日本ダービーと早慶戦とプロ野球の歴史③(1939) ~クモハタ登場と早慶プレーオフ~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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法政大学野球部を中心として、東京六大学野球についての様々な事柄について、思いつくままに書いて行くブログです。
少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1932(昭和7)年に始まった「日本ダービー」は、順調に回を重ね、

1938(昭和13)年の「第7回 日本ダービー」では、スゲヌマが優勝したが、

同年(1938年)に創設された「第1回 菊花賞」では、テツモンが優勝した。

 

 

そして、1939(昭和14)年、満身創痍の身体でデビューし、「日本ダービー」に挑んだのが、クモハタである。

同年(1939年)には、久々に早慶両校による優勝争いが繰り広げられ、プロ野球でも大記録が生まれたが、そろそろ戦争の影が色濃くなって来た、1939(昭和14)年の野球界と競馬界を、描いてみる事としたい。

 

<1939(昭和14)年4月9日…「第1回 桜花賞」(中山四歳牝馬特別)が開催~ソールレディVSハレルヤの激闘を制し、ソールレディが優勝、「第1回 桜花賞馬」の座に就く>

 

 

 

1939(昭和14)年4月9日、3歳牝馬限定競争である、「中山四歳牝馬特別」が初めて開催された。

これこそ、「第1回 桜花賞」であるが、「第1回 桜花賞」は、僅か6頭立てて開催された。

この「第1回 桜花賞」は、ソールレディハレルヤという2頭の対決に注目が集まったが、

「第1回桜花賞」に先立ち、4/2に行われた中山第4レースでは、ハレルヤが優勝、2着がソールレディという結果だった。

そして、4/9に開催された「第1回 桜花賞」では、ソールレディがハレルヤとの激闘を制し、ソールレディが優勝、2着がハレルヤとなった。

こうして、ソールレディは「第1回 桜花賞馬」として、歴史にその名を残したが、ソールレディは、その後、1勝も出来ず、障害競走に転向した。

 

<1939(昭和14)年4月29日…「第1回 皐月賞」(横浜農林省賞典四歳呼馬)が開催~単勝票数が僅か1票のロツクパークが優勝し、栄えある「第1回 皐月賞馬」に輝く!!>

 

 

 

1939(昭和14)年4月29日、「横浜農林省賞典四歳呼馬」、後の「皐月賞」が、横浜競馬場で開催された(※8頭立てで開催)。

これこそ、記念すべき「第1回 皐月賞」であるが、前年(1938年)に第1回が開催された「菊花賞」に続き、新たに3歳馬のクラシック・レースが創設された。

この「第1回 皐月賞」は、事前の予想では、「第1回桜花賞馬」ソールレディと、「桜花賞」の2着馬ハレルヤという「桜花賞」組に人気が集中し、1番人気は、「桜花賞」のリベンジを期す、ハレルヤであった。

激しいマッチレースとなった、「第1回桜花賞」も、記憶に新しい頃だったためであるが、一方、牡馬のロツクパークは全く不人気であり、単勝票数は、僅か1票という、ブービー人気(単勝総数が5196票、1番人気のハレルヤが2325票)

このように、全くの不人気だったロツクパークであるが、何と、「第1回皐月賞」は、そのロツクパークが優勝するという、「大番狂わせ」が起きた(3着ハレルヤ、5着ソールレディ)。

こうして、ロツクパークが、栄えある「第1回 皐月賞馬」となったが、時として、こういう番狂わせが起きるから、競馬は面白い。

 

<1939(昭和14)年5月28日…「第8回 日本ダービー」でクモハタが優勝~クモハタは種牡馬として圧倒的な実績を残し、その後「クモハタ記念、その名を残す>

 

 

 

1939(昭和14)年5月28日、「第8回 日本ダービー」が開催された。

この「第8回 日本ダービー」を制したのは、8番人気だったクモハタである。

このクモハタといえば、色々と語るべき事が多い競争馬であるが、生い立ちからして、注目されていた。

 

 

 

 

クモハタは、1936(昭和11)年3月6日、下総御料牧場(千葉県)で生まれた。

クモハタの父はトウルヌソル、母は星旗だったが、トウルヌソルといえば、何と、ダービー馬を6頭も輩出した種牡馬であった(1932年:ワカタカ、1936年:トクマサ、1937年:ヒサトモ、1938年:クモハタ、1940年:イエリユウ、1943年:クリフジ)。

なお、ダービー馬を6頭輩出した種牡馬は、トウルヌソル以外には、遥か後年のサイデーサイレンスしか居ない。

クモハタの母は、アメリカから繁殖馬として輸入された星旗であるが、星旗は、クモハタの前には、「帝室御賞典」(後の「天皇賞」)をはじめ、通算16勝を挙げた名牝馬・クレオパトラトマスを生んでいる。

そのクレオパトラトマスの弟として誕生したのが、クモハタであった。

クモハタは、額から鼻筋まで、白い「流星」が有る、綺麗な顔立ちの馬だったが、これは「四白流星」と称され、馬としては「凶相」とされているという。

 

 

このように、サラブレッドとして生を受けたクモハタは、大きな期待を集めており、

平凡社から独立して、非凡閣という出版社を創業した加藤雄策が、クモハタに惚れ込み、馬主となった。

「クモハタなら、必ずダービーで勝てる」と、加藤雄策は見込んでいたというが、その「日本ダービー」挑戦の年、1939(昭和14)年に、クモハタは蹄叉腐乱という病に冒されてしまった。

スタッフや調教師たちが、懸命に治療し、クモハタは何とか回復したが、「日本ダービー」直前の1939(昭和14)年5月20日の新呼馬でデビューしたクモハタは2着、「日本ダービー」3日前の5月25日に行われた新呼馬では初勝利という成績を挙げたものの、短期間で2つもレースに出たクモハタの体調は最悪であった。

だが、馬主の加藤雄策は、クモハタのダービー制覇を信じ、クモハタのダービー出走を決断した。

 

 

 

1939(昭和14)年5月28日、「第8回 日本ダービー」が開催されたが、

「皐月賞」を制したロツクパークが直前で出走を取り消しして、本命不在の中、クモハタは20頭中8番人気であった。

しかし、その下馬評の低さを覆し、クモハタは2着のリッチモンドに1馬身差を付け、見事に優勝し、栄えある「ダービー馬」となった。

こうして、馬主の加藤雄策の「ダービー制覇」の夢が叶ったのである。

ちなみに、クモハタの、「デビュー9日目での日本ダービー制覇」は、今もなお史上最短記録として残っているが、その後、出走条件の変更などもあり、この記録が更新されるのは、事実上、不可能となった。

なお、「桜花賞」組ハレルヤは5着、ソールレディは14着に終わっている。

 

 

 

しかし、満身創痍の中、死力を尽くして「日本ダービー」で勝ったクモハタであるが、その代償は大きく、その後は常に痛みを抱えながらの戦いが続いたという。

そんな中、クモハタは懸命に走り続け、通算21戦9勝という戦績を残した後、1940(昭和15)年に競走馬を引退した。

その後、クモハタは種牡馬に転向したが、1952(昭和27)年からは、6年連続で種牡馬成績のトップに輝いた。

クモハタ産駒としては、顕彰馬となったメイヂヒカリ、カツフジ(天皇賞・秋)、ニューフォード(天皇賞・秋、菊花賞)、ヤシマドオター(桜花賞、伊天皇賞・秋)、ハタカゼ(天皇賞・秋)、キヨフジ(オークス)、ミツハタ(天皇賞・春)、クインナルビー(天皇賞・秋、オグリキャップの5代前の母)などの名馬を次々に輩出した。

そして、1951(昭和26)年には、「クモハタ記念」というレースも創設された(1951~1980年まで、全30回が開催)。

クモハタは、その2年後の1953(昭和28)年に亡くなったが、クモハタ産駒はJRA通算157勝を挙げ、後年、2010(平成22)年にキングカメハメハに更新されるまで、国産種牡馬の最多勝記録であった。

このように、クモハタは競馬史上に燦然と輝く、偉大なる業績を残した。

 

<1939(昭和14)年の「東京六大学野球」と「早慶戦」~春秋ともに、早慶が同率首位で並び、春秋連続で「早慶プレーオフ(優勝決定戦)」が実現!!~春は早稲田、秋は慶応が優勝>

 

 

1939(昭和14)年の東京六大学野球は、春秋ともに、早稲田・慶応が同率首位で並び、

春秋ともに、「早慶プレーオフ(優勝決定戦)」が行われるという、劇的な展開となった。

まず、1939(昭和14)年春は、早慶両校が好調で、前年(1938年)まで4連覇していた明治を抑え、早慶で優勝争いを繰り広げた。

1939(昭和14)年春の早慶戦を前にして、早稲田5勝1敗2分、慶応6勝2敗という戦績であったが、当時は、規定により、1勝1敗になった後も決勝戦は行われず、勝ったチームに「勝ち点1」、引き分けの場合は「勝ち点0.5」が両チームに与えられた。

こうして、春の早慶戦を前にして、早慶は「勝ち点6」同士であり、早慶戦に連勝するか、1勝1分にした方が優勝、という状況であった。

 

 

こうして、1931(昭和6)年春以来、久々に「早慶戦」で優勝を争う展開となり、神宮球場は超満員となったが、

1931(昭和14)年春の「早慶戦」は、下記の通りの結果となった。

 

1939(昭和14)年 6/3 早稲田●0-5〇慶応

1939(昭和14)年 6/4 早稲田〇4-3●慶応

 

こうして、「早慶戦」は1勝1敗となり、早慶両校が「勝ち点7」で並び、

東京六大学野球史上初めて、「早慶プレーオフ(優勝決定戦)」が実現する事となった。

その結果は、下記の通りである。

 

1939(昭和14)年 6/5 早稲田〇5-4●慶応(※早慶両校によるプレーオフ(優勝決定戦))

 

初の「早慶プレーオフ(優勝決定戦)」は、1点を争う激戦となったが、

早稲田が5-4で慶応を破り、早稲田が1936(昭和11)年秋以来、5シーズンぶりの優勝を達成した。

 

 

1939(昭和14)年秋の東京六大学野球は、文部省による「野球弾圧」が激しくなり、リーグ戦の「短縮」が余儀なくされた。

1937(昭和12)年に始まった日中戦争が長引く中、お役所は、野球というスポーツを「目の仇」にしていたが、

東京六大学野球連盟は、そんな当局の意向を「忖度」し、ウィークデーの試合を「自粛」した。

当時、大学の夏休みが9/10までだった事を利用し、9/2~9/3、9/5~9/6には、全6校が登場し、各日とも、朝10時に第1試合が始まり、1日3試合ずつが行われるという、「強行日程」であった。

そして、10/7~10/8の「早慶戦」で全日程が終了するという、僅か1ヶ月という「超短縮リーグ」であった(※実際には、雨天中止などもあり、全日程終了は10/21)。

戦前の日本では、お役所は何故か、野球を毛嫌いし、野球界は色々と難癖を付けられ、苦労したが、「忖度」だの「自粛」だのというのは、2020(令和2)年の今でも、非常によく聞く言葉である。

 

 

その「超短縮日程」で行われた、1939(昭和14)年秋の東京六大学野球は、

春に引き続き、早慶両校が好調で、「早慶戦」を前にして、早稲田・慶応の両校が6勝1敗1分という「勝ち点6.5」同士で並んでいた。

こうして、春に続き、「早慶戦」で優勝を争う展開となったが、1939(昭和14)年秋の「早慶戦」の結果は、下記の通りである。

 

1939(昭和14)年 10/15 早稲田〇9-1●慶応

1939(昭和14)年 10/20 早稲田●1-4〇慶応

 

1939(昭和14)年10月15日に行われた、秋の「早慶戦」第1戦は、早稲田が9-1で慶応に大勝し、早稲田が春秋連覇に「王手」をかけた。

慶応の選手達は、ガックリと肩を落とし、意気消沈したが、慶応の石丸重治・野球部長は、「悔しかったら、勝ってみろ」と、慶応の選手達に檄を飛ばした。

この言葉に発奮した慶応は、ウィークデーの試合禁止のために、5日後の10月20日に行われた第2戦で、意地を見せて、慶応が4-1で早稲田を破り、この結果、春に続いて早慶両校が同率首位で並び、春秋連続で「早慶プレーオフ(優勝決定戦)」が実現した。

 

 

こうして、翌10/21、春秋連続の「早慶プレーオフ(優勝決定戦)」が行われたが、

その結果は、下記の通りである。

 

1939(昭和14)年 10/21 早稲田●0-2〇慶応(※早慶両校によるプレーオフ(優勝決定戦))

 

ご覧の通り、1939(昭和14)年秋の「早慶プレーオフ(優勝決定戦)」は。

慶応が早稲田を2-0で破り、慶応が春のリベンジを果たし、見事に優勝を達成した。

慶応の優勝は、1932(昭和7)年秋以来、実に7年振りである。

こうして、「野球弾圧」が強まる中、「早慶戦」は大いに盛り上がったが、この後、当局はますます、野球を敵視して行く事となる。

 

<1939(昭和14)年のプロ野球①~朝ドラ『エール』でも描かれた、大阪タイガースの応援歌「六甲おろし」など、各球団の「応援歌」が出揃い、「長期1シーズン制」がスタート>

 

 

1939(昭和14)年のプロ野球は、各球団の「応援歌」が出揃い、

この年(1939年)から、春秋制ではなく、今にまで続く「長期1シーズン制」がスタートした。

なお、「長期1シーズン」とはいえ、便宜上、春・夏・秋の「3季」に分け、それぞれに「優勝」チームも有ったが、あくまでも、本当の「優勝」は、「長期1シーズン」を制した球団である。

 

 

 

 

 

なお、現在放送中のNHKの朝ドラ『エール』では、作曲家・古関裕而と、その妻・古関金子の生涯が描かれているが、

その古関裕而が作曲した、大阪タイガースの応援歌「六甲おろし」は、今でも阪神ファンに歌い継がれている名曲である。

阪神ファンのみならず、プロ野球ファンなら誰もが知っている名曲であると言って良い。

 

 

 

なお、余談であるが、「六甲おろし」は、現在は、「オウ オウ オウ オウ 阪神タイガース」と歌われているが、

当初の歌詞は「オウ オウ オウ オウ 大阪タイガース」であった。

つまり、「オウ オウ オウ オウ」と「大阪タイガース」は、韻を踏んでいる歌詞だったのである。

その後、球団名が「阪神タイガース」となったため、現在は「オウ オウ オウ オウ 阪神タイガース」となっているが、これでは歌詞の意味が通らない。

だが、殆んどの阪神ファンは、そんな事は気にも留めずに歌っている。

どうでも良い話だが、実は「六甲おろし」には、そんな経緯が有ったという事である。

 

<1939(昭和14)年のプロ野球②~鶴岡一人(法政-南海)、高須清(早稲田-イーグルス)などの、東京六大学野球出身の大物新人がプロ野球入り~鶴岡一人は、1年目から「主将」を任され、「10本塁打」で「本塁打王」に輝く!!>

 

 

1939(昭和14)年は、法政大学から南海に入団した鶴岡一人、早稲田大学からイーグルスに入団した高須清など、

東京六大学野球出身の大物選手達がプロ野球入りしたが、当時のプロ野球は「職業野球」として蔑まれ、学生野球よりも一段低く見られていた。

では、何故、鶴岡がプロ野球に入ったのかといえば、鶴岡曰く「どうせ兵隊に取られるから、それまでは思いっきり、好きな野球をやりたかった」との事であった。

なお、鶴岡一人は、抜群の統率力を買われ、南海入団1年目から「主将」を任され、いきなり「10本塁打」で「本塁打王」を獲得するという大活躍を見せた。

そして、鶴岡はこの年(1939年)限りで兵役に取られ、暫くの間、野球界からは離れた。

 

<1939(昭和14)年のプロ野球③~中京商出身の野口二郎がセネタースに入団し、新人ながら33勝19敗(69試合登板、38完投8完封、防御率2.04)の大活躍>

 

 

1939(昭和14)年のプロ野球には、前述の大学出身者ばかりでなく、中等野球出身の有望選手も入って来た。

中京商(現・中京大中京)のエースとして、甲子園で大活躍した野口二郎は、この年(1939年)、セネタースに入団すると、

新人ながら、33勝19敗(69試合登板、38完投8完封、防御率2.04)という、凄まじい大活躍を見せた。

野口二郎の凄さは、何と言っても、そのスタミナであるが、この後、野口二郎は数々の「伝説」を残して行く事となった。

 

<1939(昭和14)年のプロ野球④~各球団の有力選手が、「兵役」で次々に去って行く中、スタルヒン「42勝」、川上哲治が「打率.338」で初の首位打者を獲得するなど、充実した陣容の巨人が優勝!!~「巨人第1期黄金時代」の幕開け>

 

 

1939(昭和14)年のプロ野球は、「兵役」により、各球団の有力選手達が、次々にグラウンドを去って行った。

巨人は三原脩、前川八郎、伊藤健太郎、タイガースは藤村富美男、山口政信、阪急は宮武三郎、堀尾文人などが、続々と「入営」して行った。

そのため、各球団ともに、陣容が手薄となったため、前述の通り、各球団は学生野球の有力選手達を次々に入団させて行ったのである。

そんな中、最も陣容を充実させていたのが、巨人であった。

 

 

巨人は、沢村栄治が抜けた後、大黒柱に成長していたスタルヒンが、

この年(1939年)、何と42勝15敗 防御率1.73(68試合登板、38完投10完封)という、物凄い成績を残した。

スタルヒンの、シーズン「42勝」は、不滅の大記録として残っているが、実は、当初はシーズン「40勝」というのが公式記録であった。

 

 

しかし、後年(1961年)、稲尾和久(西鉄)が、シーズン「42勝」を達成した時、改めて1939(昭和14)年のスタルヒンの記録が掘り起こされ、その結果、公式記録の解釈の誤りが発見されたため、「2勝」が追加され、スタルヒンは実は「42勝」していたと、「訂正」された。

まだ記録が未整備だった時代とはいえ、稲尾としてみれば、何とも言えない気持ちだったのではないだろうか。

 

 

また、同年(1939年)は、巨人に入団して2年目の川上哲治が、打率.338で、早くも初の「首位打者」を獲得した。

川上哲治は、当時19歳の若さだったが、19歳での「首位打者」というのは、今もなお、「史上最年少の首位打者」として、誰にも破られていない大記録である。

「打撃の神様」川上哲治は、こうして大打者への第一歩を歩み始めた。

 

 

1939(昭和14)年のプロ野球は、前述の通り、便宜上の「3季制」が採られ、

最終的には「長期1シーズン制」の結果により、優勝チームや個人タイトルが表彰されたが、

春の優勝はタイガース、夏の優勝は阪急、そして秋の優勝がは巨人という結果になり、

それを総合して、1939(昭和14)年の年度優勝は巨人という結果になった。

これ以降、藤本定義監督率いる巨人は無敵の黄金時代を築いて行くが、この年(1939年)が、「巨人軍 第1期黄金時代」の幕開けとなった。

 

<1939(昭和14)年の世相①~「ノモンハン事件」で、満蒙国境で日本軍がソ連軍に惨敗~日本軍の見通しの甘さが招いた悲劇>

 

 

この年(1939年)は、日本でも戦争の影が色濃くなって来たと書いたが、

次第に、日本にとって、悪いニュースが増えて来た時期であった。

1939(昭和14)年5~9月、満蒙国境で、日本軍がソ連軍と戦火を交え、圧倒的な軍事力の差により、日本軍は惨敗を喫した。

所謂「ノモンハン事件」であるが、当時の日本軍の軍事力は、気が付けば世界の列強の中でも、かなり劣るものとなっていたが、そういった現状分析も行なわれないまま、無謀な戦いにより、多くの人命が失われてしまった。

 

<1939(昭和14)年の世相②~「独ソ不可侵条約」で、ドイツのヒトラーと、ソ連のスターリンが手を結び、世界中に衝撃が走る~「欧州情勢は複雑怪奇」という「迷言」を残し、平沼騏一郎内閣が総辞職>

 

 

 

 

 

1939(昭和14)年8月23日、世界中を驚愕させる出来事が有った。

何と、「不倶戴天の敵」と思われていた、ヒトラーのドイツと、スターリンのソ連が手を結び、

「独ソ不可侵条約」が締結されたのである。

これは、ドイツとソ連で、それぞれポーランドに侵攻し、両国で分割してしまおうという「秘密協定」であった。

 

 

 

まさか、ヒトラーとスターリンが手を組むなどとは、夢にも思っていなかった日本は、このニュースに大きなショックを受けた。

社会主義国家のソ連は、自由主義陣営みんなの共通の敵と思われており、日本とも敵対するソ連を挟み撃ちにしようと、日本はドイツと誼を通じていた筈なのに…。

あまりのショックに、時の平沼騏一郎首相は、「欧州情勢は複雑怪奇」という「迷言」を残し、内閣総辞職してしまった。

このように、日本は当時、「情報戦」でも完敗していた。

「こんな事で、日本はどうなってしまうのだろうか?」

当時の日本国民は皆、不安を抱いたのではないだろうか。

 

<1939(昭和14)年の世相③~1939(昭和14)年9月2日、ドイツがポーランドに侵攻、英仏が直ちにドイツに「宣戦布告」し、「第二次世界大戦」が勃発>

 

 

 

1939(昭和14)年9月2日、ソ連と手を組み、東側の安全を確保したドイツが、満を持してポーランドに侵攻した。

これを受けて、英国(イギリス)、フランス両国が、直ちにドイツに「宣戦布告」し、遂に「第二次世界大戦」が勃発してしまった。

こうして、「第一次世界大戦」の終戦(1919年)から、僅か20年にして、再び「世界大戦」が始まったが、この後、人類は未曽有の地獄の日々を体験する事となる。

 

<1939(昭和14)年の世相④~「隣組」が強化され、政府・軍部による「国民統制」が強まる~「隣組の歌」は、後に「ドリフ大爆笑」で「替え歌」として歌われる>

 

 

 

「第二次世界大戦」が始まり、世界情勢が一気に風雲急を告げて行く中、

日本政府や軍部は、「国民統制」を強めて行った。

「隣組」という制度が作られ、国民同士を相互に監視させようというのも、「国民統制」の一環である。

全ては「お国のために」というわけであるが、隣人同士で監視する社会というのは、何だか今の「自粛警察」を彷彿させるものが有る。

 

 

 

ところで、「とんとんとんからりと隣組」という、「隣組の歌」の歌詞は、

遥か後年、ザ・ドリフターズが、「ドリフ大爆笑」のオープニングで、「替え歌」として歌っていた。

そう、「ド・ド・ドリフの大爆笑」という、あの歌である。

「隣組の歌」を現代に復活させたというのも、ドリフもなかなか洒落が利いているが、「隣組」は、当時の息苦しい世相の象徴であった。

 

<1939(昭和14)年の世相⑤~大横綱・双葉山の「69連勝」⇒1939(昭和14)年1月15日、双葉山が安芸ノ海に敗れ、「70連勝」成らず>

 

 

 

戦争の影が色濃くなり、息苦しく、住みにくい世の中になっても、野球や競馬は、まだ開催されていた。

そして、野球や競馬以上に、人々を熱狂させていたのが、相撲(大相撲)であった。

相撲では、当時、大横綱と言われた双葉山が、1936(昭和11)年1月場所以来、「69連勝」を続け、無敵の強さを誇り、日本国民を熱狂させていた。

 

 

 

 

だが、1939(昭和14)年1月場所の4日目、1月15日に、双葉山安芸ノ海に敗れ、遂に「69連勝」でストップし、「70連勝」を逃した。

無敵の双葉山が敗れた事に、人々は大きな衝撃を受けたが、それでも、双葉山が大横綱である事に変わりはなかった。

なお、「69連勝」は、未だに大相撲の最高記録として残る、不滅の大記録である。

という事で、戦時色が濃くなる中、クモハタが登場し、「早慶戦」で優勝決定戦が行われ、スタルヒン、川上哲治が大活躍し、双葉山が大横綱として君臨するなど、1939(昭和14)年は、人々がまだ戦争以外の娯楽に熱狂する余裕も残されている時代ではあった。

しかし、この後、日本は更に戦争の泥沼に足を突っ込んで行く事となる。

 

(つづく)