【今日は何の日?】1999/9/25…福岡ダイエーホークス、悲願の初優勝(前編) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

今から21年前の本日(9/25)、1999(平成11)年9月25日、

王貞治監督率いる、福岡ダイエーホークスが、遂に悲願の初優勝を達成した。

ホークスの優勝は、1973(昭和48)年の南海ホークス以来26年振り、

ホークスの親会社が「ダイエー」になり、本拠地を福岡に移転してからは、初めて優勝であった。

 

 

福岡ダイエーホークス「初優勝」に至るまでの道のりは、実に苦難に満ちたものであったが、

まずは、その物語の「前編」として、1973(昭和48)年の「南海ホークス」最後の優勝から、

1989(平成元)年の「福岡ダイエーホークス」誕生に至る経緯について、ご覧頂こう。

 

<1973(昭和48)年…野村克也監督率いる南海ホークスが7年振り優勝~結果として「南海最後の優勝」に>

 

 

 

1973(昭和48)年、「選手兼任監督」野村克也監督率いる南海ホークスが、

当時、前期・後期の「2シーズン制」を採用していたパ・リーグで、前期優勝を果たすと、

後期優勝の阪急ブレーブスとの間で行われたプレーオフで、南海が阪急を3勝2敗で破り、

南海ホークスが、1966(昭和41)年以来、7年振りのリーグ優勝を達成した。

そして、結果としては、これが「南海最後の優勝」となってしまった。

 

<1973(昭和48)年…王貞治(巨人)が「三冠王」を達成!!>

 

 

野村克也監督率いる南海ホークスが優勝したのと同じ1973(昭和48)年、

セ・リーグでは、当時、全盛期だった王貞治(巨人)が、打率.355 51本塁打 114打点で、「三冠王」を達成した。

この後、王貞治「世界のホームラン王」へと邁進するが、遥か後年、この王貞治がホークスと関わる事になろうとは、この時、まだ誰も知る由も無かった。

 

<1977(昭和52)年…野村克也監督が、「サッチー」(野村沙知代)との女性問題で、南海監督を「解任」~以後、南海ホークスは「11年連続Bクラス」(1978~1988年)に低迷>

 

 

1977(昭和52)年、野村克也監督率いる南海ホークスは、2位の座を確保していたが、

この年(1977年)のシーズンオフ、野村監督は、「サッチー」(野村沙知代)との女性問題が取り沙汰され、

突如、野村克也は南海の監督を「解任」されてしまった。

この「解任」に対し、野村克也は、かねてから「確執」の有った、鶴岡一人の名を挙げ、

「鶴岡元老に、ぶっ飛ばされた。野球の世界に、政治が有るとは思わなかった」

と、記者会見では、「恨み節」を全開にしていたが、

野村監督は、1970(昭和45)年に南海の「選手兼任監督」に就任して以来、

1970(昭和45)~1977(昭和52)年までの8年間で、「2位(1970年)⇒4位(1971年)⇒3位(1972年)⇒優勝(1973年)⇒3位(1974年)⇒5位(1975年)⇒2位(1976年)⇒2位(1977年)」と、常に上位に食い込む、好成績を収めていた。

その野村監督をクビにした南海は、以後、球団を「ダイエー」「身売り」する1988(昭和63)年まで、「11年連続Bクラス」に低迷する事となった。

つまり、野村監督の「解任」は、名門・南海ホークス「凋落」を意味していたのであった。

 

<1978(昭和53)年シーズンオフ…「クラウンライター・ライオンズ」が「西武」に買収され、「ライオンズ」が九州を去る⇒1979(昭和54)年…新生「西武ライオンズ」が、新天地・所沢で誕生~「クラウン」最後の監督・「西武」初代監督となった、根本陸夫>

 

 

 

名門・南海ホークスが、凋落の兆しを見せていた頃、かつて、九州・福岡の地で、

日本一の強豪チームとして名を馳せた「西鉄ライオンズ」は、この頃、すっかり落ちぶれており、

かつては、九州一帯から熱烈に愛されていたライオンズは、ファンから愛想を尽かされ、

ライオンズの本拠地の平和台球場には、常に閑古鳥が鳴いていた。

西鉄は、1972(昭和47)年を最後に、球団経営から撤退し、ライオンズは「太平洋クラブ」をスポンサーとすると、

以後、「太平洋クラブ・ライオンズ」(1973~1976年)⇒「クラウンライター・ライオンズ」(1977~1978年)として、細々と活動していたが、

当時、ライオンズには全くお金が無く、球団経営は、常に「火の車」であった。

 

 

 

なお、1978(昭和53)年の「クラウンライター・ライオンズ」の監督は、根本陸夫であるが、

根本陸夫も、まさか、自分が「九州ライオンズ」最後の監督になろうとは、

この時は、想像だにしていなかったに違いない。

 

 

 

 

 

1978(昭和53)年シーズンオフ、

経営状態が「火の車」だったライオンズに「救いの手」を差し伸べたのが、「西武」であった。

「西武」は、ライオンズを買収したが、そのかわり、「西武」はライオンズの本拠地を、九州・福岡から、埼玉・所沢に移転させ、新たに、所沢の地に新球場を建設する事とした。

こうして、かつて九州のファンを熱狂させたライオンズは、九州から去って行く事となるが、

ライオンズに、とっくに愛想を尽かしていた筈の九州の人達も、流石に球団が無くなるという事には、寂しさは隠せなかった。

こうして、「九州ライオンズ」は、28年間の歴史に幕を閉じ、九州の地に球団が無くなってしまった。

 

 

 

 

 

こうして、1979(昭和54)年、埼玉・所沢の地で、新生「西武ライオンズ」が誕生したが、

所沢の新球場は「西武ライオンズ球場」と名付けられ、「クラウンライター」の監督だった根本陸夫は、そのまま、新生「西武ライオンズ」の初代監督に就任した。

なお、「西武ライオンズ」は、野村克也、田淵幸一、山崎裕之など、他球団のベテラン選手を積極的に補強したが、

1979(昭和54)年、新生「西武ライオンズ」は、「開幕12連敗」を喫するなど、最下位に終わっている。

 

<1980(昭和55)年…巨人・長嶋茂雄監督が「解任」~王貞治、野村克也も現役引退し、プロ野球の1つの時代が終わる>

 

 

 

 

1980(昭和55)年、王貞治(巨人)野村克也(西武)は、それぞれ40歳、45歳となっており、

流石に「衰え」は隠せなくなって来ていたが、当初、2人とも、まだまだ現役を続けるつもりではあった。

しかし、野村克也は、結局、この年(1980年)に、史上初の「通算3000試合出場」を達成したのを「花道」として、遂に、この年(1980年)限りで現役引退を表明し、27年間の現役生活に別れを告げた。

 

 

 

1980(昭和55)年シーズンオフ、球界に、いや日本中に衝撃が走った。

巨人の長嶋茂雄監督が、突如、巨人の監督を「解任」されたのである。

表向きは「辞任」と発表されたが、これは、事実上の「解任」であった。

長嶋監督は、6年間、巨人の監督を務め、「6位(1975年)⇒優勝(1976年)⇒優勝(1977年)⇒2位(1978年)⇒5位(1979年)⇒3位(1980年)」という成績であり、直近の3年間は優勝を逃しており、「進退問題」が取り沙汰されていたが、遂に、巨人に詰め腹を切らされたのであった。

「辞任」の記者会見に臨む、長嶋監督の腸は煮えくり返っていたが、

記者会見の前に、長嶋監督が、西武の根本陸夫監督に相談したところ、

「今日は、巨人軍の長嶋茂雄ではなく、自分は立教大学の長嶋茂雄と思って、記者会見に臨みなさい」

というアドバイスを受けたという。

そのお陰で、長嶋は無念や悔しさをグッと堪え、「男として、ケジメをつけたい」というコメントを残し、爽やかな態度で「辞任」を表明する事が出来た。

しかし、この時、長嶋監督の「解任」に対し、巨人ファンからは猛反発が有り、読売新聞やスポーツ報知の「不買運動」まで起こったほどであった。

 

 

 

王貞治は、本当は、まだ現役生活を続けたい気持ちは有ったが、

1980(昭和55)年のシーズンは、30本塁打こそ達成したが、打率.235は規定打席到達者の中で最下位であり、

シーズン後半は、速球に付いて行けなくなっている事を感じていた。

そして、前述の長嶋監督「解任」から暫く後、王貞治は、遂に現役引退を表明した。

王は、現役引退の理由として「口幅ったい言い方ですが、王貞治のバッティングが出来なくなった、という事です」という言葉を残している。

こうして、1980(昭和55)年、球界の太陽だった「ON」が、同時に去る事となってしまい、プロ野球の1つの時代が終わった。

 

<1980(昭和55)年シーズンオフ…長嶋監督の後を受け、藤田元司が巨人の後任監督に就任~新任・藤田監督は、ドラフト会議で原辰徳を抽選で引き当てる!!~「藤田元司監督、王貞治・助監督、牧野茂・ヘッドコーチ」の「トロイカ体制」で、1981(昭和56)年、藤田巨人は「8年振り日本一」達成>

 

 

1981(昭和56)年、「解任」された長嶋茂雄監督の後任として、

かつての巨人のエース・藤田元司が、巨人の後任監督に就任した。

長嶋監督をクビにした事で、世間の巨人に対する風当たりは強く、藤田監督にとっては「逆風」からのスタートとなった。

 

 

 

しかし、何という「強運」なのか、新任の藤田監督は、

1980(昭和55)年のドラフト会議で、巨人入りを熱望していた、東海大学原辰徳を、

4球団のドラフト1位の競合による抽選で、見事に引き当てた。

こうして、巨人と「相思相愛」の原辰徳が、念願叶って巨人に入団し、以後、原辰徳は巨人の新たなスター選手となって行く事となった。

 

 

 

 

なお、1980(昭和55)年限りで現役引退した王貞治は、藤田監督の下、「助監督」に就任し、

「藤田元司監督、王貞治・助監督、牧野茂・ヘッドコーチ」の「トロイカ体制」が敷かれたが、

その「トロイカ巨人」は、1981(昭和56)年、大エース・江川卓や、新人・原辰徳の大活躍などもあり、

見事に、藤田巨人は「8年振り日本一」の座に就いた。

なお、王貞治の「助監督」というのは、勿論、行く行くは王が巨人の監督に就任する事を見越してのものであった。

 

<1982(昭和57)年…根本陸夫は西武ライオンズの「管理部長」に就任し、「裏方」に回る~根本陸夫・管理部長は、広岡達朗を監督に招聘し、西武ライオンズは「日本一」に!!~以後、西武ライオンズは「黄金時代」を築き、根本陸夫は辣腕を振るう>

 

 

1981(昭和56)年限りで、西武の根本陸夫監督は退任し、以後、根本陸夫は西武ライオンズの「管理部長」に就任し、「裏方」に回った。

その根本陸夫・管理部長の最初の仕事は、1978(昭和53)年にヤクルトスワローズを初優勝に導いていた、広岡達朗を西武の監督に招聘する事であった。

当時、根本陸夫が基礎を築いていた西武ライオンズは、機が熟しており、根本は「勝てる監督」として、広岡達朗の監督就任に踏み切ったのである。

 

 

 

 

すると、根本陸夫・管理部長の策はズバリと当たり、

広岡達朗監督は、この年(1982年)、見事に西武ライオンズを「初優勝」、そして「日本一」に導いた。

以後、西武ライオンズは常勝軍団として、「黄金時代」を築き上げて行く事となった。

 

 

 

なお、根本陸夫が就いていた「管理部長」とは、今で言う所の「ゼネラルマネージャー」であり、

根本陸夫は、以後、あの手この手を使って、西武ライオンズの強化のために邁進して行った。

何しろ、根本は「球界の寝業師」と称された、凄腕の人物であり、根本の顔の広さは球界随一であった。

だからこそ、日本全国から、有力なアマチュア選手を西武に集め、戦力補強を自由自在に行なう事が可能だったのである。

まさに、根本は政治家顔負けの人物だったが、もし、根本陸夫が居なければ、西武ライオンズの黄金時代到来は、絶対に無かったと断言して良いであろう。

 

<1979(昭和54)年以降~主が居なくなった平和台球場では、年間10試合前後、プロ野球公式戦が開催される>

 

 

 

なお、福岡・平和台球場は、ライオンズが所沢へと去って行った1979(昭和54)年以降、

プロ野球の公式戦が、年間10試合前後は開催されていたが、

平和台球場には、肝心の「主」が居らず、九州の野球ファンは、寂しい思いをしていた。

そして、いつしか「九州に、球団を招致しよう!!」という機運が盛り上がって行った。

 

<1984(昭和59)~1986(昭和61)年…かつての西鉄ライオンズの大エース・「神様仏様稲尾様」稲尾和久がロッテオリオンズの監督に就任し、ロッテの「九州移転」のために動くが…>

 

 

 

かつて、九州の野球ファンを熱狂させた西鉄ライオンズであるが、

その西鉄ライオンズの象徴的存在だったのが、稲尾和久投手である。

稲尾和久は、西鉄・三原脩監督から絶大な信頼を受け、連投に次ぐ連投も厭わず、大車輪の活躍を続けたが、

西鉄ライオンズが、1956(昭和31)~1958(昭和33)年に、3年連続で日本シリーズで巨人を倒し、「3年連続日本一」となった、最大の立役者は稲尾和久であった。

当時、稲尾は「神様仏様稲尾様」と、西鉄ファンから崇め奉られるほど、伝説的な存在となっていた。

 

 

 

 

その稲尾和久が、西鉄ライオンズがすっかり弱体化し、ボロボロとなってしまった、

ライオンズが一番苦しかった時期に、西鉄(1970~1972年)-太平洋(1973年~1974年)で監督を務め、「九州ライオンズ」のために、一身を捧げていた。

 

 

その「九州ライオンズ」の象徴・稲尾和久が、1984(昭和59)~1986(昭和61)年、ロッテオリオンズの監督に就任した。

何故、稲尾が、何の縁もゆかりも無い、ロッテの監督に就任したのかといえば、

当時、実はロッテは本拠地を九州に移転するという話が浮上しており、九州のファンから、熱心に球団誘致の誘いを受けていた。

稲尾は、ロッテが九州に移転するための「橋渡し」をするため、ロッテの監督を引き受けたのであった。

しかし、結局、残念ながらロッテの九州移転は実現する事は無かった。

 

<1984(昭和59)~1988(昭和63)年…王貞治、巨人の監督を務めるが、5年間で優勝1度に終わり、1988(昭和63)年限りで、王監督は無念の「辞任」>

 

 

 

 

1983(昭和58)年シーズンオフ、藤田監督は3年間(1981~1983年)で優勝2度、日本一1度という好成績を収めた後、「退任」した。

そして、藤田監督の後を受け、満を持して、王貞治巨人の監督に就任した。

王貞治は、藤田監督の下、3年間、「助監督」として経験を積んでおり、まさに準備万端といった所であった。

 

 

 

 

1984(昭和59)年、巨人は球団創立50周年を迎えており、

巨人は、王監督体制で、「球団創立50周年での優勝」を狙っていたが、現実はそんなに甘くなかった。

この年(1984年)、王監督の就任1年目の巨人は苦戦し、結局、巨人は3位に終わってしまった。

そして、この年(1984年)、「プロ野球誕生50周年」で、日本一に輝いたのは、広島東洋カープであった。

 

 

 

 

その後、王監督率いる巨人は、1985(昭和60)年は3位、1986(昭和61)年は2位と、なかなか優勝には届かなかったが、

王監督就任3年目の1987(昭和62)年、後楽園球場のラストイヤーで、王巨人は遂に念願のリーグ優勝を達成した。

王監督は、それまで、なかなか思うように行かず、我慢を強いられる事が多かったが、漸く、優勝の美酒に酔った。

 

 

 

しかし、1987(昭和62)年の日本シリーズでは、王巨人は、森祇晶監督率いる西武ライオンズに2勝4敗で敗れ、

王巨人は、残念ながら日本一の座に就く事は出来なかった。

王監督は、「かならず、来年(※1988年)こそは、日本一になってみせる!!」と、決意を新たにしていた。

 

 

 

だが、王監督就任5年目の1988(昭和63)年、

「東京ドーム元年」だった、この年(1988年)、王巨人は中日ドラゴンズに優勝を攫われ、

王巨人は、残念ながら2位に終わってしまった。

そして、王監督は、この年(1988年)限りで、残念ながら巨人の監督を「辞任」する事となってしまった。

 

 

 

1988(昭和63)年のシーズン限りで、王監督は「辞任」し、再び、藤田元司が巨人の監督として「再登板」する事となったが、

この5年前の1983(昭和58)年、晴れがましい表情で金屏風の前で、巨人監督就任の意気込みを語っていた王貞治は、

1988(昭和63)年、無念の表情で「辞任」を表明したが、これは、事実上の「解任」であった。

巨人という球団は、長嶋茂雄、王貞治という、ビッグネーム2人を、いずれもクビにしてしまったのである。

そして、2度までも「ON」の後釜に据えられた藤田元司は、本当に大変であった。

なお、王監督は、巨人の監督を「辞任」した後、腹心の友で、巨人のコーチを務めていた国松彰に、

「国やん、俺は悔しい!!」

と言って、大粒の涙を流したという。

結局、王監督の巨人での5年間は「3位(1984年)⇒3位(1985年)⇒2位(1986年)⇒優勝(1987年)⇒2位(1988年)」という結果に終わっている。

 

<1988(昭和63)年のパ・リーグ…「南海ホークス」が「ダイエー」に、「阪急ブレーブス」が「オリックス」に、それぞれ「身売り」~パ・リーグの名門「南海ホークス」と「阪急ブレーブス」の歴史に幕が下ろされる>

 

 

1988(昭和63)年、パ・リーグは激震に見舞われる事となった。

この年(1988年)、「南海ホークス」「阪急ブレーブス」という、関西の2つの名門球団が、

相次いで「身売り」する事が発表されたのである。

 

 

 

南海ホークスは、当時「11年連続Bクラス」に低迷し、かつての強豪球団だった頃の面影は無く、

本拠地・大阪球場は、常に閑古鳥が鳴いており、親会社の南海電鉄も、球団経営に対する意欲を失っていた。

そこで、この年(1988年)の8月下旬頃から、マスコミで、南海ホークスが、カリスマ経営者・中内功社長が率いる「ダイエー」に買収される、という事が盛んに報じられるようになったが、9月中旬、南海ホークス「ダイエー」に身売りし、翌年から「ダイエーホークス」として生まれ変わる事が、正式に発表された。

そして、ホークスは翌年から、本拠地を大阪から福岡へ移転させる事も、併せて発表された。

遂に、ライオンズが福岡を去って以来、10年振りに、プロ野球チームが九州に帰って来る事となった。

 

 

 

1988(昭和63)年10月15日、南海ホークスは、本拠地・大阪球場での最終戦で、

超満員のファンに見送られながら、その歴史に幕を閉じる事となった。

南海最後の監督となった杉浦忠監督は、

「長嶋君(の引退の台詞)ではありませんが、ホークスは不滅です。…皆様、長い間、有り難うございました。行ってまいります」

と挨拶したが、杉浦監督はホークスの監督に留任する事が決まっており、

そのため、大阪を離れる杉浦監督は、新天地・福岡へ「行ってまいります」という言葉が、思わず、口をついて出たのであろう。

こうして、ホークスは大阪の地から、福岡へ飛び立つ事となった。

 

 

 

このように、南海ホークスの「身売り」は、既にシーズン中からバレバレだったのであるが、

パ・リーグの関西のもう1つの名門・阪急ブレーブスが、1988(昭和63)年10月19日、

突如、「オリエント・リース」なる会社に「身売り」する事が発表され、これには日本中がビックリ仰天であった。

南海はともかく(?)、あの「大阪急」のブレーブスまでもが「身売り」するとは…。

ともあれ、1988(昭和63)年限りで、「南海ホークス」「阪急ブレーブス」という、2つの名門球団が、その歴史に幕を下ろす事となった。

 

<1989(平成元)年…新天地・福岡で「福岡ダイエーホークス」が誕生!!~本拠地は平和台球場>

 

 

元号が「昭和」から「平成」に変わった、1989(平成元)年、

新天地・福岡で「福岡ダイエーホークス」が誕生したが、

新生「福岡ダイエーホークス」の本拠地は、かつてのライオンズの本拠地・平和台球場であった。

という事で、「福岡ダイエーホークス」誕生から、1999(平成11)年の「初優勝」までの道のりについては、また次回。

 

(つづく)