【通算600投稿記念】2000/8/19~8/20…サザンオールスターズ「茅ヶ崎ライブ」(後編) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

今から20年前、私はサザンオールスターズ「茅ヶ崎ライブ」を見に行った。

その「茅ヶ崎ライブ」は、私の長年の友人であり、このブログにもよく登場して頂いている、Aさんと一緒に見に行った。

前回の記事は、「茅ヶ崎ライブ」の前段として、サザンが「茅ヶ崎ライブ」を開催するまでの歩みと、

サザンの、「湘南」「茅ヶ崎」「鎌倉」「海」などに因んだ、主な楽曲などを、ご紹介させて頂いた。

 

 

今回は、いよいよ、2000(平成12)年8月19~20日に行われた、

「茅ヶ崎ライブ」の本番について書かせて頂ければと思うが、

奇しくもというか、今回の記事は、このブログの「通算600投稿目」である。

というわけで、「通算600投稿目」は、サザンオールスターズの「茅ヶ崎ライブ」についての記事になったが、当時の思い出なども含めて書かせて頂くので、お読み頂ければ幸いである。

 

<1998(平成10)年…私が法政大学に入学~「タテカン」(立て看板)と、校舎中に貼られたビラの数の多さに驚愕>

 

 

1998(平成10)年、私は法政大学に入学した。

当時の法政といえば、今のように小綺麗な校舎ではなく、雑然とした雰囲気だったのだが、

何よりも、私が驚いたのは、「タテカン」(立て看板)と、校舎中に貼られたビラの数の多さであった。

法政には、昔の学生運動の名残が色濃く有り、政治的なメッセージが書かれた「タテカン」も数多く有ったが、

後は、入学したばかりの新入生を「勧誘」するための、夥しい数のビラが、校舎中の壁にビッシリと貼られていたのである。

大袈裟に言えば、「異世界」に来てしまったような気がしたものであるが、それだけ、当時の法政には活気が有ったという事であろう。

 

<1998(平成10)年6月25日…サザンオールスターズのデビュー20周年記念日に、サザンのベストアルバム『海のYeah!』リリース!!~「湘南」の申し子・サザンオールスターズの集大成>

 

 

 

1998(平成10)年6月25日、サザンオールスターズは、デビュー20周年記念日に、

ベストアルバム『海のYeah!』をリリースした。

『海のYeah!』は、『勝手にシンドバッド』『いとしのエリー』といった、サザン初期の名曲から、

当時の最新のヒット曲である『愛の言霊~Spiritual Message~』まで、サザン史を彩った名曲の数々を網羅した、

とても「お得」な内容のベスト盤であり、『海のYeah!』は300万枚を超える大ヒットを記録した。

それにしても、『海のYeah!』とは、「湘南」の申し子・サザンオールスターズらしいタイトルである。

 

<1998(平成10)年8月…横浜ベイスターズの応援サークルで、Aさんと出会う!!>

 

 

 

さて、1998(平成10)年に、大学生となった私は、私が大ファンである横浜ベイスターズの応援を、本格的に行ないたいと思い、

横浜ベイスターズの応援サークルに入る事にした。

当時、法政にはそのようなサークルは無かったので(※自分で作ろうとした事もあったが)、私は、そのようなサークルは無いものかと思い、色々な大学の学生が集まって作っているという、ベイスターズの応援サークルを探し、そのサークルに入った。

そこには、熱いベイスターズファンが沢山居り、私はは「世の中には、横浜ファンがこんなに沢山居たのか!」と、その事に、まず感動した。

当時、横浜ファンといえば、どちらかといえば「日陰の身」であり、それまで、私の周りには、横浜ファンという奇特な人種は居なかったのである。

何しろ、当時、横浜ベイスターズは、前身の大洋ホエールズが1960(昭和35)年に優勝して以来、38年も優勝から遠ざかっている球団であった。

そのため、横浜ファンといえば「変わり者」扱いをされていた時代だったのである。

 

 

私が、横浜ベイスターズ応援サークルに入ってから、暫く経った頃、

1998(平成10)年の夏に、横浜ベイスターズは、38年振りの優勝を目指し、首位を走っていたが、

その頃、横浜ベイスターズは、中日ドラゴンズと、激しい優勝争いを繰り広げていた。

1998(平成10)年8月、私がそのサークルでの、何度目かの野球観戦を行なった帰り、

横浜スタジアムの近くの、伊勢佐木町の居酒屋で、そのサークル恒例の、ベイスターズ戦の試合後の「飲み会」をやっていた時、私は初めてAさんに会った。

それまで、私が参加していた、何度かの試合観戦の時、Aさんは都合が付かなかったのか、野球観戦には来ていなかったのだが、

この時、私は初めてAさんにお会いしたのであった。

「お前か、今度入った新人は!?」

「はい、宜しくお願い致します!!」

私は、「先輩」であるAさんに、そんな風に挨拶をしたが、今から22年前のこの時、私はAさんと出会ったのである。

 

<1998(平成10)年…横浜ベイスターズ、悲願の38年振り優勝&日本一!!~栄光のシーズンに酔いしれた、私とAさん>

 

 

 

その後、横浜ベイスターズは、中日との優勝争いを制し、

1998(平成10)年10月8日、横浜ベイスターズは悲願の38年振りの優勝を達成したが、

勢いに乗ったベイスターズは、日本シリーズでも西武ライオンズを4勝2敗で破り、

横浜ベイスターズは、見事に38年振りの日本一をも達成してしまった。

まさに、横浜ベイスターズの「栄光の1年」だったが、そんな年に大学に入り、横浜ベイスターズの応援サークルに入って、

リアルタイムで、この優勝を経験出来た私は、大変ラッキーであった。

その間、私もAさんも、横浜ベイスターズの快進撃に、酔いしれていたのであった。

 

<1999(平成11)年…桑田佳祐と、Aさんの地元・茅ヶ崎が、「サザン通り」「サザンビーチ」と命名し、サザンを前面に押し出して「町おこし」を開始し、「茅ヶ崎」は「サザン一色」に!!>

 

 

 

 

横浜ベイスターズが、38年振りの栄光を掴んだ翌年、1999(平成11)年、

サザンオールスターズ桑田佳祐と、私の友人、Aさんの地元・「茅ヶ崎」が、大胆な「改革」を行なった。

「茅ヶ崎」は、サザンの桑田佳祐を生んだ街であるという事を、全面的にアピールするため、

「茅ヶ崎駅」の南口から、海水浴場に向かって続く道を「サザン通り」と改名し、

「サザン通り」を真っすぐ行った先に行き着く海水浴場を「サザンビーチ」(「サザンビーチちがさき」)と、これまた改名したのである。

 

 

 

 

 

JR東海道線「茅ヶ崎駅」には、東京駅から東海道線に乗り、約1時間ほどで到着するが、

「茅ヶ崎駅」の南口からは、海岸に向かって、「サザン通り」「高砂通り」「雄三通り」「一中通り」「ラチエン通り」など、いくつかの通りが延びているが、それらの通りの中で、一番西側に有る「サザン通り」には、「サザン通り商店街」が有り、サザンの名を冠したお店が立ち並ぶようになった。

「サザン通り」には、サザンの代表曲を冠した看板などもあり、「サザン通り」を歩けば、「ああ、ここはサザンの街なんだな」という事が、嫌でもよくわかるようになっている。

 

 

 

 

 

「サザン通り」を真っすぐ進み、徒歩20分ほどの距離で、海岸に行き着くのだが、

その海岸に有る海水浴場こそ、「サザンビーチ」(「サザンビーチちがさき」)である。

前回の記事でも書いたが、「ブラタモリ」「湘南」を特集した時、タモリ林田理沙アナウンサーも、ここを訪れているが、

「サザンビーチ」には、「茅ヶ崎」の「C」という形の、巨大なモニュメントが有り、今や「観光名所」になっている。

なお、「サザンビーチ」の沖合には、サザンの『チャコの海岸物語』にも登場する「エボシ岩」が有り、

「サザンビーチ」の左側の海の方向には、「江ノ島」が見える。

 

 

なお、「茅ヶ崎」が地元のAさんは、自分の地元が、急に「サザン通り」だの「サザンビーチ」だのと、

色々と名前を変えて行った事に、違和感が有ったようである。

「サザンビーチって、昔はどんな名前だったの?」と、Aさんに聞いたところ、「茅ヶ崎海水浴場」という、何の変哲も無い名前だったと、Aさんは言っていた。

ともあれ、「茅ヶ崎」は、長年活躍を続けるサザンオールスターズに敬意を表し(?)、サザンで「町おこし」をする方向に、舵を切ったという事であろう。

 

<1999(平成11)年12月31日~2000(平成12)年1月1日…横浜アリーナでのサザンの年越しライブ『晴れ着 DE ポン』で、『TSUNAMI』発披露を生で聴き、大感激!!~そして、桑田佳祐が「来年(2000年)は、海の見える所でライブをやりたい」と発言!!⇒茅ヶ崎市民が、サザンのライブ実現に向けて、立ち上がる>

 

 

 

1999(平成11)年12月31日~2000(平成12)年1月1日にかけて、サザンオールスターズは、

横浜アリーナで、恒例の年越しライブ「晴れ着 DE ポン」を行なったが、

この時、既にTBSの「ウンナンのホントコ!」の人気コーナー「未来日記」の中で、

テーマ曲として、既に流されていた、サザンオールスターズの新曲『TSUNAMI』が、ライブで初披露された。

この時、私も横浜アリーナで、『TUANAMI』発披露を生で聴いていたが、あまりの素晴らしさに、

「何て、凄い曲なんだ!!」と、大感激したのを、鮮明に覚えている。

そして、「久々に、サザンらしい、素晴らしい王道バラードだな」と、強く思ったものである。

 

 

 

 

この時の年越しライブのMCで、桑田佳祐は、ある重要な発言をしていた。

「来年(2000年)は、海の見える所でライブをやりたい」

桑田は、そのように言っていたが、この時、桑田は別に「茅ヶ崎」と名指しをしていたわけではなかった。

しかし、桑田の地元・茅ヶ崎では、「これは、きっと桑田さんが、サザンビーチでライブをやりたいという事を言っているに違いない!!」と、「勝手に」解釈した。

そして、この時から、茅ヶ崎市民は、サザンの「茅ヶ崎ライブ」開催実現に向けて、動き出す事となった。

 

<2000(平成12)年1月26日…サザンオールスターズ44枚目のシングル『TSUNAMI』がリリースされ、『TSUNAMI』はサザン史上最大の大ヒット(約290万枚)を記録!!>

 

 

 

 

2000(平成12)年1月26日、サザンオールスターズは、満を持して、通算44枚目のシングル『TSUNAMI』をリリースしたが、

『TSUNAMI』は、リリースされるや否や、その名バラードが多くの人の心を打ち、CDが飛ぶように売れて行った。

そして、『TSUNAMI』は、サザン史上最大となる、約290万枚超という、爆発的な大ヒットを記録したのである。

サザンは、デビュー22年にして、最大の「ホームラン」を飛ばしたのであった。

 

<2000(平成12)年初頭~茅ヶ崎市民が、サザンの「茅ヶ崎ライブ」実現に向けて、署名活動を行なう~そして、遂に2000(平成12)年8月に「茅ヶ崎公園野球場」で、サザンの「茅ヶ崎ライブ」開催が決定!!~「茅ヶ崎公園野球場」では、中学(茅ヶ崎一中)時代の桑田佳祐も、野球部の新人戦で、チームを優勝に導いた経験有り>

 

 

 

さてさて、サザンの『TSUNAMI』が、大ヒット街道を驀進していた頃、

2000(平成12)年初頭から、茅ヶ崎市民は、サザンの「茅ヶ崎ライブ」実現に向けて、署名活動を行なった(※写真は、後年に、茅ヶ崎市民が「茅ヶ崎駅」の発車ベルを、サザンの『希望の轍』にして欲しいという署名活動を行なっていた時のもの)。

そして、「サザンの街」茅ヶ崎の市民は、「茅ヶ崎ライブ」実現に向け、一致団結し、沢山の署名を集め、茅ヶ崎市長に提出した。

 

 

 

 

そして、茅ヶ崎市民の熱意は、行政側も動かし、

遂に、2000(平成12)年8月19~20日に、「茅ヶ崎公園野球場」で、サザンの「茅ヶ崎ライブ」が開催される事が決まった。

なお、この「茅ヶ崎公園野球場」は、「茅ヶ崎駅」南口から延びている「高砂通り」(※「サザン通り」から見ると、一つ隣の東側の通り)を南下し、「サザンビーチ」に突き当たる所の、向かって右側に有る球場であり、茅ヶ崎市民の憩いの場になっている。

 

 

なお、この「茅ヶ崎公園野球場」は、かつて、中学(茅ヶ崎一中)時代の桑田佳祐少年が、

野球部の投手として、新人戦に出場し、見事にチームを優勝に導いたという経験が有った、桑田にとっても思い出深き球場であった。

まさか、その「茅ヶ崎公園野球場」で、はるか後年にサザンオールスターズのライブが開催されるとは、桑田少年も思いもよらない事であった。

 

<2000(平成12)年…法政大学に、超高層建築「ボアソナードタワー」誕生&2000(平成12)年春に法政野球部が優勝>

 

 

サザンの『TSUNAMI』が大ヒットしていた頃、私が通う法政大学に、

法政の創立時の功労者・ボアソナード博士の名を冠した、「ボアソナードタワー」という、超高層建築が完成した。

それまで、良く言えば「味が有る」、悪く言えば「ボロい」校舎というイメージが有った法政であるが、

「ボアソナードタワー」完成を機に、法政は、それまでとは180度違う、「お洒落で小綺麗な」大学というイメージを前面に押し出すようになった。

ちょうど、茅ヶ崎が「サザンの街」として、イメチェンを図ったのと、同じ発想(?)である。

 

 

その頃、2000(平成12)年春に、法政野球部が優勝し、私も「優勝パレード」に参加したが、

私が在学していた頃に、法政もすっかりイメージが変わってしまったものの、

相変わらず「法政といえば、野球が強い大学」という、世間のイメージどおりに、法政野球部は、とても強かった。

私も、「野球が強くなければ、法政じゃない」と思っていたものである。

 

<2000(平成12)年7月19日…サザンオールスターズ45枚目のシングル『HOTEL PACIFIC』が大ヒット!!~「茅ヶ崎ライブ」の「前祝い」に、「茅ヶ崎」の伝説の「パシフィック・ホテル」が平成の世に蘇る>

 

 

 

2000(平成12)年7月19日、サザンオールスターズは、通算45枚目のシングル『HOTEL PACIFIC』をリリースした。

『HOTEL PACIFIC』は、『TSUNAMI』という大ヒット曲の後にリリースされたが、この年(2000年)のサザンの勢いは凄まじく、『HOTEL PACIFIC』も、『TSUNAMI』に引き続き、大ヒットとなった。

 

 

 

なお、前回の記事で、『夏をあきらめて』の箇所でも書いたが、

「パシフィック・ホテル」は、かつて、上原謙・加山雄三の親子が、彼らの出身地である茅ヶ崎で経営していた、高級ホテルであるが、開業当初は、華やかに賑わっていたものの、その後は経営不振に陥り、「廃墟」のようになってしまった。

『HOTEL PACIFIC』は、その「パシフィック・ホテル」への郷愁を、楽曲にしたものであるが、曲調は、サザンお得意のラテン歌謡であり、ノリノリのロック・ナンバーである。

 

 

 

なお、この曲のCMでは、桑田佳祐が、かつて「Oh!モーレツ」というフレーズで一世を風靡した、

小川ローザ風の衣装を着て、桑田が「Oh!モーレツ」と言う、何とも強烈なインパクトが有るものであった。

こうして、大ヒットを連発したサザンのメンバー達は、「茅ヶ崎ライブ」に向けて、いよいよ気持ちを高めて行った。

 

<2000(平成12)夏…サザン「茅ヶ崎ライブ」のチケットが当選し、Aさんをライブに誘い、一緒に見に行く事に>

 

 

当時、私はサザンのファンクラブに入っていたが、2000(平成12)年夏、私はサザンの「茅ヶ崎ライブ」のチケットが当選し、私は、2000(平成12)年8月19~20日の「茅ヶ崎ライブ」の二日目に、見に行く事になった。

私は「茅ヶ崎」在住のAさんをお誘いしたところ、「勿論、行く」という返事を貰った。

こうして、大のサザンファンである私と、地元「茅ヶ崎」にサザンがやって来るという事で興味津々のAさんが、一緒に「茅ヶ崎ライブ」に行く事となった。

 

<2000(平成12)年8月18日(金)…「茅ヶ崎ライブ」の「ゲネプロ」(本番前の、通しリハーサル)に、抽選で当選した茅ヶ崎市民が招待される>

 

 

「茅ヶ崎ライブ」の日程は、2000(平成12)年8月19~20日の2日間だったが、

そのライブに先立ち、ライブ開催前日の8月18日、サザンは会場である「茅ヶ崎公園野球場」で、

「ゲネプロ」(本番前の、通しリハーサル)を行なった。

そして、この「ゲネプロ」に、サザンは抽選で当選した茅ヶ崎市民を、無料招待したのである。

普通、リハーサルに観客を入れる事は無いが、サザンは、このライブを実現させてくれた茅ヶ崎市民に対する、御礼の気持ちを込めたという事であろう。

 

<2000(平成12)年8月19日(土)…遂に、サザンオールスターズ「茅ヶ崎ライブ」開幕!!>

 

 

2000(平成12)年8月19日(土)、遂に待望の、サザンオールスターズ「茅ヶ崎ライブ」が開幕した。

「茅ヶ崎公園野球場」は、日本全国から集まったサザンファンで埋め尽くされたが、

あの1981(昭和56)年7月4日の「茅ヶ崎市民文化会館」でのライブ以来、19年振りの、サザン「茅ヶ崎ライブ」が実現したのである。

この時も、大盛り上がりだったようであるが、この日には、私は行っていない。

その頃、私は翌日(8月20日)の「茅ヶ崎ライブ」を前にして、とてもワクワクドキドキしていた。

 

<2000(平成12)年8月20日(日)…私とAさんで、サザンオールスターズ「茅ヶ崎ライブ」に「参戦」!!~WOWOWで生中継され、「開会宣言」で福山雅治が登場~加山雄三、明石家さんまもVTRで登場し、お祭り騒ぎに~サザンの名曲の連続に、感激しっぱなしだった、「真夏の夜の夢」>

 

 

 

 

2000(平成12)年8月20日、私とAさんは、遂に「茅ヶ崎ライブ」を見に行く日を迎えた。

Aさんにとって、「茅ヶ崎公園野球場」は、庭みたいなものであり、私はAさんに案内してもらい、現地に向かった。

そして、この日の「茅ヶ崎ライブ」は、WOWOWで生中継されていたが、サザンの事務所(アミューズ)の後輩・福山雅治「開会宣言」を行なうという「演出」が有り、

超満員の観客で埋め尽くされた会場は、一気に盛り上がった。

 

 

 

 

 

そして、サザンオールスターズの6人が登場し、いよいよ「茅ヶ崎ライブ」2日目が始まった。

実は、桑田佳祐は、事前に「1曲目は、イニシャル『K』の曲です」と予告していたため、

私は「1曲目から、勝手にシンドバッドを歌のかな?」と思っていたが、

私の予想に反して、1曲目は『希望の轍』であった。

名曲『希望の轍』を皮切りに、後はもうサザンの名曲の数々が、怒涛のように続き、私もAさんも、圧倒されっぱなしであった。

なお、桑田佳祐は、曲の途中で、何度か「ジャイアンツ優勝おめでとう」などと言っていたが、

当時、長嶋巨人が首位を独走し、優勝間違い無しという勢いで突っ走っていたという事に言及した形となった。

ちなみに、サザンのドラム・松田弘は熱狂的な巨人ファンだが、桑田佳祐はアンチ巨人との事である。

 

 

また、ライブの途中、サザンや桑田佳祐とゆかりの有る人達も、VTRで登場したが、

加山雄三「茅ヶ崎ライブ開催、おめでとう!」「それから、『HOTEL PACIFIC』大ヒット、おめでとう!!」と、メッセージを送ったが、

「まあ、あのホテルには、色々と苦い思い出も有るけれども…」と言って、会場の観客を笑わせた。

 

 

明石家さんまも、「ダメダメボーイズ」を引き連れて、VTRで登場し、

「おい、桑田佳祐、CDウォークマン1個で、俺を『KAMAKURA』のCMに使ったら、ダメダメ!!」

というコメントを言って、これまた、会場を沸かせた。

 

 

1985(昭和60)年、サザンのアルバム『KAMAKURA』のCMに、当時、人気絶頂だった、明石家さんまが起用されたが、

その「ギャラ」は、「CDウォークマン1個」だったという事を、明石家さんまは、根に持っている(?)ようであった。

その明石家さんまが、「その時、僕がCMで口パクで歌っていた曲が、これです」と言って、サザンの『MELODY』の曲紹介を行なっていた。

 

 

 

 

桑田佳祐は、その後、MCで「福山の『桜坂』は、私が作って、福山にFAXで送ってやったんですよ!」「あいつに、あんな良い曲が作れるわけないって!!」という事を言って、観客を笑わせたり(※逆に言えば、それだけ桑田も、『桜坂』は名曲だと認めているという事であろう)、

『愛の言霊~Sporitual Message~』では、茅ヶ崎名物の「浜降祭」の神輿が登場したり、名曲『真夏の果実』を聴いて、思わず私も胸がいっぱいになり、涙ぐんでしまったりと(※隣に居たAさんに気付かれないよう(?)、必死に涙を堪えたが)、とにかく「茅ヶ崎ライブ」は本当に素晴らしく、あれから20年経った今も、未だに胸に残っている。

最後の曲『心を込めて花束を』の演奏が終わった時、原由子は感極まって涙を流し、最後の挨拶で、ギターの大森隆志は、桑田佳祐の事を「茅ヶ崎が生んだ、世界の宝物、桑田佳祐!!」と紹介し、桑田がサザンやスタッフ達に胴上げされるという「サプライズ」も有ったが、私も、ただひたすら、感激しっぱなしであった。

そして、「茅ヶ崎ライブ」を一緒に見に行ったAさんも、大満足のようであった。

こうして、「茅ヶ崎ライブ」という「真夏の夜の夢」は、幕を閉じたのであった。

 

【サザンオールスターズ「茅ヶ崎ライブ~あなただけの茅ヶ崎」】

期間:2000.8.19~2000.8.20

公演数:全2本

動員数:44000人

 

01. 希望の轍
02. いなせなロコモーション
03. みんなのうた
04. 茅ヶ崎に背を向けて
05. YOU
06. 海
07. 涙のキッス
08. 夏をあきらめて
09. C調言葉に御用心
10. チャコの海岸物語
11. 思い過ごしも恋のうち
12. 気分しだいで責めないで
13. 勝手にシンドバッド
14. 鎌倉物語
15. NO-NO-YEAH/GO-GO-YEAH
16. 爆笑アイランド
17. イエローマン ~星の王子様~
18. 虫歯のブルース~インディアン狂想曲[MEDLEY]
19. 通りゃんせ
20. 愛の言霊~Spiritual Message
21. メロディ(Melody)
22. 冷たい夏
23. SEA SIDE WOMAN BLUES
24. ラチエン通りのシスター
25. 真夏の果実
26. TSUNAMI
27. HOTEL PACIFIC
28. ミス・ブランニュー・デイ(MISS BRAND-NEW DAY)
29. マチルダBABY
30. フリフリ'65
31. ボディ・スペシャルⅡ(BODY SPECIAL)
32. マンピーのG★SPOT
E1. LOVE AFFAIR~秘密のデート
E2. 夕方Hold On Me
E3. いとしのエリー
E4. 心を込めて花束を

 

2000.8.19/茅ヶ崎総合公園野球場
2000.8.20/茅ヶ崎総合公園野球場

備考初日前日には住民と応援団員を対象に公開ゲネプロを開催

 

<「余談」①~桑田佳祐の「予言」どおり、長嶋巨人が優勝し、日本シリーズでの「長嶋巨人VS王ダイエー」の「ON対決」で、長嶋巨人が王ダイエーを4勝2敗で破り、日本一>

 

 

 

さて、「茅ヶ崎ライブ」で桑田佳祐が「ジャイアンツ優勝おめでとう」と「予言」していた通り、

2000(平成12)年のプロ野球は、セ・リーグは長嶋巨人がぶっちぎりで優勝し、

パ・リーグは、王ダイエーが、西武との激闘を制して優勝し、リーグ2連覇を達成した。

その結果、日本シリーズは、「長嶋巨人VS王ダイエー」の「ON対決」が実現した。

そして、「ON対決」は、長嶋巨人が王ダイエーを4勝2敗で破り、長嶋巨人が日本一になった。

 

<「余談」②~2000(平成12)年12月31日…サザンオールスターズが『TSUNAMI』で「第42回 日本レコード大賞」を受賞!!>

 

 

 

2000(平成12)年12月31日、サザンオールスターズは、『TSUNAMI』で「第42回 日本レコード大賞」を受賞し、サザンは、2000(平成12)年の「ゴールデン・イヤー」を締めくくった。

まさに、2000(平成12)年はサザンに始まり、サザンに終わった年であり、「茅ヶ崎ライブ」は、その象徴であった。