1939(昭和14)年に開催された、「第7回 日本ダービー」は、
後に種牡馬としても活躍した、クモハタが優勝した。
クモハタは、満身創痍の状態だったが、死力を振り絞って、「ダービー馬」の栄冠に輝いた。
1940(昭和15)年の日本は、戦時色がますます強くなり、
かの有名な「ぜいたくは敵だ!」という標語が登場するなど、国民生活への締め付けが厳しくなる一方、
野球も競馬も、多くの観客を集め、「紀元2600年」の式典が盛大に行われるなど、戦前における日本の「最後の盛り上がり」を見せた年でもあった。
そんな1940(昭和15)年の野球界と競馬界について、描いてみる事としたい。
<1940(昭和15)年6月2日…「第9回 日本ダービー」で、イエリユウがハナ差の激戦を制し、優勝~ダービー制覇の翌年(1941年)に、イエリユウと騎手:末吉清が夭逝>
1940(昭和15)年6月2日、「第9回 日本ダービー」が開催された。
「第9回日本ダービー」で1番人気だったのが、ダービーに先駆けで行われた、「第2回 皐月賞」で優勝した、ウアルドマインである。
2番人気は、その「第2回 皐月賞」で4着だったテツザクラであり、3番人気はエステイツ、そしてイエリユウは4番人気となっていた。
そして、この「第9回日本ダービー」を制したのは、4番人気のイエリユウであった。
イエリユウは、ゴール直前まで、ミナミとの大激戦を繰り広げたが、
最後は、イエリユウがミナミをハナ差で僅かに上回り、イエリユウが見事に「ダービー馬」の栄冠に輝いた。
この「第9回 日本ダービー」では、東京競馬場に5万6507人の観客が集まったが、最後までどちらが勝つかわからない、僅差の激闘に、観客は熱狂した。
なお、「日本ダービー」史上、ゴールがハナ差の激闘になったのは、上記の画像の通りであるが、
2016(平成28)年の「第83回 日本ダービー」で、マカヒキがサトノダイヤモンドをハナ差で上回り、優勝したレースは、記憶に新しい。
また、「皐月賞馬」のウアルドマインは、「第9回 日本ダービー」では、15着という惨敗に終わってしまった。
そして、同年(1940年)秋に行われた、京都農林省賞典4歳呼馬=「第3回 菊花賞」では、「皐月賞」「日本ダービー」で4着に終わったテツザクラが優勝し、テツザクラが、1940(昭和15)年の「菊花賞馬」となっている。
イエリユウは、その後、京都農林省賞典4歳呼馬=「第3回 菊花賞」で4着と健闘した後、
同年(1940年)末にかけて、5戦3勝、2着2回と好調であり、その後、小倉で2連勝したが、
翌1941(昭和16)年1月16日、イエリユウは急性脳膜炎を発症し、急死してしまった。
「日本ダービー」制覇から、僅か7ヶ月後の事であった。
そして、イエリユウのダービー制覇時に騎乗していた騎手:末吉清も、イエリユウの後を追うように、その直後、夭逝している。
まさに、「日本ダービー」を制するために生まれて来たような、イエリユウの生涯であった。
<1940(昭和15)年の「東京六大学野球」と「早慶戦」~文部省の「野球弾圧」により、春2回戦総当たり、秋1回戦総当たりの「短縮リーグ」を余儀なくされる~春の「早慶戦」2回戦は、「日本ダービー」と同日開催>
1940(昭和15)年になると、文部省の「野球弾圧」は、ますます強まって行った。
そのため、東京六大学野球は、春2回戦総当たり、秋1回戦総当たりという、短縮リーグでの開催を余儀なくされた。
なお、この体制は、翌1941(昭和16)年も継続されている。
1940(昭和15)年春は、「早慶戦」を前にして、明治と立教が7勝3敗の同率首位に並び、
慶応は6勝2敗という状況だったが、慶応は「早慶戦」に連勝すれば優勝である。
そして、1940(昭和15)年春の「早慶戦」は、下記のような結果となった。
1940(昭和15)年 6/1 早稲田〇4-3●慶応
1940(昭和15)年 6/2 早稲田●2-3〇慶応
慶応は、1回戦で早稲田に3-4で敗れ、この時点で単独での優勝の可能性は無くなったが、
2回戦では、慶応が3-2で早稲田を破り、雪辱を果たした。
この結果、慶応、明治、立教の3校が、7勝3敗で全く同率首位に並び、リーグ戦を終了したが、
優勝決定戦は行われず、慶応、明治、立教の3校同率で「優勝預かり」となった(※東京六大学野球史上、唯一の出来事)。
なお、この時の春の「早慶戦」2回戦は、「第9回 日本ダービー」と同日に開催されているが、春の「早慶戦」と「日本ダービー」が同日に開催されたのは、この時が初めてであった。
1940(昭和15)年秋の東京六大学野球は、史上初めて、1回戦総当たりの、「各校1本勝負」で開催された。
そのため、早稲田が東大に敗れたり、慶応が法政に完封負けを喫するなど、色々と波乱が有ったが、
「早慶戦」を前にして、明治が4勝1敗で首位、早稲田は3勝1敗で、「早慶戦」に勝てば、明治と同率首位に並ぶという状況であった。
そして、1940(昭和15)年秋の「早慶戦」の結果は、下記の通りである。
1940(昭和15)年 10/17 早稲田●1-5〇慶応
「早慶戦」では、慶応が早稲田を5-1で破ったが、
この結果、明治が優勝し、早稲田と慶応が3勝2敗で並び、同率2位となった。
こうして、1940(昭和15)年の東京六大学野球と「早慶戦」は、あっという間に終わってしまったが、
まだ野球が出来るだけマシ、といったところであった。
この後、世の中は、ますます野球どころではない状況になって行くからである。
<1940(昭和15)年のプロ野球①~「兵役」により、タイガースの主力選手の8割が抜け、タイガースが「壊滅」状態に>
1940(昭和15)年になると、戦争の影響がますます色濃くなり、プロ野球も大打撃を受けていた。
まず、プロ野球草創期には、「海内無双」と称されるほど強かった大阪タイガースは、主力選手が次々に「兵役」に取られてしまい、チームが弱体化して行った。
1939(昭和14)~1940(昭和15)年にかけて、「兵役」に取られてしまった、主なタイガースの選手達は下記の通りである。
1939(昭和14)年…藤村富美男、山口政信、藤井勇、御園生崇男(※西村幸生は、「兵役」ではないが、退団)
1940(昭和15)年…景浦将、門前真佐人
タイガースの主力の8割が「兵役」などで退団し、タイガースは、すっかり「壊滅」状態になってしまった。
もしも、戦争が無ければ、タイガースの強さはもっと続き、その後のタイガースの歴史も、全く違ったものになっていたかもしれない。
そう考えると、タイガースにとって、戦争とは全く忌まわしいものであった。
<1939(昭和15)年のプロ野球②~プロ野球の球団名が「日本語化」…「東京ジャイアンツ⇒巨人」、「大阪タイガース⇒阪神」、「イーグルス⇒黒鷲」、「セネタース⇒翼」など>
1940(昭和15)年9月25日、戦時色が強まる時勢の動きに鑑み、
プロ野球の各球団は、球団名のカタカナでの呼び名を、全て「日本語化」するという措置を取った。
まず、巨人は、それまではユニフォームを「GIANTS」の表記にしていたものを、左胸に大きく「巨」と書かれたデザインに変更した。
ここで、栄光の「GIANTS」のユニフォームは、一旦、姿を消した。
巨人のライバル・大阪タイガースも、同日(1940年9月25日)、球団名を「大阪タイガース」から「阪神」へと変更し、
ユニフォームの「Tigers」の表記も、左胸に「阪神」を書かれたものへと変更された。
しかし、タテジマのデザインは踏襲されている。
タイガースが「阪神」と呼ばれるようになったのは、この時からであった。
そして、同日(1940年9月25日)にはイーグルスは「黒鷲」に、10月17日には、セネタースは「翼」と、それぞれ改称された。
このように、プロ野球は、政府や軍部に睨まれないよう、自ら「忖度」して、「敵性語」である英語表記を、なるべく使わない方向へと舵を切ったのである。
<1940(昭和15)年のプロ野球③~「ライオンは日本語だ!!」と、「ライオン軍」は球団名の変更を「拒否」するが…>
もう一つ、カタカナ表記の球団名である「ライオン軍」は、球団名の変更を、頑なに拒否した。
曰く、「ライオンは日本語だ!!」というのが、その理由であり、「ライオン軍」だけは、同年(1940年)中も、その球団名を名乗り続けた。
これは、「ライオン軍」の気骨を示したというよりも、スポンサーである「ライオン歯磨」との契約が残っており、球団名を変えるに変えられなかったという事情が有ったようである。
ともあれ、政府や軍部への「忖度」よりも、大事なスポンサーへの筋を通した「ライオン軍」の姿勢は素晴らしいと、私は思う。
<1940(昭和15)年のプロ野球④~スタルヒンが「須田博」へと改名させられる>
巨人のエースとなっていたスタルヒンは、この年(1940年)、何と「須田博」へと「改名」させられてしまった。
これも、プロ野球の「日本語化」の一環であったが、スタルヒンとしては、何故、本名も名乗れず、無理矢理、改名させられるのか、納得出来なかったのではないか。
しかし、これもプロ野球が生き残るためには止むを得ない事だったようである。
なお、「須田博」ことスタルヒンは、幼少期に、一家でロシアから日本に亡命して来たという経緯が有ったが、生涯、「無国籍」で通したという。
彼としても、色々と思う所が有ったのかもしれない。
<1940(昭和15)年のプロ野球⑤~夏季リーグ戦で、全球団で「満州」に遠征し、「満州リーグ」を開催~その後、1961(昭和36)年に「返還前」の沖縄、2002(平成14)年に台湾で、プロ野球公式戦が開催>
1940(昭和15)年のプロ野球は、画期的な事を行なっている。
満州日日新聞からの招待を受ける形で、プロ野球の全球団が、当時、日本の「友好国」だった「満州」に遠征し、「満州」で、全球団による夏季リーグ戦を行なったのである。
期間は、7/31~8/22までの約1ヶ月間で、奉天、大連、新京、鞍山の各地で、72試合の公式戦を行ない、その間、安東、撫順、吉林、ハルビン、錦県などでオープン戦も行なうという、超強行日程だったが、「満州」に多く住んでいた日本人達は、大喜びだったという。
当時、プロ野球人気は、まだまだ確立していなかったが、人気を得るためであれば、何処ででも試合をやるという気概が、当時のプロ野球には有ったという事であろう。
しかし、川上哲治などは、後年、「満州遠征の時は、宿舎で南京虫に食われてしまい、まいった」と、当時の苦労について振り返っている。
ともあれ、1940(昭和15)年の「満州リーグ」は、れっきとした、プロ野球史上初の「海外遠征」であった。
その後、プロ野球の「海外」での公式戦といえば、
1961(昭和36)年5月20日~21日、まだ「返還前」だった沖縄で、西鉄-東映戦が開催されている。
当時の沖縄は、アメリカ領になっていたため、1940(昭和15)年の「満州リーグ」以来、21年振りとなる、プロ野球の「海外」での公式戦であった。
また、2002(平成14)年5月14~15日には、台湾で、ダイエー-オリックスの対戦で公式戦が開催された。
この時は、台湾の「英雄」王貞治が、福岡ダイエーホークスの監督を務めており、台湾の人達に大歓迎されたが、
試合前に、「あやや」こと松浦亜弥が始球式に登場し、現地のファンを沸かせている。
この時は、1940(昭和15)年の「満州リーグ」から、実に62年後の出来事であった。
<1940(昭和15)年のプロ野球⑥~沢村栄治が「兵役」から巨人に復帰し、7月6日の名古屋戦で、自身3度目の「ノーヒットノーラン」を達成!!>
1940(昭和15)年、「兵役」に就いていた沢村栄治が、3年振りに復帰した。
沢村栄治は、投手だった経歴を買われ、軍隊では、やたらと「手榴弾投げ」をやらされていたというが、
そのため、すっかり肩を痛めてしまい、沢村の黄金の肩は、既にボロボロになっていた。
従って、沢村は往年の剛速球は投げられなくなっていたが、それでも、名捕手・吉原正喜のリードもあって、沢村の投球術は冴えわたり、
同年(1940年)7月6日の名古屋戦(西宮球場)で、沢村栄治は、何と自身3度目の「ノーヒットノーラン」を達成した。
なお、1人で3度も「ノーヒットノーラン」を達成したのは、沢村栄治と、後年の外木場義郎(広島)の2人のみである。
<1940(昭和15)年のプロ野球⑦~鬼頭数雄(ライオン)VS川上哲治(巨人)の、激しい「首位打者」争い⇒鬼頭数雄に軍配が上がり、「首位打者」を獲得>
1940(昭和15)年のプロ野球は、鬼頭数雄(ライオン)VS川上哲治(巨人)が、歴史に残る「首位打者」争いのデッドヒートを繰り広げた。
まず、春は鬼頭数雄がリードし、夏は川上哲治が逆転した後、、8月の「満州リーグ」を終わった時点で、鬼頭数雄.3249-川上哲治.3246と、鬼頭数雄が僅か3毛差でリードする。
9月中旬にリーグ戦が再開されると、その後約1ヶ月に亘って鬼頭と川上は抜きつ抜かれつの激闘を繰り広げるが、10月中旬に鬼頭が川上に1分の差を付けて突き放し、最終的には、川上哲治.311に対して、鬼頭数雄は.321で、遂に1940(昭和15)年の「首位打者」の栄冠は鬼頭数雄の頭上に輝いた。
この時の「首位打者」争いは、「プロ野球史上初のタイトル争い」と言われるが、
この激闘は、前述の「第9回 日本ダービー」の、イエリユウとミナミの激しい戦いを彷彿とさせるものが有った。
「首位打者」を獲得した鬼頭数雄は、その後、「兵役」に取られ、1944(昭和19)年に27歳の若さで、戦死してしまったが、
川上哲治に勝って、「首位打者」を獲った男として、球史にその名を残している。
<1940(昭和15)年のプロ野球⑦~「華美なユニフォームの廃止」、「球団名・野球用語の日本語化」、「引き分け試合廃止」などの「新しい野球様式」(?)を決定~しかし、川上哲治の代名詞「弾丸ライナー」も登場>
さて、この年(1940年)のプロ野球は、戦時色が強まる中、その時勢に鑑みて、
「華美なユニフォームの廃止」、「球団名・野球用語の日本語化」、「引き分け試合廃止」などの新方針を打ち出した(※引き分けは、日本の武士道精神に反する、という考え方だったようだ)。
「新しい生活様式」ならぬ「新しい野球様式」(?)といったところであるが、政府や軍部に睨まれて、野球が潰される事にならないよう、当時の野球連盟も、色々と知恵を絞っていたようである。
そんな中、当時、「都新聞」の記者だった大和球士が、
川上哲治の打球の速さに驚嘆し、「弾丸ライナー」と命名した。
以後、「弾丸ライナー」は、川上哲治の代名詞となったが、この言葉は未だに野球界に残っている。
それだけ、大和球士の言語センスは素晴らしかったという事であろう。
<1940(昭和15)年のプロ野球⑧~巨人が2年連続優勝、プロ野球の年間観客動員は「87万6862人」で、戦前最多を記録>
という事で、色々有った1940(昭和15)年のプロ野球であるが、
巨人が、春夏秋の3季で全て優勝、総合成績でも、巨人は2位の阪神に10.5ゲーム差の大差を付け、巨人がぶっちぎりで、2年連続優勝を果たした。
また、この年(1940年)のプロ野球の年間観客動員は「87万6862人」であり、これは戦前最多記録であった。
学生野球に押され気味だったプロ野球も、徐々に人気が上がり、人気スポーツになりつつあったようであるが、
せっかくプロ野球人気が盛り上がって来た所で、この後、日本は戦争の長い長い泥沼に入ってしまう事となる。
プロ野球としては、まさにこれからという所で、誠に惜しい限りであった。
しかし、この年(1940年)は「日本ダービー」にもプロ野球にも、沢山の観客が集まり、窮屈な生活が続いていながらも、人々には、まだ余裕が有ったという事であろう。
<1940(昭和15)年の世相①~ナチス・ドイツの「快進撃」⇒ドイツ軍の猛攻により、フランスが降伏し、ドイツが「パリ無血入城」を果たす>
さて、前年(1939年)に「第二次世界大戦」を勃発させた、ヒトラー率いるナチス・ドイツであるが、
戦争開始当初、ドイツはメチャクチャ強かった。
ドイツは、ポーランドをアッサリ攻略し、ドイツとソ連でポーランドを「分割」してしまうと、
今度は、ドイツは兵力を西に向け、フランスに対して、猛攻を開始した。
所謂、ドイツの「電撃戦」であるが、フランスはドイツに為す術無く敗れ、遂にフランスは降伏した。
そして、1940年6月14日、ドイツ軍が「パリ無血入城」を果たし、フランスの「花の都」パリはヒトラーの軍門に下ってしまった。
この時こそ、まさにヒトラーの人生絶頂の時だったと言って良い。
<1940(昭和15)年の世相②~生活必需品の配給制など、日本政府による国民への締め付けが強まる⇒「不敬な」芸名や外国名が、次々に「改名」>
1940(昭和15)年の日本は、戦時色が強まる中、生活必需品の配給制が施行されるなど、
日本政府による国民への締め付けが、ますます強まって行った。
ちなみに、生活必需品の配給とは、具体的には砂糖や木炭などであり、切符と交換するというものであった。
また、「外国語名は、けしからん」という事で、「芸名統制令」が出されたが、これは、洋風な芸名を名乗ってはいけない、という「お達し」であった。
例えば、「ディック・ミネ⇒三根耕一」という芸名に「改名」させられたり、外国語名ではなくても、「不敬」にあたると判断され、「藤原釜足⇒藤原鶏太」に「改名」させられるという事例も有った。
更に、バーやナイトクラブの外国語名表記も、「看板から米英色を抹殺しよう」という事で、これまた「改名」させられたり、
煙草の商品名も、「チェリー⇒桜」、「ゴールデンバット⇒金鵄(きんし)」に変更させられたりした。
「何も、そこまでやらなくても…」と思ってしまうが、当時の日本は、そういう雰囲気だったという事である。
つまり、カタカナ表記を日本語名に変更したのは、プロ野球に限った話ではなかったのである。
<1940(昭和15)年の世相③~歴史に残る標語「ぜいたくは敵だ!」が誕生⇒「ぜいたくは素敵だ!」と、コッソリと落書きされる事も>
1940(昭和15)年7月、当時を日本を象徴し、後世、歴史に残る名フレーズとなった、
「ぜいたくは敵だ!」という標語が登場した。
当時、日本には閉塞感が漂っていたが、それでも「ぜいたくは敵だ!」という標語の下、
国民は、四の五の言わずに、贅沢や無駄な買い物などせず、慎ましく暮らし、「お上」に黙って従っていれば良い、という事であろう。
なお、「ぜいたくは敵だ!」という看板に、コッソリと「素」の文字を書き足し、
「ぜいたくは素敵だ!」という標語に書き換えてしまうような「不届き者」も居たという。
ともかく、こんな風に、当時の日本は「標語」を作って、国民を統制していたわけであるが、
この閉塞感溢れる状況は、コロナ禍の真っ只中の、今の2020(令和2)年の日本もソックリである。
<1940(昭和15)年の世相④~日本の「南進政策」が決定⇒ドイツの快進撃に「バスに乗り遅れるな」と焦り、「日独伊三国軍事同盟」締結⇒日本と米英との「対立」が決定的に>
1940(昭和15)年頃、日本は「日中戦争」を戦い、米英とも対立が深まり、徐々に追い込まれつつある状況であった。
そこで、日本政府と軍部は「南進論」を掲げ、日本の活路を「南進」によって開く、という方針を「決定」した。
これは、具体的に言えば、日本がインドシナ半島に侵攻し、資源を確保しようというものである。
こうして、日本の「南方進出」が始まったが、
当時の日本にしてみれば、もはや南方に行くしか道は無かったという事であろう。
物量の豊富なアメリカや英国(イギリス)に対抗するためには、それしか手段は無かった。
それだけ、当時の日本は、かなり追い詰められていたのである。
そんな中、当時はナチス・ドイツが「電撃戦」により、あっという間にフランスを降伏に追い込むなど、
まさに飛ぶ鳥を落とす勢いだったが、日本でも、ドイツの快進撃に乗っかろうという事で、
「バスに乗り遅れるな」という言葉が流行ったりもしていた。
そして、1940(昭和15)年9月27日、遂に「日独伊三国軍事同盟」が締結された。
日本は、ヒトラーが率いるドイツと、ムッソリーニが率いるイタリアという、ファシズム国家と手を結んだのである。
「日独伊三国軍事同盟」締結により、日本と米英との「対立」は、完全に決定的になってしまった。
「ああ、こいつらは敵だな」と、日本が米英にハッキリと認識された瞬間である。
そして、ヒトラーやムッソリーニと手を組んでしまった事は、日本の「汚点」になってしまったが、
当時、米英とは既に対立が深まっており、こうする以外に方法は無かった、という事かもしれない。
しかし、競馬の発祥の国・英国(イギリス)や、野球(ベースボール)の発祥の国・アメリカと、こんな風に対立が深まってしまったのは、返す返すも残念であった。
<1940(昭和15)年の世相⑤~近衛文麿内閣の「新体制運動」により、全政党が解散され、「大政翼賛会」が発足⇒国民が政府に逆らえない体制に>
1940(昭和15)年、日本に有った全ての政党は、「その存在意義を失った」として、全て解散させられ、
同年(1940年)10月12日、「大政翼賛会」が発足した。
これは、近衛文麿内閣が推進した「新体制運動」の結果だったが、要するに、国会での反対意見は許されず、全て、政府や軍部が決めた事に従いなさい、という体制が出来たという事であり、国民が政府に逆らえない体制が完成したという事である。
「日本国民が一丸となって、この難局を乗り切ろう!!」
という、「お題目」は良いのだが、反対意見を全て封殺しても良い、というのは非常に危険である。
もしも、政府が誤った方向に暴走してしまったら、一体、誰が歯止めをかけるというのだろうか。
ともかく、日本はどんどん息苦しく、住みにくい国になって行った。
<1940(昭和15)年の世相⑥~「紀元2600年」を盛大に祝う~沈滞ムードの日本を無理矢理、盛り上げるのが狙いだった!?>
1940(昭和15)年は、初代天皇である神武天皇が即位したとされる、紀元前660年から数えて、
ちょうど「2600年」にあたる年という事で、1940(昭和15)年11月10日から5日間、
「紀元2600年祭」の盛大な式典が、日本中で行われた。
これは、「紀元2600年」にかこつけて、沈滞ムードに沈んでいた日本を、無理矢理にでも盛り上げよう、という意図が有ったのではないかと思われる。
窮屈な「自粛」生活を強いられていた人々も、ここぞとばかりに、お祭り騒ぎであった。
しかし、「紀元2600年」のお祭り騒ぎが終わった後、
11月15日になると、「大政翼賛会」は「祝いは終わった、さあ働こう!!」という標語を掲げ、
人々は、また元の戦時生活、「自粛」生活に戻って行った。
さあ、この後、「祭りのあと」の日本は、一体何処へ向かって行くのであろうか。
そして、日本の競馬界と野球界の運命や、如何に!?
(つづく)