試合の最中に、2位・西鉄が敗れたため、この時点で阪急ブレーブスの球団創立32年目の「初優勝」が決定した(※75勝55敗4分 勝率.577)。

 

 

 

第2試合は、日没コールドで、阪急は8-11で敗れたが、その試合終了後、西京極球場は、この時を待ちに待っていた阪急ブレーブスの選手達と阪急ファンによるお祭り騒ぎとなり、選手とファンが一体となって、西本幸雄監督を胴上げした。

普段は、いつも怖い顔をしている西本監督も、この時ばかりは、顔をクシャクシャにして、満面の笑顔で、西京極球場で宙を舞った。

 

 

 

試合後の祝勝会では、阪急の選手達は「ビールかけ」を行なって、「初優勝」の喜びを分かち合ったが、

その時、西本監督が、大ハシャギしている事に、選手達は驚いたという。

何しろ、普段の西本監督と言えば、まさに鬼のように怖い監督だったからである。

「あの怖い監督が、優勝したらこんな風になるんか!?」

阪急の選手達は、その時、優勝というものが、如何に素晴らしい事かを、実感したのであった。

 

<1967(昭和42)年の阪急ブレーブスの「初優勝」メンバー(野手編)>

 

 

 

 

では、1967(昭和42)年の阪急ブレーブス「初優勝」のメンバーについて、ご紹介させて頂く。

1967(昭和42)年の阪急ブレーブスの打線は、

ウインディ-阪本敏三-スペンサー-長池徳二-早瀬方禧-森本潔-山口富士雄-岡村浩二…

と続く、切れ目の無い、破壊力抜群の打線だったが、その中核となったのは、

「野球博士」と称された、ダリル・スペンサーである。

 

 

 

スペンサーは、この年(1967年)、打率.274 30本塁打 68打点という、抜群の成績を残し、

阪急打線の不動の中心打者として活躍したが、スペンサーの功績は、それだけではなかった。

バリバリのメジャー・リーガーだったスペンサーは、「野球博士」という異名を取るほど、野球に精通し、

相手投手の癖を分析する「スペンサー・メモ」を事細かに取ったり、どうすれば、1つでも先の塁に進む事が出来るか、

といった、実に緻密な計算を、試合中、ずっと行なっていたりと、パワーだけではなく、

「野球は、頭を使ってやるものだ」

という意識を、阪急の選手達に植え付けたのである。

これにより、阪急の野球は格段にレベルアップし、その事が、1967(昭和42)年の阪急初優勝に結び付いたと言っても、過言ではない。

 

 

 

1967(昭和42)年、阪急打線で4番を打った長池徳二は、西本監督から、特に厳しく鍛えられた。

当時、西本監督は、正月休みも返上で、「西本道場」と称される打撃練習の特訓を、若手選手達に課していたが、

その若手選手の代表格とは、長池徳二、森本潔らであった。

長池は、西本監督から、「阪急の中心打者になるのは、お前だ」と見込まれ、それこそ血の滲むような猛特訓を受けたが、

その甲斐有ってか、長池の打撃技術は、飛躍的に向上した。

 

 

 

その結果、1967(昭和42)年、長池徳二は、打率.271 28本塁打 78打点という成績を残し、

長池は、見事に4番の重責を果たした。

以後、長池徳二は「ミスター・ブレーブス」として、阪急の看板打者として、長く活躍する事となった。

 

 

 

森本潔も、前述の「西本道場」で厳しく鍛え上げられた選手の1人である。

森本潔は、三塁手のレギュラーを獲得し、この年(1967年)、打率.258 6本塁打 37打点の成績を残したが、

森本も、後に阪急が「打倒・巨人」を果たす際の、重要なメンバーの1人となった。

 

<1967(昭和42)年の阪急ブレーブスの「初優勝」メンバー(投手編)>

 

 

1967(昭和42)年の阪急ブレーブスの投手陣は、

何と言っても、長年、阪急を支えて来た「ヨネカジ」コンビこと、米田哲也、梶本隆夫が中心であった。

この年(1967年)の「ヨネカジ」は、それぞれ、

米田哲也 46試合 18勝15敗 防御率2.75

梶本隆夫 37試合 15勝9敗 防御率2.44

という成績を残したが、阪急初優勝は、まさに「ヨネカジ」が健在だったからこそ、成し遂げられたと言って良い。

 

 

 

しかし、この年(1967年)、阪急の勝ち頭となったのは、「ヨネカジ」ではなく、

アンダースローの足立光宏であった。

そう、1976(昭和51)年の日本シリーズ第7戦で、長嶋巨人の「日本一」の夢を砕いた、あの足立である。

足立光宏は、この年(1967年)、43試合 20勝10敗 防御率1.75という、抜群の成績を挙げ、

前述の「ヨネカジ」と共に、足立の大活躍により、阪急はリーグ随一の強力投手陣で、他球団を圧倒したのであった。

 

<西本幸雄監督の挑戦~1960(昭和35)年、大毎オリオンズ監督として、日本シリーズで、三原脩監督の大洋ホエールズに4連敗し、大毎・永田雅一オーナーに「解任」された無念を晴らせるか!?>

 

 

 

 

さて、阪急ブレーブスを初優勝に導いた西本幸雄監督といえば、

1960(昭和35)年、当時40歳の時に、大毎オリオンズを率いて、就任1年目でリーグ優勝を達成しながら、

同年(1960年)の日本シリーズで、西本監督率いる大毎オリオンズは、「三原マジック」を駆使する、三原脩監督率いる大洋ホエールズに1つも勝てず、全て1点差で、ストレートの4連敗で敗退するという、屈辱的な出来事が有った。

その時、大毎のワンマンオーナー・永田雅一が、この結果に激怒し、西本監督を「解任」してしまったが、

西本としては、その時以来、7年振りの日本シリーズへの挑戦である。

西本幸雄は、何としても、その時の屈辱を晴らし、今度こそ「日本一」を手にしたい所である。

 

<「優勝請負人」青田昇・ヘッドコーチ~現役時代、阪急にも在籍経験が有った青田昇が、藤本定義監督の阪神でヘッドコーチを務め、1962(昭和37)年に阪神優勝⇒1965(昭和40)年~、青田は西本監督の片腕として阪急のヘッドコーチに就任、今度は1967(昭和42)年に阪急初優勝!!>

 

 

さてさて、阪急ブレーブス初優勝にとって、欠かせない人物といえば、もう1人、青田昇が挙げられる。

青田昇といえば、現役時代は巨人や大洋に在籍していたイメージが強いが、

実は、青田は少しの間だけ、阪急に在籍していた経験が有った。

その青田昇の、現役時代の所属球団は、巨人(1942~1943)-阪急(1946~1947)-巨人(1948~1952)-洋松・大洋(1953~1958)-阪急(1959)という経歴である。

 

 

青田昇は、戦前に巨人に入団し、一度、兵役のために退団した後、

戦後、プロ野球が復活した際に、球界に復帰した時に入団した球団が、阪急であった。

その後、巨人、大洋などを経て、1959(昭和34)年に、青田が現役最後の1年を過ごしたのも、阪急だったのである。

つまり、青田は阪急には何かと縁が有った。

 

 

現役引退後、青田昇は、藤本定義監督に乞われ、1962(昭和37)年に阪神タイガースのヘッドコーチに就任すると、

青田は、ヘッドコーチに就任して早々、藤本監督の参謀として、チームをまとめあげ、

同年(1962年)、阪神タイガースは15年振りの優勝を達成した。

この時は、藤本監督のみならず、青田コーチの手腕も、高く評価された。

 

 

そして、1965(昭和40)年、青田昇は、今度は西本幸雄監督からの、たっての願いにより、

阪急ブレーブスのヘッドコーチに就任すると、青田は、西本監督の片腕として、阪急の選手達を指導した。

そして、西本監督・青田ヘッドコーチは、阪急ブレーブスのチーム作りに情熱を燃やして行った。

 

 

そして、1967(昭和42)年、阪急ブレーブスは遂に初優勝を達成したが、

阪神と阪急の両球団で、参謀役としてチームの優勝に貢献した青田昇には、「優勝請負人」という、素晴らしい呼び名が付けられた。

後年、江夏豊も「優勝請負人」の異名を取ったが、その元祖は、青田昇だったのである。

 

<1967(昭和42)年の「巨人VS阪急ブレーブス」の日本シリーズ…阪急が3連敗⇒2連勝と健闘するも、最後は巨人の底力に屈し、阪急は2勝4敗で敗退>

 

 

 

こうして、1967(昭和42)年の日本シリーズの時を迎えた。

球団創立32年目の初優勝を達成した阪急ブレーブスにとっては、勿論、初の日本シリーズであり、

阪急ブレーブスの本拠地・西宮球場は、初めて日本シリーズの晴れ舞台を迎える事となった。

一方、川上哲治監督率いる巨人は、1965(昭和40)~1966(昭和41)年に南海ホークスを2年連続で破り、「2年連続日本一」を達成し、

この年(1967年)も優勝し、「リーグ3連覇」を達成した川上巨人は、「3年連続日本一」に挑んでいた。

 

 

 

 

 

 

その1967(昭和42)年の日本シリーズであるが、

当時の巨人といえば、王貞治・長嶋茂雄「ON砲」の全盛期である。

阪急が、パ・リーグで如何に強いといえど、全盛期の「ON」を抑え込むのは難しく、阪急は苦戦した。

頼みの「ヨネカジ」が「ON砲」の餌食になってしまった阪急は、初戦から巨人に3-7、0-1、1-6と3連敗を喫し、阪急は一気に崖っぷちに追い込まれた。

 

 

だが、ここから阪急は意地を見せ、反撃に転じた。

その反撃の主役となったのが、この年(1967年)、シーズン「20勝」を挙げた、足立光宏である。

阪急は、足立の連投により、第4戦・第5戦を9-5、6-3で連勝し、2勝3敗と、巨人に食い下がった。

足立は、第4戦は先発、第5戦はリリーフで、2試合連続で勝利投手となり、巨人を苦しめたが、

「ヨネカジ」は巨人に通用しなくても、足立だけは、敢然と巨人の前に立ち塞がったのである。

思えば、この頃から、阪急の後の「打倒・巨人」の伏線は有ったわけである。

 

 

 

 

 

 

 

だが、最後は王者・川上巨人の底力が、阪急を上回った。

西宮球場での第6戦、巨人は王貞治、長嶋茂雄の「ON砲」が、アベックホームランを放ち、

城之内邦雄-金田正一の盤石の投手リレーもピタリと決まり、巨人が9-3で阪急を破った。

この結果、川上巨人が「3年連続日本一」を達成し、川上哲治監督が、西宮球場で、宙を舞った。

阪急も、よく健闘したが、「日本一」になるためには、今一歩、力が及ばなかったのである。

 

【1967(昭和42)年「巨人VS阪急」日本シリーズの結果】

1967/10/21 第1戦 阪急●3-7〇巨人(西宮球場) 勝:金田 敗:米田

1967/10/22 第2戦 阪急●0-1〇巨人(西宮球場) 勝:堀内 敗:足立

1967/10/24 第3戦 阪急●1-6〇巨人(後楽園球場) 勝:城之内 敗:梶本

1967/10/25 第4戦 阪急〇9-5●巨人(後楽園球場) 勝:足立 敗:金田

1967/10/26 第5戦 阪急〇6-3●巨人(後楽園球場) 勝:足立 敗:堀内

1967/10/28 第6戦 阪急●3-9〇巨人(西宮球場) 勝:城之内 敗:梶本

 

<1968(昭和43)年…阪急ブレーブス、南海ホークスとの死闘を制し、最終戦で「V2」決定!!~「10年目の新人」矢野清が、最終戦で劇的な「V決定サヨナラホームラン」!!>

 

 

1968(昭和43)年のパ・リーグは、リーグ2連覇を目指す、西本幸雄監督率いる阪急ブレーブスと、

2年振りの優勝を目指す、鶴岡一人監督率いる南海ホークスが、最後の最後まで激しい優勝争いを繰り広げる、

稀に見るデッドヒートとなったが、阪急と南海の優勝争いの行方は、最終戦までもつれ込んだ。

10月11日、阪急と南海は、それぞれの最終戦を迎えた段階で、「79勝50敗」という、全くの「同率首位」に並んでいた。

1968(昭和43)年10月11日、阪急-東京戦(西宮球場)、近鉄-南海戦(日生球場)で、阪急と南海が「相星」なら、

パ・リーグ史上初の「同率優勝決定戦(プレーオフ)」にもつれ込むという、痺れる展開となっていた。

 

 

 

 

 

1968(昭和43)年の阪急ブレーブスは、

大熊忠義-阪本敏三-長池徳二-矢野清-スペンサー-森本潔-岡村浩二-山口富士雄…

という並びだったが、中でも目を引くのは、4番に座った矢野清である。

当時、矢野清はプロ10年目の選手だったが、それまでは殆んどが二軍暮らしで、一軍では、さしたる成績は残していなかったが、

この年(1968年)、矢野清は、打率.301 27本塁打 66打点と、突如、大ブレイクを果たし、「10年目の新人」と称され、話題になった。

人間、諦めずに努力を続ければ、大きく花開く事もあるという典型が、矢野清という選手であった。

 

 

そして、1968(昭和43)年の阪急ブレーブスで、「大黒柱」となったのは、

この年(1968年)、63試合 29勝13敗 防御率2.79という、物凄い成績を残した、米田哲也である。

米田哲也は、まさに大エースの働きだったが、当の米田自身は、この時の事を聞かれても、

「あの頃は、シーズン30勝する投手も居たし、29勝なんか、大した事ない」

と、至って素っ気ない。

だが、米田の大車輪の活躍に引っ張られ、この年(1968年)の阪急は、

水谷孝(15勝7敗 防御率2.83)、梶本隆夫(12勝8敗 防御率2.97)、石井茂雄(11勝14敗 防御率2.93)、大石清(10勝3敗 防御率2.70)と、

米田哲也と合わせ、計5人もの2桁勝利投手を輩出している。

 

 

 

 

さてさて、運命の1968(昭和43)年10月11日、パ・リーグ最終戦は、

阪急-東京戦(西宮球場)は15時、近鉄-南海戦(日生球場)は16時に、それぞれプレーボールがかかったが、

阪急は、1-2とリードされた9回裏、「10年目の新人」矢野清の起死回生の同点打で追い付くと、

延長11回裏、その矢野清が、成田文男(東京)から、劇的なサヨナラホームランを放った。

この時、興奮した阪急ファンが、どっとグラウンドに雪崩れ込み、西本監督を胴上げしてしまったが、この時、南海は、4-6のビハインドとはいえ、まだ試合中だった。

そして、その暫くして後、南海が4-6で近鉄に敗れ、今度こそ、阪急ブレーブスのリーグ2連覇が決定し、改めて西本監督が胴上げされた。

というわけで、矢野清は、厳密に言えば、少し「フライング」ではあったが、「優勝決定サヨナラホームラン」を打った男として、球史に名を残した。

 

 

こうして、阪急ブレーブスが南海ホークスとのデッドヒートを制して、阪急が南海に1ゲーム差を付けて優勝(2連覇)したが、

何とも慌ただしい話だが、信じ難い事に、巨人と阪急の日本シリーズは、翌10月12日には、もう開幕する事となった。

リーグ優勝決定の翌日に日本シリーズ開幕なと、今なら考えられないが、もし、阪急と南海が「相星」でプレーオフになった場合は、どうするつもりだったのだろうか?

 

<1968(昭和43)年の「巨人VS阪急ブレーブス」の日本シリーズ…西本阪急は、2勝4敗で、またしても川上巨人に敗退>

 

 

 

 

さてさて、そんなドタバタの中、1968(昭和43)年の日本シリーズ開幕の時を迎えたが、

この年(1968年)の日本シリーズも、前年(1967年)に続き、「巨人VS阪急ブレーブス」の対決となった。

西宮球場での試合前には、ご覧の通り、宝塚歌劇団の「タカラジェンヌ」による花束贈呈も行なわれ、西宮球場は華やいだ雰囲気になっていた。

 

 

 

 

だが、この年(1968年)の日本シリーズでも、西本阪急は、またしても川上巨人の軍門に下った。

巨人は、相変わらず、王貞治・長嶋茂雄の「ON砲」が炸裂し、新人・高田繁が、日本シリーズMVPを獲得する大活躍を見せたが、

阪急は、この大舞台で、いつもの力を発揮出来ず、結局、阪急は2勝4敗で、2年連続で川上巨人に敗退してしまったのであった。

 

【1968(昭和43)年「巨人VS阪急」日本シリーズの結果】

1968/10/12 第1戦 阪急〇5-4●巨人(後楽園球場) 勝:米田 敗:金田

1968/10/14 第2戦 阪急●1-6〇巨人(後楽園球場) 勝:城之内 敗:足立

1968/10/16 第3戦 阪急●4-9〇巨人(西宮球場) 勝:金田 敗:米田

1968/10/17 第4戦 阪急●5-6〇巨人(西宮球場) 勝:金田 敗:石井茂

1968/10/18 第5戦 阪急〇6-4●巨人(西宮球場) 勝:梶本 敗:金田

1968/10/20 第6戦 阪急●2-9〇巨人(後楽園球場) 勝:堀内 敗:大石

 

<1969(昭和44)年…「西本阪急VS三原近鉄」の死闘~西本幸雄監督率いる阪急ブレーブスが、「三原マジック」の近鉄バファローズとのデッドヒートを制し、西本阪急が「リーグ3連覇」!!>

 

 

 

 

1969(昭和44)年のパ・リーグの「主役」となったのが、あの「三原マジック」三原脩監督率いる、近鉄バファローズであった。

三原脩は、前年(1968年)に近鉄の監督に就任すると、「万年最下位」の近鉄を4位に引き上げていたが、

この年(1969年)は、「名将」三原脩の采配は、ますます冴え渡り、大エース・鈴木啓示の力投や、「投打二刀流」永淵洋三などの大活躍もあり、前半戦は、近鉄が首位を快走した。

 

 

 

オールスターゲームを迎えた時点で、近鉄が球団史上初めて、首位で前半戦を折り返したが、

西本幸雄監督率いる阪急ブレーブスが、2ゲーム差の2位で、首位・近鉄を追い掛ける展開となった。

そして、終盤戦まで、阪急と近鉄の「2強」が、激しい優勝争いを繰り広げた。

 

 

そして、阪急と近鉄の優勝争いは、シーズン最終盤、

1969(昭和44)年10月18日を迎えた段階で、阪急と近鉄の直接対決4連戦へと、もつれ込んだ。

この時点で、近鉄が阪急を勝率で僅かに上回っており、近鉄は4試合の内、2つ勝てば優勝、

阪急は、4試合を2勝1分以上でなければ、近鉄を逆転出来ない。

そして、世間は、この年(1969年)、アメリカ大リーグで「万年最下位」から「奇跡の優勝」を達成し、「ミラクル・メッツ」と称された、ニューヨーク・メッツに、「三原マジック」の近鉄をなぞらえ、近鉄を応援する空気が強かった。

しかし、阪急の西本監督は、「優勝は、そんなに簡単に出来るもんやない。それを近鉄に教えてやる」と、意気軒昂であった。

 

 

10月18日、西宮球場の阪急-近鉄のダブルヘッダーは、

第1試合で、阪急の投手・宮本幸信のサヨナラ2ランホームランが飛び出し、阪急が5-3で近鉄を破ると、

続く第2試合、阪急は8-2で近鉄を破り、阪急が連勝し、優勝に「王手」をかけた。

 

 

 

 

 

そして、翌10月19日、藤井寺球場での近鉄-阪急の「第3ラウンド」で、

阪急は、長池徳二の40号・41号ホームランが飛び出し、阪急が接戦を制し、3-2で近鉄を破った。

この結果、阪急ブレーブスが「リーグ3連覇」を達成し、西本幸雄監督が胴上げされ、宙を舞った。

 

 

一方、惜しくも初優勝を逃した、近鉄・三原脩監督は、ガックリとうなだれたが、

西本幸雄監督は、あの1960(昭和35)年の日本シリーズの借りを、見事に、9年越しで返した事になる。

今度ばかりは、情熱の指揮官・西本幸雄の執念が、「三原マジック」を上回った、という事であろう。

 

 

 

 

近鉄との最終決戦で、2本塁打を放った、主砲・長池徳二は、この年(1969年)、打率.316 41本塁打 101打点という成績を残し、長池は、見事に初の本塁打王、打点王の「二冠」を獲得した。

「ミスター・ブレーブス」長池徳二は、いよいよ、プロ野球を代表する強打者の仲間入りを果たしたのであった。

 

<1969(昭和44)年の「巨人VS阪急ブレーブス」の日本シリーズ~第4戦の土井正三の「好走塁」で、阪急・岡村浩二が退場処分を受けた、球史に残るワンプレーが分岐点となり、阪急は2勝4敗で、3年連続で敗退>

 

 

1969(昭和44)年の日本シリーズは、3年連続で、「川上巨人VS西本阪急」の対決となったが、

西本監督としても、「3度目の正直」で、今度こそ巨人を倒そうと意気込んでいた。

そして、この日本シリーズは、球史に残る「好走塁」が、勝敗を分けた。

 

 

 

巨人が2勝1敗で迎えた、後楽園球場での第4戦、阪急は4回表まで3-0とリードし、試合を優位に進めていた。

そして4回裏、1死1・3塁で、打者・長嶋茂雄という場面で、巨人はダブルスチールを仕掛けたが、

三塁ランナー・土井正三が本塁に突っ込んだ際に、土井は阪急の捕手・岡村浩二のブロックに遭い、後方へと吹っ飛ばされた。

タイミングは、完璧にアウトと思われたが、何と、判定はセーフ!!

岡村浩二は激怒し、主審・岡田幸喜を突き飛ばし、退場処分となってしまったが、その後、試合の流れは変わり、巨人はこの回、一挙6点を奪い、大逆転すると、試合はそのまま、巨人が9-4で勝った。

 

 

 

そして、翌日の新聞で、土井正三の左足が、岡村の足の間から、しっかりとホームを踏んでいる所を写した写真が掲載され、判定に不満タラタラだった阪急は、グウの音も出なくなってしまったが、

西本監督は、「ああいう場面では、ちゃんとブロックしているかどうかが、判定の基準になるもんや」と、憮然とした表情で語っていたという。

それは、退場処分となった岡村を庇うためでもあったと思われる。

 

 

その後、日本シリーズの流れは、阪急には二度と戻って来ず、

阪急は、この年(1969年)も巨人に2勝4敗で敗退し、阪急は3年連続で巨人に敗退してしまった。

西本監督は、苦虫を噛み潰したような表情であったが、この後、巨人に挑戦するため、阪急に新たな若い力が台頭して来る事となる。

 

【1969(昭和44)年「巨人VS阪急」日本シリーズの結果】

1969/10/26 第1戦 阪急●5-6〇巨人(西宮球場) 勝:高橋明 敗:水谷

1969/10/27 第2戦 阪急〇2-1●巨人(西宮球場) 勝:足立 敗:高橋一

1969/10/29 第3戦 阪急●3-7〇巨人(後楽園球場) 勝:堀内 敗:梶本

1969/10/30 第4戦 阪急●4-9〇巨人(後楽園球場) 勝:堀内 敗:宮本幸

1969/10/31 第5戦 阪急〇5-3●巨人(後楽園球場) 勝:足立 敗:堀内

1969/11/02 第6戦 阪急●2-9〇巨人(西宮球場) 勝:高橋一 敗:宮本幸

 

(つづく)