【今日は何の日?】2001/9/26…北川博敏(近鉄)、代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームラン | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

今から19年前、2001(平成13)年9月26日、大阪近鉄バファローズは、12年振りの優勝まで「マジック1」に迫っていたが、

この日、大阪ドームで行われた、近鉄-オリックス戦で、大阪近鉄バファローズの北川博敏は、

プロ野球史上、空前絶後の「代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームラン」を放った。

 

 

今年(2020年)、当時の近鉄の監督だった梨田昌孝氏が、コロナに倒れ、一時は重症化していたが、

その後、梨田氏は回復し、現在は元気に過ごしているが、

今年(2020年)の4/24、私はこのブログで、当時、闘病中だった梨田さんを応援するため、

北川博敏「代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームラン」についての記事を、一度、書いている。

今回は、その北川の奇跡の一発について、もう少し、掘り下げて書いてみる事としたい。

という事で、まずは近鉄バファローズが、西武ライオンズ、オリックスブレーブスとの大混戦を制し、9年振りに優勝した、1989(平成元)年から、ご覧頂くとしよう。

 

<1989(平成元)年…仰木彬監督率いる近鉄バファローズが、西武・オリックスとの大混戦を制し、前年(1988年)の「10.19」のリベンジを果たし、劇的な優勝!!~「いてまえ打線」が爆発し、ブライアントの「奇跡の4連発」で王者・西武を粉砕し、近鉄が奇跡の逆転優勝>

 

 

1988(昭和63)年、当時、就任1年目の仰木彬監督率いる近鉄バファローズは、

シーズン終盤、西武ライオンズを激しく追い上げ、近鉄は1988(昭和63)年10月19日のロッテとのダブルヘッダーに連勝すれば優勝、という所まで漕ぎ着けたが、その「10.19」のダブルヘッダーで、近鉄は第1試合には勝ったものの、第2試合で延長10回、時間切れの引き分けに終わり、近鉄は惜しくも優勝を逃した。

この「10.19」の近鉄の悲劇については、このブログでも既に書いたが、この「10.19」のダブルヘッダーは、日本中の人達に感動を与えた。

 

 

 

なお、「10.19」にダブルヘッダー第1試合で、

3-3の同点で迎えた9回表2死2塁で代打で登場し、起死回生の決勝タイムリーを放ったのが、

この年(1988年)限りでの現役引退を決めていた、梨田昌孝であった。

梨田は、土壇場で劇的な一打を放ったのだが、このように、梨田とは「土壇場に強い男」だったのである。

 

 

前述の通り、「10.19」の第1試合で、梨田の劇的な決勝打により、近鉄はロッテに競り勝ちながらも、

第2試合は、近鉄のエース・阿波野秀幸が、高沢秀昭(ロッテ)に痛恨の同点ホームランを打たれ、

結局、4-4で時間切れ引分けに終わり、近鉄は、惜しくも、あと一歩で優勝を逃してしまった。

その結果、森祇晶監督率いる西武ライオンズが、パ・リーグ4連覇を果たした

 

 

このように、「10.19」で、近鉄は惜しくも優勝を逃し、日本中の涙を誘ったが、

仰木監督は、何としても、「10.19」の「リベンジ」を果たし、今度こそ優勝を掴み取ると、決意を新たにして、翌1989(平成元)年のシーズンに挑んだ。

そして、仰木監督のみならず、近鉄の選手達も、絶対に優勝するという決意に燃えていた。

 

 

 

しかし、1989(平成元)年のパ・リーグは、まずは上田利治監督率いる、新生「オリックスブレーブス」が、

松永浩美-福良淳一-ブーマー-門田博光-石嶺和彦-藤井康雄-本西厚博-中嶋聡-小川博文…

と続く、「ブルーサンダー打線」という強力打線が火を噴き、オリックスが「開幕8連勝」という好スタートを切って、暫くは首位を独走した。

開幕当初、近鉄はもたつき、2位に付けてはいたものの、一時、オリックスとは最大8.5ゲーム差を付けられてしまった。

また、王者・西武ライオンズは、更に苦戦し、一時はオリックスの最大11ゲーム差を付けられていた。

 

 

 

 

だが、大石第二朗-新井宏昌-ブライアント-リベラ-淡口憲治-鈴木貴久-金村義明-山下和彦-真喜志康永(※控えには村上隆行、中根仁ら)…

と続く、超強力な「いてまえ打線」を擁し、前年(1988年)のリベンジに燃える、エース・阿波野秀幸が大車輪の活躍を見せた近鉄も、後半戦からは本領を発揮し、オリックスを猛追した。

そして、王者・西武も目を覚まし、シーズン終盤は、西武・近鉄・オリックスの「3強」が激しい首位争いを繰り広げる「三つ巴」の展開になった。

 

 

 

 

10月に入り、西武・近鉄・オリックスの「三つ巴」から、西武が一歩抜け出し、

近鉄は、一時、崖っぷちに追い込まれてしまったが、

1989(平成元)年10月12日、「天王山」となった、西武-近鉄のダブルヘッダーで、

ブライアント(近鉄)が、2試合に跨って「4打数連続ホームラン」を放ち、近鉄が6-5、14-4で西武に連勝し、近鉄が西武を粉砕した。

そして、遂に近鉄が優勝に「王手」をかけた。

 

 

 

1989(平成元)年10月14日、「マジック1」の近鉄は、本拠地・藤井寺球場で近鉄-ダイエー戦を迎えたが、近鉄が5-2でダイエーを破り、遂に近鉄バファローズが1980(昭和55)年以来、9年振りの優勝を果たした。

最後は、エース・阿波野秀幸が「胴上げ投手」になり、見事、前年(1988年)の「10.19」の雪辱を果たした。

 

 

 

 

近鉄は、西武・オリックスとの「三つ巴」の優勝争いを制して、劇的な大逆転優勝を果たし、仰木監督が、近鉄の選手達から胴上げされ、藤井寺球場で宙を舞ったが、仰木監督は、夢にまで見た優勝を果たし、感無量といった表情であった。

こうして、近鉄は「10.19」以来、2年越しで優勝を掴み取ったが、

このように、近鉄バファローズとは常に「何かをやってくれる」という期待を抱かせるような、そんな魅力的な球団であった。

 

<その後の近鉄バファローズ①…1990(平成2)年、野茂英雄が近鉄に入団し、大活躍するも、近鉄は優勝は出来ず~1994(平成6)年、野茂英雄は鈴木啓示監督と対立し、近鉄を退団、メジャーリーグ(ロサンゼルス・ドジャース)挑戦へ~1992(平成4)年には中村紀洋が近鉄に入団>

 

 

その後、翌1990(平成2)年に、「トルネード投法」野茂英雄が近鉄に入団し、

野茂英雄は、入団以来、「4年連続最多勝」&「4年連続最多奪三振」(1990~1994年)と、大活躍したが、その間、残念ながら、近鉄は一度も優勝出来なかった。

仰木彬監督は、1992(平成4)年限りで近鉄の監督を辞任したが、仰木監督の近鉄での5年間は、

「2位(1988年)⇒優勝(1989年)⇒3位(1990年)⇒2位(1991年)⇒2位(1992年)」という結果であった。

 

 

 

1993(平成5)年、仰木監督の後を受け、かつての近鉄の大エース・鈴木啓示が近鉄の監督に就任したが、

鈴木啓示監督と野茂英雄は、全くソリが合わず、野茂は1994(平成6)年限りで、近鉄を退団してしまった。

野茂は、そのままメジャーリーグ(ロサンゼルス・ドジャース)に挑戦したが、野茂の退団は、近鉄としては非常に痛かった。

 

 

 

その間、1992(平成4)年には、大阪・渋谷高校から、

中村紀洋(なかむら・のりひろ)が近鉄に入団したが、

中村紀洋は、豪快なフルスイングが持ち味の選手であり、将来の主砲と期待されていた。

なお、中村紀洋は、1992(平成4)年に高卒でプロ入りしたという事で、あのイチロー(※1992年オリックス入団)と同期である。

 

<その後の近鉄バファローズ②…鈴木啓示監督が辞任し、1996(平成8)年に佐々木恭介監督が就任⇒1997(平成9)年、本拠地を大阪ドームに移転し、球団名は「大阪近鉄バファローズ」に~その間、1996(平成8)年にタフィ・ローズ、1997(平成9)年にフィル・クラークが近鉄に入団>

 

 

1995(平成7)年、鈴木啓示監督率いる近鉄は最下位に転落し、鈴木監督はシーズン途中で「休養」に追い込まれた。

結局、鈴木啓示監督時代の近鉄は、「4位(1993年)⇒3位(1994年)⇒6位(1995年)」という結果に終わった。

そして、鈴木監督の後を受け、1996(平成8)年からは、近鉄OBの佐々木恭介が近鉄の監督に就任した。

 

 

 

その1996(平成8)年、近鉄に入団したのが、タフィ・ローズである。

タフィ・ローズは、この年(1996年)、佐々木監督の熱心な打撃指導の甲斐も有って、

サヨナラ本塁打を3本も放つなど、打率.293 27本塁打 97打点で「チーム三冠王」の成績を残したが、近鉄は4位に終わっている。

そして、この年(1996年)限りで、近鉄は本拠地・藤井寺球場を離れる事となった。

 

 

 

翌1997(平成9)年、近鉄バファローズは、本拠地を大阪ドームに移し、

球団名を「大阪近鉄バファローズ」に改称した。

 

 

そして、この年(1997年)、近鉄に新外国人選手として入団したのが、フィル・クラークである。

クラークは、あのイチローと首位打者争いを繰り広げるなど、打率.331 23本塁打 93打点という成績を残し、

クラークは近鉄打線の中核を担う事となった。

 

<その後の近鉄バファローズ③…「フィル・クラーク&タフィ・ローズ」の超強力コンビの大活躍と、中村紀洋が台頭するも、近鉄は低迷~1999(平成11)年限りで佐々木恭介監督が辞任し、2000(平成12)年に梨田昌孝監督が就任するも、2000(平成12)年に近鉄は最下位(※2年連続最下位)>

 

 

 

 

フィル・クラークタフィ・ローズは、同じ1968年生まれという事もあり、大の仲良しであった。

その「フィル・クラーク&タフィ・ローズ」の超強力コンビは、他球団の脅威の的となっていた。

その2人の年度別成績(2000年まで)は、下記の通りである。

 

【タフィ・ローズの年度別成績】

1996(平成8)年 130試合 打率.293 27本塁打 93打点

1997(平成9)年 135試合 打率.307 22本塁打 102打点

1998(平成10)年 134試合 打率.257 22本塁打 70打点

1999(平成11)年 131試合 打率.301 40本塁打 101打点(※本塁打王、打点王)

2000(平成12)年 135試合 打率.272 25本塁打 89打点

 

【フィル・クラークの年度別成績】

1997(平成9)年 135試合 打率.331 27本塁打 93打点

1998(平成10)年 135試合 打率.320 31本塁打 114打点

1999(平成11)年 134試合 打率.287 29本塁打 84打点

2000(平成12)年 66試合 打率.272 10本塁打 33打点

 

このように、クラークとローズは、毎年、切磋琢磨しながら、素晴らしい成績を残したが、

クラークは、2000(平成12)年、死球により右骨折した事が響き、不振に終わり、

同年(2000年)限りで近鉄を解雇されている。

 

 

一方、中村紀洋も、持ち前の豪快なフルスイングと長打力に磨きがかかり、

年々、台頭して行ったが、中村紀洋は、入団当初は背番号「66」だったが、

球団名が「大阪近鉄バファローズ」に改称された1997(平成9)年以降、背番号「3」に昇格し、球団の期待の高さを伺わせた。

その中村紀洋の年度別成績(2000年)は、下記の通りである。

 

【中村紀洋の年度別成績】

 

1992(平成4)年 11試合 打率.222 2本塁打 5打点

1993(平成5)年 8試合 打率.111 0本塁打 1打点

1994(平成6)年 101試合 打率.281 8本塁打 36打点

1995(平成7)年 129試合 打率.228 20本塁打 64打点

1996(平成8)年 110試合 打率.273 26本塁打 67打点

1997(平成9)年 128試合 打率.240 19本塁打 68打点

1998(平成10)年 132試合 打率.260 32本塁打 90打点

1999(平成11)年 135試合 打率.261 31本塁打 95打点

2000(平成12)年 127試合 打率.277 39本塁打 110打点(※本塁打王、打点王)

 

 

このように、大阪近鉄バファローズは、強力打線を擁してはいたが、如何せん、投手力が弱く、近鉄は、なかなか上位に進出する事は出来なかった。

佐々木恭介監督時代の近鉄は、「4位(1996年)⇒3位(1997年)⇒5位(1998年)⇒6位(1999年)」という結果に終わり、

1999(平成11)年、近鉄が最下位に転落した責任を取り、佐々木監督は辞任した。

 

 

2000(平成12)年、佐々木恭介監督の辞任の後を受け、

梨田昌孝が、大阪近鉄バファローズの監督に就任した。

梨田昌孝は、1988(昭和63)年限りで現役引退した後、1993(平成5)年に一軍作戦兼バッテリーコーチとして近鉄に復帰し、

1996(平成8)年からは近鉄の二軍監督を務めていたが、2000(平成12)年から、満を持して近鉄の監督に就任した。

 

 

 

なお、梨田監督は、2000(平成12)年に就任すると、小林繁、真弓明信をコーチとして招聘し、

梨田昌孝監督、小林繁・投手コーチ、真弓明信・打撃コーチ「男前三人衆」として話題を集めたが、

この年(2000年)、近鉄は残念ながら最下位に終わり、これで近鉄は「2年連続最下位」に沈んでしまった。

 

<2001(平成13)年の大阪近鉄バファローズ①…北川博敏が阪神から近鉄に移籍~近鉄は日ハムとの開幕戦を、乱打戦の末、10-9で制す!!~その後、近鉄は負けが込み、5/18には5連敗で5位に転落>

 

 

2001(平成13)年、大阪近鉄バファローズ阪神タイガースの間で、「3対3」のトレードが成立した。

阪神から近鉄へ移籍したのが、湯船敏郎、山崎一玄、北川博敏で、

近鉄から阪神に移籍したのが、酒井弘樹、面出哲志、平下晃司だったが、

北川博敏は、阪神に在籍した6年間(1995~2000年)で、本塁打は1本も打っておらず、実績は無かった。

しかし、新天地・近鉄で何としても結果を出そうと、北川博敏は猛練習を行ない、首脳陣にアピールしたところ、

その姿勢が梨田監督の目に留まり、北川は一軍に定着した。

 

 

 

2001(平成13)年3月24日、東京ドームで日本ハム-近鉄の開幕戦が行われた。

近鉄は、1回裏、いきなり日本ハムに5点を先取される、苦しい展開だったが、

その後、近鉄打線が大爆発し、乱打戦に持ち込んだ挙句、近鉄が10-9で日本ハムを破り、開幕戦を制した。

近鉄らしさが遺憾なく発揮された開幕戦だったが、今にして思えば、この開幕戦に、2001(平成13)年の近鉄の全てが凝縮されていた。

 

 

近鉄は、3月を3勝3敗、4月を13勝8敗1分で乗り切り、なかなかの好スタートを切ったが、

5月に入って以降、近鉄は失速し、5月13日~18日にかけて、近鉄は5連敗を喫してしまった。

この時点で、近鉄は5位に転落し、首位に5.5ゲーム差を付けられてしまった。

 

<2001(平成13)年の大阪近鉄バファローズ②…5/19~以降、近鉄は6連勝!!~5/27、北川博敏が初のサヨナラ打を放つ~タフィ・ローズ、中村紀洋らの「いてまえ打線」が大爆発し、近鉄はオールスター時点で首位に立つ!!>

 

 

だが、この年(2001年)の近鉄は、とにかく打線が強力であり、

投手陣が、少々、点を取られても、打線がそれ以上に打って取り返す、という力が有った。

特に、タフィ・ローズ、中村紀洋のコンビは超強力であり、4月終了時点で、ローズが9本塁打、中村紀洋が8本塁打を打っていたが、5月以降、更にローズと中村の打棒は炸裂する(※この年から、中村紀洋は背番号「5」に変更)

 

 

 

前述の、5/13~5/18の5連敗の後、近鉄は5/19以降、引き分けを挟んで6連勝して、すぐにチームを建て直したが、

5月27日の近鉄-オリックス戦では、この日(5/27)、29歳の誕生日を迎えた北川博敏が、初のサヨナラ打を放っている。

北川は、4月28日のダイエー戦で、プロ初本塁打を打っていたが、「ここ一番」の良い場面で打つ北川は、梨田監督に、ますます重宝されて行った。

 

 

 

5/29の日本ハム-近鉄戦は、凄まじい試合になった。

日本ハム、近鉄の両チームが、ノーガードの打ち合いとなり、

9回を終了した時点で、12-12の同点で延長戦に突入したが、

延長10回表、近鉄が一挙5点を取り、近鉄が17-12で日本ハムを破った。

この試合、中村紀洋は、18号・19号・20号という、1試合3本塁打を放った。

結局、近鉄は5月を12勝13敗1分で終えたが、5月終了時点で、タフィ・ローズは18本塁打、中村紀洋は21本塁打を放った。

 

 

 

 

6月に入っても近鉄の好調は続いた。

6/9の近鉄-日本ハム戦は、序盤で近鉄は0-4と4点のビハインドを背負ったが、

ローズが20号、21号本塁打を連発すると、最後は、北川博敏が、またしてもサヨナラ打を放ち、近鉄が5-4で日本ハムを破った。

近鉄には、少々のビハインドでは、へこたれないという強さが有り、北川には神がかり的な勝負強さが有った。

 

 

 

 

6/20~6/26にかけて、近鉄は、この年(2001年)2度目の6連勝を飾ったが、

6/22の近鉄-ダイエー戦では、近鉄は中村紀洋の24号、ローズの28号のホームランなど、計6本塁打が飛び出し、

近鉄が、18-9でダイエーに打ち勝った。

結局、近鉄は6月を14勝8敗という成績を残し、6月終了時点で、ローズは32本塁打、中村紀洋は26本塁打を放った。

 

 

7月17日、近鉄の前半戦最後の試合となった、ロッテ-近鉄戦も、凄まじかった。

この試合、近鉄は8回裏を終わって、4-9という5点ビハインドだったが、9回表に一挙8点を奪い、

結局、近鉄は12-9で大逆転勝利を収めた。

この試合、ローズは33号・34号ホームランを打ったが、とにかく、この年(2001年)の近鉄は、こんな試合が数えきれないほど、沢山有った。

こうして、近鉄は「いてまえ打線」の大爆発により、前半戦を47勝38敗2分で、首位で折り返した。

 

<2001(平成13)年の大阪近鉄バファローズ③…8月~9月、近鉄は一進一退の戦いが続くが、ローズ・中村紀洋は相変わらず打ちまくる>

 

 

 

その後、近鉄は7月を9勝8敗で終え、7月終了時点で、ローズ36本塁打、中村紀洋は32本塁打を記録した。

8月に入り、近鉄は少し「息切れ」してしまい、8/13~8/18まで、近鉄は今季2度目の5連敗を喫し、首位から陥落した。

しかし、8/19~8/31までの10試合を、近鉄は8勝2敗で勝ち進み、首位・ダイエーをピタリと追走した。

近鉄は、8月を12勝12敗で終えたが、8月終了時点で、ローズ47本塁打、中村紀洋37本塁打と、2人は相変わらず打ちまくっていた。

 

<2001(平成13)年の大阪近鉄バファローズ④~近鉄・ダイエー・西武の「三つ巴」で、優勝に向けての「胸突き八丁」の攻防が続く~ローズ・中村紀洋の猛打は相変わらず>

 

 

 

近鉄は、9/3~9/8にかけて、今季3度目の5連敗を喫し、首位・ダイエー、2位・西武に次いで3位に後退した。

この時点で、近鉄は首位・ダイエーに2ゲーム差を付けられ、残りは12試合となり、苦しい状況に追い込まれた。

なお、この年(2001年)のダイエーは、小久保裕紀、松中信彦、城島健司、井口忠仁の「30発カルテット」を擁し、

西武には、大エース・松坂大輔が健在であり、流石の近鉄も、もうダメか…と思わせた。

 

 

 

しかし、この年(2001年)の近鉄は、これしきの逆境で諦めてしまうほど、ヤワではなかった。

翌9/9にダイエーを6-5で破った近鉄は、9/10~9/12にロッテに3連勝すると、

9/14には、オリックスに3-9で敗れるが、9/16にオリックスを6-5で破ると、近鉄は9/17~9/19に西武に3連勝し、9/23には日本ハムを1-0で破った。

つまり、9/9~9/23にかけて、近鉄は9勝1敗のハイペースで勝ち進み、近鉄が首位を奪回した。

勿論、この間にもローズ、中村紀洋は打ちまくり、ローズは遂に54本塁打で、1964(昭和39)年の王貞治「シーズン55本塁打」の最多記録に「王手」をかけ、中村紀洋44本塁打を放っていた。

 

<2001(平成13)年9月24日…近鉄-西武戦(大阪ドーム)で、ローズが日本最多タイの「55号」ホームラン&中村紀洋が「45号」逆転サヨナラ2ラン!!~「近鉄VS西武」の最終決戦で、近鉄が松坂大輔(西武)を粉砕し、「マジック1」>

 

 

 

 

2001(平成13)年9月24日、大阪ドームの近鉄-西武戦を迎えた段階で、

首位・近鉄は残り6試合、2位・西武は残り5試合で、近鉄を2.5ゲーム差で追っており、

この「近鉄VS西武」の決戦は、まさに最後の「天王山」だったが、絶対に負けられない西武は、エース・松坂大輔が先発した。

西武が4-3と1点リードして迎えた6回裏、ローズが松坂からライトスタンドへ「55号」ホームランを放ち、近鉄が4-4の同点に追い付いたが、タフィ・ローズは、遂に1964(昭和39)年の王貞治(巨人)以来、37年振りに、シーズン最多タイ記録の「シーズン55本塁打」を達成した。

 

 

 

 

 

その後、西武が6-4と2点リードして迎えた9回裏、

近鉄は、まず代打・北川博敏が松坂大輔から5号ホームランを放ち、近鉄が5-6と1点差に迫ると、

9回裏2死から、中村紀洋が、松坂大輔の投球をライトスタンドへ運ぶ、劇的な45号逆転サヨナラ2ランホームランを放った。

打った瞬間、中村紀洋は万歳をしたが、宿敵・西武ライオンズの大エース・松坂大輔を粉砕した近鉄が、遂に「マジック1」となった。

 

<2001(平成13)年9月26日…近鉄-オリックス戦(大阪ドーム)で、北川博敏が「代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームラン」!!~近鉄が前年最下位から奇跡の優勝!!梨田監督が大阪ドームで宙を舞う>

 

 

 

 

こうして、大阪近鉄バファローズが「マジック1」として迎えたのが、

2001(平成13)年9月26日、大阪ドームでの近鉄-オリックス戦であった(※この時、オリックスの監督を務めていたのは、仰木彬である)。

近鉄は、2-5と3点ビハインドの9回裏無死満塁のチャンスを作ると、ここで梨田監督は代打・北川博敏を打席に送ったが、

北川博敏は、大久保勝信(オリックス)から、左中間スタンドへ「代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームラン」を放った。

これ以上無い、北川のあまりにも劇的な一発に、近鉄の選手達も、近鉄ファンも、そしてテレビで見ていた私も、大興奮であった。

 

 

 

 

 

 

この年(2001年)、奇跡的な、神がかり的な試合を連発して来た、大阪近鉄バファローズが、

最後の最後で、これ以上無い、最高の奇跡を起こしてしまった。

「代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームラン」を放った北川博敏は、夢心地で、飛び跳ねながらベース一周をして、大興奮の近鉄の選手達から、手洗い祝福を受けた。

 

 

 

大阪近鉄バファローズ、12年振り4度目の優勝を達成!!!!

北川の劇的な一発の興奮冷めやらぬ中、ホームベース付近で、すぐさま、梨田昌孝監督の胴上げが行われたが、

梨田監督も、「これは、夢じゃないのか!?」と、まだ半信半疑だったという。

ともあれ、日本の、いや世界の野球史上、ただ一度という「代打逆転サヨナラ満塁ホームラン」という奇跡の一発は、この年(2001年)の大阪近鉄バファローズにこそ、相応しいフィナーレであった。

 

 

 

 

なお、今回の記事は、タフィ・ローズ、中村紀洋、北川博敏の3人を中心に描いて来たが、

大村直之-水口栄二-ローズ-中村紀洋-磯部公一-吉岡雄二-川口憲史-ギルバート-的山哲也(古久保健二)…

と続く、2001(平成13)年版の「いてまえ打線」の破壊力が有ったればこそ、この年(2001年)の近鉄優勝は成し遂げられたと、強調しておきたい。

ともあれ、「代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームラン」など、この先、再現される事など無いのではないか、という程の、究極の一発が飛び出してから、はや19年が経ったというのも、感慨深い。

そして、テレビ中継とはいえ、このホームランをリアルタイムで見る事が出来た私は、大変幸運であった。