【今日は何の日?】1974/10/14…長嶋茂雄の引退試合 ~1974年の長嶋茂雄と桑田佳祐~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

本日(10/14)は、今から46年前の、1974(昭和49)年10月14日、

「ミスター・ジャイアンツ」長嶋茂雄の引退試合が行われた日である。

スーパースター・長嶋茂雄の現役引退は、プロ野球の、そして戦後日本の、一つの時代の終わりを告げるものであった。

 

 

長嶋茂雄は、東京六大学野球で、立教大学のスーパースターだったが、

1958(昭和33)年に巨人に入団して以来、常にファンの期待に応え続け、国民的ヒーローであり続けていた。

長嶋茂雄に、明日への活力を貰い、一生懸命に働いて来たという日本人は、非常に多かった。

 

 

 

一方、その長嶋茂雄の巨人入団の頃に幼少期を過ごし、

自らも野球少年だったのが、後にサザンオールスターズを率いて、これまた国民的スターになった、桑田佳祐であった。

その桑田佳祐が、青山学院大学に入学した1974(昭和49)年に、長嶋茂雄が引退した。

当時、青山学院の1年生だった桑田佳祐は、一体、どのような思いで、長嶋引退を見守っていたのであろうか?

という事で、今回は、1974(昭和49)年の長嶋茂雄桑田佳祐に、スポットを当ててみる事としたい。

 

<1973(昭和48)年…川上哲治監督率いる巨人、空前絶後の「V9」(9年連続日本一)達成!!~「三冠王」を獲得した王貞治に対し、長嶋茂雄はシーズン終盤に左手薬指を骨折し、日本シリーズには出場できず>

 

 

 

1973(昭和48)年、川上哲治監督率いる、無敵の巨人は、空前絶後の、所謂「V9」(9年連続日本一)を達成した。

1965(昭和40)~1973(昭和48)年までの9年間、巨人は9年連続でリーグ優勝したばかりではなく、

日本シリーズでも、パ・リーグ優勝チーム相手に、常に勝ち続け、9年連続日本一を達成したのである。

恐らく、この記録は、今後プロ野球が続く限り、絶対に破られる事は無いと思われる。

それぐらい、巨人の「V9」というのは、偉大な記録であった。

 

 

巨人「V9」の原動力となったのは、やはり、何と言っても王貞治・長嶋茂雄という2人のスーパースター、

所謂「ON砲」であるが、川上監督は、王と長嶋を打線の中心に据えて、

それぞれ、己の仕事に徹する、他の打者が「ON」の脇を固める事によって、無敵の布陣を築いた。

そして、巨人は川上監督の下、鉄の規律を持って一致結束する、固いチームワークが特徴であった。

なお、1973(昭和48)年は、王貞治が、打率.355 51本塁打 114打点で「三冠王」を獲得したが、

一方、長嶋茂雄は、シーズン終盤の巨人-阪神の首位攻防戦で、三塁守備の際に、左手薬指を骨折してしまい、

以後、欠場を余儀なくされ、長嶋は、この年(1973年)の日本シリーズにも出場していない。

1973(昭和48)年の長嶋茂雄は、打率.269 20本塁打 76打点という成績だったが、スーパースター・長嶋にも、やや衰えが見え始めていた。

 

<1973(昭和48)年のシーズン終了後…川上哲治監督、長嶋茂雄に「引退勧告」!!~それに対し、長嶋は…?>

 

 

現役時代、「打撃の神様」と称されていた、かつての大打者・川上哲治監督は、

長嶋のバッティングが衰え、全盛期の状態には程遠くなっている事が、如実にわかっていた。

そして、1973(昭和48)年のシーズン終了後、川上監督は、長嶋と、彼らの馴染みの新聞記者が同席していた、会食の席で、長嶋に対し、こう言ったという。

「長嶋、お前はもう、今年限りで現役を引退しろ。来年からは、お前が巨人の監督をやれ」

そう、川上監督は、自らも「V9」を花道に、巨人の監督を勇退するので、

長嶋を現役引退させ、巨人の後任監督を、長嶋に託すつもりだったのである。

だが、長嶋はその言葉を受けると、座っていた座布団を跳ね除けるようにして、両手を畳に付けると、川上監督に頭を下げた。

「もう1年、もう1年だけ、現役を続けさせて下さい!!」

長嶋は、まだ現役選手として燃え尽きてはおらず、あと1年、思いっきり勝負をかけたいと、決意を表明したのである。

川上監督は、長嶋の真剣な姿を見て、何も言わず、黙って頷いた。

こうして、翌1974(昭和49)年、長嶋茂雄は、野球人生の集大成をかけたシーズンに臨む事となった。

 

<1974(昭和49)年の長嶋茂雄①…4月6日の開幕戦で、5年連続・通算10本目の「開幕ホームラン」を放つ!!~開幕後、暫くは好調をキープ>

 

 

 

さて、1974(昭和49)年を、自らの野球人生の集大成と位置付けていた長嶋茂雄は、

この年(1974年)、キャンプ・オープン戦を通して絶好調であり、早目に身体を仕上げていた。

そして、開幕戦に向けてコンディションを整えると、

1974(昭和49)年4月6日、開幕戦の巨人-ヤクルト戦で、「4番・三塁」としてスタメン出場した長嶋茂雄は、松岡弘(ヤクルト)から、5年連続・通算10本目となる、開幕戦ホームランを放った。

流石は、千両役者・長嶋茂雄であるが、開幕後、暫くの間、長嶋は好調をキープしていた。

 

<1974(昭和49)年の桑田佳祐①…桑田佳祐、青山学院大学・経営学部に入学、音楽サークル「AFT」に入部!!>

 

 

 

長嶋茂雄が、開幕戦でホームランを放ち、以後、好調をキープしていた頃、

1974(昭和49)年4月、神奈川県・茅ヶ崎出身の1人の青年が、青山学院大学・経営学部に入学した。

その青年こそ、後にサザンオールスターズを率いて、大スターとなる、桑田佳祐である。

桑田佳祐は、高校時代、何処の大学に進学するのか、各大学のパンフレットを取り寄せ、色々と検討した結果、

青山学院大学に狙いを定め、青学を受験したのだが、その決め手となったのは、

「青学は、音楽サークルが盛んである」という事と、「青学はお洒落な学校で、可愛い女の子が多そう」という事だったという。

そして、国語と英語が抜群に得意だった桑田は、見事に青山学院大学・経営学部の入学試験に合格し、青学に入った。

そして、桑田は青学の音楽サークル「AFT」に入ったが、「AFT」とは「青山・フォーク・旅立ち」の略称だったという。

ともあれ、こうして桑田佳祐の大学生活はスタートした。

 

<1974(昭和49)年の長嶋茂雄②…春先を過ぎ、打率.230台に急降下~6月19日、遂に長嶋は公式戦初の「1番」を打つ~「V10」を目指す巨人は苦戦が続く>

 

 

桑田佳祐が青山学院に入り、花の大学生活(?)をスタートしていた頃、

春先は好調だった長嶋は、春が過ぎ、初夏の季節になると、打撃不振に陥った。

そして、打率も見る見る内に急降下してしまい、遂に打率は.230台にまで落ちてしまった。

川上監督としても、これでは長嶋を打線の中軸に据える事は出来ない。

だが、スーパースター・長嶋をスタメン落ちさせる事は忍びないと、川上監督の悩みは深くなった。

 

 

そこで、川上監督は、6月19日の中日-巨人戦(中日球場)で、長嶋を「1番・三塁」として先発出場された。

プロ入り以来、常に巨人のクリーンアップに座り、3番か4番を打って来た長嶋にとって、公式戦では初となる「1番」での出場だったが(※オールスターでは、新人時代の1958(昭和33)年に「1番」の出場経験有り)、

以後、この年(1974年)の長嶋は、「1番・三塁」として出場する事が多くなって行く。

川上監督の苦肉の策だったが、何番を打とうと、長嶋は自らを奮い立たせ、そして、それまでと同じように、ファンのために魅せる、全力プレーを続けていた。

 

 

だが、「V10」を目指す巨人は、この年(1974年)は、なかなか調子が上がらず、

巨人は、勝率5割ラインをウロウロする状況が続き、7月9日、大洋-巨人戦(川崎球場)で、

川上監督は、ファールの判定に激怒して、審判に猛抗議した際に、生涯唯一となる退場処分を受けている。

普段、冷静沈着な川上監督としては、とても珍しい事だったが、それだけ、苛立ちが募っていたのかもしれない。

 

<1974(昭和49)年…ブルース・リーの『燃えよドラゴン』と、板東英二の『燃えよドラゴンズ』~20年振り優勝を目指す、中日ドラゴンズの快進撃と、『燃えよドラゴンズ』誕生秘話~『燃えよドラゴンズ』の仕掛け人は、後に『タイムボカン』シリーズで名を馳せた、山本正之>

 

 

さて、この年(1974年)、日本中に大ブームを巻き起こしていたのが、

ブルース・リー主演の映画『燃えよドラゴン』である。

ブルース・リーが、見事な切れ味のカンフー技で、敵をバッタバッタを倒して行く、痛快な映画であったが、

『燃えよドラゴン』の大ヒットにより、空前のカンフー・ブームが起こっていた。

 

 

そして、偶然にというか、『燃えよドラゴン』が大ヒットしたのと同じ年(1974年)、

快進撃を続けていたのが、ウォーリー与那嶺監督率いる、中日ドラゴンズであった。

中日ドラゴンズは、1954(昭和29)年の初優勝以来、20年振りの優勝に向けて、チーム一丸となり、驀進していた。

 

 

その中日ドラゴンズの大ファンだったのが、1951(昭和26)年生まれで、

当時23歳だった、駒澤大学を卒業したばかりの青年・山本正之であった。

山本正之は、この年(1974年)、「もしかしたら、ドラゴンズは優勝するかも!?」と、とてもワクワクドキドキした日々を送っていた。

 

 

 

山本正之青年は、趣味でギターを弾き、自作曲の弾き語りなどを行なっていたが、

そんな山本正之が、愛する中日ドラゴンズのために作詞・作曲した曲こそ、ご存知、『燃えよドラゴンズ』である。

山本正之は、『燃えよドラゴンズ』のデモテープを作り、中日ドラゴンズのお膝元・愛知県の放送局・CBCラジオに送ると、

この曲がラジオで流され、大評判となった。

『燃えよドラゴンズ』とは、勿論、この年(1974年)に大ヒットしていた、前述の『燃えよドラゴン』から拝借したものであるが、『燃えよドラゴンズ』は、リスナーからの大好評を受け、レコード化される事となった。

そして、『燃えよドラゴンズ』のレコード盤では、中日ドラゴンズOBの板東英二が歌っている。

 

 

 

 

 

そして、『燃えよドラゴンズ』のレコードがリリースされるや否や、

ブルース・リー『燃えよドラゴン』との相乗効果もあって、

『燃えよドラゴンズ』は、爆発的な大ヒットを記録した。

『燃えよドラゴンズ』の、何がそんなにウケたのかといえば、

「1番・高木が塁に出て、2番・谷木が送りバント、3番・井上タイムリー、4番・マーチン ホームラン…」

というように、歌詞が、当時の中日ドラゴンズのメンバーを、簡潔に紹介する内容になっていたからである。

これは、物凄く斬新なアイディアだったと言って良い。

そして、『燃えよドラゴンズ』の板東英二の歌声も、とても素晴らしかった。

 

 

 

 

なお、『燃えよドラゴンズ』の大ヒットで世に出た山本正之は、

後に、『タイムボカン』シリーズ(『タイムボカン』『ヤッターマン』など)の主題歌を手掛けるなど、

作曲家として名を馳せたが、1974(昭和49)年のブルース・リーの登場と中日ドラゴンズの快進撃が無ければ、

山本正之がブレイクする事は無く、『タイムボカン』シリーズも、生まれかなかったかもしれない。

そう考えると、歴史の綾とは、誠に面白いものであると、この事例でも思わされる。

 

<1974(昭和49)年の桑田佳祐②…桑田佳祐の同年代(同学年)の「新御三家」(郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎)が大活躍し、「花の中3トリオ」(山口百恵・桜田淳子・森昌子)が大人気、そして「フィンガー5」の大ブレイク~一介の学生の桑田佳祐、華やかな芸能界に羨望の眼差し?>

 

 

 

さて、長嶋茂雄と巨人が苦戦し、山本正之が『燃えよドラゴンズ』を大ヒットさせていた頃、

桑田佳祐は、青山学院の音楽サークル「AFT」で、それなりに楽しい日々を送っていた。

しかし、桑田佳祐は、高校時代は男子校(鎌倉学園高校)だったため、

青学の、華やかなキャンパスライフにも、戸惑いを覚える事も多かった。

当時、桑田が所属していた「AFT」には、可愛い女の子も勿論、沢山居たが、

そういう子には、大体、既に彼氏が居たりしたという。

桑田から見れば、サークルの先輩達や、彼女達は、随分と大人っぽく見えていた。

「俺も、まだまだだな…」

桑田は、そんな事を思ったりもしていた。

 

 

 

その頃、桑田佳祐と同年代(同学年)の「新御三家」(郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎)は、

当時、芸能界で華やかなスポットライトを浴び、超人気アイドルとして、大人気となっていた。

まだ一介の学生に過ぎなかった桑田佳祐は、そんな彼らを横目に、一介の学生として過ごしていたが、

後年、桑田は「新御三家」は、とても眩しい存在に見えたと述懐している。

 

 

また、桑田佳祐よりは、年齢は少し下の、

「花の中3トリオ」(山口百恵・桜田淳子・森昌子)も、当時、大人気となっていたが、

1974(昭和49)年の芸能界は、男性アイドルは「新御三家」、女性アイドルは「花の中3トリオ」が、大ブレイクし、

とても華やかな雰囲気に溢れていた。

 

 

 

そして、遂には、小学生の子供がボーカルを務める、「フィンガー5」というグループまで登場して来た。

「フィンガー5」は、この年(1974年)、『恋のダイヤル6700』、『学園天国』などを、立て続けに大ヒットさせたが、

果たして、当時の桑田佳祐は、そんな彼らの事を、どのような気持ちで見ていたのであろうか。

 

<1974(昭和49)年の長嶋茂雄③…長嶋茂雄、プロ入り以来17年連続で、オールスターゲームのファン投票選出を果たす~結果として、長嶋の生涯最後のオールスター出場に>

 

 

芸能界で、「新御三家」や「花の中3トリオ」、「フィンガー5」といった、新たなスターが台頭していた頃、

プロ野球界のスーパースターとして君臨して来た長嶋茂雄は、この年(1974年)、成績不振とはいえ、

オールスターゲームに、プロ入り以来17年連続で選出された。

やはり、オールスターには長嶋は欠かせない存在という事であり、長嶋はファンに絶大な人気が有ったが、

結果として、この年(1974年)が、長嶋にとって最後のオールスター出場となった。

 

<1974(昭和49)年夏…山口百恵、『ひと夏の経験』で大ブレイク!!~「山口百恵伝説」の幕開け>

 

 

 

長嶋茂雄が、最後のオールスター出場を果たした、1974(昭和49)年夏、

山口百恵がリリースした『ひと夏の経験』が、爆発的な大ヒットを記録した。

「あなたに女の子の一番大切なものをあげるわ…」

という、大胆な歌詞が話題となったが、この曲の大ヒットにより、山口百恵は「花の中3トリオ」から、一歩抜きんでた存在となるキッカケを得た。

そして、『ひと夏の経験』は、「山口百恵伝説」の幕開けを告げる、記念碑的な曲となった。

 

<1974(昭和49)年…「ザ・ドリフターズ」の見習い・志村けんの忍従の日々>

 

 

 

この年(1974年)の芸能界で、注目すべき出来事としては、

1974(昭和49)年3月、「ザ・ドリフターズ」荒井注が脱退し、

その代わりとして、当時24歳の無名の青年・志村けんが、ドリフに「見習い」として加入した事が挙げられる。

しかし、志村けんは、当初、全く人気が出ず、志村が舞台に登場しても、客席はシーンとしている事が多かった。

後に、サザンオールスターズの『勝手にシンドバッド』誕生にも関わり(?)、日本一のコメディアンとなる志村けんも、この頃は、まだまだ忍従の日々が続いていた。

 

<1974(昭和49)年10月12日①…『燃えよドラゴンズ』で勢いに乗った中日ドラゴンズ、20年振り優勝!!~巨人の「V10」を阻止>

 

 

 

1974(昭和49)年のセ・リーグは、シーズン終盤まで、「V10」を目指す巨人と、

20年振り優勝を目指す中日ドラゴンズが、激しい優勝争いを繰り広げたが、

1974(昭和49)年10月12日、中日ドラゴンズが、大洋ホエールズとのダブルヘッダーに9-2、6-1で連勝し、遂に、中日ドラゴンズが20年振り優勝を達成した。

『燃えよドラゴンズ』で勢いに乗った中日が、遂に巨人の「V10」を阻止し、20年振りの栄冠を手にしたのである。

この日、中日ドラゴンズが優勝を決めた、中日球場は物凄い歓喜と興奮に包まれていた。

 

<1974(昭和49)年10月12日②…中日20年振り優勝の同日、長嶋茂雄が現役引退発表~中日優勝のニュースが吹っ飛び、中日側が大激怒~1974(昭和49)年10月13日に予定されていた長嶋の引退試合は、雨天順延に>

 

 

だが、中日ドラゴンズが20年振り優勝を決めたのと全く同日(1974/10/12)、

遂に、長嶋茂雄現役引退を発表した(※この年(1974年)の長嶋茂雄は、打率.244 15本塁打 55打点)。

長嶋としては、巨人「V10」の夢が破れたタイミングでの発表となったが、

「長嶋引退」は大ニュースとなり、中日優勝のニュースなど、何処かに吹っ飛んでしまう程のインパクトが有った。

この「仕打ち」に、中日側は大激怒したというが、稀代のスーパースター・長嶋茂雄の引退というのは、それだけインパクトが有った。

なお、長嶋茂雄の引退試合は、中日優勝決定の翌日、10月13日(日)の後楽園球場での巨人-中日戦が予定されていたが、

雨天により、翌10月14日(月)に順延された。

 

<1974(昭和49)年の桑田佳祐③…「こんな筈じゃなかった…」と、鬱々とした日々を送っていた、桑田佳祐>

 

 

一方、この年(1974年)に青学に入り、学生生活を送っていた桑田佳祐は、

春が過ぎ、夏が来て、そして季節が秋に変わっても、自分が思い描いていたような、バラ色のキャンパスライフとはいかず、

「こんな筈じゃなかった…」

と、鬱々とした日々を送っていたという。

桑田は、自分が思っていたほど、あまり女の子にもモテず、それほど楽しい思いはしていなかったようである。

そんな時、あの長嶋茂雄が引退するというニュースが飛び込んで来たが、勿論、桑田もこのニュースには、とても驚いた。

「そうか、長嶋、辞めちゃうんだな…」

野球好きの桑田も、とても感慨深い思いが有った。

 

<1974(昭和49)年10月14日…長嶋茂雄の引退試合①~中日は優勝パレードと重なり、二軍選手が試合出場~長嶋は巨人-中日のダブルヘッダー第1試合で、「通算444号」ホームランを放つ!!>

 

 

1974(昭和49)年10月14日(月)、遂に、長嶋茂雄の引退試合の日がやって来た。

この日(1974/10/14)は、後楽園球場での巨人-中日のダブルヘッダーだったが、

既に優勝を決めていた中日は、何と、まだ日本シリーズの前ではあるが、地元・名古屋で優勝パレードを行なった。

何も、わざわざこの日にしなくても…とは思うが、これは恐らく、中日優勝のニュースを「長嶋引退」で吹っ飛ばされた、中日の「意趣返し」ではなかったか。

そのため、中日は長嶋の引退試合に、優勝パレードに参加する、一軍の主力は出場出来ず、二軍の選手ばかりを出場させた。

この事について、長嶋を尊敬する、中日の高木守道は、長嶋に電話で謝ったというが、

当の長嶋は、「いいよ、いいよ、気にしなくて!!」と、至って大らかな調子であった。

そういう人柄だからこそ、長嶋は、多くの人達に愛されていたのである。

 

 

 

その長嶋茂雄は、ダブルヘッダー第1試合、通算「444号」となるホームランを放ち、

後楽園球場を埋め尽くした大観衆から、大歓声と大拍手が巻き起こったが、流石は千両役者・長嶋である。

そして、この「通算444号」が、長嶋の現役最後のホームランとなった。

 

<1974(昭和49)年10月14日…長嶋茂雄の引退試合②~第1試合と第2試合の合間に、長嶋のたっての希望で、長嶋が後楽園球場を場内一周~この様子を、蕎麦屋のテレビで見守っていた、桑田佳祐>

 

 

 

巨人-中日の第1試合が終わり、第2試合が始まるまでの間、

長嶋の、たっての希望により、長嶋は後楽園球場の場内を一周し、自分を応援してくれたファンに、別れを告げた。

これは、警備上の事もあり、当初の予定には無かった事だったというが、長嶋は、

「どうしても、ファンに挨拶をしたい」という事で、場内一周を強く希望していた。

そして、長嶋が場内一周する間、観客からは、

「長嶋、まだまだやれるぞ!!」という声もあったが、

「長嶋さん、今まで有り難う!!」という感謝の声援が、圧倒的に多かった。

そんなファンの声を聞いて、長嶋は誰憚る事なく、涙を流し、溢れる涙をハンカチで拭っていた。

 

 

この長嶋の場内一周を、蕎麦屋のテレビで、じっと見守っていた青年が居た。

言うまでもなく、桑田佳祐であった。

桑田は、長嶋の場内一周を見て、自分も涙が止まらなかったという。

テレビのでは、栄光のスーパースター・長嶋茂雄が映し出され、

あまり冴えない日々を送っていた桑田佳祐は、蕎麦屋のテレビで、涙とともに、それを見つめていた。

そして、この光景は、後年、ある1曲となって結実する事となる。

 

<1974(昭和49)年10月14日…長嶋茂雄の引退試合③~「4番・三塁」で出場したダブルヘッダー第2試合を終え、感動の引退セレモニーが行われる>

 

 

第2試合、長嶋は、長らく定位置だった「4番・三塁」で先発出場した。

「4番 サード 長嶋」

試合前の場内アナウンスで、長嶋の名前が呼ばれると、後楽園球場からは、割れんばかりの大歓声が起こった。

 

 

 

巨人が10-0とリードして迎えた8回裏、遂に長嶋茂雄の現役最後の打席がやって来た。

川上監督は、長嶋の最後の打席を、一塁コーチとして見守ったが、

長嶋が打席に入ると、後楽園球場からは、長嶋を応援するため、凄まじい大歓声と大拍手、そして絶叫が起こった。

 

 

 

 

長嶋茂雄の現役最後の打席は、1死1・3塁という場面で回って来たが、

長嶋は残念ながら、ショートゴロの併殺打に打ち取られた。

場内からは、一斉に溜息が漏れたが、すぐに長嶋に対し、惜しみない拍手が送られた。

長嶋は笑顔を浮かべ、テレビの実況アナウンサーも、

「長嶋選手の、この笑顔をご覧下さい!」

と、その様子を伝えた。

 

 

 

 

試合後、長嶋茂雄の引退セレモニーが行われた。

そして、長嶋茂雄は、現役引退のスピーチを行なったが、

そこで、「私は今日、引退を致しますが、我が巨人軍は、永久に不滅です!!」と、

日本野球史が続く限り、それこそ永遠に語り継がれるであろう、名台詞を吐いた。

こうして、稀代のスーパースター・長嶋茂雄は、グラウンドを去って行ったのである。

 

<2013(平成25)年…サザンオールスターズ『栄光の男』で、「長嶋引退」の情景が歌われる~1974(昭和49)年の長嶋茂雄と桑田佳祐をテーマにした楽曲>

 

 

 

 

2013(平成25)年、5年振りに活動再開したサザンオールスターズは、

シングル『ピースとハイライト』のカップリング曲として、『栄光の男』という楽曲を発表した。

これは、1974(昭和49)年の長嶋茂雄引退の情景と、その頃の桑田佳祐の心境を描いたものであるが、

「栄光の男」とは、勿論、長嶋茂雄の事に、他ならない。

というわけで、この『栄光の男』の歌詞をご紹介して、今回の記事の締めくくりとさせて頂きたい。

 

『栄光の男』(唄:サザンオールスターズ)

作詞・作曲/桑田佳祐

 

ハンカチを振り振り
あの人が引退(さ)るのを
立ち喰いそば屋の
テレビが映してた


シラけた人生で
生まれて初めて
割箸を持つ手が震えてた

 

「永遠に不滅」と
彼は叫んだけど
信じたモノはみんな
メッキが剥がれてく

 

I will never cry.
この世に何を求めて生きている?
叶わない夢など
追いかけるほど野暮じゃない

 

悲しくて泣いたら
幸せが逃げて去っちまう
ひとり寂しい夜
涙こらえてネンネしな

 

ビルは天にそびえ
線路は地下を巡り
現代(いま)この時代(とき)こそ
「未来」と呼ぶのだろう


季節の流れに
俺は立ち眩み
浮かれたあの頃を思い出す

 

もう一度あの日に
帰りたいあの娘(こ)の
若草が萌えてる

艶(いろ)づいた水辺よ

 

生まれ変わってみても

栄光の男にゃなれない
鬼が行き交う世間
渡り切るのが精一杯

 

老いてゆく肉体(からだ)は
愛も知らずに満足かい?
喜びを誰かと
分かち合うのが人生さ

 

優しさをありがとう
キミに惚れちゃったよ
立場があるから
口に出せないけど
居酒屋の小部屋で
酔ったフリしてさ
足が触れたのは故意(わざ)とだよ

 

満月が都会の
ビルの谷間から
「このオッチョコチョイ」と
俺を睨んでいた

 

I will never cry.
この世は弱い者には冷たいね
終わりなき旅路よ
明日天気にしておくれ

 

恋人に出逢えたら
陽の当たる場所へ連れ出そう
命預けるように
可愛いあの娘とネンネしな