【今日は何の日?】1981/8/26…江本孟紀「ベンチアホ事件」&宇野勝「ヘディング事件」 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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今から39年前の本日(8/26)、1981(昭和56)年8月26日に、プロ野球史上に残る、2つの大事件(?)が、全く同日に起こった。

即ち、江本孟紀(阪神)「ベンチアホ事件」と、宇野勝(中日)「ヘディング事件」である。

この衝撃的な大事件が、実は、全く同じ日に起こっていたというのは、物凄く興味深い。

 

 

というわけで、今回は、江本孟紀「ベンチアホ事件」と、宇野勝「ヘディング事件」という、

それぞれ、毛色が全く異なる、2つの大事件が起こった、今から39年前の1981(昭和56)年8月26日に、スポットを当ててみる事としたい。

 

<1981(昭和56)年8月26日の阪神-ヤクルト戦(甲子園)…江本孟紀(阪神)、全くソリが合わなかった、中西太監督からの投手交代指令に激怒し、「ベンチがアホやから野球でけへん!!」と言い放ち、そのまま帰宅>

 

 

今年(2020年)の5/5に、私はこのブログで、江本孟紀(阪神)の所謂「ベンチアホ事件」の顛末について、

その詳細な経緯を書いたので、今回の記事では繰り返さないが(ご興味が有れば、今年(2020年)の5/5の記事を、お読み頂きたい)、

その「ベンチアホ事件」について、簡単にご紹介させて頂く。

1981(昭和56)年8月26日、甲子園球場での阪神-ヤクルト戦に、先発として登板していた、阪神タイガース江本孟紀投手は、当時、全くソリが合わなかった上司、阪神の中西太監督からの投手交代指令に激怒し、マウンドから降りる際に、持っていたグラブを放り投げた。

そして、この後、江本はとんでもない大事件を起こした。

 

 

 

この投手交代に納得が行かず、怒り心頭だった江本は、ベンチ裏に引き上げる時、報道陣が待ち構えている所で、こう言い放ったという。

「ベンチがアホやから、野球でけへん!!」

江本は、日頃から、当時の阪神の首脳陣に対し、腹に据えかねる所が有り、それが遂に、この投手交代で、江本の堪忍袋の緒が切れた。

これは、何処からどう聞いても、江本による「首脳陣批判」であり、江本の発言を聞いた報道陣は、皆、とても驚いたが、江本の怒りは、それだけ凄まじかったのである。

そして、江本の「爆弾発言」は、大きく報道されてしまい、江本の「ベンチアホ」発言は、世間に広く知られる所となってしまった。

 

<事態を重く見た阪神球団が、江本に「10日間謹慎」の処分を下すが…⇒「直情径行」の江本は、そのままシーズン途中で阪神を退団、現役引退>

 

 

江本孟紀による「ベンチアホ」発言が、大きく報道されるに及び、

事態を重く見た阪神球団は、とりあえず、江本に対し「10日間謹慎」という処分を下した。

しかし、江本はその処分に対し、猛反発した。

8月26日といえば、既にシーズンも終盤に差し掛かっている。

そこから、「10日間謹慎」となると、謹慎期間が明けた後に、身体を作り直したとしても、完全に調子を取り戻すためには、1ヶ月はかかってしまう。

そんな事をしている内に、シーズンは終わってしまう…。

そう考えた江本は、「アホらしいから、もう辞めますわ」という事で、シーズン途中にも関わらず、さっさと阪神を退団してしまった。

この時、江本は完全に気持ちが切れており、これ以上、現役を続けるのは無理と判断したのであろう。

江本といえば、曲がった事や理不尽な事が大嫌いで、何か有れば、自分の腹の内に仕舞っておく事が出来ず、我慢出来ないとなれば、ズケズケと言ってしまうというタイプの男である。

そんな「直情径行」の江本は、阪神球団の仕打ちに耐え兼ねて、退団してしまったわけであるが、江本は、そのまま現役引退してしまった。

当時34歳という年齢だった江本孟紀は、「舌禍事件」という、誠に残念な形で、現役生活に別れを告げた。

 

<その後の江本孟紀①~現役引退し、「無職・無収入」になった江本に、北島三郎が「何か有ったら、いつでも言ってくれ」と、声を掛ける>

 

 

さて、「ベンチアホ事件」を引き起こし、プロ野球選手を引退してしまった江本は、その後、どうなったのか。

頭に血が上った江本は、阪神を辞め、現役引退してしまったわけであるが、その途端に、ある事実に直面した。

それは、引退したという事は、その翌月から、収入が全く無くなるという事である。

改めて、その現実を突きつけられ、江本は背筋が凍るほど、ゾッとした。

「俺、これからどうやって生きて行こうか…」

「無職・無収入」になってしまった江本は、途方に暮れていたが、そんな時、江本は外出先で、北島三郎にバッタリと出会った。

その時、北島三郎は、江本に対し「おう、色々大変だったらしいな。何か有ったら、いつでも言ってくれ」と、声を掛けてくれたという。

江本は、心底ホッとしたというが、それ以来、江本と北島三郎は、ずっと交流が続いている。

人生のドン底の時に、声を掛けてくれた「恩人」というのは、やはり特別な存在という事であろう。

 

<その後の江本孟紀②~1982(昭和57)年、江本の著書『プロ野球を10倍楽しく見る方法』が、200万部超の大ベストセラーに!!~プロ野球の「内幕」に注目が集まり、『プロ野球を10倍楽しく見る方法』は映画化もされ、江本は一躍、「時の人」に>

 

 

 

さて、江本が現役引退した、翌1982(昭和57)年、江本は『プロ野球を10倍楽しく見る方法』という、1冊の本を書いた。

これは、元プロ野球選手である江本が、プロ野球の「内幕」を書いたものであり、所謂「暴露本」に近い内容であるが、

『プロ野球を10倍楽しく見る方法』は、普段、ファンが知る事が出来ない、プロ野球の「舞台裏」や、有名選手、人気選手達の意外なエピソードも満載で、非常に面白い本であった。

すると、『プロ野球を10倍楽しく見る方法』は飛ぶように売れ、何と、最終的には200万部超という、歴史的な大ベストセラーになった。

なお、『プロ野球を10倍楽しく見る方法』は、江本の「恩師」である野村克也が推薦文を書いているが、江本も野村も、まさかこの本が、ここまで大ヒットするとは、思っていなかったのではないだろうか。

 

 

その後、『プロ野球を10倍楽しく見る方法』は遂に映画化までされてしまい、

普段はプロ野球をあまり見ない層にまで、『プロ野球を10倍楽しく見る方法』は浸透して行った。

こうして、江本は一躍「時の人」となり、以後、江本は八面六臂の大活躍を続けて行く事となる。

 

<その後の江本孟紀③~タレント、俳優、野球解説者、ベストセラー作家、国会議員~多彩な分野で大活躍した、「才人」江本孟紀>

 

 

その後の江本孟紀の大活躍を、いくつか、ご紹介させて頂きたい。

『プロ野球を10倍楽しく見る方法』が大ベストセラーになった事により、一躍、注目を集めた江本は、

その後、様々な分野で才能を発揮したが、まず、江本はプロ野球選手の「定番」であるレコードを出して、歌手デビューを果たすと、何と、その後、江本はミュージカルにも挑戦したりしていた。

 

 

 

 

1983(昭和58)年、江本は、谷崎潤一郎が原作で、市川崑が監督を務めた映画『細雪』に出演し、

何と、吉永小百合の相手役として、俳優デビューも果たしたが、江本は188cmという長身なので、

画面に登場しても、非常に映えるのである。

江本は、演技は全くの素人だったが、その見栄えの良さを、市川崑監督には買われたのだと思われる。

 

 

江本は、現役引退直後は、あのような辞め方をした事もあり、暫く、テレビ局からも敬遠されていたようであるが、

『プロ野球を10倍楽しく見る方法』の大ベストセラーを皮切りに、注目を集め、活躍の幅を広げて行くと、

1982(昭和57)年からは、フジテレビ、ニッポン放送の野球解説者に就任した。

歯に衣着せず、ズバズバと言いたい事を言う江本の解説は、そんじょそこらの凡百の解説者達とは一線を画しており、とても面白い。

そして、江本は2020年現在、今もなお、現役の野球解説者として活躍している。

元々、弁が立つ男だったが、野球解説者に就任した事により、一層、その才能が開花したと言って良い。

 

 

江本は、「本業」である野球解説者の傍ら、タレント業にも精を出し、

1989(平成元)年には、フジテレビ系のドキュメンタリー番組「なんてったって好奇心」で、江本は三田寛子と共に、司会も務めている。

こうして見ると、江本は野球を辞めてからの方が、活躍の幅が広がったようであるが、勿論、江本の根幹は「元プロ野球選手」であり、

江本の野球に対する熱い思いは、ずっと変わる事は無かった。

しかし、江本はプロ野球の現場に戻るつもりは全く無いので、一切、忖度せずに物を言うという所が、他の元プロ野球選手とは全く異なる部分であった。

だから、江本の発言はとても面白いのである。

 

 

 

 

『プロ野球を10倍楽しく見る方法』以来、江本は、毎年のように本を出しているが、

江本の著書は、約70冊以上にも及んでいる。

江本の本は、よく売れるので、執筆依頼が引きも切らないわけであるが、

私も、一時、江本の本は手当たり次第に読んでいた。

そして、江本が言いたい事を言っているのが、とても面白く、やはり江本は面白い人だと思った。

あの『プロ野球を10倍楽しく見る方法』以来、江本は「ベストセラー作家」としての顔も持つようになった。

 

 

 

江本は、1992(平成4)年、アントニオ猪木が結成した「スポーツ平和党」から、参議院比例代表として出馬すると、

江本は見事に初当選を果たし、遂に政界へと足を踏み入れた。

「ベンチがアホやから野球でけへん」と言い放ち、石もて追われるように球界を追われた江本が、

それから10年余り立って、政治家になってしまったというのだから、人生とは、つくづくわからないものである。

 

<その後の江本孟紀④~2017(平成29)年…スキルス胃癌で、胃を全摘出するも、その後に「復活」し、「人生9回裏」の勝負に挑む>

 

 

 

 

2017(平成29)年、江本はスキルス胃癌で、胃を全摘出するという大手術を行なった。

癌を宣告され、一時は「死」も覚悟したという江本であるが、その後、見事に「復活」し、

彼曰く、今は「人生9回裏」の勝負を挑んでいる最中である。

1947(昭和22)年生まれの江本孟紀は、今年73歳であるが、まだまだ元気に頑張って頂き、我々を楽しませて頂きたい。

 

 

そして、今年(2020年)の5/5の記事でも書いたが、江本は私にとって、法政の大先輩でもある。

法政OBとして、これだけ大活躍して来た江本孟紀という人を、私は尊敬しているが、

波乱万丈すぎる人生を歩んで来た江本には、「人生9回裏」と言わず、「延長戦」に入っても、何イニングでも頑張って頂きたいと思っている次第である。

 

<1981(昭和56)年8月26日の巨人-中日戦(後楽園)…宇野勝(中日)、伝説の「ヘディング事件」が起こる!!~「158試合連続得点」の巨人に対し、完封ペースだった星野仙一(中日)、宇野の「ヘディング」で完封を逃し、大激怒!!>

 

 

 

さてさて、ここからは、宇野勝(中日)の、伝説の「ヘディング事件」のお話である。

江本孟紀の、衝撃の「ベンチアホ事件」が起こったのと、全く同日、

東京・後楽園球場で、巨人-中日戦が行われていた。

当時、巨人は、前年(1980年)8月4日から、「158試合連続得点」という「日本記録」を継続中であり、

この日(1981/8/26)が、「159試合目」にあたっていた。

その巨人の記録を、何としてもストップさせるべく、「打倒巨人」に燃える、中日ドラゴンズ星野仙一投手が、この試合の先発投手として投げており、星野は6回まで巨人を無得点に抑えるという快投を見せ、試合は中日が2-0で巨人をリードしていた。

 

 

中日が2-0とリードして迎えた7回裏、2死2塁という場面で、

巨人は、1番・松本匡史の代打として、山本功児を打席に送った。

この場面で、代打・山本功児は、ショート後方に、力の無い平凡なポップフライを打ち上げた。

星野は、ショートフライだと思い、アウトを確信してベンチに戻りかけたが、

「事件」は、この直後に起こった。

 

 

 

 

 

この試合、中日ドラゴンズのショートを守っていたのは、1958(昭和33)年生まれで、当時23歳の入団5年目の若手、宇野勝であった。

宇野勝は、ショート後方に上がったフライを追い掛け、捕球態勢に入り、後ろ足でバックしながら、グラブを構えた。

次の瞬間、信じられない事が起こった。

宇野が、このフライを捕り損ね、何と、宇野は自分の頭で、この打球を思いっきり「ヘディング」してしまったのである。

これには、レフトの守備位置から打球を追ってきた大島康徳も、ビックリしていた。

 

 

 

 

宇野が「ヘディング」した打球は、大きく弾み、

そのまま、球は転々として、レフト線の方向へと転がって行ってしまった。

宇野は、あまりの激痛に、頭を抱えて、その場でうずくまってしまい、大島が、慌てて球を追い掛けたが、

その間に、二塁ランナーがホームインしてしまい、巨人が1点を返した。

これにより、星野は「完封」を逃してしまったが、星野はグラブを思いっきり投げ付け、

「何やっとるんじゃー!!」と、怒りを爆発させた。

一方、宇野は試合後に「頭に雷が落ちたのかと思った」と語っていたが、それぐらい、激痛が走ったという事のようである。

 

<宇野勝の「ヘディング事件」により、星野仙一は「完封」は逃したものの、中日が2-1で巨人を破り、星野は「完投勝利」~しかし、宇野の「ヘディング」が、大々的に報じられる~宇野勝、「国民的有名人」に!?>

 

 

その後、星野仙一「完封」こそ逃したものの、

結局、中日が2-1で巨人を破り、星野は「完投勝利」を挙げた。

宇野の「ヘディング」のお陰で、巨人は「159試合連続得点」と、「記録」は継続したが、

そんな事よりも、宇野の「ヘディング事件」は、マスコミに大々的に報じられ、宇野勝は、一躍、「時の人」となった。

そもそも、当時の巨人戦のテレビ視聴率は、連日、30%近くを叩き出しており、

そう考えると、この日、何百万、何千万もの人達が、宇野の「ヘディング」を目撃したという事になる。

宇野としては、不本意だったと思われるが、プロ野球選手たる者、目立った者勝ちであるという言い方も出来る。

ともあれ、このプレーにより、宇野勝「国民的有名人」になった事だけは、間違い無い。

 

<宇野勝の「ヘディング事件」がキッカケで、フジテレビ「プロ野球ニュース」で「珍プレー好プレー」が誕生~やがて「珍プレー好プレー大賞」として「独立」し、人気番組に!!~みのもんたが、「珍プレー好プレー」のナレーションにより、スターの仲間入り>

 

 

 

 

さて、宇野の「ヘディング事件」は、思わぬ「副産物」も生んだ。

当時、フジテレビは「プロ野球ニュース」を放送しており、月~金曜日の平日は、佐々木信也、土~日曜日は、みのもんたが、それぞれキャスターを務めていたのだが、週末キャスターの、みのもんたが、あるコーナーを始めたのである。

 

 

宇野の「ヘディング事件」は、大きな波紋を呼び、

「プロ野球でも、あんな面白いプレーが有るんだな」と、ファンの間でも話題になっていたが、

みのもんたは、「ああいう、面白いプレーばかりを集めたコーナーを作ってみたら、なお面白いのではないか」という事で、週末の「プロ野球ニュース」の中で、面白いプレーだけを編集した映像と、それに付随して、ファインプレーだけを編集した映像を流すというコーナーを始めた。

それこそが、所謂「珍プレー好プレー」である。

 

 

「珍プレー好プレー」といえば、何と言っても、みのもんたのナレーションが素晴らしい。

みのもんたは、一度、サラッと映像を見ただけで、あとは台本も無しで、口から出まかせで、適当に「珍プレー好プレー」の「アフレコ」をするのだが、これが抜群に面白いのである。

とにかく、軽妙で適当で、何とも言えない味わいが有る、みのもんたのナレーションは大好評となり、

いつしか「珍プレー好プレー」は、シリーズ化されて行った。

 

 

 

その後、「珍プレー好プレー」は、遂に、「プロ野球ニュース」の枠を超え、

「珍プレー好プレー大賞」として、独立した「特番」になり、

30年以上も続く「長寿番組」となったが、「珍プレー好プレー」を、ここまでのコンテンツにしたのは、間違いなく、みのもんたの功績であろう。

みのもんたは、プロ野球に対し、新たな視点での面白さを提供したが、それは、江本孟紀『プロ野球を10倍楽しく見る方法』と同じであった。

つまり、今から振り返れば、1981(昭和56)年8月26日という日は、ある意味、プロ野球史上の重要な「分岐点」だったと言えなくもない。

それはともかく、私は、「大物司会者」然としたみのもんたには、あまり興味は無いが、「珍プレー好プレー」のナレーターとしてであれば、みのもんたは非常に好きである。

 

<「珍プレー好プレー」を生み出した、「元祖・珍プレー男」宇野勝~中日ドラゴンズの歴史に残る名選手として、大活躍~TBS「風雲!たけし城」で「君も宇野くん」というコーナーまで誕生し、子供達にも大人気に~現在、中日ドラゴンズの背番号「7」は、次代のスター候補・根尾昂に受け継がれる>

 

 

 

という事で、結果として、「珍プレー好プレー」という番組を生み出してしまった、

「元祖・珍プレー男」宇野勝であるが、宇野は、長らく中日ドラゴンズの名ショートとして活躍し、

通算338本塁打も放った、名選手に成長した。

従って、宇野は中日球団史上に残る大選手でもあったのだが、その親しみやすいキャラクターにより、多くのファンに愛された選手でもあった。

 

 

 

 

また、1980年代に大人気だった、TBS「風雲!たけし城」という、視聴者参加型の番組が有ったが、

参加者が、様々な関門を突破して行く中で、「君も宇野くん」なるコーナーも有った。

これは、動きにくいハリボテを着た参加者が、打ち上げられたフライを捕る事を目指し、

フライを捕れた人だけが、勝ち抜く事が出来るというものであり、「フライといえば、宇野」という事で、

「君も宇野くん」という名前が付けられたものである。

当時、「たけし城」は子供達に大人気だったが、「宇野くん」もまた、子供達に人気を博した。

 

 

 

というわけで、子供達に大人気だった、中日ドラゴンズの宇野勝の背番号「7」は、

現在、根尾昂に受け継がれているが、根尾昂も、宇野に負けないぐらいの人気選手に成長して欲しいと、私は願っている。

そして、かつて宇野勝という、ファンを魅了した素晴らしい選手が居た事を、ここに書き残させて頂いた次第である。