本日(9/30)は、今から21年前の1999(平成11)年9月30日、
星野仙一監督率いる中日ドラゴンズが、11年振りの優勝を達成した日である。
この日(1999/9/30)、「マジック1」の中日ドラゴンズは、神宮球場のヤクルト-中日戦を戦っていたが、
試合中、2位の巨人が、横浜スタジアムで、横浜ベイスターズに1-2で敗れ、その時点で中日優勝が決定した。
しかし、中日はヤクルトに0-4とリードされていながら、
そこから試合を引っ繰り返し、中日がヤクルトを5-4で破って、優勝に華を添えた。
そして、闘将・星野仙一監督が胴上げされ、神宮球場で宙を舞った。
前回、1988(昭和63)年に中日が優勝して以来、実に11年振りの優勝だったが、
その間、中日は5度も2位になっており、惜しくも優勝を逃し続けていたが、遂に11年振りに頂点に辿り着いた。
という事で、今回はその中日ドラゴンズの、11年振り優勝の足跡を振り返ってみる事としたい。
まずは、その「前編」として、「第1期星野監督時代」(1987~1991年)から、ご覧頂こう。
<1988(昭和63)年10月7日…中日ドラゴンズ、6年振り4度目の優勝!!~結果的に「ナゴヤ球場最後の優勝」に>
1988(昭和63)年10月7日、当時、就任2年目だった星野仙一監督(※当時、41歳)率いる中日ドラゴンズが、地元・ナゴヤ球場で、ヤクルトを11-3で破り、6年振り4度目の優勝を達成した(79勝46敗5分 勝率.632(優勝))。
星野監督が、中日の選手達から胴上げされ、ナゴヤ球場で宙を舞ったが、
中日優勝という歓喜の瞬間を迎えた、ナゴヤ球場の中日ファンは興奮し、多くのファンがグラウンドに雪崩れ込んでしまい、収拾が付かなくなってしまった。
星野監督も「球場の警備が甘い!!優勝の喜びが台無しだ!!」と、激怒していたが、
この時代は、特に優勝の瞬間などは、ファンがグラウンドに雪崩れ込んでしまう事が、多々有った。
ましてや、熱狂的な名古屋の中日ファンが、目の前で愛するドラゴンズの優勝を見たのだから、ついつい興奮してしまったのであろう。
しかし、結果として、これが中日ドラゴンズにとって、「ナゴヤ球場最後の優勝」となってしまった。
<1988(昭和63)年、高卒新人で遊撃手のレギュラーを獲得し、中日優勝に大きく貢献した立浪和義~後に「通算2,480安打」を達成し、「ミスター・ドラゴンズ」と称される>
1988(昭和63)年、PL学園から中日に入団し、高卒新人ながら、遊撃手のレギュラーを獲得した立浪和義は、
この年(1988年)、打率.233 4本塁打 18打点の成績を残し、中日優勝に貢献した。
星野監督は、新人の立浪を遊撃手として起用するため、それまで遊撃手を守っていた宇野勝を二塁手にコンバートし、
それまで三塁手だった落合博満は一塁手にコンバートし、三塁手には仁村徹を抜擢した。
こうした星野監督の策が当たり、1988(昭和63)年、中日は見事に優勝を果たした。
なお、この後、立浪和義は、「通算2,480安打」を放つ、大打者に成長し、
立浪は長く中日を支え、中日ドラゴンズを象徴する名選手として、
「ミスター・ドラゴンズ」と称されるほどの存在となった。
その立浪の輝かしいキャリアの第一歩が、1988(昭和63)年だったのである。
<1988(昭和63)年の落合博満…前半戦は不振も、後半戦で「サヨナラ打3本」を放つ神がかり的な大活躍で、主砲として優勝に貢献!!>
前年(1987年)に、ロッテオリオンズから中日ドラゴンズにトレードで移籍し、
「星野監督を胴上げするために(中日に)来た」
と宣言していた落合博満は、慣れないセ・リーグの投手陣の攻めに苦しみ、
1987(昭和62)年は、打率.331 28本塁打 85打点という成績であった。
それまで、ロッテ時代に3度も三冠王を獲得した落合としては、打率はともかく、本塁打と打点は、納得行く数字ではなかったであろう。
翌1988(昭和63)年、落合は前半戦は不振だったものの、
後半戦になると調子を上げ、特に夏場以降は「サヨナラ打3本」という、神がかり的な活躍を見せた。
この年(1988年)、落合は打率.293 32本塁打 95打点と、打率3割は割ったものの、
中日の主砲として、優勝に大きく貢献した。
<1989(平成元)年の中日ドラゴンズ①…落合博満が、ノーヒットノーラン寸前の斎藤雅樹(巨人)を地獄に突き落とす「奇跡の逆転サヨナラ3ラン」を放つも、中日は連覇を逃し、3位に終わる>
1989(平成元)年、星野ドラゴンズは連覇を目指していたが、
この年(1989年)は、藤田元司監督率いる巨人が独走し、中日は3位に終わり、連覇を逃した(69勝58敗3分 勝率.535(3位))。
そんな中、以前このブログでも書いたが、この年(1989年)の8月12日の中日-巨人戦(ナゴヤ球場)で、同年(1989年)にシーズン20勝を達成し、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった斎藤雅樹(巨人)が、あわやノーヒットノーランかという快投を見せたが、
中日は、0-3とリードされた9回1死から、音重鎮の安打でノーヒットノーランを阻止した後、2死後に仁村徹のタイムリーで1点を返した後、落合博満が「奇跡の逆転サヨナラ3ラン」を放ち、斎藤を一気に地獄に突き落とすという、物凄い試合が有った。
この試合こそ、この年(1989年)の中日ドラゴンズの最大のハイライトであった。
<1989(平成元)年の中日ドラゴンズ②…中尾孝義とのトレードで中日に移籍して来た西本聖が、自身初の「20勝」達成!!斎藤雅樹(巨人)と「最多勝」のタイトルを分け合う>
1989(平成元)年の中日ドラゴンズで特筆すべきは、
中尾孝義とのトレードで、巨人から中日に移籍して来た西本聖が、自身初の「20勝」を達成し(30試合 20勝6敗 防御率2.44)、斎藤雅樹(巨人)と、「最多勝」のタイトルを分け合った事であろう。
巨人を「放出」された西本の、まさに意地の大活躍であり、西本の巨人への「反骨心」が、この活躍に繋がったと言って良い。
<1989(平成元)年の落合博満…星野監督と落合の間に「隙間風」が吹くも、打率.321 40本塁打 116打点で、打点王を獲得>
ところで、星野仙一監督と落合博満の間には、年々、「隙間風」が吹くようになっていた。
それというのも、星野監督は、「鉄拳制裁」も辞さない「武闘派」の監督であり、
その方針は、落合が最も嫌いなやり方だったからである。
何しろ、落合は学生時代、上級生の理不尽な「シゴキ」や「イジメ」に反発し、何度も野球部を辞めた経験が有り、せっかく入った東洋大学の野球部も辞め、大学を中退してしまったという選手である。
そんな経歴から「中退の落合」なる異名を取っていたが、そんな落合が、「鉄拳制裁」の星野監督と、気が合う筈は無かった。
星野監督も、落合はチームにはどうしても欠かせない存在なので、4番としては起用し続けたが、後は「知らん顔」で、お互い、なるべく関わらないようにしているようであった(※前述の、落合の「奇跡の逆転サヨナラ3ラン」の時も、星野監督は至って素っ気なかった)。
監督と4番の関係がこんな状態では、チームが勝てる筈も無いと思われるが、ある意味、これも「自分のやるべき事をやるだけ」と割り切る、プロらしい姿勢と言えなくもない。
そんな中、この年(1989年)の落合博満は、打率.321 40本塁打 116打点と、
中日に移籍して以来、最高の数字を残し、打点王を獲得したが、
40本塁打も、本塁打王のパリッシュ(ヤクルト)とは、僅か2本差であった。
このまま行けば、落合は前人未到の「両リーグ三冠王」を獲れるかもしれないと期待を抱かせるに充分な結果であり、
勿論、落合も「両リーグ三冠王」を意識し、その事について公言していた。
いくら監督と仲が悪かろうと、やるべき事はやる…まさに、落合こそ「プロの中のプロ」であった。
<「乱闘」の主役・星野仙一監督①~1987(昭和62)年6月11日…巨人-中日戦で、クロマティ(巨人)が宮下昌己(中日)の死球に激高し、パンチを浴びせる!!⇒両チームが入り乱れる大乱闘に発展し、星野監督(中日)が王監督(巨人)に対し、激怒!!>
「星野監督といえば、『乱闘』」
そういうイメージを持っている人も、多いのではないだろうか。
そのイメージを決定付けた大事件が発生したのは、星野監督が中日の監督に就任した年(1987年)の6月11日、巨人-中日戦(熊本・藤崎台球場)で起こった、大乱闘事件であろう。
この試合、中日の宮下昌己投手が、クロマティ(巨人)の背中に死球を与えてしまったが、
クロマティは宮下に対し、「帽子を取って謝れ!!」というジェスチャーをしたが、クロマティにぶつけた宮下は、謝る素振りも見せず、逆に、「何を言ってやがる!!」といった表情で、マウンド上でクロマティを睨み付けた。
すると、激高したクロマティが、マウンドに突進し、宮下に思いっきりパンチを浴びせたのである。
そして、それをキッカケに、後は両チームが入り乱れての大乱闘となってしまった。
星野監督は、激怒していた。
星野監督は、怒りの形相で、巨人の王監督に対し、
「クロマティは、グーで殴ってたでしょ!!ふざけんじゃないよ!!」
というジェスチャーで、詰め寄った。
この大乱闘をキッカケに、「星野監督=乱闘」という図式が定着(?)する事となった。
<「乱闘」の主役・星野仙一監督②~1990(平成2)年5月24日…中日-巨人戦で、槙原寛己(巨人)のバンスロー(中日)への「危険球」を巡り、一触即発の空気に⇒巨人ベンチからのヤジに星野監督が激高し、大乱闘に発展!!>
また、1990(平成2)年5月24日の中日-巨人戦(ナゴヤ球場)では、こんな事が有った。
この試合、槙原寛己(巨人)が、バンスロー(中日)に対し「危険球」を投げてしまったが、
この投球に対し、バンスローは激怒し、槙原に詰め寄った。
すると、「それっ!!」とばかりに、両チームから選手が飛び出し、グラウンドは一触即発の空気になった。
星野監督も、勿論、グラウンドに飛び出し、審判団に詰め寄ったが、やがて両チームの睨み合いも「収束」の気配が見え、そろそろ「お開き」になろうかとしていた、その時、
巨人ベンチから星野監督に対し、ヤジが飛んだという。
「おい星野、あれぐらいのボールでガタガタ言ってんじゃねえ!!」
その声の主はそう言ったが、このヤジは、星野監督の耳に入った。
「誰だよ!?誰だよこのヤロー、こっち来い!!」
星野監督は激怒し、巨人ベンチに突進しようとした。
ここで、遂に両チームは大乱闘に発展してしまった。
(※なお、この時、巨人ベンチからヤジを飛ばしたのは、松原誠・打撃コーチだと言われているが、真相は不明)
その後、星野監督を中心に、両チーム入り乱れての乱闘は続いたが、
星野監督を止めようとした、水野雄仁(巨人)が、星野監督にビンタされ、帽子を飛ばされるという事態も起こった。
そして、この大乱闘で、退場処分になったのは、何故か、ディステファーノ(中日)であった。
血の気が多いディステファーノは、この乱闘の間中、巨人の選手達を、辺り構わず殴りまくっていたのである。
そもそも、この乱闘の原因となったバンスローや槙原、そして星野監督ではなく、
何故、ディステファーノが退場になるのか、当時、テレビで見ていた私も、よくわからなかったが、
後でVTRを見てみると、一番、巨人の選手達を殴りまくっていたのが、直接の当事者ではなかった筈のディステファーノだった。
このディステファーノという選手は、この年(1990年)のオープン戦(西武戦)でも乱闘事件を起こして退場処分になっていたが、成績はパッとしない選手だったものの(※56試合 打率.215 5本塁打 14打点で、この年(1990年)1年のみの在籍で中日を退団)、今の球界では考えられないほど、血の気の多い暴れん坊選手であり、強烈な印象を残した(※この当時、リアルタイムで見ていたファンであれば、よく覚えている筈である)。
ちなみに、この乱闘事件の発端となったバンスローは、この年(1990年)、打率.313 29本塁打 78打点という、素晴らしい成績を残したが、こちらも、残念ながら、この年(1990年)1年限りで中日を退団している。
というわけで、バンスロー、ディステファーノは、私も、かなり印象に残っている外国人選手であった。
<1990(平成2)年の中日ドラゴンズ…新人・与田剛がストッパーとして31セーブを挙げる大活躍を見せたが、中日は星野監督就任以来、初のBクラス(4位)に終わる>
1990(平成2)年、星野監督は中日ドラゴンズの監督に就任し、4年目を迎えていたが、
この年(1990年)の中日は、投打共に奮わず、誤算の多いシーズンであった。
この年(1990年)は、巨人が独走し、対抗馬と見られていた中日と広島が開幕以来、不振に喘いでいたが(※その間隙を縫って、須藤監督の大洋が快進撃を見せた)、その中日の救世主となったのが、同年(1991年)に中日にドラフト1位で入団した新人・与田剛(※現・中日ドラゴンズ監督)である。
与田剛は、時速150kmを超える剛速球で、グイグイ押して行く、強気な投球が持ち味だったが、
星野監督は、そんな与田の投球スタイルを気に入って、与田を、新人ながらストッパーに抜擢した。
1988(昭和63)年の優勝時には、派手なガッツポーズが特徴だった、郭源治がストッパーとして大活躍したが、
与田も、郭源治と同じようなタイプの投手であった。
与田は、帽子を飛ばしながら全力投球し、打者を抑える度に派手なガッツポーズを繰り返したが、これは、まさしく郭にソックリであった(※この年(1990年)、郭源治は故障で離脱したため、星野監督は与田をストッパーに抜擢した)。
与田は、星野監督の期待に応え、この年(1990年)、50試合 4勝5敗31セーブ 防御率3.26という成績を残し、見事に新人王を獲得している(※新人での31セーブは、2015(平成27)年に山崎康晃(DeNA)が37セーブで更新するまで、新人最多記録だった)。
このように、新人・与田剛の大活躍は有ったものの、
この年(1990年)の中日は、最後まで投打が噛み合わず、結局、62勝68敗1分 勝率.477で4位に終わっている。
星野監督は、中日監督就任4年目にして、初のBクラスという不本意な結果となった。
<1990(平成2)年の落合博満…夏場の大スランプが響き、打率が急降下したため、「三冠王」は逃したものの、本塁打王・打点王の「二冠王」を獲得~オールスターゲームでは、「与田剛VS清原和博」&「野茂英雄VS落合博満」の対決が有り、共にホームランの競演>
1990(平成2)年の落合博満は、本気で「三冠王」を狙っていた。
その証拠に、この年(1990年)の1月17日、落合は「午前3時33分」という時刻に自主トレを開始して、
「今年は、三冠王を獲る!!」
という事を、その行動で宣言して見せた。
落合は、セ・リーグの野球にも慣れ、自身のバッティングにも手応えを感じてきており、
いよいよ、本気で「両リーグ三冠王」を狙いに行くシーズンとなった。
その落合は、この年(1990年)のシーズンが開幕しても絶好調であり、
打率・本塁打・打点とも、リーグのトップを争い、「三冠王」を狙える位置に付けていた。
そして、そのまま前半戦を終え、オールスターゲームの季節を迎えた。
その1990(平成2)年のオールスターゲーム第2戦(平和台球場)で、
セ・リーグが与田剛(中日)、パ・リーグが野茂英雄(近鉄)という、
両リーグで大活躍する新人投手が先発したが、与田は清原和博(西武)にストレートで真っ向勝負を挑んだところ、
与田は、清原に特大のホームランを打たれてしまった。
すると、中日での与田の先輩・落合博満は、
「お前、これでもう賞品は貰えないな。それなら、俺も野茂からホームラン打ってやるからな」
と宣言すると、落合は、その言葉どおり、野茂英雄(近鉄)から、負けじとホームランを放った。
まさに「有言実行」であるが、この頃の落合には、やると宣言した事は必ずやってしまうという、凄味が有った。
これで、ますます後半戦の落合は打ちまくり、いよいよ「両リーグ三冠王」は達成されるかと思われたが、
落合は、夏場に極度の大スランプに陥ってしまい、打率は3割を割ってしまった。
これで、落合は首位打者のタイトルは断念せざるを得なくなったが、
それでも、この年(1990年)の落合は、打率.290 34本塁打 102打点の成績を残し、見事に本塁打王、打点王の「二冠王」を獲得した。
それにしても、夏場のスランプさえ無ければ、或いは本当に落合が「三冠王」を獲っていたのではいかと、今にして思えば、非常に惜しまれるシーズンであった。
<1991(平成3)年の中日ドラゴンズ①…新人・森田幸一がストッパーに定着!!~森田幸一が「新人王」を獲得する大活躍で、「森田公一&森田健作」が応援歌をリリース>
1991(平成3)年、星野監督が中日ドラゴンズの監督に就任して、5年目のシーズンを迎えた。
星野監督としては、勿論、目標は「優勝」あるのみであり、
中日は「V奪回」を目標に掲げ、1991(平成3)年の開幕を迎えた。
この年(1991年)、星野監督は、郭源治を先発として起用し、
前年(1990年)に新人ながら31セーブを挙げ、大活躍した与田剛を、引き続きストッパーに起用するつもりであった。
しかし、与田は前年(1990年)の疲労から回復しておらず、精彩を欠いていたため、
星野監督は、急遽、新人・森田幸一をストッパーに大抜擢したところ、これが大当たりだった。
森田幸一は、度胸溢れる投球で、開幕からストッパーとして大車輪の活躍を見せたのである。
結局、森田幸一は、この年(1991年)、50試合 10勝3敗17セーブ 防御率3.03という見事な成績を残し、
森田は「新人王」を獲得したが、森田幸一の大活躍を称え、「森田公一&森田健作」が『モリタはスゴイ!』なる応援歌までリリースしてしまったほどであった。
<1991(平成3)年の中日ドラゴンズ②…今中慎二の台頭~今中慎二は「2年連続二桁勝利」で、中日の次代のエース候補に>
前年(1990年)に、31試合 6完投1完封 10勝6敗1セーブ 防御率3.86という成績を残していた、
大阪桐蔭出身の左腕・今中慎二は、この年(1991年)、更なる飛躍を見せた。
1991(平成3)年、今中慎二は36試合 8完投4完封 12勝13敗 防御率2.52という成績を残し、
今中は、次代の中日のエース候補として、一躍、名乗りを上げた。
この後、中日は暫く、今中の時代が続く事となる。
<1991(平成3)年の中日ドラゴンズ③…「恐竜(強竜)打線」が大爆発し、夏場まで首位を独走!!~彦野利勝の「サヨナラ本塁打⇒代走事件」(1991/6/18)、「中村武志の同点満塁&サヨナラホームランで、8点差大逆転勝利」(1991/7/19)など、印象的な試合を連発し、6月は17勝3敗と突っ走る!!>
この年(1991年)の中日ドラゴンズは、
立浪和義-種田仁-ライアル-落合博満-大豊泰昭-長嶋清幸-宇野勝-中村武志…
と続く、「強竜(恐竜)打線」と称された、超強力打線が火を噴き、他球団の脅威の的となった。
中日は、4月は8勝8敗1分、5月は12勝11敗と、まずまずの戦いぶりだったが、6月に17勝3敗と、凄まじい快進撃を見せた。
そんな中、6月18日、ナゴヤ球場での中日-大洋戦で、こんな出来事が有った。
6-6の同点で迎えた延長10回裏、彦野利勝(中日)が、盛田幸妃(大洋)から、劇的なサヨナラホームランを放ったのだが、彦野は、一塁を周った所で転倒してしまい、これがアキレス腱断裂の重傷となってしまった。
そのため、サヨナラ本塁打を放った彦野に、代走・山口幸司が送られるという珍事となったが、彦野は選手生命を脅かされるほどの大怪我であった(※翌年、彦野は復帰)。
また、こんな出来事も有った。
この年(1991年)の6月、前述の通り、中日は17勝3敗という凄まじい勝ちっぷりを見せたが、
中日が快進撃をしていた頃、1991(平成3)年6月21日の巨人-大洋戦(東京ドーム)で、巨人が0-8から大逆転勝利を収めた(※最後は、村田真一(巨人)がサヨナラ打を放った)。
巨人は、「球団史上初の8点差逆転勝利」だったが、当時、大洋ファンの私は、物凄いショックを受けた試合だった(※未だにトラウマである)。
ところが、それから暫くして後、こんな試合が有った。
1991(平成3)年7月19日、中日-巨人戦(ナゴヤ球場)で、今度は巨人が8-0とリードしていたが、
7回裏、中日が1点を返すと、8回裏、中日は何と一挙7点を取り、一気に8-8の同点に追い付いてしまった。
4-8と迫った後、中村武志が同点満塁ホームランを放ち、中日が一気に追い付いたのである。
その後、8-8に同点で迎えた、延長10回裏、今度は中村武志がサヨナラホームランを放ってしまったのである。
まさに奇跡、中村武志の「同点満塁&サヨナラホームラン」で、中日が0-8から大逆転勝利を収めたが、
「これは、優勝するチームの勝ち方だ」
と、私も思ったものである。
なお、巨人は、今度は「球団史上初の8点差逆転負け」となってしまった。
<1991(平成3)年の中日ドラゴンズ④…夏場以降、中日は失速し、最大7.5ゲーム差を付けていた広島に逆転優勝を攫われ、中日は「V逸」~中日は2位に終わり、星野監督は辞任>
中日は、夏場過ぎまで首位を独走し、
私も「今年は、中日優勝、間違い無し」と思っていたが、
中日は、7月=8勝8敗、8月=15勝11敗、9月=7勝13敗、10月=4勝5敗と「失速」してしまい、
最大7.5ゲーム差を付けていた広島に逆転され、結局、広島に逆転優勝を攫われてしまった。特に、9/10~9/12、ナゴヤ球場での中日-広島3連戦、首位攻防の「天王山」で、中日は広島に2-3、3-5、5-17で3連敗を喫し、これが分岐点となった。
結局、中日はこの年(1991年)、71勝59敗2分 勝率.546で2位に終わり、優勝を逃した責任を取り、星野監督は同年(1991年)限りで辞任した。
(※後に、星野監督の夫人の病気の看病に専念するため、というのも辞任の理由の一つだった事が明かされた)
<1991(平成3)年の落合博満…今度こそ「三冠王」を狙うも、本塁打王のみを獲得~終盤、古田敦也(ヤクルト)と激しい首位打者争いを繰り広げる>
1991(平成3)年、落合博満は、今度こそ「三冠王」を目指したが、
この年(1991年)、落合は打率.340 37本塁打 91打点で、「本塁打王」こそ獲得したものの、
打率は、古田敦也(ヤクルト)に「3毛差」(古田敦也は打率.3398、落合博満は打率.3395)、打点は広沢克己に「8打点差」、及ばずにタイトルを逃した。
打率では、落合は最終戦で6打数5安打を放ち、一度は古田を逆転したものの、古田も最終戦で安打を放ち、再逆転して、古田が首位打者となった。
…というわけで、こうして「第1期星野監督時代」は終わり、中日ドラゴンズは新たな時代を迎える事となった。
(つづく)