本日(8/9)は、1987(昭和62)年8月9日、当時、中日ドラゴンズに入団1年目の新人・近藤真一が、
「プロ初登板でノーヒット・ノーラン」を達成した日である。
近藤真一、当時18歳11ヶ月での、衝撃のデビューであった。
2020(令和2)年8月9日、現在、プロ野球史上、ノーヒット・ノーランは、
レギュラーシーズンで81人が計92回(3回達成が2人、2回達成が7人)達成、、ポストシーズンでは1人が達成、完全試合は、レギュラーシーズンで15回達成されているが、プロ初登板、つまりデビュー戦でノーヒット・ノーランを達成したのは、後にも先にも近藤真一(中日)、ただ1人である。
では、如何にして近藤真一が、この快挙を達成したのかについて、振り返ってみる事としたい。
<1986(昭和61)年、近藤真一(享栄)、春夏連続で甲子園に出場、プロ野球のスカウト陣から「10年に1人の逸材」と、注目を集める>
近藤真一(こんどう・しんいち)は、1968(昭和43)年9月8日、愛知県一宮市に生まれた。
左利きだった近藤真一は、幼少の頃から投手として、抜群の才能を発揮し、
地元の名門・享栄高校に進学した近藤真一は、1986(昭和61)年に、享栄のエースとして、春夏連続で享栄を甲子園出場に導いた。
当時、近藤真一は「10年に1人の逸材」として、プロ野球のスカウト陣の熱い注目を集めていた。
<1986(昭和61)年秋のドラフト会議で、5球団強豪の末、星野仙一監督(中日)が近藤真一の交渉権を引き当てる!!~近藤真一、相思相愛で、地元・中日ドラゴンズにドラフト1位で入団>
1986(昭和61)年秋のドラフト会議で、近藤真一は、この年(1986年)のドラフト一番の注目株と目されていたが、
近藤真一には、5球団がドラフト1位で競合するという人気ぶりであった。
そして、抽選の結果、中日ドラゴンズの新監督に就任していたばかりの星野仙一が、見事に近藤真一の交渉権を引き当てた。
近藤真一も、地元の中日に入団する事を希望しており、星野監督が交渉権を引き当ててくれた事を知ると、
近藤は、満面の笑みを浮かべ、報道陣に向かってガッツポーズした。
こうして、まさに「相思相愛」で、地元の中日ドラゴンズにドラフト1位で入団した近藤真一は、
背番号「13」を背負い、中日ドラゴンズ関係者や、中日ファンの大きな期待を集めていた。
「未来の中日のエースが入団した」
と、当時の球団関係者やファンは皆、思っていた筈である。
<キャンプ、オープン戦を順調に過ごした、期待の新人・近藤真一、夏場の8月7日に一軍昇格>
1987(昭和62)年、中日に入団した、期待の新人・近藤真一は、キャンプ、オープン戦を順調に過ごした。
その後、開幕後は2軍で過ごしていたが、2軍でも順調な仕上がりを見せていた。
そして、1987(昭和62)年の夏場、8月9日に、近藤は遂に一軍に昇格した。
当時、中日は首位を走る巨人と優勝争いを繰り広げており、しかも、投手が底をついていた。
そこで、星野監督は、ルーキーの近藤に期待をかけ、満を持して近藤を一軍に上げたのである。
<1987(昭和62)年8月9日…ナゴヤ球場での中日-巨人戦の試合直前、星野監督が近藤真一に、先発登板を告げる~偶然(?)、この試合を近藤の母親が観戦>
1987(昭和62)年8月9日、この日はナゴヤ球場で、中日-巨人戦が行われる日であった。
8月7日から、ナゴヤ球場で中日-巨人の3連戦が行われており、中日が1勝1分で迎えた、3戦目である。
この日(1987/8/9)の試合直前、星野監督は近藤に対し、
「今日、お前が投げろ。お前が先発だ」
と、いきなり近藤にプロ初登板、しかもプロ初先発させる事を告げた。
「えっ!?」
投げるとしても、何処かでリリーフとして登板するのかと思っていた近藤は、
いきなり先発する事を告げられ、驚いたが、
やがて近藤は「よーし、やってやろう!!」と、気持ちを奮い立たせた。
そして、偶然というか、実はこの試合を観戦するため、近藤の母親がナゴヤ球場に来ていた。
「もしかしたら、真一が投げるかもしれない」
という予感が有ったというが、近藤はプロデビュー戦の晴れ姿を母親に見せるという事でも、燃えていた。
しかも、相手は首位を走る巨人である。まさに、相手にとって、不足無し!!
試合前から、近藤は武者震いしていた。
<1987(昭和62)年8月9日の中日-巨人戦①~プロ初登板の近藤真一、1回表を三者凡退に抑える、上々の立ち上がり>
1回表、近藤真一は、緊張のプロ初マウンドに上ったが、
近藤は、1回表の巨人の攻撃を、まずは簡単に三者凡退に切って取った。
当初、流石に近藤も舞い上がっていたというが、上々の立ち上がりで、近藤は落ち着きを取り戻した。
以後、近藤はスイスイと気持ち良さそうに投げ続けた。
なお、巨人の王貞治監督は、恐らく近藤の登板は予想しておらず、先発メンバーには左打者が6人も並んでいた。
つまり、星野仙一監督は、完全に王監督の裏をかいたわけであるが、近藤も、まずは星野監督の期待に応え、初回を無事に切り抜けた。
<1987(昭和62)年8月9日の中日-巨人戦②~1回裏、ゲーリーの先制打、落合博満の23号2ランホームランで、中日が3点を先取~初回に近藤に援護点をプレゼント>
1回裏、中日は巨人の先発・宮本和知の立ち上がりを捉え、
中日は3番・ゲーリーのタイムリーで1点を先取すると、4番・落合博満にも23号2ランホームランが飛び出し、中日が、初回に3点を先取した。
プロ初登板の近藤にとっては、大きな大きな援護点である。
この3点選手は、近藤に大きな勇気を与えた。
<1987(昭和62)年8月9日の中日-巨人戦③~快調にノーヒット・ピッチングを続ける近藤真一、5回には「ノーヒット・ノーラン」を意識~「やってやろうと思った」と、後に振り返る>
近藤真一は、立ち上がりから快調なピッチングで、飛ばしに飛ばしまくった。
巨人打線は、近藤を打ち崩す事が出来ず、気が付けば、5回表を終わって、巨人打線は、まだノーヒットであった。
近藤は、後にこの時の事を振り返り、5回を終わってノーヒット・ピッチングだった事を受け、
「(ノーヒット・ノーランを)やってやろうと思った」
と、早くもノーヒット・ノーランを意識していたと、ハッキリと明言した。
それだけ、この時の近藤は絶好調であり、巨人打線は近藤に対し、手も足も出ないといった状態であった。
<1987(昭和62)年8月9日の中日-巨人戦④~5回裏、中日が落合博満の24号2ランなどで3点を追加~中日が6-0とリードを広げ、中日が勝利を大きく手繰り寄せる>
5回裏、中日は落合博満が、この試合、2本目となる24号2ランホームランを放った。
中日は、この回、落合の2ランなどで3点を追加し、中日が6-0と大きくリードを広げ、中日が勝利を大きく手繰り寄せた。
近藤にとっては、これ以上ない展開である。
この後、近藤は大記録達成に向け、更にエンジンを加速させて行く。
<1987(昭和62)年8月9日の中日-巨人戦⑤~近藤真一、遂に8回まで巨人をノーヒットに抑える!!~超満員のナゴヤ球場の観客席が、大きくどよめく>
近藤真一は、この後も快調な投球を続けた。
近藤は、6回表、7回表も巨人打線にヒットを許さず、
8回表も、近藤は巨人打線をノーヒットに抑え込んだ。
これで、遂に近藤は8回まで、巨人打線をノーヒットに抑えたのである。
ここで、超満員のナゴヤ球場の観客席は、大きくどよめいた。
「近藤、ノーヒットノーランをやるんじゃないか!?」
この時、ナゴヤ球場だけではなく、当時、人気絶頂だった、巨人戦のテレビ中継を見守る視聴者達も、
固唾を飲んで、近藤のピッチングを見守っていた。
あとは9回表、1イニングを残すのみである。
<1987(昭和62)年8月9日の中日-巨人戦⑥~9回表、近藤真一が最後の打者・篠塚利夫を見逃し三振に切って取り、遂に近藤真一が「プロ初登板ノーヒット・ノーラン」達成!!>
中日が6-0と大きくリードして迎えた9回表、ナゴヤ球場は異様な雰囲気に包まれていた。
試合の行方は、ほぼ決しており、後の見所は、近藤真一が本当にノーヒット・ノーランをやってしまうのかどうか、である。
ナゴヤ球場を埋め尽くした中日ファンは、近藤が1球投げる度に、大歓声を上げたが、
マウンド上の近藤は、特に表情を変える事なく、淡々と投げ続けた。
そして、近藤は代打・仁村薫(1番)、鴻野淳基(2番)を難なく打ち取り、2アウトを取った。
遂に、9回2アウト!!
近藤真一のノーヒット・ノーラン達成まで、あとアウト1つである。
そして9回表2死、巨人最後の打者は、好打者・篠塚利夫である。
篠塚は、簡単に打ち取れるような打者ではなく、まさに近藤にとっては最後の難関であった。
しかし、近藤はここでも落ち着いており、近藤は篠塚を2ストライクに追い込むと、
最後は、近藤は外角に大きく落ちるカーブを投げ、これを篠塚が見逃すと、判定はストライク!!
この瞬間、近藤真一は「プロ野球史上初の、プロ初登板ノーヒット・ノーラン」という、歴史的な大快挙を達成した。
近藤真一の「プロ初登板ノーヒット・ノーラン」が達成された瞬間、
ナゴヤ球場では、凄まじい大歓声が巻き起こった。
中日ファンは皆、狂ったように大喜びしたが、マウンド上の近藤も大きくガッツポーズし、
そして、近藤の元に、中日ナインが一斉に駆け寄った。
試合後、星野監督は、近藤を満面の笑みで出迎えたが、マスコミは近藤真一の「プロ初登板でノーヒット・ノーラン」という衝撃のデビューを、大きく報じた。
近藤真一は、この時点でプロ野球史上56人目というノーヒット・ノーラン達成であったが、
今に至るまで、「プロ初登板ノーヒット・ノーラン」というのは、後にも先にも、近藤真一ただ1人である。
近藤真一の、この試合の投球内容は、全116球を投げて、バットに当てられたのは33度、13奪三振を記録したが、
ボール球も多く、8番・山倉和博には2四球を与えている。
その他、内野ゴロ7、内野フライ2、外野フライ5、2四球、1失策の他は、完璧に抑え込んでいる。
巨人打線は、結局、終わってみれば、近藤の荒れ球に手こずり、最後まで、近藤の投球に的を絞る事が出来なかった、という事であろう。
<その後の近藤真一…プロ1年目(1987年)に4勝5敗、プロ2年目(1988年)に8勝7敗を記録するも、その後は左肘を故障し、「トミー・ジョン手術」を受けるも、プロ3年目(1989年)以降は、未勝利に終わり、1994(平成6)年に現役引退~「太く短く」輝いた、近藤真一>
その後の近藤真一であるが、プロ1年目(1987年)は、プロ初登板から3戦3勝を記録するなど、4勝5敗 防御率4.45、プロ2年目(1988年)は開幕7連勝を記録するなど、8勝7敗 防御率3.44という成績を残した。
近藤は、その後は肘の故障に苦しみ、「トミー・ジョン手術」を受けるなど、復活を期したが、結局、プロ3年目(1993年)以降は、未勝利に終わった。
そして、近藤真一は1994(平成6)年限りで現役引退した(通算52試合 12勝17敗 防御率3.90)。
近藤真一は、故障もあって、長くは活躍出来なかったが、「プロ初登板ノーヒット・ノーラン」と、プロ1~2年目の強烈な輝きにより、
今もなお、多くの人々の記憶に強烈に残る投手であった。
まさに、近藤は「太く短く」輝いた選手だったが、この先、「プロ初登板ノーヒット・ノーラン」という、とんでもない事をやってのける投手は、果たして現れるのであろうか。
今日(2020/8/9)で、近藤真一の快挙から33年が経ったが、未だに近藤に次ぐ達成者は現れていない。
という事で、近藤真一の「プロ初登板ノーヒット・ノーラン」の快挙を、改めて称えさせて頂きたい。