今から24年前の、1996(平成8)年8月29日、当時、高校生だった私は、
思い立って、「東京六大学・学校見学ツアー」というものを行なった。
ツアーと行っても、自分で勝手に出掛けただけなのであるが、
この日、私は「東京六大学を、全部見に行こう」と決めて、「東京六大学巡り」を敢行したのである。
このブログでも、何度も書いている事であるが、
高校時代の私は、「東京六大学に入って、東京六大学野球を神宮球場に見に行く」という事を、最大の目標としていた。
そのため、「学校見学」をしてみようと思い、夏休みも終わりに差し掛かった、この日、六大学を全部見に行ってみたのである。
そこで、今回は、その時の「東京六大学・学校見学ツアー」について、書いてみようと思うのだが、
何しろ、今から24年前の話なので、当時、どういう順番で六大学を周ったのかまでは、正直、覚えていない。
しかし、六大学全部を見に行った事だけは確かなので、順不同で、当時見た六大学に印象などを、書かせて頂きたい。
それでは、私と「東京六大学」の関わりの原点となった、1996(平成8)年8月29日の「東京六大学・学校見学ツアー」について、ご覧頂くとしよう。
<プロローグ~1996(平成8)年夏…「東京六大学を見に行ってみよう!」と思い立った、高校時代の私>
1996(平成8)年夏、当時、高校生だった私は、冒頭でも書いた通り、
「東京六大学に入りたい」と思っており、「大学に行くなら、東京六大学」と、自分の目標を定めていた。
私は、子供の頃から、プロ野球や高校野球が好きだったが、小学生の時に、
新聞の片隅に載っていた、東京六大学野球の試合結果の記事に「東大」という表記を見て、
「へー、東大って、野球やってるんだ…」
と思ったのをキッカケに、東京六大学野球というものに、興味を持つようになった。
そして、中学、高校と進む内に、ハッキリと「東京六大学に入って、神宮に東京六大学野球を見に行きたい」という事を、意識するようになっていた。
そして、高校生だった私は、夏休みの時に、「東京六大学を、全部、見に行ってみよう」と思い立ち、
「東京六大学・学校見学ツアー」をやってみる事とした。
1996(平成8)年8月29日、私は遂に憧れの東京六大学を見に行く事にしたが、実際に六大学のキャンパスに行ってみたのは、この時が初めてであった。
なお、この日は幸いにして、とても天気が良く、絶好の「学校見学ツアー」日和だったのを覚えている。
冒頭で書いた通り、どういう順番で周ったのかまでは覚えていないが、東京六大学のキャンパスには、それぞれ独特の雰囲気が有り、とても面白かったというのは、よく覚えている。
<1996(平成8)年8月29日…「東京六大学・学校見学ツアー」①【早稲田大学編】~当時、第一志望だった、「都の西北」早稲田で、大隈講堂、大隈重信像などに感動>
私は、「東京六大学に入りたい」と思っていたが、当時の第一志望は、早稲田大学であった。
従って、1996(平成8)年8月29日の、東京六大学巡りでは、恐らく、早稲田を意の一番に見に行ったような気もするが、それはよく覚えていない。
それはともかく、早稲田というのは、どういう雰囲気のキャンパスなのか、私は楽しみにしていた。
早稲田大学の、JRの最寄り駅は、JR山手線の「高田馬場駅」である。
1996(平成8)年8月29日にも、私は、まず「高田馬場駅」で降りて、そこから早稲田に向かった。
なお、「高田馬場駅」には、JR山手線と、西武新宿線が通っている。
「高田馬場駅」から、早稲田に行きたければ、「高田馬場駅」の早稲田口から出る事になる。
「高田馬場駅」の早稲田口を出て、右側を見ると、BIG BOXという商業ビルが有るが、
BIG BOXは西武鉄道によって、1974(昭和49)年に作られた。
それ以来、高田馬場の象徴として、早稲田の学生達の溜まり場にもなっているようである。
さて、「高田馬場駅」の早稲田口から、早稲田大学に行くためには、「早稲田通り」を進んで行けば良いのであるが、
「高田馬場駅」から、早稲田大学の西早稲田キャンパスまでは、徒歩20分ぐらいかかる。
別に、歩こうと思えば歩ける距離であるが、歩くのが面倒であれば、「高田馬場駅」の早稲田口を出発点とする都バスが出ており、
行き先が「早大正門」行きの都バスに乗れば、早稲田までは楽々と行く事が出来る。
24年前の夏、私も「早大正門」行きの都バスに乗り、早稲田に向かった。
なお、「高田馬場駅」から、早稲田大学までのバス代を節約して、徒歩20分の距離を歩く学生も、勿論、沢山居る。
そして、「高田馬場駅」から「早稲田通り」を歩き、早稲田大学まで向かう事を、俗に「馬場歩き」などと言うそうであるが、
「馬場歩き」をしてみると、学生向けの、リーズナブルな飲食店が沢山有り、流石は学生街だというのが実感出来たりする。
「早稲田通り」には、安くて美味しい店が沢山有るが、
そればかりではなく、「早稲田通り」沿いには、沢山の古本屋が並んでいる。
この早稲田の古本屋街は、神田・神保町の古本屋街と並び称される名物であるが、
私も、学生の頃は、神保町や早稲田の古本屋街には、よく行ったものである。
色々と「掘り出し物」も有り、いつまで見ていても飽きなかった。
そうこうしている内に、「早大正門」行きの都バスは、遂に早稲田大学に到着した。
このバスは、早稲田の正門前まで行っているのだが、早稲田の正門と、道を挟んだ反対側の敷地に、
早稲田の象徴である「大隈講堂」が聳え立っている。
1996(平成8)年8月29日、初めて「大隈講堂」を見た私は、「おー!これが大隈講堂か…」と、その雰囲気に圧倒され、とても感動したものである。
早稲田の正門から入り、真っ直ぐ進むと、そこには、早稲田大学の創立者・大隈重信の銅像が建っている。
「大隈講堂」と並び、「大隈重信像」は、早稲田の象徴であるが、テレビではよく見ていた「大隈重信像」を見て、
「これが、大隈重信か…」と、またまた、私は感慨に浸っていた。
なお、大隈重信は、外相在任時に、来島恒喜という暴漢に襲われ、爆弾テロで右脚を失うという大怪我を負ったが、
それ以来、大隈重信の右脚は義足となった。
従って、「大隈重信像」も、大隈が右手に杖を持って立っているのである。
この西早稲田キャンパスには、色々と味わい深い建物が有るが、
もう一つ、ご紹介しておくと、「大隈重信像」から、向かって右側の奧に有る、「演劇博物館」という建物も素晴らしい。
そして、「演劇博物館」の前には、早稲田の初期の文学部教授を務めた、坪内逍遥の銅像も有る。
大隈重信といい、坪内逍遥といい、流石は天下の早稲田というか、大物の銅像が有るというのが、非常に興味深い。
というわけで、「早稲田は、やっぱり雰囲気が有るな」と、私はすっかり感心していた。
<1996(平成8)年8月29日…「東京六大学・学校見学ツアー」②【明治大学編】~「リバティタワー」が出来る前の、何とも味の有る建物「明治大学記念館」へ…「お化け屋敷みたい」という、失礼な(?)感想を持った私>
さてさて、1996(平成8)年8月29日の、「東京六大学・学校見学ツアー」の、お次は「明治大学編」である。
私は、JR中央線・総武線の「御茶ノ水駅」から、明治大学の駿河台キャンパスへと向かった。
そして、「御茶ノ水駅」から、両隣に沢山の楽器屋が立ち並ぶ「明大通り」を歩くと、明治大学に到着するが、
明治大学のキャンパスを見た時、私は本当に驚いた。
何に驚いたのかといえば、その校舎の、あまりのボロさ(?)についてであった。
1996(平成8)年当時、明治大学の駿河台キャンパスには、
「明治大学記念館」という建物が有り、それが、明治のメインの校舎になっていた。
「明治大学記念館」は、伝統有る建物であり、明治の象徴だったのだが、
当時の私は、正直言って、「随分、古くてボロい校舎だな…」と、まず、そこにビックリしてしまったのである。
ところで、「明治大学記念館」の建物には、いくつか変遷が有ったという事で、
その事について、簡単にご紹介させて頂く。
1911(明治44)年10月、神田・駿河台に、初代の「明治大学記念館」が竣工されたが、
この建物は、西洋切妻を中心に、左右に小さいドームを配したデザインであった。
しかし、初代「明治大学記念館」は、残念ながら、1912(明治45)年3月5日深夜の火災で、焼失してしまった。
1912(大正元)年12月、2代目となる「明治大学記念館」が再建、竣工された。
2代目「明治大学記念館」は、ちょうど「大正デモクラシー」の時代に、駿河台に有った建物で、
社会運動家・大山郁夫の時局演説会や、「白熱党」(雄弁部学生により結成された団体)の演説会、「植原・笹川事件」(※1920(大正9)~1921(大正10)年に起こった、明治の大規模な学生運動)などなど、明治大学の歴史に残る、様々なエピソードで彩られていた。
しかし、2代目「明治大学記念館」は、残念ながら、1923(大正12)年9月1日の「関東大震災」により、倒壊してしまった。
1928(昭和3)年3月25日、3代目となる「明治大学記念館」が竣工されたが、
これこそ、私が目にした「明治大学記念館」であり、昭和初期から平成初期にかけて、約70年間、明治の象徴だった建物である。
つまり、私が1996(平成8)年夏に明治を見に行った時、この建物は、既に築70年ぐらいが建っていたという事になる。
道理で、ボロかったわけである。
私は、「明治大学記念館」を、「ボロい、ボロい」と書いてしまっているが、
創建当時、ドーム型屋根のデザインの「明治大学記念館」は、とてもお洒落でモダンな建物であり、東京観光の目玉の一つともなっていた。
明治の学生達も、この建物をとても誇りに思っていた筈である。
1960年代後半、明治のお膝元・御茶ノ水の周辺は、
学生運動の活動家の溜まり場になっており、明治の駿河台キャンパスの前は、
沢山の学生運動の活動家によって占拠され、バリケードが築かれるという、所謂「神田カルチェ・ラタン闘争」の舞台になっていた。
そう言えば、私が1996(明治8)年に明治を見に行った時も、まだ立て看板などが沢山有ったような気がする。
という事で、当時、明治の学生達も、この「神田カルチェ・ラタン闘争」では、大暴れをしていたのであった。
1996(平成8)年8月29日、私が初めて明治を見に行き、「明治大学記念館」の中にも入ってみたのだが、
その時の率直な感想は、「何か、お化け屋敷みたいだな…」というものであった。
何しろ、校舎の中は、とても薄暗く、廊下を歩いても、ギシギシと軋んでおり、壁一面に沢山のビラが貼られていて、
「何だか、凄い校舎だな…」と、当時、高校生だった私は、ちょっと引き気味であった。
なお、私が明治大学の歴史について学んだのは、遥か後年の事であり、当時、私が明治を見た感想は、そんなものであった。
だが、今にして思えば、この時、私が「明治大学記念館」の建物を見たのは、凄く貴重であった。
長らく、明治の象徴だった、3代目「明治大学記念館」は、この年(1996年)に取り壊されてしまったからである。
つまり、私は「明治大学記念館」の、本当に末期の頃の姿を見る事が出来たわけである。
そして、1998(平成10)年に、超近代的なビルである「リバティタワー」が竣工され、「リバティタワー」は、明治の新たな象徴となった。
ちなみに、「リバティタワー」のデザインは、ドーム型の「明治大学記念館」の建物のデザインを踏襲したものとなっている。
というわけで、私は明治にも強烈な印象を受けたのであるが、確か、この後、私は「御茶ノ水駅」から2駅先の「飯田橋駅」が最寄りの法政大学を見に行ったような記憶が有るが、法政の話については、後述する。
<1996(平成8)年8月29日…「東京六大学・学校見学ツアー」③【東京大学編】~東大・本郷キャンパスで「赤門」「三四郎池」「安田講堂」などを見る~「流石は、天下の東大だ」と、その雰囲気に圧倒される>
1996(平成8)年8月29日の、東京六大学巡りで、
私は、自分には縁は無いだろうと思ったが、一応、東大(東京大学)も見に行った。
「東京六大学」とは、そもそも、東大が居るから、権威が保てているような部分が有るが、
私としても、天下の東大は、是非とも見ておきたいと思った。
私が見に行ったのは、東京・文京区に有る、東大・本郷キャンパスである。
東大は、1~2年生の教養課程は駒場キャンパス、3~4年生の専門課程は本郷キャンパスで学ぶが、
世間一般のイメージとしては、やはり東大といえば本郷キャンパスのイメージが強いのではないだろうか。
私も、東大の本郷キャンパスへと向かったが、まずは東大の象徴である「赤門」を見た。
そもそも、東大の本郷キャンパスは、江戸時代の加賀藩邸の敷地だった場所に有り、
「赤門」も、加賀藩邸の物だったのだが、現在、「赤門」は国の重要指定文化財となっている。
ちなみに、東大には、いくつか門が有り、「赤門」は東大の正門ではない。
東大の本郷キャンパスの名所いえば、何と言っても「三四郎池」であろう。
夏目漱石が書いた『三四郎』の主人公・小川三四郎は、熊本の高等学校(第五高等学校)から、
東大入学を機に上京するが、東大のキャンパスの中に有る池の畔で、ヒロイン・里見美禰子と出会った。
この小川三四郎と里見美禰子が出会った池は、後に「三四郎池」と称されるようになり、東大きっての名所となったのであった。
なお、純情な田舎の青年・小川三四郎は、都会育ちの奔放な女性・里見美禰子に色々と振り回される事となるが、『三四郎』は、とても面白い作品なので、ご興味が有れば、是非ともお読み頂きたい。
東大の本郷キャンパスといえば、やはり「安田講堂」である。
「安田講堂」は、東大の象徴的な建物であるが、かつて、「安田講堂」といえば、
激化した学生運動の「砦」のような存在になっていた。
明治の「神田カルチェ・ラタン闘争」の所でも書いたが、
1960年代後半は、日本全国で学生運動が激化した時代であり、
東大の「安田講堂」も、学生運動の活動家の根城になっていた。
そして、1969(昭和44)年には、所謂「安田講堂攻防戦」で、警官隊と学生運動の活動家達が激しく戦い、まさに「安田講堂」は、学生運動の「砦」となっていたが、この影響により、1969(昭和44)年の東大の入試は中止となった。
という事で、私は、歴史有る「安田講堂」を目の当たりにして、「ここが、学生運動の舞台になったのだな」と、しばし見入っていた。
という事で、東京六大学の中でも、やはり東大の本郷キャンパスは、アカデミックな雰囲気が一番有り、
私は「流石は、天下の東大だ」と、その雰囲気に圧倒されていた。
<1996(平成8)年8月29日…「東京六大学・学校見学ツアー」④【慶應義塾大学編】~慶応の三田キャンパスで、福澤諭吉像と出会う!?>
1996(平成8)年8月29日、東京六大学を巡る旅で、私は、勿論、慶応も見に行った。
慶応も、自分にはあまり縁は無さそうだとも思ったが、やはり、早稲田や東大も見たのであれば、
当然、慶応も見に行きたいと思ったのである。
慶應義塾大学は、1~2年生が日吉キャンパス、3~4年生が三田キャンパスに分かれて、
それぞれ講義を受けているが、1996(平成8)年8月29日に私が見に行ったのは、慶応の三田キャンパスであった。
三田キャンパスは、JR山手線・京浜東北線の「田町駅」、都営三田線の「三田駅」などが最寄り駅であるが、
私は、「田町駅」から、慶応の三田キャンパスへと向かった。
なお、「田町駅」前には、「慶応通り振興会」という通りが有り、慶応のお膝元であるという事を感じさせる。
「田町駅」から、10分弱ぐらい歩くと、いよいよ慶応の三田キャンパスへと辿り着く。
私は、三田キャンパスの南側に有る正門から入ったが、正門には、当時、慶応の旧南校舎が有った。
旧南校舎は、1959(昭和34)年に竣工された建物であるが、その外観は、慶応の象徴となっていた。
なお、旧南校舎は、2011(平成23)年に、慶應義塾の創立150周年記念事業の一環として、
現在の新南校舎に建て替えられたが、新南校舎のデザインは、旧南校舎の外観を踏襲したものになっている。
旧南校舎も、新南校舎も、いかにも慶応らしい、モダンで素晴らしい外観であると、私は思う。
そして、慶応といえば、何と言っても、この建物、
国の重要指定文化財となっている、「図書館旧館」(「慶應義塾図書館」)である。
早稲田がテレビの映像などで紹介される時は、決まって「大隈講堂」が映し出されるが、
慶応が映像で紹介される時は、「図書館旧館」が映されるのが、「定番」である。
私も、本物の「図書館旧館」を見て、遂に、はるばる慶応までやって来たと、実感したものであった。
なお、この「慶應義塾図書館」は、1911(明治44)年に、大学創立50周年を記念して建てられたものである。
そして、慶応の三田キャンパスには、慶應義塾の創立者である、福澤諭吉の胸像が有る。
勿論、私も「福沢諭吉像」を拝んで来たが、早稲田の「大隈重信像」、慶応の「福澤諭吉像」の両方を見る事が出来て、私は大満足であった。
なお、有名な話であるが、慶應義塾においては、「先生」といえば福澤諭吉先生ただ1人であり、あとは全員が「塾生」であるという考え方から、慶応の教授も、「先生」とは呼ばず、学校の掲示板などでは「〇〇君」などと書いてあるという。
「慶応では、教授の事も先生って呼ばないというのは、本当なの?」
私は、法政大学に入った後、横浜ベイスターズの応援サークルで知り合った、慶応に通う女学生に聞いてみたが、
「本当だよ。私達は、先生ではなくて、〇〇さん、と呼んでいるよ」との事であった。
それを聞いて、慶応の独特の文化も、また面白いものだと、私は思った。
という事で、慶応の三田キャンパスも、とても素晴らしい校舎であり、私は三田キャンパスも堪能させて頂いた。
<1996(平成8)年8月29日…「東京六大学・学校見学ツアー」⑤【立教大学編】~池袋の西口に有る、瀟洒な雰囲気の蔦のからまる立教の校舎が、強く印象に残る>
1996(平成8)年8月29日の、東京六大学巡りの、確か終盤の頃(もしかしたら、一番最後に見たかもしれない)、
私は、立教大学の池袋キャンパスも訪れた。
当時、立教といえば、池袋に有るという事と、長嶋茂雄の母校、というぐらいしか、あまり知らなかった私であるが、
それだけに、「立教とは、どんな学校なんだろう?」と、これまた楽しみであった。
立教大学の最寄り駅は、JR山手線、西武池袋線、東武東上線など、
様々な路線が乗り入れるターミナル駅である、「池袋駅」である。
そして、有名な話だが、「池袋駅」といえば、「東口が西武で、西口が東武」という百貨店が、それぞれ有り、
何故か、東西が逆転している(?)のが特徴であるが、立教の池袋キャンパスは、「池袋駅」の西口、つまり東武側に有る。
そして、「池袋駅」西口から、徒歩10分ほどで、所謂「立教通り」に面した場所に有る、
立教の池袋キャンパスへと到着する。
私が、この時、立教を見た第一印象は、やはり、あの蔦のからまる校舎と、とても瀟洒な雰囲気のキャンパスが、
他の大学には無い、何ともお洒落な学校であるというものであった。
敷地は、少し小ぢんまりしているような印象も有ったが、それが却って、立教らしい素敵なムードを醸し出していた。
なお、立教といえば、日本聖公会系の、キリスト教系のミッション・スクールである。
私が初めて立教に行った時は真夏だったが、冬になると、ご覧のように、池袋キャンパスではクリスマス・ツリーが点灯される。
クリスマスツリーなどは、東京六大学の他校には、勿論無い。
という事で、池袋の象徴・立教大学も、雰囲気がとても良く、私は好印象を持った。
<1996(平成8)年8月29日…「東京六大学・学校見学ツアー」⑥【法政大学編】~初めて法政を訪れた私、何となく「この学校に、縁が有るかも!?」と感じる~私と法政の、「運命の出会い」!?>
さてさて、1996(平成8)年8月27日の、「東京六大学・学校見学ツアー」の掉尾を飾るのが、
後に、私の母校となった、法政大学である。
なお、この時、実際には私は法政は最後に見たのではなく、恐らく、明治の次ぐらいに見に行ったような記憶が有るが、
後に、実際に自分が入学したのが法政だった事もあるので、敢えて、最後にご紹介させて頂く事としたい。
法政大学の市ヶ谷キャンパスは、JR総武線の「飯田橋駅」と「市ヶ谷駅」のちょうど中間辺りに有り、法政は、「飯田橋駅」から歩いても、「飯田橋駅」から歩いても、どちらからも、徒歩10分ぐらいの距離に有る。
「もう少し、飯田橋か市ヶ谷の、どちらか寄りに有れば良いのに…」
と、私も含め、法政の学生は皆、そう思っていたのであるが、法政は見事に、「飯田橋駅」「市ヶ谷駅」の、ちょうど、ど真ん中に位置しているというのが、面白いといえば面白い。
1996(平成8)年8月29日、私はJR総武線の「飯田橋駅」の西口を降りてから、法政へと向かった。
なお、「飯田橋駅」の西口は、現在、駅のリニューアル工事により、閉鎖されており、現在は、仮の西口が開設されている。
「飯田橋駅」西口は、皇居の外濠に架けられた橋の中間に有り、向かって左側に進み、坂道を登れば九段下方面、
向かって右側に進み、坂道を下れば、神楽坂方面に進む。
法政に行くためには、「飯田橋駅」の西口を出て、向かって左側の九段下方面に進み、交差点に行き当たれば、そこを右折してから、直進して行けば良い。
「飯田橋駅」西口から、法政を目指すと、皇居の外濠沿いを歩く事になるが、
この外濠沿いは、春ともなれば桜が咲き乱れる、東京都内でも有数の「桜の名所」であり、
法政の学生達は、外濠沿いの遊歩道で、花見に興じている。
法政の校歌にも「見はるかす窓の 富士ヶ嶺の雪 蛍集めん 門の外濠」と、その美しい情景が描写されているが、
法政の市ヶ谷キャンパスは、「富士見校舎」とも称され、あまり高い建物が無かった昔は、富士山がよく見えていたという事であろう。
そして、「飯田橋駅」から歩く事、約10分ほどで、私は法政大学の市ヶ谷キャンパスへと着いた。
この時、まず最初に、私の目に飛び込んで来たのが、法政の市ヶ谷キャンパスの「55年館」「58年館」という、横長で、白を基調とした、何とも印象的な校舎であった。
この時、私は何故か、「もしかしたら、この学校に縁が有るかも!?」と、強烈に思ったのである。
前述の通り、私の当時の第一志望は早稲田であり、正直言って、法政については、あまり意識していなかったのだが、
それでも、法政を初めて見た時、「この学校に入るかもしれない」という、強い「予感」が有った。
それは、「55年館」「58年館」が、物凄くカッコイイ校舎に見えた、という事も有ったが、
大袈裟に言えば、法政大学が「さあ、いらっしゃい!」と、私を出迎えてくれたような気がした(?)からでもあった。
当時の法政といえば、まだ「ボアソナードタワー」も建てられておらず、
正門を入った左手には、何とも怪し気で不気味な、学生会館という建物もあり、
お世辞にも、綺麗なキャンパスとは言えなかったが、私は、法政に縁を感じたのは確かであった。
というわけで、法政については、このブログでも散々書いているので、この辺にしておくが、
1996(平成8)年8月29日は、私と法政が「運命の出会い」を果たした日である、という事を、明記させて頂きたい。
…こうして、高校生だった私は、1日で東京六大学全てを巡るという、「東京六大学・学校見学ツアー」を無事に終えたのであった。
<エピローグ~1996(平成8)年8月29日の「広島-巨人」戦で、三塁手・江藤智(広島)が、打球を顔面に受け、眼底骨折の大怪我>
最後に、私が「東京六大学・学校見学ツアー」を行なった日が、
何故、1996(平成8)年8月29日という日付だったのか、私が覚えているのかという事について、その「種明かし」をすると、
この日、帰宅した私が、テレビでスポーツニュースを見ると、広島市民球場の「広島-巨人」戦で、
広島の三塁手・江藤智が、3回表に、イレギュラーバウンドした打球を顔面に受け、眼底骨折という大怪我を負った、というニュースが流れていたのを、覚えていたからである。
後で調べると、その日付が1996(平成8)年8月29日だった、というわけであるが、そのお陰で、この旅の日付を特定する事が出来た。
江藤には大変気の毒だが、そういう事が有った、という事も、この記事の最後に、書かせて頂く事としたい。