1915(大正4)年、大阪朝日新聞が主催で、「第1回全国中等学校優勝野球大会」が開催される事となった。
そして、日本全国各地で、地区大会や予選が行われ、その結果、各地を勝ち抜いた10校が、「第1回全国中等学校優勝野球大会」の代表校となった。
いよいよ、中等野球の全国大会が、幕を開けようとしていた。
というわけで、今回はいよいよ、「第1回全国中等学校優勝野球大会」の本大会の模様について、描いてみる事としたい。
そして、本日(8/10)は、本来は今年(2020年)の「春のセンバツ」に出場する筈だった代表校が、甲子園で試合をする「交流試合」開幕の日である。
そんな時に、「甲子園」の原点となった「第1回全国中等学校優勝野球大会」とは、どんな大会だったのかを振り返ってみるという事であるが、
それでは早速、今から105年前の大阪・豊中球場に、スポットを当ててみる事としたい。
<1915(大正4)年…「第1回全国中等学校優勝野球大会」の出場校「10校」と、大阪朝日新聞による、「野球解説」の告知>
1915(大正4)年8月17日、「第1回全国中等学校優勝野球大会」の開幕を翌日に控え、
主催者である大阪朝日新聞は、大会の宣伝も兼ねて、「野球解説」に関する記事を載せた。
当時は、野球という競技のルールを知らない人も多く、大阪朝日新聞としては、
「野球とは、こういう競技ですよ」
という事を、わかりやすく「解説」し、多くの人達に、野球を楽しんでもらおうという意図が有ったようである。
では、「第1回全国中等学校優勝野球大会」の代表校10校を、改めて、ご紹介しておく事とする。
代表校は、下記の通りである。
東北地区…秋田中(現・秋田高)
関東地区…早稲田実業
東海地区…山田中(現・宇治山田高)
京津地区…京都二中(現・鳥羽高)
兵庫県…神戸二中(現・兵庫高)
関西地区…和歌山中(現・桐蔭高)
山陰地区…鳥取中(現・鳥取西高)
山陽地区…広島中(現・広島国泰寺高)
四国地区…高松中(現・高松高)
九州地区…久留米商
各校が、如何にして地区大会を勝ち抜いて来たのかは、前回の記事で書いた。
この10校が、大阪・豊中球場に集まり、いよいよ全国大会が始まるのである。
各校とも、勿論「日本一」を目指し、豊中球場にやって来ていた。
さあ、注目の大会の行方や、如何に!?
<1915(大正4)年8月18日…「第1回全国中等学校優勝野球大会」開幕(開幕試合は「鳥取中-広島中」)に先立ち、大阪朝日新聞社長・村山龍平が「始球式」を行なう>
1915(大正4)年8月18日、いよいよ「第1回全国中等学校優勝野球大会」の開幕の日がやって来た。
試合会場である、大阪・豊中球場には、続々と観客が詰めかけ、注目度の高さを伺わせた。
記念すべき開幕試合は、「鳥取中-広島中」という組み合わせだったが、
その開幕試合に先立ち、大阪朝日新聞社長・村山龍平の「始球式」が行われた。
村山龍平の傍らには、鳥取中・鹿田一郎投手が立っていたが、この鹿田一郎こそが、
その後の長い長い「甲子園」の歴史の幕開けを告げる、第1球を投じる投手である。
いよいよ、「夏の甲子園」の歴史が始まる、プレーボールの時を迎えた。
<1915(大正4)年8月18日「第1回全国中等学校優勝野球大会」が、「鳥取中-広島中」で開幕!!~開幕試合は「鳥取中14-7広島中」で、鳥取中が初戦突破!!~試合前の、ホームベースを挟んでの両チームの「挨拶」も取り入れられる>
1915(大正4)年8月18日、午前8時30分、いよいよ「第1回全国中等学校優勝野球大会」の火蓋が、切って落とされた。
前述の通り、記念すべき開幕試合は「鳥取中-広島中」の対決である。
試合に先立ち、両チームがホームベースを挟んで挨拶するという形式も、この時から取り入れられている。
これは、先年の「野球害毒論」に鑑みて、「中等野球は、礼に始まり、礼に終わる」というのを、強調する狙いが有ったという。
この両チームによる「挨拶」は、105年経った今でも、厳格に守られているというのは、皆様もご存知の通りである。
というわけで、鳥取中、広島中の両チームによる挨拶も終わり、遂に試合が始まった。
鳥取中のエース・鹿田一郎が、記念すべき第1球を投じた時、今に続く「甲子園」の歴史も幕を開けたのであった。
「鳥取中-広島中」の開幕試合は、激しい点の取り合いになったが、
大乱戦の末、鳥取中が広島中を14-7で破り、鳥取中が見事に初戦突破を果たした。
中国地方の学校同士の対決となった、記念すべき「開幕試合」は、こうして鳥取中に凱歌が上がり、広島中は健闘空しく敗れ、初戦で姿を消す事となった。
以後、105年間、広島中(現・広島国泰寺高)は、「甲子園」の舞台には帰って来ていない。
次は、いつ帰って来られるであろうか。
<1915(大正4)年8月18日(大会第1日)…準々決勝「京都二中-高松中」、「早稲田実業-神戸二中」が行われ、「京都二中15-0高松中」、「早稲田実業2-0神戸二中」で、それぞれ京都二中、早稲田実業が、初戦突破!!>
8月18日(大会第1日)は、「鳥取中-広島中」が「1回戦」で、
組み合わせの関係上、初戦から「準々決勝」として、「京都二中-高松中」、「早稲田実業-神戸二中」という対戦も行なわれた。
そして、優勝候補筆頭と目されていた京都二中が、高松中に15-0で大勝し、まずは京都二中が順調に初戦を突破した。
京都二中は、これで準決勝進出、一番乗りである。
準々決勝の第2試合、「早稲田実業-神戸二中」は、地元・神戸二中が大きな期待を集めていたが、
試合は投手戦の末、早稲田実業が2-0で神戸二中を破り、早稲田実業が初戦を突破し、早稲田実業が準決勝進出を果たした。
一方、神戸二中は、エース・今村幡象投手が健闘したが、健闘空しく、惜しくも早実の前に、涙を呑んだ。
<1915(大正4)年8月19日(大会第2日)…1回戦「和歌山中-久留米商」、準々決勝「秋田中-山田中」の対戦が行われ、「和歌山中15-2久留米商」、「秋田中9-1山田中」で、和歌山中、秋田中が初戦突破!!>
1915(大正4)年8月19日、「第1回全国中等学校優勝野球大会」の「大会第2日」は、
1回戦「和歌山中-久留米商」、準々決勝「秋田中-山田中」の対戦が行われた。
和歌山中は、京都二中と共に、優勝候補の一角と見られており、大会前夜には、大々的に激励会も行われていたが、
和歌山中が、前評判どおりの力を発揮し、和歌山中が15-2で久留米商を破り、和歌山中が順当に初戦を突破した。
九州地区の超過密日程を勝ち抜いて来た久留米商は、初戦で姿を消したが、久留米商が、この後、「夏の甲子園」に帰って来るのは、これから47年後の1962(昭和37)年である(※その間、久留米商は、1956(昭和31)年春、1957(昭和32)年春、1959(昭和34)年春に、センバツ出場)。
8月19日の「大会第2日」に行われた、もう1試合は、準々決勝の「秋田中-山田中」という対戦だったが、
秋田中が強さを発揮し、秋田中が9-1で山田中に大勝した。
流石は、東北地区大会(※実質的には、秋田大会)を圧倒的な強さで勝ち上がって来た秋田中であるが、秋田中は、この後も更に「旋風」を巻き起こして行く事となる。
一方、山田中は、大方の予想を覆し、全国大会に駒を進めて来たが、無念の初戦敗退となった。
山田中(現・宇治山田高)も、初戦敗退した広島中(現・広島国泰寺高)と同様、この時以来、105年間、「甲子園」からは遠ざかっている。
というわけで、この両校が、いつの日か、全国大会の晴れ舞台に戻って来られる事を、私も期待したい。
<1915(大正4)年8月20日(大会第3日)…準々決勝「和歌山中-鳥取中」、準決勝「秋田中-早稲田実業」が行われ、「和歌山中7-1鳥取中」、「秋田中3-1早稲田実業」で、和歌山中が準決勝、秋田中が決勝に、それぞれ進出!!~秋田中の「快進撃」に、豊中球場が沸き返る!!>
1915(大正4)年8月20日、「第1回全国中等学校優勝野球大会」の「大会第3日」は、
準々決勝「和歌山中-鳥取中」、準決勝「秋田中-早稲田実業」という対戦が、それぞれ行われた。
準々決勝の「和歌山中-鳥取中」は、和歌山中の投打がガッチリと噛み合い、和歌山中が7-1で鳥取中に快勝した。
これで、和歌山中は準決勝に進出したが、準決勝で和歌山中は京都二中と激突する事が決まった。
「和歌山中-京都二中」という、優勝候補同士の激突、果たして、どうなるであろうか!?
8月20日の「大会第3日」の、もう1試合は、準決勝「秋田中-早稲田実業」という対決である。
秋田中は、初戦(準々決勝)で山田中を9-1で破り、準決勝に駒を進めていたが、
豊中球場のスタンドには、秋田中を応援しようと、手に手に「OU」(※「奥羽」を意味する)の小旗を持った沢山のファンが駆け付けていた。
一方、東京代表の早稲田実業(早実)も、当時、中等野球界きってのバッテリーと称されていた、臼井林太郎-岡田源三郎のバッテリーを擁し、優勝候補の一角であり、「秋田中-早稲田実業」は、試合前から大きな注目を集めていた。
試合前の下馬評では、早稲田実業が有利だと思われていた。
東北大会を勝ち抜き、全国大会で初戦を突破したとはいえ、秋田中は「所詮は田舎チーム」であり、秋田中が早実に勝つと思っている人は、少なかった。
ところが、秋田中のエース・長崎広が好投を見せ、何と、秋田中が早稲田実業(早実)を3-1で破り、秋田中が決勝進出を果たしてしまったのである。
秋田中の勝利が決まった瞬間、豊中球場のスタンドを埋め尽くしたファンは大喜びし、試合後、ファンが殊勲者の長崎広を胴上げしてしまったほどであった。
東北代表の秋田中、優勝候補の早実を破り、遂に「全国制覇」へ王手!!
果たして、秋田中は深紅の大優勝旗を手にする事が出来るであろうか!?
<「京都二中VS和歌山中」の死闘・第1ラウンド~1915(大正4)年8月21日(大会第4日)、「京都二中-和歌山中」の準決勝は「1-1」で9回裏降雨コールドで引き分け~「京都二中-和歌山中」は、翌日(8月22日)に「再試合」が行われる事に決定>
1915(大正4)年8月21日、「第1回全国中等学校優勝野球大会」の「大会第4日」、
「京都二中-和歌山中」という、優勝候補同士が激突した準決勝は、死闘になった。
京都二中・藤田元、和歌山中・戸田省三という、両エースの投げ合いで、
和歌山中、京都二中が、2回表裏に1点ずつを取り合った後は、両チームとも、なかなか得点を奪えず、
1-1の同点で迎えた9回裏、京都二中の攻撃中、1死1塁という場面で、試合中から降り続いていた雨が激しくなり、
結局、試合はそのまま1-1のスコアで、降雨コールドで引き分けに終わった。
この結果、「京都二中-和歌山中」の準決勝は、翌8月22日に「再試合」が行われる事となった。
<「京都二中VS和歌山中」の死闘・第2ラウンド~1915(大正4)年8月22日(大会第5日)、「京都二中-和歌山中」の「準決勝・再試合」は、京都二中が9-5で和歌山中を破り、京都二中が決勝進出!!>
1915(大正4)年8月22日、前日(8月21日)の降雨コールド引き分けの後を受け、
「京都二中-和歌山中」の「準決勝・再試合」が行われたが、
前日とは打って変わって、打撃戦となり、その結果、京都二中が9-5で和歌山中を破った。
こうして、京都二中が和歌山中との2日がかりの「死闘」を制し、京都二中が決勝進出を決めた。
和歌山中は、健闘空しく、惜しくも準決勝で敗れてしまったが、実に堂々たる戦いぶりであり、
名門「和中」の歴史の第一歩を、確かに大会史に刻み付けた。
これで遂に、「第1回全国中等学校優勝野球大会」の決勝の組み合わせは「京都二中-秋田中」に決定した。
果たして、中等野球の日本一の栄冠は、京都二中と秋田中、どちらの頭上に輝くのであろうか!?
<1915(大正4)年8月23日(大会第6日)…「京都二中-秋田中」の「決勝」は、延長13回の死闘の末、「京都二中2-1秋田中」で、京都二中が秋田中を破り、優勝!!~「第1回全国中等学校優勝野球大会」の深紅の大優勝旗は、京都二中が手にする>
1915(大正4)年8月23日、「第1回全国中等学校優勝野球大会」の「第6日」、
中等野球の日本一の座をかけて、「京都二中-秋田中」という「決勝」が行われる事となった。
京都二中は、前評判どおりの力を発揮し、京都二中は高松中を15-0で破り、和歌山中との2日がかりの死闘を1-1、9-5で制して、決勝まで駒を進めて来た。
一方、秋田中は、前評判を覆し、秋田中は9-1で山田中を、3-1で早稲田実業を破り、決勝まで勝ち上がって来た。
こうして実現した、「京都二中-秋田中」の「決勝」を一目見ようと、豊中球場のスタンドは超満員の観客で埋め尽くされた。
試合前、京都二中、秋田中の両チームの選手達は、整列し、挨拶を交わしたが、「日本一」まで、あと1勝に迫った両チームには、緊張感が漲っていた。
ここで、歴史的な「第1回全国中等学校優勝野球大会」の「決勝」に出場した、
京都二中、秋田中という両チームのメンバーを、ご紹介させて頂く。
「京都二中-秋田中」の「決勝」の両チームの先発メンバーは、下記の通りである。
【京都二中】
(中)中啓吉
(捕)山田惣次郎
(投)藤田元
(三)大場義八郎
(遊)綾木保次郎
(二)津田良三
(一)西川五三郎
(左)内藤源次郎
(右)野上実
【秋田中】
(捕)渡部純司
(投)長崎広
(三)鈴木粂治
(遊)小山田雄一
(一)信太貞
(左)丹市郎
(中)明石統一
(右)高橋巌
(二)斎藤長治
京都二中には、藤田元-山田惣次郎というバッテリーが居り、
秋田中にも、長崎広-渡辺純司というバッテリーが居たが、
ともに、ディフェンスも固く、試合前から投手戦になる事が予想されていたが、
その予想通り、「京都二中-秋田中」の「決勝」は、息詰まる投手戦となった。
「京都二中-秋田中」の「決勝」は、終始、どちらが勝つかわからない、緊迫の展開となった。
京都二中・藤田元、秋田中・長崎広の両エースの投げ合いで、試合は0-0のまま6回を終了したが、
7回表、京都二中の藤田が、ピッチャー前のバントを悪送球して、ピンチを広げると、
この機を逃さず、秋田中の6番・丹市郎が二塁の頭上へタイムリーを放ち、秋田中が待望の先取点を挙げ、1-0とリードした。
しかし、0-1とリードされた京都二中は、8回裏、1番・中啓吉が四球で出塁すると、2番・山田惣次郎のバントを、今度は秋田中の投手・長崎広が悪送球してしまい、京都二中が無死2、3塁とチャンスを広げた。
ここで、3番・藤田元が打席に入ったが、何と、ここで秋田中の捕手・渡部純司がパスボールしてしまい、その間、三塁ランナー、中啓吉がホームインし、京都二中が1-1の同点に追い付いた。
秋田中としては、痛恨のバッテリー・エラーであったが、白熱の大熱戦に、豊中球場の大観衆は皆、総立ちであった。
試合は、その後、1-1の同点のまま、京都二中・藤田元、秋田中・長崎広の両投手が追加点を許さず、膠着状態となり、
遂には1-1の同点で、延長戦に突入した。
延長10回、11回、12回と、両チームとも得点を奪えなかったが、1-1の同点で迎えた延長13回裏、遂に決着の時が訪れた。
13回裏、この回先頭の、京都二中の4番・大場義八郎はセンターフライを打ったが、明石中のセンター・明石統一が、この打球の目測を誤り、落球してしまい、この間、大場は二塁へと進んだ。
秋田中のエース・長崎は、5番・綾木保次郎を討ち取り、局面は1死2塁となったが、ここで打席に入った、京都二中の6番・津田良三は、二塁手・斎藤長治への強烈なライナーになった。
二塁手・斎藤は、これを弾いてしまい、慌てて一塁手・信太貞に送球したが、この送球も、信太が捕り損なってしまった。
その間、二塁ランナー・大場は三塁を蹴って、一気にホームへと帰って来た。
一塁手・信太が、捕手・渡部純司へと、急いで返球したが、大場が捕手・渡部のタッチを掻い潜り、ホームへと滑り込んだ。
大場のスライディングが、渡部のタッチよりも一瞬早く、判定はセーフ!!
この瞬間、京都二中が2-1というスコアで、劇的なサヨナラ勝ちを収め、京都二中が秋田中を破り、京都二中が「第1回中等学校優勝野球大会」の優勝を勝ち取った。
1915(大正4)年の、中等野球日本一の栄冠は、京都二中の頭上に輝いたのである。
京都二中の優勝が決まった瞬間、京都二中の選手達が一斉に集まり、皆、抱き合って、喜びを爆発させた。
選手達の表情は、笑顔でクシャクシャであり、感激の涙を流す選手も居た。
豊中球場のスタンドの大観衆からも、ワーッという大歓声が起こり、観客は皆、興奮して、帽子を放り投げたりする者も居た。
一方、健闘空しく、惜しくもサヨナラ負けを喫した秋田中の選手達は、呆然として、その場に座り込んでしまった。
あまりにも残酷な、勝者と敗者のコントラストであったが、試合後の閉会式では、秋田中の選手達は、京都二中の優勝を称え、万歳三唱をしたという。
深紅の大優勝旗を受け取った、京都二中の選手達も、秋田中の万歳三唱を受け、「有り難う!!」と、笑顔で秋田中の健闘を称えた。
試合が終わった後は、ノーサイドで、お互いに健闘を称え合うという清々しさが、そこには有った。
それが、中等野球、後の高校野球の素晴らしさであった。
<1915(大正4)年「第1回全国中等学校優勝野球大会」の結果~優勝:京都二中、準優勝:秋田中、ベスト4:和歌山中、早稲田実業>
というわけで、「第1回全国中等学校優勝野球大会」は、京都二中が「初代優勝チーム」の栄冠に輝き、幕を閉じたが、
ここで、「第1回全国中等学校優勝野球大会」の結果を、改めて記しておく事としたい。
試合結果は、下記の通りである。
【1915(大正4)年「第1回全国中等学校優勝野球大会」試合結果】
8月18日(大会第1日)
1回戦:鳥取中〇14-7●広島中
準々決勝:京都二中〇15-0●高松中
準々決勝:早稲田実業〇2-0●神戸二中
8月19日(大会第2日)
1回戦:和歌山中〇15-2●久留米商
準々決勝:秋田中〇9-1●山田中
8月20日(大会第3日)
準々決勝:和歌山中〇7-1●鳥取中
準決勝:秋田中〇3-1●早稲田実業
8月21日(大会第4日)
準決勝:京都二中△1-1△和歌山中(9回裏降雨コールド引き分け)
8月22日(大会第5日)
準決勝(再試合):京都二中〇9-5●和歌山中
8月23日(大会第6日)
決勝:京都二中〇2-1●秋田中(延長13回)
ご覧の通り、京都二中が、栄えある「初代・中等野球日本一」の栄冠を手にしたが、
京都二中は、やはり和歌山中との2日がかりの激闘を制した事が、とても大きかったと思われる。
その自信が、決勝の秋田中との激闘で、最後に京都二中が秋田中を僅かに上回ったという事に繋がったのではないだろうか。
一方、惜しくも敗れたりとはいえ、秋田中の大健闘は、ファンに大きな感動を与えた。
秋田中は、優勝こそ成らなかったものの、試合後に潔く、勝者である京都二中を称えたという事も、大いに称賛された。
先程も書いたが、中等野球(高校野球)の素晴らしさは、勝敗を超えた所に有ると、私は思う。
「第1回中等学校優勝野球大会」は、まさに、その事を証明したと言えよう。
<余談①~「第1回中等学校優勝野球大会」の100年後の2015(平成27)年、「高校野球100年」を記念し、「第1回中等学校優勝野球大会」の「10校」が、甲子園で入場行進~10校の内、2校(京都二中⇒鳥羽高&早稲田実業)は、実力で本大会にも出場>
さて、ここからは、1915(大正4)年の「第1回全国中等学校優勝野球大会」にまつわる「余談」を、いくつかご紹介したい。
2015(平成27)年は、1915(大正4)年の「第1回全国中等学校優勝野球大会」から、ちょうど100周年という事で、
甲子園大会(第97回全国高校野球選手権大会)でも、「高校野球100年」が大々的に祝われたが、その際に、「第1回全国中等学校優勝野球大会」に出場した10校が、
当時の復刻ユニフォームを着て、甲子園で入場行進を行なったのである。
なお、この時の大会では、10校の内、京都二中の流れを汲む鳥羽高校と、早稲田実業は、実力で甲子園出場を果たしている。
<余談②~2018(平成30)年…「第100回全国高校野球選手権大会」で、「100回連続参加の皆勤15校」が、甲子園で入場行進>
それから3年後、2018(平成30)年に、甲子園大会は記念すべき「第100回大会」を迎えたが、
その「第100回全国高校野球選手権大会」を記念し、第1回大会から第100回まで、全ての予選大会に参加している15校、
所謂「皆勤15校」が甲子園に招待され、甲子園で入場行進を行なった。
その「皆勤15校」は、下記の通りである。
【第1回~第100回の皆勤15校】
同志社中⇒同志社高(京都)
京都五中⇒山城高(京都)
京都一商⇒西京高(京都)
市岡中⇒市岡高(大阪)
関西学院中⇒関西学院高(兵庫)
神戸一中⇒神戸高(兵庫)
神戸二中⇒兵庫高(兵庫)
和歌山中⇒桐蔭高(和歌山)
鳥取中⇒鳥取西高(鳥取)
米子中⇒米子東高(鳥取)
松江中⇒松江北高(島根)
杵築中⇒大社高(島根)
愛知四中⇒時習館高(愛知)
愛知一中⇒旭丘高(愛知)
岐阜中⇒岐阜高(岐阜)
「皆勤15校」は、途中、戦争による中断などは有ったが、
それを除き、「甲子園」の予選に、第1回から出場し続けている、伝統校である。
改めて、敬意を表したい。
<余談③~未だに越えられぬ「白河の関」~第1回の秋田中の「準優勝」から、東北勢はどうしても甲子園で優勝出来ず~東北勢は春3回、夏9回、計12回、「甲子園」決勝に進出するも、全て敗退⇒2018(平成30)年、金足農が、秋田中以来、秋田県勢として103年振りに甲子園決勝進出を果たすが、大阪桐蔭に敗れ、惜しくも優勝は成らず>
さて、高校野球ファンの間では有名な話であるが、
東北勢は、今まで春3回、夏9回、計12回「甲子園」の決勝に進出しながら、全て決勝で敗退している。
所謂、深紅の大優勝旗の「白河の関」越えは、未だに果たされていないのである。
【東北勢の、「甲子園」決勝の結果】
①1915(大正4)年夏 秋田中(秋田)●1-2〇京都二中(京都)
②1969(昭和44)年夏 三沢(青森)△0-0△松山商(愛媛)(延長18回引き分け)⇒三沢(青森)●2-4〇松山商(愛媛)(再試合)
③1971(昭和46)年夏 磐城(福島)●0-1〇桐蔭学園(神奈川)
④1989(平成元)年夏 仙台育英(宮城)●0-2〇帝京(東東京)(延長10回)
⑤2001(平成13)年春 仙台育英(宮城)●6-7〇常総学院(茨城)
⑥2003(平成15)年夏 東北(宮城)●2-4〇常総学院(茨城)
⑦2009(平成21)年春 花巻東(岩手)●0-1〇清峰(長崎)
⑧2011(平成23)年夏 光星学院(青森)●0-11〇日大三(西東京)
⑨2012(平成24)年春 光星学院(青森)●3-7〇大阪桐蔭(大阪)
⑩2012(平成24)年夏 光星学院(青森)●0-3〇大阪桐蔭(大阪)
⑪2015(平成27)年夏 仙台育英(宮城)●6-10〇東海大相模(神奈川)
⑫2018(平成30)年夏 金足農(秋田)●2-13〇大阪桐蔭(大阪)
2018(平成30)年夏の甲子園で、エース・吉田輝星を擁する金足農が、快進撃を見せ、
秋田県勢として103年振りに決勝に進出し、「金農旋風」を巻き起こしたのは、記憶に新しいが、
この時の金足農の103年振りの決勝進出とは、まさに第1回の決勝に進出した、秋田中以来の快挙だったのである。
金足農は、決勝では大阪桐蔭に敗れ、惜しくも優勝は逃したが、いつの日か、東北勢が甲子園で優勝してくれる事を、私も願っている。
という事で、「甲子園」には実に素晴らしい歴史が有るので、今後とも、このブログで「甲子園」の素晴らしい歴史について、描いて行きたいと思っている。