1960(昭和35)年秋の、伝説の「早慶6連戦」について、1試合ずつ振り返る、今回の企画であるが、
1960(昭和35)年秋の「東京六大学野球」は、「早慶戦」を迎えた段階で、
慶応は「8勝2敗・勝ち点4」であり、早稲田は「7勝3敗・勝ち点3」という状況だったが、
「早慶戦」の1回戦は、早稲田の安藤元博投手の完投勝利で、早稲田が2-1で慶応を破り、早稲田が優勝に「王手」をかけた。
1960(昭和35)年秋の「早慶戦」の2回戦は、
もし早稲田が勝てば、その時点で早稲田の逆転優勝が決定するが、
慶応が勝てば、1勝1敗のタイとなり、慶応が優勝に「逆王手」をかけるという試合である。
という事で、1960(昭和35)年秋の「早慶戦」2回戦について、ご覧頂こう。
<1960(昭和35)年11月7日(月)~「早慶戦」2回戦の先発メンバー>
1960(昭和35)年秋、11月7日(月)の「早慶戦」2回戦の先発メンバーは、ご覧の通りであるが、
1回戦で先勝した早稲田は金沢宏が先発投手としてマウンドに上がった。
一方、後が無い慶応は、三浦清に先発マウンドを託した。
慶応投手陣には、清沢忠彦、角谷隆、三浦清、丹羽宏という、先発の「4本柱」が居たが、三浦清も、その内の1人である。
そして、「早慶戦」2回戦でも、神宮球場は60,000人の大観衆でギッシリと埋め尽くされ、
試合前から、早慶両校のスタンドでは、賑やかに応援合戦が繰り広げられていたが、
この日(1960/11/7)は平日の月曜日にも関わらず、相変わらず「早慶戦」は物凄い人気であった。
それだけ、今回の「早慶戦」は、ファンからの注目度も高かったようである。
そして、13時34分、主審により、2回戦のプレーボールが宣告された。
<1960(昭和35)年11月7日(月)…「早慶戦」2回戦①~慶応が1回表に先取点⇒2回表、慶応に史上初のチアリーダーが登場!!慶応の「秘密兵器」の登場に、早稲田側スタンドは唖然~慶応が追加点を挙げ、慶応が試合を優位に進める>
1回表1死、慶応の2番・榎本博明は、四球で出塁すると、
続く3番・渡海昇二の打席で、すかさず二塁への盗塁を決めた。
慶応は1死2塁とチャンスを広げたが、早稲田の先発・金沢宏は、渡海を投手ゴロに打ち取った。
局面は2死2塁と変わり、4番・大橋勲が打席に入ったが、ここで二塁ランナーの榎本は三塁への盗塁を試みた。
早稲田の捕手・野村徹は、三塁へ送球したが、この送球が大きく逸れてしまった。
その間に、榎本は一気に本塁を突いたが、逸れた球をカバーした、早稲田のレフト・伊田保夫から、すかさず捕手へと返球された。
ホーム上はクロスプレーとなったが、判定は「セーフ」!!
慶応が、榎本の好走塁により、1回表に1点を先取し、慶応が1-0とリードした。
三塁側・慶応の応援席からは、歓喜の「若き血」の大合唱が起こった。
2回表、慶応はこの回先頭の、5番・小島邦夫がヒットで出塁すると、
続く6番・村木博がライト線へ二塁打を放ち、慶応は無死2・3塁とチャンスを広げた。
金沢宏-野村徹のバッテリーは、7番・田浦正昭を四球で歩かせ、これで局面は無死満塁となった。
三塁側の慶応の応援席の歓声は、ひと際、大きくなり、吹奏楽部のブラスバンドの演奏も、一層、賑やかになった。
その時である。
三塁側の、慶応の応援団が立つ、メインの舞台に、1人の思いがけない人が登場した。
それは、慶応カラーの三色旗をデザインしたセーターを着て、ミニスカートを穿いた、1人の女の子であった。
彼女は、右手にバトンを持ち、慶応の応援団や吹奏楽部の応援のリズムに合わせ、リズミカルにバトンを回しながら、華麗に舞い踊ったのである。
実は、彼女こそが、慶応の応援団長・大塚欽司が、この「早慶戦」の舞台のために、密かに用意していた「秘密兵器」であり、日本野球史上初のチアリーダー・高山藍子であった。
チアリーダー・高山藍子の登場に、三塁側の慶応の応援席は、更にワーッと盛り上がったが、
早稲田側のスタンドは、最初、何が起こったかわからず、皆、呆気に取られ、唖然としていた。
やがて、慶応にチアリーダーが登場した事がわかると、
早稲田側から、悔し紛れに「チンドン屋!!」という野次が飛んだ。
しかし、それは、早稲田では絶対に思い付かない発想であり、
早稲田側は皆、「やられた!!」という思いを持っていたようである。
「流石は慶応、やる事が派手だ」
一塁側の早稲田のスタンドでは、学生達は皆、感心していたようであるが、
当時、高山藍子は、慶応女子高に在学中の高校生であった。
以前、慶応の応援団長・大塚欽司が、アメリカン・フットボールを題材にした映画を見ていた時に、
チアリーダーが登場している場面を見て、「野球でも、チアリーダーを登場させたら、面白いんじゃないか」と、思い付いたようである。
そして、知り合いだった慶応女子高の生徒・高山藍子に声をかけ、チアリーダーを引き受けてくれるよう頼み込んだ。
銀座・並木通りのブティックの経営者の娘だった高山藍子は、元々、チアリーディングに興味が有ったため、それを承諾し、
猛特訓で、「早慶戦」の舞台での「デビュー」までに、チアリーディングをマスターした、という経緯が有った。
こうして、チアリーダー・高山藍子の登場に、三塁側の慶応の応援席は俄かに活気付いたが、
2回表、慶応は無死満塁のチャンスから、8番・近藤良輔は打ち取られたものの、
9番・三浦清に代わり、慶応・前田祐吉監督は、早くも代打・玉置忠男を送った。
早稲田の金沢宏-野村徹のバッテリーは、ここでパスボールという痛恨のミスを犯し、慶応は労せずして1点を追加した。
更に、その後、玉置の一塁ゴロは野選(フィルダース・チョイス)となり、再び1死満塁となった後、
慶応の1番・安藤統夫は、冷静に押し出し四球を選んだ。
こうして、2回表、慶応は2点を追加し、慶応が3-0とリードを広げたが、
三塁側からは「若き血」の大合唱が巻き起こり、高山藍子も、それに合わせて、軽やかに舞っていた。
一方、一塁側の早稲田の応援席は、皆、声も無く、静まり返っていた。
それは、あまりにも対照的な光景であった。
<1960(昭和35)年11月7日(月)…「早慶戦」2回戦②~慶応が4-1で早稲田を破り、1勝1敗!!慶応が優勝に「逆王手」!!>
慶応は、2回から2番手・角谷隆がマウンドに上がったが、
角谷は、結局、2回~9回まで8イニングを投げ切るロングリリーフで、早稲田の反撃を1点に抑えた。
結局、2回戦は慶応が4-1で早稲田を破り、これで1960(昭和35)年秋の「早慶戦」は1勝1敗となった。
「早慶戦」2回戦を終え、早慶両校は、
慶応 9勝3敗(勝ち点4)
早稲田 8勝4敗(勝ち点3)
という状況であるが、翌日の3回戦で慶応が勝てば、慶応の優勝が決定する。
つまり、慶応は優勝に「逆王手」をかけたという事になる。
一方、早稲田は一転して崖っぷちに追い込まれてしまったが、
3回戦で早稲田が勝てば、早稲田と慶応は「9勝4敗・勝ち点4」で、全く同率首位に並び、
「早慶戦」は優勝決定戦(プレーオフ)にもつれ込む事となる。
というわけで、この後、「早慶戦」は果たしてどうなって行くのか、
慶応がスンナリと優勝を決めるのか、それとも早稲田が優勝決定戦に持ち込む事が出来るか、
運命の「早慶戦」3回戦については、また次回(※上の画像はイメージです)。
(つづく)