【今日は何の日?】1978/8/25…サザンオールスターズの1stアルバム『熱い胸さわぎ』発売 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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本日(8/25)は、今か42年前、1978(昭和53)年8月25日に、

サザンオールスターズのファーストアルバム『熱い胸さわぎ』がリリースされた日である。

同年(1978年)6月25日、サザンオールスターズは、シングル『勝手にシンドバッド』でデビューしていたが、

そのデビューから2ヶ月後、サザンは、早くもファーストアルバムをリリースした。

 

 

というわけで、今回はサザンの記念すべきファーストアルバム『熱い胸さわぎ』がリリースされた経緯について、書かせて頂くが、

まず、最初にお伝えしておきたいのは、『熱い胸さわぎ』は、良い意味で、サザンの学生バンドっぽさが、色濃く出ているアルバムであり、サザンの「原点」が味わえる、貴重なアルバムという事である。

 

<青山学院大学の学生バンドだった、アマチュア時代のサザンオールスターズ~「サザンオールスターズ」というバンド名は、桑田佳祐の幼馴染・宮治淳一が風呂場で命名>

 

 

サザンオールスターズは、元々、青山学院大学の学生だった、桑田佳祐、原由子らを中心に結成された、学生バンドであった。

桑田佳祐は1974(昭和49)年、桑田よりも1学年下の原由子は翌1975(昭和50)年に、それぞれ青山学院大学に入学したが、

その青山学院の音楽サークルで、桑田佳祐原由子は出会い、紆余曲折を経て、2人は一緒にバンドを組む事になった。

桑田佳祐原由子は、共にエリック・クラプトンが好きだという共通点が有り、それで意気投合したのである。

 

 

なお、「サザンオールスターズ」というバンド名は、桑田佳祐の幼馴染で、当時、早稲田大学に通っていた宮治淳一が命名したものである。

当時、このバンドのメンバーは、色々な人が入れ替わり立ち代わりであり、まさに「オールスター」状態だったのだが、宮治は、

「あいつら、サザン・ロックが好きだから、サザンオールスターズというバンド名が良いんじゃないか」

と、風呂に入っている時に、思い付いたものだったという。

という事で、何ともいい加減なキッカケで、バンド名は決まったが、ともあれ、この「サザンオールスターズ」というバンドは、今日(2020年現在)まで、ずっと存続している。

 

<1977(昭和52)年春…サザンオールスターズのメンバー5人(桑田佳祐(ボーカル)、原由子(キーボード)、大森隆志(ギター)、松田弘(ドラム)、関口和之(ベース)が固まり、アマチュア・バンドのコンクール出場を目指す~当時は「セミプロ」のパーカッション・野沢秀行(毛ガニ)は、サザンとは距離を置く!?>

 

 

1977(昭和52)年春、それまで頻繁にメンバー・チェンジを繰り返していた、サザンオールスターズは、

いよいよ、メンバーが固定され、アマチュア・バンドのコンクール出場を目指す事となった。

即ち、その時のサザンのメンバーとは、桑田佳祐(ボーカル)、原由子(キーボード)、大森隆志(ギター)、松田弘(ドラム)、関口和之(ベース)の5人であるが、中でも、宮崎県の幼馴染だった、大森隆志、松田弘は、特にプロ志向が強く、熱心にコンクール出場を桑田に説いた。

そして、桑田もその気になり、サザンはヤマハ主催のアマチュア・バンドコンクール「イーストウエスト’77」に出場する事となった。

なお、この時、既にパーカッションの「セミプロ」として活動しており、大森隆志のアルバイト先だった、下北沢の「ロフト」というライブハウスの常連客、「毛ガニ」こと野沢秀行は、「セミプロ」としてのプライドが有ったのか、大森に「一緒にコンクールに出よう」と誘われたが、野沢秀行は、「まあ、その内、ヒマになったらね」という事で、鼻にも引っかけずに断わってしまったという。

 

<1977(昭和52)年夏…『別れ話は最後に』『女呼んでブギ』『今宵あなたに』など、オリジナル曲も続々と完成させた、ノリノリで絶好調のサザンオールスターズ、アマチュア・バンドコンクール「イーストウエスト’77」の予選大会を勝ち抜く⇒1977(昭和52)年8月27日…中野サンプラザでの「イーストウエスト’77」決勝大会で、桑田佳祐が「ベストボーカリスト賞」を受賞&サザンオールスターズも入賞!!>

 

 

さてさて、やる気が無かった野沢は放っておいて(?)、サザンは、ヤマハ主催のアマチュア・バンドコンテスト「イーストウエスト’77」に出場する事となったが、1977(昭和52)年夏頃、サザンは、『別れ話は最後に』『女呼んでブギ』『今宵あなたに』など、後に、ファーストアルバム『熱い胸さわぎ』に収録される事となる、オリジナル曲も続々と完成させ、ノリノリで絶好調の時を迎えていた。

そして、勢いに乗ったサザンは、「イーストウエスト’77」の予選大会を勝ち抜いて行った。

 

 

 

 

予選大会を順調に勝ち抜いたサザンは、1977(昭和52)年8月27日、中野サンプラザで開催された、「イーストウエスト’77」の決勝大会に出場した。

なお、決勝大会の当日は、ドラムの松田弘が、故郷・宮崎で、お世話になった先輩のバンドを手伝わなければならないとの事で、急遽、代役のドラマーが入ったが、それでも、サザンの結束は揺るがなかった。

そして、青山学院の音楽サークルの後輩達を、大量に「サクラ」として動員し、大声援を送らせるという「作戦」も図に当たり、サザンは審査員にもかなりのインパクトを残したというが、この時、サザンは『女呼んでブギ』『今宵あなたに』2曲を披露し、大盛り上がりのステージとなった。

なお、「上がり症」原由子は、この時、緊張のあまり、殆んど記憶が無いとの事だが、それでも桑田佳祐は見事に「ベスト・ボーカリスト賞」を受賞し、サザンオールスターズも入賞を果たした。

 

<「イーストウエスト’77」の後、レコード会社・ビクターの高垣健に、サザンオールスターズが「スカウト」される!!⇒野沢秀行も「俺も、パーマネントでやりたい」と表明し、野沢の「欠席裁判」の末、野沢秀行も「準メンバー」として加入!?~サザンオールスターズのプロ・デビューが決定!!>

 

 

 

「イーストウエスト’77」で、見事な結果を残した、サザンオールスターズであるが、

この「イーストウエスト’77」を、レコード会社・ビクターの社員だった、高垣健も見に行っていた。

そして、高垣は、サザンのステージを見て、

「『女呼んでブギ』のような、コミカルな曲も有れば、『今宵あなたに』のような、しっとりした曲も有り、何だか面白そうなバンドだな」

と思ったという。

こうして、サザンに興味を持った高垣は、早速、サザンのボーカル・桑田佳祐に会ったが、桑田の事も気に入った高垣は、

「どう?ウチでレコードを出してみない?」

と、桑田に持ち掛けた。

つまり、サザンはこの時、ビクターに「スカウト」されたのである。

 

 

この時、思わぬ事態に大慌てしたのが、あの「毛ガニ」こと、野沢秀行であった。

野沢は、自分が鼻にも引っかけていなかったサザンが、どうやらプロデビュー出来そうな気配だというのを察知すると、

「バスに乗り遅れるな」とばかり、急に掌を返したように、「俺も、サザンと一緒にやりたい」と、意思表示をして来たのだという。

その後、渋谷の「タック」というカレー屋で、桑田佳祐、大森隆志、野沢秀行「会食」したが、

野沢は、懸命に大森の肘をつつき、大森が桑田に「毛ガニ、(サザンのメンバーとして)パーマネントでやりたいんだって」と言うように仕向けた(※つまり、野沢は自分で直接、桑田に言うのではなく、大森に言わせたのである)。

この時の桑田の反応は「ふーん…」というものであったが、その後に、野沢を除いたメンバーで「欠席裁判」を行ない、

結局、野沢秀行「準メンバー」として、サザンのメンバーとして加入する事が認められた(?)。

 

 

そのような「ドタバタ劇」は有ったが、ドラムの松田弘「復帰」し、

野沢「毛ガニ」「準メンバー」として加入した(?)、サザンオールスターズの6人が勢揃いした。

サザンの6人は、ビクターの高垣健の勧めで、デモテープ作りに励んだり、全国でライブハウス回りを行なったりして、実力を高めて行った。

そして、遂にサザンオールスターズのプロ・デビューが決まったのである。

 

<1977(昭和52)年冬…桑田佳祐、サザンのデビュー候補曲の「新曲」を披露~沢田研二『勝手にしやがれ』、ピンクレディー『渚のシンドバッド』をくっつけた、志村けんのギャグから拝借した(!?)『勝手にシンドバッド』の誕生>

 

 

 

 

青山学院の学生バンドだったサザンオールスターズが、プロデビューへの階段を駆け上がっていた、1977(昭和52)年といえば、

共に阿久悠が作詞していた、沢田研二『勝手にしやがれ』と、ピンク・レディー『渚のシンドバッド』が、爆発的な大ヒットをしていた。

当時、『勝手にしやがれ』『渚のシンドバッド』という曲を知らない者など居ないと言って良いような状態であり、この2曲は、1977(昭和52)年を代表する曲になっていた。

 

 

 

そして、この事は、以前にこのブログでも別の記事で書いたが、

1977(昭和52)年のある日、桑田佳祐は、テレビで、たまたま「8時だヨ!全員集合」を見ていた時、

ドリフの志村けんが、『勝手にしやがれ』『渚のシンドバッド』の2曲を無理矢理にくっつけて、「勝手にシンドバッド」と言って、メチャクチャに踊るという「ギャグ」を披露していた。

これに強烈なインパクトを受けた桑田は、1977(昭和52)年冬、サザンのデビュー候補曲となる「新曲」を作った際に、その曲のタイトルに『勝手にシンドバッド』「命名」した。

言わば、桑田佳祐が、志村けんのギャグから「拝借」した形であるが、このタイトルは、サザンのメンバー達にもウケたものの、当初、誰もが「仮タイトル」だと思っていた。

 

 

しかし、結局、「仮タイトル」と思われていた『勝手にシンドバッド』という曲名は、

そのまま変更される事なく、サザンオールスターズのデビュー曲は『勝手にシンドバッド』に決定した。

こうして、サザンは『勝手にシンドバッド』という、何ともインパクトの有るタイトルの楽曲で、世に出る事となった。

 

<1978(昭和53)年6月25日…サザンオールスターズ、シングル『勝手にシンドバッド』でデビュー!!>

 

 

1978(昭和53)年6月25日、サザンオールスターズは、遂にシングル『勝手にシンドバッド』で、デビューを果たした。

サザンが『勝手にシンドバッド』でデビューした頃の話は、このブログでも何度も書いているので、ここでは繰り返さないが、

ほんの1年前まで、ただの学生バンドだったサザンが、アレヨアレヨという間に、プロ・デビューを果たしてしまったのだから、当の本人達が、一番驚いていたものと思われる。

全く、人生というものは、何処でどうなるか、わからないものである。

 

<1978(昭和53)年…サザンオールスターズのファーストアルバム『熱い胸さわぎ』制作~サザンのメンバー、レコーディングに励む~当初、桑田佳祐は「学生時代の思い出作り」のつもりでいたため、「後世に残る」という意識は、あまり無かった!?>

 

 

さてさて、『勝手にシンドバッド』でデビューを飾ったサザンオールスターズであるが、

ファーストアルバム『熱い胸さわぎ』のレコーディングも、並行して行われていた。

『熱い胸さわぎ』は、サザンのデビュー曲『勝手にシンドバッド』や、

サザンのアマチュア時代の楽曲が中心になっているが、実は、この時、桑田佳祐は、

「学生時代の思い出として、その記念にアルバムを作ってもらっている」

というような、所謂「思い出作り」のようなつもりでおり、

このアルバムが「後世に残る」というような意識は、あまり無かったようである。

今にして思えば、とても不思議であるが、あまりにもトントン拍子に事が運びすぎていたため、

当の桑田本人も、半分はキツネにつままれたような心境だったのかもしれない。

しかし、だからこそ、『熱い胸さわぎ』は、学生バンドっぽい「奔放さ」に溢れた、若々しいサザンの勢いが感じられるアルバムになっているとも言えるのではないだろうか。

 

<『熱い胸さわぎ』のジャケット撮影当日~ヘア・メイクさんに、好き勝手にいじられたサザンのメンバー達に「悲劇」が!?>

 

 

『熱い胸さわぎ』のレコーディングも順調に進み、アルバムの音源は全て完成したが、

この後、サザンは『熱い胸さわぎ』のジャケット撮影に臨む事となった。

そのジャケット撮影の当日の事である。

ヘア・メイクさんや、アート・ディレクターさん達が話し合い、

「どうも、この子達はちょっと地味だから、トンでる髪型にしよう」という事を、「勝手に」決めてしまった。

そうなると、サザンのメンバー達は「俎板の鯉」状態であり、ヘア・メイクさん達に、好き勝手に髪型をいじられてしまった。

松田弘は、髪の毛を思いっきり立てたリーゼントもどき、野沢秀行はチリチリのカーリー・ヘア、関口和之は付け髭を付けさせられ、かなり怪しいおじさん風、大森隆志は、頭頂部の髪を10センチぐらい立てたロング、というように、次々に髪型を変えさせられて行った。

桑田佳祐は、短くした髪に、タップリとデップ(整髪料)を付けられ、サボテンのようにピンピンに立てられた髪型で、その髪型には、一応「桑田ヘア」なる名前が付けられたが、「桑田ヘア」という名前は、全く定着しなかったという。

 

 

そして、この後、遂に原由子の番が来た。

実は、原由子の眉毛は、元々は太くて垂れている「ゲジゲジ眉毛」で、原由子曰く「桑田と良い勝負」だったのだが、

そんな眉毛だった事もあり、原由子は常に、眉毛のお手入れを欠かさなかった。

しかし、お手入れをしている内に、どんどん眉毛が細くなってしまったという。

ある時、桑田に「お前、眉毛、もう少しナチュラルな方が良いんじゃない?」と言われたのをキッカケに、原由子は、少し眉毛のお手入れを「お休み」していたが、普段は前髪で隠れていたため、その変化には誰も気付かないでいた。

しかし、このジャケット撮影の当日、ヘア・メイクさん達に、原由子は思いっきり髪を短く切られてしまい、あの「ゲジゲジ眉毛」が姿を現してしまったという。

これには、原由子も、内心メチャクチャ焦った。

「あ、ハラボー、いいじゃん…。に、似合ってるよ…」

メンバー達の顔は、皆、引きつっており、目を逸らしていたが、

当時のマネージャー・M君だけが、「あのー、ハラボー、眉毛、もう少し細くした方が…」と、ポツリと言った。

原由子は、心の中で「有り難う!ハッキリ言ってくれて良かったよ!!」と思ったというが、その後、原由子はまた、気合いを入れて、眉毛のお手入れを行なった。

そのため、『熱い胸さわぎ』のジャケットでは、原由子の眉毛は、思いっきり細い状態で写っているという。

以上、これが『熱い胸さわぎ』における、「原由子のゲジゲジ眉毛事件」の顛末である。

 

<1978(昭和53)年8月25日…サザンオールスターズのファーストアルバム『熱い胸さわぎ』リリース!!~サザンの「原点」が詰まった、歴史的名盤!!>

 

 

 

こうして、色々な出来事が有ったが、『勝手にシンドバッド』でのデビューから2ヶ月後、

今から42年前の本日(8/25)、1978(昭和53)年8月25日に、

サザンオールスターズのファーストアルバム『熱い胸さわぎ』がリリースされた。

その『熱い胸さわぎ』の収録曲は、下記の10曲である。

 

①勝手にシンドバッド

②別れ話は最後に

③当って砕けろ

④恋はお熱く

⑤茅ヶ崎に背を向けて

⑥瞳の中にレインボウ

⑦女呼んでブギ

⑧レゲエに首ったけ

⑨いとしのフィート

⑩今宵あなたに

 

 

前述の通り、『熱い胸わさぎ』は、サザンのアマチュア時代の楽曲が中心となっており、言わば、学生バンド、アマチュアバンドとしてのサザンの「集大成」になっているが、

桑田佳祐のボーカルと原由子のコーラスという、サザン最大の「武器」も、この時、遺憾なく発揮されている。

しかも、アルバムの冒頭を飾るのが、『勝手にシンドバッド』という、サザンのデビュー曲にして、強烈なインパクトの有るロック・ナンバーで、その他にも、サザンのデビューのキッカケとなった『女呼んでブギ』というコミカルな曲、

桑田佳祐原由子の初の「デュエット曲」である『茅ヶ崎に背を向けて』や、しっとりとした名バラード『別れ話は最後に』、

そして、アルバムのラストを飾るのが、原由子の実家の天ぷら屋を歌詞に登場させ、桑田佳祐原由子のハーモニーが堪能出来る『今宵あなたに』などなど、実に多彩な楽曲が収録されている。

『熱い胸さわぎ』でのサザンの演奏は、学生バンドっぽさが多分に残っているが、それが却って、当時のサザンの若々しさが味わえる、実に貴重な音源になっている。

という事で、後の国民的バンド、サザンオールスターズの「原点」が詰まった『熱い胸さわぎ』は、歴史的名盤なので、是非とも、お聴き頂ければと思う。

そして、ジャケット写真を見て、当時、ヘア・メイクさんに好き勝手にいじられてしまった彼らの苦悩と葛藤(?)に思いを馳せてみては、いかがだろうか。