【今日は何の日?】1973/8/30…江夏豊(阪神)、ノーヒットノーラン&サヨナラ本塁打 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

本日(8/30)は、今から46年前の1973(昭和48)年8月30日、阪神タイガース江夏豊が、

「延長11回ノーヒットノーラン」と、「自らサヨナラ本塁打」という、まさに「1人舞台」で、

投打にわたる、伝説的な大活躍を見せた日である。

 

 

江夏豊が、球史に残る「伝説」を残したのは、

1973(昭和48)年8月30日、甲子園球場の阪神-中日戦だったが、

プロ野球史上、「延長戦でノーヒットノーラン」を達成したのも、

「自らのサヨナラ本塁打でノーヒットノーラン」を達成したのも、

後にも先にも、この時の江夏豊、ただ1人である。

という事で、今回は江夏豊「偉業」と、そこに至るまでの物語に、スポットを当ててみる事としたい。

 

<江夏豊の「伝説」①~1967(昭和42)年、阪神に入団した江夏豊、先輩・村山実から、「俺は長嶋、お前は王を倒せ」と「指令」を受ける~藤本定義監督の指導を受け、1年目から12勝13敗 225奪三振 防御率2.74の成績を残す>

 

 

1948(昭和23)年5月15日、大阪府に生まれた江夏豊(えなつ・ゆたか)は、

幼い頃から、野球に抜群の才能を発揮していたが、兄から「お前は、左で投げろ」と言われ、

それがキッカケで左腕で投げる事となり、いつしか、大阪では名の知られた左腕投手となっていた。

江夏は、大阪学院高では、惜しくも甲子園出場こそ成らなかったものの、その剛速球はプロ野球のスカウトの目に留まり、

1967(昭和42)年、江夏豊はドラフト1位で阪神タイガースに入団した。

阪神に入った江夏は、当時、阪神の絶対的エースだった、先輩・村山実投手から、

「俺は長嶋を倒すから、お前は王を倒せ」

と、当時、最強を誇っていた「ON」コンビの内、王貞治をライバルとするよう、「指令」を受けた。

 

 

また、江夏が阪神に入団した当時の阪神の監督は、百戦錬磨の大ベテラン、藤本定義監督だったが、

戦前、巨人の監督も務め、沢村栄治や、三原脩、水原茂、川上哲治、千葉茂ら、錚々たるメンバーを率いていた藤本は、

ルーキーの江夏に、よく当時の頃の話を聞かせてやり、「エースとは何か」という事を、話して聞かせていた。

そして、村山実や、藤本定義監督の薫陶を受けた江夏豊は、プロ1年目の1967(昭和42)年、12勝13敗 225奪三振 防御率2.74という好成績を残した。

 

<江夏豊の「伝説」②~プロ2年目の1968(昭和43)年、「シーズン401奪三振」の日本新記録を達成!!~9月17日の阪神-巨人戦(甲子園球場)で、江夏は王貞治から「日本タイの353個目」「日本新の354個目」の三振を奪う~25勝12敗 401奪三振 防御率2.13の大活躍>

 

 

1968(昭和43)年、プロ2年目の江夏豊は、更なる「伝説」を残した。

この年(1968年)、20歳の若武者だった江夏は、開幕から絶好調で、物凄い勢いで三振を取りまくっていたが、

元々、剛速球が武器だった事に加え、春季キャンプで林義一コーチからカーブを伝授され、剛速球とカーブのコンビネーションで、

江夏は、相手打者から面白いように三振の山を築いて行ったのである。

 

 

江夏の奪三振ペースは凄まじく、シーズン中盤に来て、

稲尾和久(西鉄)が、1961(昭和36)年に達成していた、「シーズン353奪三振」の日本記録も、視野に入って来ていた。

そして、江夏は「シーズン最多奪三振の新記録は、王さんから取る!!」と、堂々と「宣言」するに至った。

 

 

1968(昭和43)年9月17日、甲子園球場での阪神-巨人戦、

阪神が、首位を走る巨人を猛追して迎えた、「首位攻防戦」という、願ってもいない舞台で、

遂に、「江夏豊VS王貞治」という、「シーズン最多奪三振新記録」をかけた、「対決」の時が訪れた。

この試合の前まで、江夏の奪三振数は「345」に達していたが、この試合も、江夏は巨人打線から三振を取りまくり、

4回表、江夏は王貞治から三振を奪うと、これが、この試合8個目、シーズン「353奪三振」というタイ記録となった。

しかし、この時、江夏は三振の数を数え間違えており、新記録達成と勘違いしていたが、実はまだ、タイ記録だった事に、後で気付いた。

 

 

すると、江夏は「今度こそ、王さんから新記録の三振を取る!!」と決意し、

また王に打順が回って来るまで、一つも三振を取らないよう、打たせて取る投球に切り替えた。

そして、目論見どおり、7回表、再び王との対決を迎えた江夏は、物凄い形相で江夏に立ち向かって来た王から、剛速球で三振を奪った。

この瞬間、江夏豊は、「シーズン354奪三振」という「日本新記録」を、「宣言」通りに、から三振を奪い、達成したのであった。

 

 

この試合は、江夏が最後にサヨナラ打を放ち、1-0で阪神が勝利し、

江夏は「1-0完封勝利」、「サヨナラ打」、「シーズン最多奪三振新記録」を、全て手にするという、まさに「1人舞台」であった。

このように、江夏はバッティングも良く、しばしば快打を放っていたが、これが、1973(昭和48)年の「伝説」へと繋がって行く事となる。

なお、この年(1968年)、江夏豊はシーズン最多奪三振記録を「401」まで伸ばし、最終的には、25勝12敗 401奪三振 防御率2.13という、抜群の成績を残し、最多勝のタイトルを獲得した。

 

<江夏豊の「伝説」③~1969(昭和44)年…江夏豊-田淵幸一の「黄金バッテリー」誕生、1970(昭和45)年…村山実が「選手兼任監督」に就任~江夏は阪神のエースとして大活躍>

 

 

 

1969(昭和44)年、法政大学のスラッガー、田淵幸一捕手が阪神に入団し、

ここに、江夏豊-田淵幸一という、阪神の球団史上に残る「黄金バッテリー」が誕生した。

田淵は、江夏の剛速球を捕れるよう、キャッチング技術を必死で磨いたが、

年齢では田淵の方が江夏よりも2つ上だったものの、江夏は田淵の事を「ブチ」と呼び、2人は親友同士となった。

この年(1969年)、プロ3年目の江夏豊は、15勝10敗 262奪三振 防御率1.81で、最優秀防御率のタイトルを獲った。

 

 

 

1970(昭和45)年、当時34歳の若さで、阪神の絶対的エース・村山実が、「選手兼任監督」に就任した。

村山は、「選手兼任監督」という難しい立場でありながら、監督としても投手としても奮闘し、

投手としては、14勝3敗 防御率0.98という、戦後唯一の「防御率0点台」で、最優秀防御率を獲得した。

なお、この年(1970年)、江夏豊21勝17敗 340奪三振 防御率2.13と、相変わらずエースの働きであった。

 

<江夏豊の「伝説」④~1971(昭和46)年…心臓病により、シーズンでは不調だった江夏豊、オールスターゲームで、空前絶後の「9連続奪三振」達成!!>

 

 

1971(昭和46)年、江夏豊は、心臓病に悩まされ、オールスターゲームの前には6勝9敗と負け越し、

江夏にしては「不調」のシーズンであった。

しかし、それでもオールスターにファン投票1位で選ばれた江夏豊は、そのオールスターゲームで、何と、パ・リーグの強打者達を相手に、「9連続奪三振」という、空前絶後の大記録を達成した。

なお、江夏はこの試合、自ら3ランホームランも打っているが、「投げて良し、打って良し」の千両役者ぶりは、相変わらずであった。

そして、この年(1971年)、江夏はオールスター以降は9勝5敗と盛り返し、最終的には15勝14敗 267奪三振 防御率2.39という成績を残した。

 

<江夏豊の「伝説」④~1972(昭和47)年…村山実が、シーズン途中で指揮権を金田正泰コーチに「返上」~村山は投手に専念し、江夏と金田「監督代行」は、当初、良好な関係を築くが…>

 

 

 

1972(昭和47)年、阪神は、開幕から不調であった。

そこで、「選手兼任監督」だった村山実は、シーズン途中で、指揮権を金田正泰コーチに「返上」した。

村山としては、折を見て、また監督に「復帰」するつもりだったが、結局、シーズン終了まで、金田「監督代行」が指揮を執り、

村山は、投手に専念せざるを得ない状況になった。

 

 

当初、江夏は金田「監督代行」と、良好な関係を築き、

江夏は金田の事を「叔父貴」と呼び、金田は江夏の事を「ユタカ」と呼ぶという仲であった。

そして、この年(1972年)、江夏豊23勝8敗 233奪三振 防御率2.53という成績を残した。

しかし、江夏と金田は、親密になりすぎたのが、却って良くなかったのか、この後、2人の間に「確執」が生まれた。

 

<1973(昭和48)年1月…江夏豊、金田正泰の2人が「永平寺」で「修行」を行なうも、この時、江夏と金田の関係に「亀裂」~以後、江夏と金田の仲は「修復不可能」に>

 

 

お互いを「叔父貴」「ユタカ」と呼び合う仲だった、江夏豊、金田正泰の2人は、

1973(昭和48)年1月15日~19日にかけて、「永平寺」で、山籠もりの「修行」を行なった。

しかし、この時、江夏は金田の行動に、不信感を持った。

江夏が、真面目に修行していたのに、金田は、ロクに掃除もせず、トイレに隠れて煙草を吸ったりと、とにかく、江夏から見て、全ての行動がセコかったという。

それまで親しみを感じていただけに、江夏は金田に対し「裏切られた」という気持ちが強く、江夏の金田に対する親愛の情は、憎悪へと転じた。

以後、2人の仲は「修復不可能」になり、2人は口も利かなくなってしまったという。

私にも、似たような経験が有るが、ある時、会社の先輩と非常に親しくなり、一時は、毎日のように、2人で行動し、何度も2人で食事したりしていたが、ある日、些細なキッカケにより、その関係が壊れてしまった。

以後、江夏と金田にように、私とその先輩は、関係が険悪になってしまったのだが、あまりにも急速に親しくなりすぎると、その反動が有った時が怖い、という事を、この事例は如実に物語っているのではないだろうか。

江夏と私如きを一緒にしては、大変申し訳無いが、私も似たような経験が有っただけに、この時の江夏と金田の「確執」は、何だか身につまされるものが有る。

 

<1972(昭和47)年限りで、村山実が「現役引退」~1973(昭和48)年3月21日、オープン戦の阪神-巨人戦(甲子園球場)で、村山実の「引退試合」が行われ、江夏らが村山を「肩車」して登場>

 

 

村山実は、結局、1972(昭和47)年限りで現役引退し、選手としても監督としても、長年在籍した阪神と、別れを告げる事となった。

これにより、1973(昭和48)年からは、金田正泰が、正式に阪神の監督に「昇格」する事となったが、

シーズン開幕前、1973(昭和48)年3月21日、甲子園球場の阪神-巨人のオープン戦で、村山実「引退試合」が行われた。

すると、この時、江夏らの投手陣が、村山を「肩車」して登場したのである。

江夏と村山は、それほど親しい間柄ではなかったが、江夏は、孤高のエース・村山を、ずっと尊敬しており、

この時の行動は、江夏の村山に対するリスペクトを、最大限に表したものであった。

こうして、村山実阪神を去り、阪神タイガースの一つの時代が終わった。

 

<1973(昭和48)年の阪神タイガースと江夏豊…金田正泰監督率いる阪神タイガース、大混戦のセ・リーグで、優勝争いを繰り広げる~開幕から絶好調の江夏豊も、エースとして阪神を引っ張る>

 

 

 

さてさて、1973(昭和48)年の阪神タイガース江夏豊であるが、

この年のセ・リーグは、それまで「8連覇」していた巨人が絶不調であり、

セ・リーグ全球団が、1度は首位に立つという、空前の「大混戦」であった。

金田正泰監督率いる阪神タイガースも、開幕から好調で、優勝争いを繰り広げていたが、

その原動力となっていたのが、開幕から絶好調だった、阪神の大エース・江夏豊であった。

相変わらず、金田監督と江夏は、一切、口も利いていなかったが、お互いに割り切って、自分の仕事に徹していた。

チームがバラバラだろうと、各々の選手が、自分のやるべき事をやるという阪神は、ある意味、プロ野球らしい球団とも言えるが、チームにまとまりが無い事が、良い選手が沢山居ながらも、毎年、阪神が優勝には届かないという要因だったのではないだろうか。

しかし、この年(1973年)の阪神は、1964(昭和39)年以来、9年振りの優勝のチャンスがハッキリと見えて来ていた。

 

<1973(昭和48)年8月30日の「阪神-中日戦」(甲子園球場)①~江夏豊(阪神)、松本幸行(中日)の息詰まる投手戦で、「ゼロ行進」が続く>

 

 

 

こうして迎えたのが、今から47年前の本日(8/30)、甲子園球場で行われた、阪神-中日戦である。

当時、阪神も中日も、混戦のセ・リーグで上位に踏み止まり、優勝戦線で争うライバル同士だったが、

この試合、阪神は江夏豊、中日は松本幸行(まつもと・ゆきつら)という、両左腕投手が先発した。

 

 

 

この試合は、江夏も松本も、とにかく絶好調であり、

両投手とも、素晴らしい投球を見せた。

江夏は、2日前にリリーフで3イニングを投げており、決して万全の状態とは言えなかったが、

それでも、江夏は立ち上がりの3イニングをパーフェクトに抑え、

江夏は4回には死球、5回には四球を与えたものの、それ以外は中日打線を完璧に抑え込んだ。

一方、松本も阪神打線を手玉に取り、試合は緊迫した投手戦となった。

 

 

 

江夏は、9回を投げ、とうとう中日打線に1本のヒットも許さず、

ここまで「ノーヒットノーラン」のペースであった。

しかし、阪神打線も、中日の松本を全く打てず、試合は0-0のまま、遂に延長戦に突入した。

江夏豊、松本幸行の投手戦よる「ゼロ行進」だったが、この時点で、プロ野球史上、「延長戦でノーヒットノーラン」を達成した投手は、それまで1人も居なかった。

仮に、9回を「ノーヒットノーラン」に抑えても、味方打線も0点で、0-0のまま延長戦に突入した場合、全員が延長戦で力尽き、「ノーヒットノーラン」の夢は潰えていた。

 

<1973(昭和48)年8月30日の「阪神-中日戦」(甲子園球場)②~江夏豊、延長10回表、11回表も、中日打線を「ノーヒットノーラン」に封じ込める~10回表2死には、中日の4番・井上弘昭にレフトに大飛球を打たれるが、レフトが好捕>

 

 

0-0のまま、試合は延長戦に突入したが、江夏は顔色も変えず、淡々と投げていた。

そして、江夏は延長10回表も、中日から簡単に2アウトを取ったが、

ここで、打席には中日の4番・井上弘昭を迎えた。

 

 

10回表2死、中日の4番・井上弘昭は、江夏の投球を捉え、レフトへ大飛球を放った。

「ホームランか!?」

この時、江夏は思わず、マウンド上でガックリと膝を着いてしまったが、レフトのラッキーゾーンの手前で、この打球はレフトが好捕した。

江夏も、胸を撫でおろしたが、この試合、江夏には「ツキ」も有ったようである。

 

 

 

延長11回表も、江夏は中日打線をノーヒットに抑えた。

これで、江夏は遂に、11イニングを「ノーヒットノーラン」に抑え、しかも、6回以降はパーフェクトという投球であった。

この時、江夏はマウンド上で、「とにかく、早くケリを付けたい」という思いで、投げていたという。

それにしても、11イニングを投げて「ノーヒットノーラン」とは、やはり江夏豊というのは凄い投手である。

 

<1973(昭和48)年8月30日の「阪神-中日戦」(甲子園球場)③~0-0で迎えた延長11回裏、江夏豊が、松本幸行からサヨナラ本塁打!!~江夏豊、「延長11回ノーヒットノーラン」を、「自らサヨナラ本塁打」で達成!!>

 

 

 

 

 

0-0で迎えた延長11回裏、江夏の向こうを張って、阪神を0点に抑えていた松本幸行に対し、

江夏豊は、この回の先頭打者として、打席に立った。

ここで、江夏は松本の初球を、思いっきりフルスイングすると、打球はライト方向へと舞い上がった。

甲子園球場は大歓声に包まれたが、この打球はグングンと伸びて行き、そのまま、ライトのラッキーゾーンへと舞い降りた。

この瞬間、江夏豊「延長11回ノーヒットノーラン」を、「自らのサヨナラ本塁打」で達成するという、「歴史的快挙」を成し遂げたのであった。

 

 

 

 

 

 

こうして、プロ野球きっての「千両役者」江夏豊は、

1973(昭和48)年8月30日、「延長11回ノーヒットノーラン」&「自らのサヨナラ本塁打」という「1人舞台」をやってのけたが、冒頭で述べた通り、「延長戦でのノーヒットノーラン」達成も、「自らのサヨナラ本塁打でのノーヒットノーラン達成」も、どちらも、プロ野球史上初の快挙であり、なおかつ、プロ野球史上、未だに空前絶後、唯一の記録である。

そして、こんな「芸当」が出来るのは、江夏豊しか居ないというのは、間違い無いところである。

 

<その後の、1973(昭和48)年の阪神タイガースと江夏豊…阪神は「マジック1」まで迫りながら、中日、巨人に連敗~1973(昭和48)年10月22日(※イチローの誕生日)…「阪神-巨人」の「V決戦」で、阪神が巨人に0-9で惨敗し、「巨人V9」達成、阪神ファンが大暴れ⇒選手達からの信頼を失った金田正泰監督は「退陣」>

 

 

江夏豊「延長11回ノーヒットノーラン達成」&「自らのサヨナラ本塁打」という「奇跡」の試合で、

阪神は勢いに乗り、そのまま優勝まで突っ走った…とはならなかったというのが、阪神らしさ(?)である。

阪神は、紆余曲折を経て、10月20日の中日-阪神戦(中日球場)を迎える時点で、残り2試合で「マジック1」と迫っていた。

つまり、残り2試合の内、阪神は1つでも勝つか引き分ければ優勝であり、残り1試合、阪神との直接対決を残すのみの巨人は、窮地に立たされていた。

そして、その10月20日の中日-阪神戦は、この年(1973年)、江夏と並び、大車輪の活躍をして、しかも中日には滅法強かった上田二朗が先発するかと思われたが、金田監督は、江夏豊にマウンドに託した。

しかし、この試合、江夏は不調であり、阪神は2-4で中日に敗れるという、痛恨の敗戦を喫した。

 

 

 

 

これで、阪神の「結果待ち」だった巨人は息を吹き返した。

1973(昭和48)年10月22日、甲子園球場の阪神-巨人戦は、両チームにとっての最終戦であり、

「勝った方が優勝」という大一番となったが、この試合に先発した、阪神・上田二朗は、立ち上がりから不調で、巨人打線に捕まり、

一方、阪神打線も全く元気が無く、結局、阪神は0-9で巨人に惨敗を喫した。

この結果、巨人が「V9」を達成したが、阪神優勝を信じて、甲子園に詰めかけていた阪神ファンは、大激怒し、「暴徒」と化した阪神ファンは、試合後、大挙してグラウンドに雪崩れ込み、巨人ベンチを襲撃するという「暴挙」に及んだ。

こうして、チームがバラバラだった阪神は、最後の最後で、目の前にあった「優勝」を逃すという、屈辱的な結末を迎えた。

ちなみに、余談であるが、この「阪神VS巨人のV決戦」が行われた、1973(昭和48)年10月22日は、あのイチローの誕生日である。

 

 

最後に、金田正泰監督と江夏豊は、その後、一体どうなったのかについて、お伝えさせて頂くと、

金田監督は、江夏のみならず、全ての選手達から総スカンを食っており、選手達の支持を失っていたが、

シーズン終了後、何と、金田監督は権藤正利投手に殴られるという「事件」まで起こってしまった。

この時、金田監督を監督室に「監禁」し、入口で見張っていたのは、あの江夏であった。

権藤は、金田監督に、散々、酷い扱いを受け、我慢に我慢を重ねて来たが、とうとう堪忍袋の緒が切れた、という事であるが、

そんな権藤の、金田監督に対する「殴打」を、江夏は積極的に助けたのであった。

なお、翌1974(昭和49)年限りで、金田監督は阪神監督を「退任」したが、以後、金田監督に接触する阪神の関係者は、殆んど居なかったという。(※コメントでのご指摘を受け、金田監督の退任の年について、訂正しました)。

という事で、阪神としては何とも後味の悪い結果となってしまったが、

この年(1973年)、江夏豊は、24勝13敗 215奪三振 防御率2.58という成績を残した。

しかし、そんな成績よりも、江夏としては「優勝」が、最も欲しい結果だったに違いない。

結局、江夏は阪神では一度も優勝を経験出来なかったが、阪神時代の江夏は、抜群に凄い投手だったというのは、間違い無い。

1973(昭和48)年8月30日の、江夏の「1人舞台」は、まさに、その象徴であった。