【今日は何の日?】1989/10/12…西武VS近鉄「10.12」決戦、ブライアント4連発 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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本日(10/21)は、今から31年前、1989(平成元)年10月12日、パ・リーグ優勝をかけた、西武-近鉄のダブルヘッダーで、

近鉄バファローズラルフ・ブライアントが、2試合に跨り、奇跡の4打数連続ホームランを放った日である。

ブライアント「奇跡の4連発」により、近鉄は王者・西武ライオンズのリーグ5連覇を阻止して、

近鉄バファローズが、前年(1988年)10月19日の川崎球場のロッテ-近鉄のダブルヘッダーで、惜しくも優勝を逃した、

所謂「10.19」決戦の借りを返し、この2日後(1989/10/14)に、近鉄バファローズは9年振りのリーグ優勝を達成した。

 

 

1988(昭和63)年10月19日の、「10.19」のロッテ-近鉄のダブルヘッダーについては、

昨年(2019年)、私は、このブログで詳しく書いたが、近鉄は最終戦で惜しくも時間切れ引き分けにより、優勝を逃してしまった。

近鉄が、その悔しさを晴らしたのが、この「10.12」西武-近鉄のダブルヘッダーだったのである。

という事で、今回はブライアント「奇跡の4連発」について、描いてみる事としたい。

 

<1988(昭和63)年10月19日…川崎球場のロッテ-近鉄の「10.19」のダブルヘッダーで、近鉄は第2試合に時間切れ引き分けで、惜しくも優勝を逃す>

 

 

 

1988(昭和63)年のパ・リーグは、西武ライオンズ近鉄バファローズが激しく優勝を争い、

先に首位で全日程を終了した西武ライオンズに対し、2位・近鉄バファローズは、

10月19日、川崎球場でのロッテ-近鉄のダブルヘッダーで連勝すれば優勝、という所まで漕ぎ着けた。

近鉄は第1試合は激闘の末、4-3で勝ち、「マジック1」となったが、

第2試合は、近鉄はロッテの抵抗に遭い、4-4で延長10回時間切れ引き分けに終わった。

 

 

 

この結果、先に全日程を終了していた西武ライオンズリーグ4連覇が決定したが、

死力を尽くして戦い抜きながらも、最後の最後で、無念の涙を呑んだ近鉄の戦いぶりは、日本中の感動を呼んだ。

所謂「10.19」のダブルヘッダーは、今もなお、「伝説」として語り継がれているが、

この死闘を演出した、近鉄・仰木彬監督は、一躍、日本中に名を馳せた。

 

<1989(平成元)年のパ・リーグ…新生「オリックスブレーブス」が「開幕8連勝」でスタートし、当初は首位独走⇒近鉄は6月まで最大8ゲーム差、西武は6月末まで最大11ゲーム差を付けられるが、近鉄と西武が盛り返し、終盤は「西武・近鉄・オリックス」の「三つ巴」に>

 

 

 

 

1989(平成元)年は、近鉄バファローズは、前年(1988年)の悔しさを晴らすべく、

何としても優勝するという決意に燃えて、シーズンに臨んでいた。

近鉄は「10.19」で、日本中の感動を呼んだとはいえ、優勝を逃してしまったという事実に、変わりはなかった。

だとすれば、近鉄がその借りを返すとすれば、絶対に優勝する以外に方法は無かった。

仰木彬監督も、勿論、前年(1988年)の「リベンジ」を果たす事しか、頭に無かったであろう。

 

 

 

 

だが、1989(平成元)年のパ・リーグで、まず勢い良く飛び出したのが、

前年(1988年)シーズンオフに、歴史と伝統有る阪急ブレーブスを買収した、新興企業「オリックス」の名を冠した、

新生「オリックスブレーブス」である。

松永浩美-福良淳一-ブーマー-門田博光-石嶺和彦-藤井康雄-本西厚博-中嶋聡-小川博文…

と続く、所謂「ブルーサンダー打線」が大爆発し、オリックスはいきなり「開幕8連勝」を記録し、暫くは首位を独走した。

 

 

オリックスを率いていたのは、阪急ブレーブス以来の百戦錬磨、上田利治監督である。

上田監督は、強力打線を作るのに長けた監督であるが、新生オリックスも、「ブルーサンダー打線」が火を噴き、

オリックスは、6月まで、2位・近鉄に8ゲーム差を付ける、ぶっちぎりの首位独走であった。

 

 

 

 

近鉄バファローズは、優勝を目指し、1989(平成元)年のシーズンに臨んだものの、

前述の通り、6月までに首位・オリックスに最大8ゲーム差を付けられ、オリックスの独走を許していた。

しかし、夏場に入り、ベテランの多いオリックスの勢いに翳りが見えると、

大石第二朗-新井宏昌-ブライアント-リベラ-淡口憲治-鈴木貴久-金村義明-山下和彦-真喜志康永…

と続く、近鉄の所謂「いてまえ打線」が調子を上げ、近鉄がオリックスを猛烈な勢いで追い上げ、

近鉄は、8月には遂にオリックスから首位の座を奪還した。

 

 

一方、前年(1988年)までリーグ4連覇、3年連続日本一に輝いていた、

森祇晶監督率いる、絶対的王者・西武ライオンズは、この年(1989年)、怪我人が続出した事もあって、

6月頃までは全く不振であり、6月末には、遂に首位・オリックスに最大11ゲーム差を付けられてしまう、体たらくであった。

「どうした、西武!?」

という声が多く聞かれ、遂に西武の天下も終わりを告げるかに思われた。

 

 

 

だが、6月末、西武ライオンズは、新外国人選手・デストラーデが加入すると、

森監督は、不振のバークレオに代わり、デストラーデを早速一軍で起用した。

すると、デストラーデは物凄い勢いで打ちまくり、デストラーデの打棒と共に、西武も急上昇して行った。

王者・西武ライオンズが、遂に目を覚ましたのである。

 

 

 

 

 

9月に入り、近鉄バファローズオリックスブレーブスは激しい首位争いを繰り広げていたが、

そこに、西武ライオンズも割って入り、9月16日、西武はこの年(1989年)初めて、首位に立った。

以後、西武・近鉄・オリックスが日替わりで首位を争う「三つ巴」の展開となり、

この3球団の内、何処が優勝してもおかしくない状況となった。

まさに、西武・近鉄・オリックスの「3強」による、史上空前の大混戦であるが、

10月に入っても、「三つ巴」の優勝争いは激しさを増すばかりであった。

 

<1989(平成元)年10月12日の時点の、西武・近鉄・オリックスの「3強」の状況>

 

 

 

というわけで、今回は詳細は割愛するが、

10月以降も、西武・近鉄・オリックスの「3強」による「三つ巴」の優勝争いは延々と続き、

1989(平成元)年10月12日、西武球場での西武-近鉄のダブルヘッダーを迎えた時点での、

3球団の勝敗表は、下記の通りであった。

 

①西武 68勝51敗8分 勝率.571(残り3試合)

②近鉄 68勝53敗5分 勝率.562(残り4試合)

③オリックス 69勝54敗3分 勝率.561(残り4試合)

 

西武の残り3試合⇒10/12 近鉄戦×2(ダブルヘッダー)、10/15 近鉄戦

近鉄の残り4試合⇒10/12 西武戦×2(ダブルヘッダー)、10/14 ダイエー戦、10/15 西武戦

オリックスの残り4試合⇒10/12 ロッテ戦×2(ダブルヘッダー)、10/13 ロッテ戦、10/15 ダイエー戦

 

 

10/12の、西武球場での西武-近鉄のダブルヘッダーで、西武が連勝し、

同日(10/12)の、川崎球場でのロッテ-オリックスのダブルヘッダーで、オリックスが1つでも負けるか引き分ければ、その時点で、西武の優勝が決定するという状況である。

更に、近鉄は、このダブルヘッダーで1つでも負ければ、その時点で近鉄優勝は消滅するという、まさに崖っぷちであった。

近鉄としては、何がなんでも、2つとも勝つしかない状況である。

つまり、1988(昭和63)年の「10.19」と極めて似た状況であった。

こうして、運命の「10.12」の西武-近鉄のダブルヘッダーを迎えた。

 

<1989(平成元)年10月12日…「西武-近鉄」ダブルヘッダー第1試合~近鉄が、ブライアントの3打席連続ホームラン(ソロ⇒同点満塁⇒勝ち越し)で、西武に6-5の逆転勝利!!>

 

 

さて、「10.12」の西武-近鉄の決戦の第1試合である。

この試合、西武の先発は郭泰源(かく・たいげん)、近鉄の先発は高柳出巳で始まったが、

西武が初回に1点、2回に3点を取り、西武が、まずは4-0とリードを広げた。

しかし、近鉄は4回表、ブライアントが郭から46号ソロホームランを放ち、近鉄が1-4と1点を返した。

 

 

5回裏、西武が1点を加え、西武が5-1とリードを広げ、これで勝負あったかに思われたが、

6回表、近鉄は郭泰源を攻め、無死満塁という大チャンスを作った。

ここで迎える打者は、先程、ホームランを打っている、ブライアントである。

西武・森監督がマウンドに行き、西武ナインも集まり、郭を励ました。

無死満塁では、ブライアントを敬遠する事も出来ず、勝負するしか無い。

郭泰源VSブライアント、この試合を左右する勝負の場面である。

 

 

 

 

 

 

その初球、郭の投じた変化球が、真ん中高目に浮いた所を、ブライアントは見逃さなかった。

ブライアントのバットが一閃すると、打球は打った瞬間にそれと分かる、ライトスタンドへの大ホームランとなった。

ブライアント、47号同点満塁ホームラン!!!!

ブライアントの一振りで、近鉄は5-5の同点に追い付き、中西太ヘッドコーチをはじめ、近鉄ベンチはお祭り騒ぎとなった。

 

 

 

 

5-5の同点で迎えた8回表、この回先頭のブライアントを迎えた所で、

西武・森監督は、渡辺久信をリリーフに送った。

渡辺久信は、ブライアントを得意としており、それまで、ブライアントには1本もホームランを打たれた事は無かった(対戦成績:14打数8三振)。

この場面は、絶対にホームランだけは打たれてはいけない場面である。

そこで、森監督は万全を期して、渡辺をマウンドに送ったが、ブライアントは渡辺の速球を苦手としており、

この打席も、ブライアントは簡単に2ストライクと追い込まれてしまった。

 

 

 

 

 

 

そして、カウント2-1から、渡辺久信が投じた、内角高目の剛速球を、ブライアントは思いっきり振り抜いた。

いつもなら、ブライアントは簡単に空振りするような球だったが、この日のブライアントは、神がかっていた。

何と、ブライアントのバットは、この剛速球をドンピシャリのタイミングで捉え、打球は物凄い勢いでライトスタンドへと飛んで行った。

ブライアント、3打席連続の48号勝ち越しホームラン!!!!

ブライアントの3打席連続ホームランで、近鉄が遂に6-5と大逆転し、渡辺久信はガックリと膝をつき、呆然と打球の方向を見送っていた。

 

 

 

 

 

 

 

それは、あまりにも衝撃的な一発であった。

この試合、ブライアント3打席連続ホームランで、1人で6打点を荒稼ぎし、西武を粉砕してしまったのである。

この時、ブライアントは両手を高々と上げてガッツポーズをし、渡辺久信はガックリと膝をついたまま、立ち上がれなくなってしまったが、それは、あまりも対照的な、両者のコントラストであった。

 

 

結局、第1試合は、そのまま近鉄が6-5で西武を破ったが、

ブライアント1人のバットで、まさに西武を打ち破るという、近鉄としては価値有る1勝となった。

近鉄は崖っぷちで踏みとどまったが、一方、西武としては非常にダメージが残る、痛すぎる1敗となってしまった。それは、単なる1敗以上の重みが有った。

 

<1989(平成元)年10月12日…「西武-近鉄」ダブルヘッダー第2試合~ブライアントの「4打数連続ホームラン」など、近鉄打線が大爆発!!~近鉄が14-4で西武に大勝、近鉄が西武に連勝し、近鉄「マジック2」に!!…西武「V5」の夢、ほぼ潰える>

 

 

 

 

 

 

こうなると、もはや近鉄バファローズの勢いは止まらなかった。

続く第2試合は、西武・高山郁夫、近鉄・阿波野秀幸の両先発で始まったが、

2-2の同点で迎えた3回表、この試合、第1打席は四球だったブライアントが、西武・高山から、左中間スタンドへ4打席連続となる49号勝ち越しホームランを放った。

ブライアント、4打数連続ホームラン達成!!!!

このブライアントの大当たりに、近鉄・仰木彬監督、中西太ヘッドコーチは、

「ヒヒヒヒ…笑いが止まらん!!」

といった表情で、ベンチを出て来たのが印象的であった。

 

 

 

結局、その後も近鉄「いてまえ打線」の勢いは止まらず、

第2試合は、近鉄が西武に14-4で大勝してしまった。

近鉄は西武に連勝し、崖っぷちだった筈の近鉄に、逆に「マジック2」が点灯してしまった。

 

 

 

 

 

こうして、ブライアントという1人の男のために、王者・西武ライオンズは木っ端微塵に粉砕され、

ここに、西武の「V5」の夢は、ほぼ潰えてしまった。

西武優勝を期待し、西武球場に詰めかけていた、超満員の西武ファンは皆、まさかの展開に悲鳴を上げ、ガックリと肩を落としたり、涙を流す女性ファンの姿も有ったが、そんな西武ファンの姿が、つい前日までは、ほぼ確実と思われていた西武優勝が、一転して絶望的になってしまった事を、如実に物語っていた。

展開によっては、まだ西武優勝の可能性も僅かに残っていたが、1989(平成元)年のパ・リーグの勝負の行方は、事実上、ここで決まったと言って良い。

 

<1989(平成元)年10月14日…近鉄-ダイエー戦(藤井寺球場)で、近鉄が5-2でダイエーを破り、遂に近鉄バファローズ、9年振り優勝!!~歴史的な「三つ巴」の大混戦に終止符~最終的には、首位・近鉄、2位・オリックス、3位・西武が「1厘差」ずつ、上位3球団が0.5ゲーム差にひしめく、空前の大混戦>

 

 

 

 

 

10/12、川崎球場のロッテ-オリックスのダブルヘッダーは、オリックスが10-2、14-2で連勝したが、

翌10/13、オリックスはロッテに3-5で敗れてしまい、これで近鉄は「マジック1」となった。

そして、1989(平成元)年10月14日、近鉄の地元・藤井寺球場の近鉄-ダイエー戦を迎えたが、

藤井寺球場のスタンドは、近鉄優勝の瞬間を見届けようとする、近鉄ファンで超満員に埋め尽くされていた。

この試合は、近鉄が終始、優位に試合を展開し、近鉄が5-2と3点リードの9回表、

近鉄はエース・阿波野秀幸をマウンドに送った。

そして、阿波野は前年(1988年)の「10.19」の悔しさを晴らし、ダイエーの攻撃を無得点に抑えた。

阿波野は、最後の打者・伊藤寿文(ダイエー)を見逃し三振に打ち取り、ゲームセット!!

この瞬間、近鉄バファローズの9年振りの優勝が決定した。

 

 

 

 

 

 

 

近鉄バファローズ、「10.19」の無念を晴らし、9年振りの優勝決定!!!!

それは、近鉄バファローズにとっては、2年越しの壮大なドラマの「完結編」であった。

近鉄・仰木彬監督は、遂にリーグ優勝を成し遂げ、近鉄の選手達から胴上げされ、藤井寺球場で宙を舞ったが、

近鉄ファンで埋め尽くされていた、藤井寺球場の観客席は、興奮の坩堝と化していた。

 

 

 

 

というわけで、1989(平成元)年の「10.12」の、ブライアントの奇跡の4連発~「10.14」の近鉄優勝のドラマについて、お伝えして来たが、

やはり、先程も述べた通り、このドラマは、前年(1988年)の「10.19」から続く、2年越しの壮大なドラマの「完結編」と見るべきであろう。

その主役となったのは、紛れもなく、ブライアントという「奇跡の男」であるが、

前年(1988年)の「10.19」で、高沢秀昭(ロッテ)に痛恨の同点ホームランを浴び、優勝を逃して涙に暮れた、近鉄のエース・阿波野秀幸が、その1年後に「胴上げ投手」となり、「リベンジ」を果たしたのも、また見事であった。

 

 

【1989(平成元)年パ・リーグ 上位3強の最終順位】

①近鉄 71勝54敗3分 勝率.568

②オリックス 72勝55敗3分 勝率.567(0.0ゲーム差)

③西武 69勝53敗8分 勝率.566(0.5ゲーム差)

 

 

【1989/10/12以降~最終戦までの近鉄バファローズの試合結果】

10/12 近鉄〇6-5●西武

10/12 近鉄〇14-4●西武(※近鉄にマジック「2」点灯)

10/14 近鉄〇5-2●ダイエー(※近鉄の優勝決定)

10/15 近鉄●5-6〇西武

 

【1989/10/12以降~最終戦までのオリックスブレーブスの試合結果】

10/12 オリックス〇10-2●ロッテ

10/12 オリックス〇14-2●ロッテ

10/13 オリックス●3-5〇ロッテ(※近鉄のマジック「1」)

10/15 オリックス〇5-0●ダイエー

 

【1989/10/12以降~最終戦までの西武ライオンズの試合結果】

10/12 西武●5-6〇近鉄

10/12 西武●4-14〇西武

10/15 西武〇6-5●近鉄

 

なお、1989(平成元)年のパ・リーグは、最終的には、首位・近鉄、2位・オリックス、3位・西武が「1厘差」ずつで、上位3球団が0.5ゲーム差にひしめく、空前の大混戦となったが、1989(平成元)年のパ・リーグのペナントレースの詳細については、また別の機会に書く予定である。