【今日は何の日?】1975/10/15…広島初優勝~1975年のカープと桑田佳祐と原由子(前編) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

本日(10/15)は、今から45年前、1975(昭和50)年10月15日に、

広島東洋カープが、球団創立26年目にして、悲願の初優勝を達成した日である。

この日(1975/10/15)、広島東洋カープは、「マジック1」で、後楽園球場での巨人-広島戦を迎えたが、

その試合で、広島が4-0で巨人を破り、見事に、広島東洋カープの初優勝が成し遂げられた。

 

 

この日(1975/10/15)の後楽園球場は、巨人の本拠地にも関わらず、

カープ初優勝の瞬間を一目見ようと、地元・広島は勿論、日本全国から、カープファンが大挙して押し寄せ、後楽園は、カープを応援するファンで、赤一色となっていたが、その応援の後押しもあり、見事にカープが初優勝を達成した。

そして、悲願の初優勝を達成した古葉竹識監督が、歓喜の胴上げを受けた。

 

 

一方、ちょうど1年前(1974/10/14)、感動の引退試合を行ない、現役引退した長嶋茂雄は、

川上哲治監督の後を継いで、巨人の監督に就任したものの、この年(1975年)は、巨人の球団史上初となる最下位という、屈辱的な結果に終わった。

おまけに、地元・後楽園球場で、広島初優勝の引き立て役となってしまうなど、1年目の「長嶋巨人」は、まさに散々なシーズンであった。

 

 

一方、1975(昭和50)年といえば、後にサザンオールスターズというバンドを結成し、

後に夫婦となる桑田佳祐原由子が、青山学院大学で、遂に出会った年でもある。

というわけで、1975(昭和50)年の広島東洋カープ初優勝と、長嶋巨人1年目の最下位、

そして、桑田佳祐原由子の出会いなどについて、描いてみる事としたい。

まずは、その「前編」として、1974(昭和49)年後半~の出来事を、見てみる事としよう。

 

<1974(昭和49)年の日本シリーズ…金田正一監督率いるロッテオリオンズが、ウォーリー与那嶺監督率いる中日ドラゴンズを4勝2敗で破り、ロッテが日本一!!>

 

 

 

 

1974(昭和49)年の日本シリーズは、金田正一監督率いるロッテオリオンズ(現・千葉ロッテマリーンズ)と、

ウォーリー与那嶺監督率いる中日ドラゴンズの対決となったが(1974(昭和49)年10月16~10月23日に開催)、

ロッテオリオンズが4勝2敗で中日ドラゴンズを破り、ロッテが、前身の毎日オリオンズが1950(昭和25)年に、第1回日本シリーズを制して以来、24年振り2度目の日本一を達成した。

この頃、「カネやん」こと金田正一監督は、長嶋茂雄に匹敵するほどの人気者だったが、その「カネやん」率いるロッテが、「お祭り野球」で、遂に日本一の座に就いた。

なお、この時、ロッテの「胴上げ投手」となったのは、「マサカリ投法」村田兆治であった。

 

 

一方、1954(昭和29)年以来、20年振りにリーグ優勝を達成した中日ドラゴンズは、

長嶋茂雄の引退試合をすっぽかし(?)、日本シリーズ前に、優勝パレードを行なってしまったのが祟ったのか、中日は、残念ながら日本一を逃し、敗退してしまったが、この後、中日が日本一の座に就くまでには、更に長い年月がかかる事となった。

 

<1974(昭和49)年10月31日~11月2日…エリック・クラプトンが初来日し、日本武道館で来日公演を開催~桑田佳祐と原由子の「ニアミス」が!?>

 

 

 

ロッテが中日を破り、日本一になった直後、後のサザンオールスターズの歴史にも繋がる、重要な出来事が有った。

桑田佳祐原由子が敬愛して止まない、エリック・クラプトンが初来日し、日本武道館で来日公演を行なったのである。

日時は、1974(昭和49)年10月31日~11月2日の3日間であるが、実は、桑田佳祐原由子は、このエリック・クラプトンの初来日公演を、武道館まで見に行っていたのである。

 

 

 

まずは、1974(昭和49)年10月31日、エリック・クラプトンの初来日公演の初日を、

当時、青山学院大学の1年生だった桑田佳祐が見に行った。

桑田は、憧れのエリック・クラプトンを生で見る事が出来て、感動したが、後々に、

「この日のクラプトンは、あまりコンディションが良くなかったのか、ライブの出来は、あまり良くなかった」

と、桑田佳祐は振り返っている。

だが、当時の桑田としては、クラプトンのライブを見る事が出来た、というだけで充分に大満足であった。

 

 

 

そして、何と、クラプトンの武道館コンサートを、当時、桑田佳祐よりも1学年下で、

高校3年生だった原由子も、一緒に「ジェロニモ」というデュオを組んでいた、「モリ」という女の子と一緒に見に行っていたのである。

原由子たちが見ていたのは、初日ではなく、1974(昭和49)年11月1日~2日の、2~3日目の公演であり、桑田とは違う日だったが、

彼女達は、大大大好きなクラプトンのステージを見て、それこそ「半狂乱になるほど」大興奮だったという。

というわけで、桑田佳祐原由子「ニアミス」が有ったわけだが、勿論、この時、桑田佳祐原由子は出会っていない。

しかし、後のサザンの歴史を振り返った時、2人が、(日付は違うが)たまたま同じ時期に、クラプトンの武道館コンサートを見ていたというのは、何か運命的なものを感じさせる。

なお、全くの余談だが、私が日本武道館で、法政大学の入学式に臨んだのは、この24年後(1998年)の事である。

 

<1972(昭和47)~1974(昭和49)年…広島東洋カープ、「3年連続最下位」に低迷>

 

 

さて、1972(昭和47)~1974(昭和49)年にかけて、広島東洋カープ「3年連続最下位」に低迷していた。

当時、広島といえば、1950(昭和25)年の球団創立以来、Aクラス(3位)になったのは、1968(昭和43)年の1度きりであり、後は全てBクラスという、「万年Bクラス」の球団であり、優勝など「夢のまた夢」と思われていた。

当時、カープのユニフォームは、紺を基調とした、どちらかと言えば地味な物だったが、

この広島カープというチームが、1975(昭和50)年の「主役」になるなどとは、この時、誰一人、予想している者は居なかった。

 

<1974(昭和49)年11月21日…長嶋茂雄が、「勇退」した川上哲治監督の後を受け、巨人監督に就任!!~長嶋監督の背番号は「90」~>

 

 

 

1974(昭和49)年11月21日、「勇退」した川上哲治監督の後を受け、

この年(1974年)、現役引退したばかりの長嶋茂雄が、巨人の監督に就任した。

長嶋茂雄は、当時38歳の若さだったが、スーパースター・長嶋茂雄が、遂に監督に就任するとの事で、

ファンの期待は、嫌が上にも高まった。

しかし、後から思えば、コーチの経験も無く、解説者として、グラウンドの外から野球を勉強した事も無い長嶋が、

いきなり監督を任されるというのは、些か、酷だったのではないだろうか。

大体、平社員だった人が、「お前、明日から社長をやれ」と、いきなり言われても、無理であろう。

指導者になるには、それなりに準備や勉強が必要なのではないだろうか(※遥か後に、巨人は高橋由伸を現役引退⇒即監督に就任させたが、それは無茶だったと、私は思う)。

 

 

それはともかく、この時、長嶋監督は背番号「90」を付けたが、これは、当時、長嶋茂雄の長男・一茂が、

「背番号は、お父さんが現役時代に付けていた、『3』を2つ掛け合わせて、『9』が良い!!」

と言ったのを、長嶋が、

「『9』だと監督っぽくないから、『90』にしようか!!」

と言って、背番号「90」に決めたというエピソードが有る。

という事で、背番号「90」を背負った、「第1期長嶋監督時代」は、こうして始まった。

 

<1974(昭和49)年夏の甲子園~定岡正二の鹿児島実業VS原辰徳の東海大相模の「延長15回」の死闘~定岡正二と原辰徳が、甲子園の「アイドル」に>

 

 

 

山口百恵「ひと夏の経験」が大ヒットしていた、1974(昭和49)年夏、

高校野球の「夏の甲子園」で、大人気となったのが、鹿児島実業のエース・定岡正二であった。

定岡正二は、ご覧の通り、かなりの美男子だったが、鹿児島実業が勝ち上がって行く度、定岡の人気も沸騰して行った。

 

 

 

 

 

そして、定岡正二の鹿児島実業と、原貢監督・原辰徳という「親子鷹」が話題となっていた東海大相模が、

この年(1974年)の夏の甲子園の準々決勝で対決したが、この試合は、定岡正二が延長15回の死闘を、一人で投げ切り、

大熱戦の末に、定岡正二の鹿児島実業が、原辰徳の東海大相模を破った。

この時の試合は、「夏の甲子園」史上に残る名勝負として語り継がれているが、

後に、定岡正二、原辰徳は巨人でチームメイトとなる運命に有る。

だが、この時、定岡と原は、まだその事を知る由も無かった。

 

<1974(昭和49)年のドラフト会議で、定岡正二がドラフト1位、西本聖がドラフト外で、それぞれ巨人に入団~華やかなスター候補生・定岡正二と、ヒッソリと入団した「雑草」西本聖>

 

 

 

 

1974(昭和49)年のドラフト会議で、定岡正二は巨人にドラフト1位で指名され、

定岡は、鳴り物入りで巨人に入団したが、就任したばかりの長嶋監督も、定岡の入団に、ご満悦の表情であった。

何しろ、長嶋監督といえば、「スター」が大好きな人だったからである。

 

 

一方、この時、定岡正二の陰に隠れるように、ドラフト外でヒッソリと巨人に入団したのが、松山商の西本聖(にしもと・たかし)投手であった。

西本聖は、甲子園にも出場しておらず、高校時代は、1学年上の「怪物」江川卓(作新学院)の足元にも及ばない注目度であり、ましてや、「アイドル」定岡正二と比べると、全く目立たない存在でしかなかった。

だが、この「雑草」西本聖が、やがて巨人のエースにのし上がって行くのだから、人生というのは、本当にわからないものである。

 

<1974(昭和49)年12月28日…山口百恵・三浦友和が主演の映画『伊豆の踊子』公開~「百恵・友和」のゴールデン・コンビ」誕生!!>

 

 

 

1974(昭和49)年12月28日、山口百恵三浦友和主演の東宝映画『伊豆の踊子』が公開された。

『伊豆の踊子』といえば、田中絹代-美空ひばり-鰐淵晴子-吉永小百合-内藤洋子-山口百恵…

と、その時代を代表する女性スターが主演するのが「お約束」であるが、

1974(昭和49)年版の『伊豆の踊子』での山口百恵も、大変可愛らしい。

これまた余談であるが、高校生の頃だったか、私はテレビ放映されていた、『伊豆の踊子』山口百恵を見て、

「この人、やっぱりメチャクチャ可愛い!!」

と、ビックリした覚えが有る。

私は、山口百恵が活躍していた頃は、実はリアルタイムでは知らないが、勿論、山口百恵という人が大活躍していた事は、知識としては知っていた

だが、山口百恵という人は、時代を超越した魅力が有ると、その時に私は改めて実感したのである。

 

 

少し脱線してしまったが、話を1974(昭和49)年に戻す。

この時、『伊豆の踊子』に主演した山口百恵、三浦友和は、

以後、数々の映画やドラマで共演し、「百恵・友和のゴールデンコンビ」と称されたが、

『伊豆の踊子』こそ、その「ゴールデンコンビ」の原点であった。

 

<1974(昭和49)年の「日本レコード大賞」は、森進一『襟裳岬』(作詞:岡本おさみ、作曲:吉田拓郎)~山口百恵は、各種の賞を受賞し、ザ・タイガース出身の沢田研二が『危険なふたり』で、ソロ歌手として台頭~西城秀樹『傷だらけのローラ』も大ヒット>

 

 

 

1974(昭和49)年の「第16回 日本レコード大賞」は、

森進一『襟裳岬』が受賞したが、『襟裳岬』は、作詞:岡本いさみ、作曲:吉田拓郎、そして歌い手は演歌の森進一という、異色の組み合わせが話題となった曲であるが、大ヒットを記録し、森進一見事に「レコ大」の栄冠を手にした。

 

 

 

 

 

また、『ひと夏の経験』を大ヒットさせた山口百恵は、

「日本レコード大賞」は勿論、年末の賞レースで、各種の賞を受賞したが、

当時15歳の山口百恵は、スーパーアイドルへの階段を上り始めようとしていた。

 

 

 

GS(グループサウンズ)の「ザ・タイガース」のボーカルで、大人気だった沢田研二は、

この年(1974年)、ソロ歌手として『危険なふたり』を大ヒットさせ、ソロとしても台頭して来たが、

この後、日本の歌謡界のは「ジュリー」こと沢田研二の時代がやって来る事となる。

 

 

 

そして、「新御三家」西城秀樹が、『傷だらけのローラ』を、パワフルな歌唱法で歌いこなし、

『傷だらけのローラ』を大ヒットさせたが、西城秀樹の歌唱力は、男性アイドルの中では、群を抜いていた。

それこそ、日本人離れした歌唱力を持っていたと言って良い。

 

なお、西城秀樹が、サザンオールスターズのコンサートにゲスト出演し、

同学年の西城秀樹桑田佳祐が、遂に同じステージで共演を果たすのは、この21年後の1995(平成7)年の事である。

勿論、この1974(昭和49)年の時点では、西城秀樹桑田佳祐も、その事は知る由も無い。

という事で、人間の運命や出会いというのは、何処でどう転がって行くのかというのは、本当に予測出来ないものである。

 

<1975(昭和50)年…広島東洋カープの新監督に、史上初の外国人監督、ジョー・ルーツが就任~ユニフォームを「赤」を基調とした物に変更し、ここに「赤ヘル軍団」が誕生!!~ルーツ監督は、山本浩二・衣笠祥雄・ホプキンスの3人の中軸に期待>

 

 

 

 

1975(昭和50)年、広島東洋カープは、ジョー・ルーツを、日本プロ野球史上初の外国人監督として、就任させた。

ジョー・ルーツは、カープの監督に就任するや否や、それまで、紺を基調とした、地味なデザインだったカープのユニフォームを、「赤」を基調とした、派手なユニフォームに一新させた。

これは、ルーツ監督が、「赤は、戦う姿勢を示すための物であり、闘争心を呼び起こすためのものである」と、その意図を説明したが、

それまでのプロ野球には、赤を基調としたデザインの物は無く、最初は、カープの選手達も戸惑ったという。

 

 

 

 

 

 

だが、カープの赤いユニフォームは、ファンからは概ね好評であった。

そして、カープには、いつしか「赤ヘル軍団」というニックネームが付けられる事となるが、

ルーツ監督が、その「赤ヘル軍団」の中軸として、特に期待をかけていたのが、

山本浩二・衣笠祥雄・ホプキンスの3人であった。

また、ルーツ監督は、「万年Bクラス」だった、カープの「負け犬根性」を払拭しようと、

「我々は、必ず優勝する」

と、事あるごとに、選手達に言い聞かせ、彼らに「暗示」をかけていた。

広島東洋カープという「万年Bクラス」球団は、今まさに、生まれ変わろうとしていた。

 

<1975(昭和50)年4月…原由子が青山学院大学・文学部・英米文学科に入学!!~遂に、桑田佳祐・原由子が出会う~当初は音楽サークル「AFT」の「先輩・後輩」の関係だった2人>

 

 

1975(昭和50)年4月、原由子は、青山学院大学・文学部・英米文学科に入学した。

当時、原由子は、「将来は、音楽ライターになって、海外のアーティストを取材したい」という夢があり、

そのため、英語を沢山勉強したお陰で、見る見る内に英語の学力が向上し、その結果、青学に合格する事が出来たという。

こうして、原由子は青山学院に入り、憧れのキャンパス・ライフをスタートさせた。

 

 

青山学院に入った原由子は、早速、音楽サークルの見学を行なったが、

音楽が盛んな青学には、それこそ、音楽サークルは沢山有った。

「どれに入ろうかな…」

原由子は、迷っていたが、ある時、何処かの部屋で、エリック・クラプトンの曲を、ギターを弾きながら歌っている声が聴こえて来た。

「あ!?クラプトンを弾いてる人が居る!!」

クラプトンが大好きな原由子が、喜び勇んで、その部屋を覗いて見ると、

そこには、クラプトンのイメージとは程遠い、小汚い恰好をした青年が、下を向きながら、ボソボソと歌っている姿が有った。

「何か、怖そうな人…」

原由子は、そのような第一印象を持ったが、その青年こそ、原由子より1学年上の、桑田佳祐であった。

しかも、桑田は「温泉あんまももひきバンド」なる、ふざけた名前のバンドで、クラプトンを歌っていた。

「クラプトンに対して、何て失礼な人なのかしら!?」

というわけで、原由子の、桑田佳祐に対する第一印象は、あまり良くなかったようである。

 

 

結局、原由子は、その青年が所属している音楽サークル「AFT」に入る事にしたが、

原由子は、「AFT」とは「青山・フォーク・旅立ち」の略称だと知って、正直言って「ダサイ名前…」と思ったという。

しかし、沢山の人が、思い思いに好きな音楽を演奏しているのが、とても楽しそうであり、そのサークルに入った。

一方、桑田佳祐といえば、今度入って来た新入生の女の子の中に、

やたらとピアノやギターが上手く、おまけに、エリック・クラプトン『いとしのレイラ』を難なく弾きこなす子が居て、とても驚いた。

「こんなに、何でも弾ける子が居るのか…」

正直言って、楽器の上手さでは、間違いなく、その子の方が上だと思ったが、

それが、桑田佳祐原由子に対する印象であった。

こうして、後に「百恵・友和」ばりの、歴史的な「ゴールデンコンビ」となる、桑田佳祐原由子は、遂に1975(昭和50)年春の青山学院で、出会いを果たした。

 

<どうなる!?1975(昭和50)年のペナントレース!?~「長嶋巨人」と「赤ヘル軍団」の運命や、如何に!?>

 

 

桑田佳祐原由子が、遂に運命の出会いを果たした、1975(昭和50)年春、

いよいよ、プロ野球のペナントレース開幕の時が迫っていた。

この年(1975年)のプロ野球で、最も注目を集めていたのは、勿論、新生「長嶋巨人」であるが、

ジョー・ルーツが率いる「赤ヘル軍団」も、どんな戦いを見せてくれるのか、期待が高まっていた。

果たして、1975(昭和50)年のプロ野球、そして、桑田佳祐原由子の運命や、如何に!?

 

(つづく)