【今日は何の日?】1978/8/30…王貞治(巨人)、「通算800号」ホームラン達成 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

今から42年前の1978(昭和53)年8月30日は、

国民的スーパースターの王貞治(巨人)が、「通算800号」ホームランを達成した日である。

王貞治「通算800号」ホームランを達成したのは、1978(昭和53)年8月30日、後楽園球場の巨人-大洋戦であった。

 

 

当時の王貞治といえば、冒頭でも書いた通り、まさに「国民的スーパースター」であり、

日本人なら、知らない人は居ないという存在になっていたが、

それは、王貞治という選手が、誰よりも多くホームランを打ち続けたという「偉業」を達成したからに他ならない。

王貞治は、プロ野球の枠を超えた、スーパースターであった。

 

<1977(昭和52)年8月31日…王貞治、「通算755号ホームラン」の「世界タイ記録」達成!!>

 

 

 

王貞治「通算800号」達成から、約1年前、1977(昭和52)年8月30日の巨人-大洋戦(後楽園球場)で、

王貞治は、ハンク・アーロン「通算755本塁打」に並ぶ、「通算755号ホームラン」を放ち、は「世界タイ記録」を成し遂げた。

この時の、王の「ホームラン世界記録」を目指す戦いは、まさに「国民的関心事」となっていた。

 

<1977(昭和52)年9月3日…王貞治、「通算756号ホームラン」の「世界新記録」達成!!>

 

 

 

 

 

 

そして、その3日後の1977(昭和52)年9月3日、王貞治は、後楽園球場の巨人-ヤクルト戦で、

遂に、ハンク・アーロンの記録を破り、「世界新記録」となる「通算756号ホームラン」を放った。

こうして、王貞治は、名実共に「世界の王」となったが、この時、王貞治は真の「国民的スーパースター」の座に就いたのであった。

それにしても、王の「ホームラン世界新記録達成」の時のフィーバーぶりこそ、日本プロ野球が最も盛り上がった時である、という声も多いが、

それだけ、当時は王貞治の一挙手一投足に、注目が集まっていた。

 

<1978(昭和53)年…「通算766本塁打」で、「通算800号」まで「あと34本塁打」で開幕を迎えた、王貞治>

 

 

大フィーバーだった、1977(昭和52)年のシーズンを終え、王貞治は、「通算766本塁打」まで、自らのホームラン記録を積み上げていた。

つまり、1978(昭和53)年のシーズン開幕の時点で、王貞治「通算800号ホームラン」まで「あと34本塁打」に迫っていたが、

この年(1978年)も、プロ野球の最大の関心事は、王貞治のホームラン記録であると言っても良かった。

 

<1978(昭和53)年4月3日…ピンク・レディー7枚目のシングル『サウスポー』リリース!!~「背番号1の凄い奴」と「ピンクのサウスポー」が対決する物語~『野球狂の詩』の水原勇気と、1977(昭和52)年のオールスターゲームで、王貞治を三振に打ち取った永射保にヒントを得て、阿久悠が作詞!?>

 

 

 

1978(昭和53)年4月3日、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった、ピンク・レディーの7枚目のシングル『サウスポー』がリリースされた。

『サウスポー』は、前年(1977年)にリリースされ、爆発的な大ヒットを記録していた『UFO』の後を受けたリリースされた、ピンク・レディーの新曲だったが、この曲の作詞をするにあたり、阿久悠は、ある「仕掛け」を施していた。

 

 

 

 

 

ピンク・レディー『サウスポー』という曲は、ピンク・レディーの2人が、サウスポー(左投手)という設定で、

当時、国民的スーパースターだった王貞治がモデルと思われる「背番号1の凄い奴」と、「ピンクのサウスポー」が対決する物語である、というのをコンセプトにしたというのが、阿久悠「仕掛け」であった。

つまり、阿久悠は、王貞治という英雄を、ピンク・レディーの曲に登場させてしまうという「遊び心」を見せたのであるが、ピンク・レディー王貞治も、どちらも日本国民に圧倒的な人気が有った頃であり、『サウスポー』は、まさに、ピンク・レディー王貞治「夢のコラボ」でもあった。

 

 

 

なお、ピンク・レディー『サウスポー』を書くにあたり、阿久悠には、2つの題材が有ったと思われる。

一つは、まず誰でも連想する所であろうが、水島新司が原作で、水原勇気という女性のサウスポーが、「ドリームボール」という「魔球」を駆使して、プロ野球の強打者達をキリキリ舞させるという物語『野球狂の詩』である。

『野球狂詩の詩』は、木之内みどり主演で映画化され、大人気になっていたが、野球好きの阿久悠が、こんな美味しい題材に、目を付けない筈は無かった。

 

 

 

 

もう一つは、前年(1977年)のオールスターゲームで、

当時、クラウンライター・ライオンズの左投手、永射保が、王貞治から三振を奪ったという場面である。

左の下手投げという「変則投法」永射保は、当時、「左キラー」として名を馳せていたが、

阿久悠は、たまたまテレビで、この時の永射の「快投」を目にしており、これもまた、後に『サウスポー』のヒントになった。

こうして、野球好きの大作詞家・阿久悠によって、王貞治は、ピンク・レディーの歌の世界にも登場してしまったのであった。

 

<1978(昭和53)年4月4日…新生「横浜大洋ホエールズ」が、横浜スタジアムの「こけら落とし」で巨人に快勝>

 

 

 

 

 

1978(昭和53)年4月4日、ピンク・レディーの『サウスポー』がリリースされた翌日、

この年(1978年)に、本拠地を川崎球場から横浜スタジアムに移転し、

「横浜大洋ホエールズ」として、新たなスタートを切った大洋が、横浜スタジアムの「こけら落とし」を迎えた。

横浜スタジアムの記念すべき公式戦初試合は「大洋-巨人」戦である。

 

 

 

そして、新生「横浜大洋ホエールズ」は、横浜スタジアムの「こけら落とし」で、巨人に4-1で快勝し、大洋が、新天地・横浜で上々のスタートを切った。

このように、この年(1978年)の大洋は、心機一転で、選手達も皆、意気上がっていた。

 

<1978(昭和53)年4月4日…キャンディーズが、後楽園球場で解散コンサートを開く>

 

 

 

 

そして、巨人が横浜スタジアムで、「横浜大洋ホエールズ」と試合をしていた、この日(1978年4月4日)、

普段、巨人が本拠地としている後楽園球場では、キャンディーズ解散コンサートが行われていた。

前年(1977年)の、キャンディーズ(伊藤蘭、田中好子、藤村美樹)による「普通の女の子に戻りたい」という、衝撃的な解散発表から、キャンディーズの解散のために、ファンが一致団結し、空前の盛り上がりを見せていたが、その「キャンディーズ狂騒曲」は、この日、最高潮を迎えた。

後楽園球場には、5万人以上のファンが集まり、キャンディーズは劇的なフィナーレを迎えたのであった。

 

<1978(昭和53)年…広岡達朗監督率いるヤクルトスワローズ、初優勝に向け快進撃を見せる>

 

 

1978(昭和53)年といえば、広岡達朗監督率いるヤクルトスワローズが、

悲願の初優勝に向け、快進撃を見せた年でもある。

セ・リーグは、長嶋茂雄監督率いる巨人が、1976(昭和51)~1977(昭和52)年に2連覇していたが、

前年(1977年)に球団史上初の2位になったヤクルトは、本気で優勝を目指していた。

というわけで、1978(昭和53)年は、相変わらずピンク・レディーは大人気だったが、キャンディーズは人気絶頂のまま解散し、

横浜大洋ホエールズが、新たなスタートを切る一方、ヤクルトスワローズも初優勝を目指して戦っていた。

そして、王貞治「通算800号」を目指し、この年(1978年)もホームランを着々と積み重ねて行くという、そんな年であった。

 

<1978(昭和53)年6月25日…サザンオールスターズが『勝手にシンドバッド』でデビュー>

 

 

1978(昭和53)年といえば、やはり、この事も書いておかなければならない。

「また、その話か」

と言われそうであるが、1978(昭和53)年6月25日、サザンオールスターズ『勝手にシンドバッド』でデビューした。

という事で、サザンが『勝手にシンドバッド』でデビューした年というのは、サザンの事務所(アミューズ)の先輩であるキャンディーズが解散してしまった年であり、サザンオールスターズは、キャンディーズと入れ替わるようにして、世に出て来たという事になる。

なお、サザンが初めてテレビ出演した時、サザンのメンバー全員で、ピンク・レディーにサインを貰いに行ったというエピソードが有るが、サザンは、ピンク・レディー全盛期の音楽シーンに登場したのであった。

 

<1978(昭和53)年8月30日…王貞治、後楽園球場の巨人-大洋戦で、「通算800号」ホームラン達成!!>

 

 

 

そして、今から42年前の本日(8/30)、1978(昭和53)年8月30日、

後楽園球場の巨人-大洋戦を迎えたが、この時点で、王貞治は、この年(1978年)に、

既に33本のホームランを打っており、通算ホームラン数は「799本」に達していた。

王貞治は、日本中が待望している「通算800号」に、「王手」をかけていたが、

後楽園球場は、王の「800号」達成を一目見ようと、超満員の観客で埋め尽くされていた。

 

 

 

 

6回裏、この試合、王貞治の第3打席を迎えたが、

王を打席に迎え、大洋の別当薫監督は、左腕投手の大川浩をマウンドに送った。

大川は、背番号「23」のサウスポーであるが、「何としても、王には打たせない」という、別当監督の期待を受け、

王を打ち取るために登板したが、世紀のスーパースター・王貞治との対決を迎えた大川は、少し緊張気味であった。

 

 

 

 

 

 

そして、大川浩は、王貞治への初球、全力でストレートを投げ込んだが、その球が真ん中に入った。

王貞治は、その絶好球を見逃さず、鋭くバットを振ると、バットとボールはジャストミートした。

王の打球は、後楽園の観客の大歓声が上がる中、右中間へと舞い上がり、ファンの思いを乗せて、打球はグングン伸びて行った。

そして、打球は右中間スタンドに、そのまま飛び込む、シーズン「34号」ホームランとなった。

王貞治、「通算800号」ホームラン達成!!!!

この打球を見て、NHKの実況アナウンサーは「ライトスタンドが待っている!!日本中が待っている!!入った、ホームラン!!!!」と実況したが、まさに、日本中が待ちに待っていた、王貞治「800号」が、遂に達成されたのであった。

 

 

 

 

王貞治は、笑顔を浮かべながら、ゆっくりとベース一周をした。

一方、王に「800号」を打たれてしまった、大洋の大川浩は、マウンド上で呆然としていたが、

この大川浩投手は、プロ野球では通算108試合に登板し、通算1勝4敗と、さしたる成績を残す事が出来なかった。

しかし、大川浩「王に800号を打たれた投手」として、歴史にその名を残す事になった。

 

 

 

 

 

 

王貞治は、ベース一周を終え、張本勲らが出迎えるホームベースへと帰って来た。

そして、王は満面の笑みを浮かべ、ホームインしたが、

ホームベースでは、王貞治に、「通算800号記念」で、大きなボールを形取った記念品が渡され、

そして、何故かハワイのフラダンスの格好をした美女が現れ、王の首に祝福のレイをかけると、

その美女は、王の頬に、祝福のキスをしていた。

王は、思わぬお出迎えにビックリしていたようであるが、今見ても、なかなか面白い「演出」であった。

 

 

 

 

王貞治は、出迎えてくれた巨人の選手達、1人1人とタッチを交わすと、

先程受け取った、「通算800号」の記念品を高々と掲げ、ファンの大声援に応えた。

後楽園球場は、熱狂と興奮の坩堝となっていたが、あのキャンディーズの解散コンサートから4ヶ月半が経っていた。

もしかしたら、キャンディーズの解散コンサートと、王貞治「800号」を、両方とも後楽園に見に行っていたという人も、中には居たかもしれないが、どうであろうか。

 

 

 

 

 

試合後、王貞治「通算800号」ホームランを記念し、セレモニーが行われたが、

王は、オープンカーに乗り、ファンの大声援に応えていた。

なお、この試合は、巨人は残念ながら大洋に敗れ、記念すべき王貞治の「800号」に、華を添える事は出来なかった。

 

<1978(昭和53)年10月4日…ヤクルトスワローズ、球団創立29年目の初優勝!!>

 

 

 

その後、ヤクルトと巨人は、最後まで激しい優勝争いを繰り広げたが、

1978(昭和53)年10月4日、マジック「1」で、神宮球場のヤクルト-中日戦を迎えたヤクルトは、9-0で中日に大勝した。

遂に、ヤクルトスワローズは、球団創立29年目の初優勝を達成したが、これにより、長嶋巨人の「3連覇」の夢は潰えたのであった(※横浜大洋ホエールズは、4位に終わった)。

そして、王貞治はシーズン「39本塁打」に終わり、7年振りに、シーズン「40本塁打」の大台を割るという結果となった。

「背番号1の凄い奴」王貞治にもまた、「落日」の時が少しずつ近づいて来つつあった。

 

<1978(昭和53)年12月31日…ピンク・レディーが『UFO』で日本レコード大賞を受賞!!~この時、ピンク・レディーの奮闘を労った、司会の高橋圭三の言葉に涙した、ピンク・レディーの2人>

 

 

 

1978(昭和53)年12月31日、ピンク・レディー『UFO』で、「第20回日本レコード大賞」を受賞した。

ピンク・レディーのレコード大賞受賞が、司会の高橋圭三から発表された瞬間、ミー(根本美鶴代)は満面の笑みを浮かべたが、ケイ(増田恵子)は、天を仰ぎ、感極まったような、何とも言えない表情をしていた。

そして、ピンク・レディーをここまで育て上げて来た、作詞家・阿久悠は、「やったぞ!!」という表情で、ピンク・レディーの2人の肩を叩いていた。

 

 

 

そして、壇上に上がったピンク・レディーの2人に対し、司会の高橋圭三から、こんな言葉が贈られた。

「美鶴代ちゃん、恵子ちゃん、おめでとう。…私達は、あなた方が眠る間も惜しんで、全力で戦って来た事を、知っております。…どんな辛い時にも、笑顔を浮かべ、歌い踊る姿は、まさに現代の天使であろうと、私は思います。…今、全国の子供達が、テレビの前で、ワーッと拍手をしているのが聞こえませんか?聞こえるようでしょう?…これからも、あなた達が、そんな子供達にために歌い、天使としての任務を全うして欲しいと思います」

何とも、心温まる言葉であるが、高橋圭三の優しい言葉を聞いて、ピンク・レディーの2人は、「今まで、頑張って来て良かった…」と、感極まって、大粒の涙を流した。

 

 

こうして、ピンク・レディーは、1978(昭和53)年、日本の音楽界の頂点に立ったが、

栄光の頂点に立ったという事は、後は下り坂が待っている、という事も意味していた。

という事で、1978(昭和53)年は、王貞治ピンク・レディーが、栄光の頂点に立つ一方、

少しずつ「下り坂」に差し掛かる、「分岐点」でもあった。

王貞治「800号ホームラン」は、今にして思えば、そんな時代を象徴する出来事であった。