日本ダービーと早慶戦とプロ野球の歴史⑤(1941) ~史上初の「三冠馬」セントライトの伝説~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1940(昭和15)年、戦時色が強まる中、「日本ダービー」もプロ野球も盛況であり、

競馬界と野球界は盛り上がっていたが、翌1941(昭和16)年になり、世の中は、ますます重苦しい雰囲気になっていた。

いよいよ、日本とアメリカとの「対立」が、抜き差しならない所まで来ていたからである。

 

 

そんな中、1941(昭和16)年の競馬界には、伝説のスーパー・ホースが登場した。

この年(1941年)、「皐月賞」「日本ダービー」「菊花賞」の「三冠」を制し、

史上初の「三冠馬」となった、セントライトである。

という事で、1941(昭和16)年の、伝説の名馬・セントライトの大活躍と、戦時色が強まる中、必死に生き残りをかけていた野球界について、描いてみる事としたい。

 

<1938(昭和13)年4月2日…セントライト誕生⇒加藤雄策が、牝馬・ブランドソールと共に、セントライトの馬主に⇒1941(昭和16)年3月、セントライトが「皐月賞」、同年(1941)年4月、ブランドソールが「桜花賞」、を制す!!>

 

 

 

セントライトは、1938(昭和13)年4月2日、父:ダイオライト、母:フリツパンシーとの間に、岩手・小岩井農場で生まれた。

その後、セントライトは、競走馬のセリに出されたが、この時、セントライトを競り落とし、馬主となったのが、「第8回 日本ダービー」を制した、クモハタの馬主でもあった、非凡閣という出版社の社長だった、加藤雄策である。

だが、この時、セントライトと同じセリに出されていた、牝馬のブランドソールの方が、セントライトよりも高い評価を得ていたようである。

なお、セントライトとブランドソールは、共に、調教師:田中和一郎の厩舎に預けられた。

 

 

当初は、前評判どおり、やはりブランドソールの方が仕上がりが早く、

田中和一郎も、ブランドソールの方を先にデビューさせたがっていたようであるが、

馬主の加藤雄策の意向により、1941(昭和16)年3月にセントライトが先にデビューし、同年(1941年)4月にブランドソールが後からデビューする事となった。

もしも、この時、デビューの順番が逆だったら、セントライト「三冠」達成は無く、もしかしたら、ブランドソールの方が「三冠」の栄誉を達成していたかもしれない、とは後年よく言われている。

しかし、実際の歴史では、セントライトが先にデビューし、セントライトは、デビュー戦となった1941(昭和16)年3月15日、横浜開催の新呼馬で、12頭立てで7番人気という低評価を覆して1着になると、3月30日、横浜競馬場で開催された「第3回 皐月賞」で、1番人気に推されたセントライトは見事に優勝を果たした。

この時、セントライトに騎乗していた騎手:小西喜蔵は、「セントライトが、本当に強いなと思ったのは、この時だった」と、後に振り返っている。

なお、翌1942(昭和17)年の「皐月賞」は、セントライトの弟・アルバイトが優勝し、兄弟で「皐月賞」を連覇すると、戦後の1949(昭和24)年には、その下の弟・トサミドリも「皐月賞」を制した。

これは、「史上唯一の、三兄弟による同一クラシック競走制覇」との事である。

 

 

なお、この時の「第3回 皐月賞」で、セントライトは、2着:ミナミモアに3馬身差を付けて圧勝している。

ミナミモアは、セントライトの同期の中では最高額馬だったのであるが、

この後、セントライトとミナミモアは、宿敵同士として、「日本ダービー」「菊花賞」でも、激闘を繰り広げる事となる。

 

 

 

一方、牝馬・ブランドソールは、1941(昭和16)年4月5日、中山でデビューすると、

ブランドソールは、デビュー戦で2着に2馬身半の差を付け、アッサリと勝利すると、

同年(1941年)4月20日、ブランドソールは「第3回 桜花賞」も、レコードタイムで、ぶっちぎりで優勝を飾った。

結果として見れば、加藤雄策の判断が見事に当たり、セントライトとブランドソールは、これ以上ないデビューを飾った。

ブランドソールもまた、素晴らしい名馬であった事は間違いない。

 

<1941(昭和16)年5月18日…「第10回 日本ダービー」で、セントライトが優勝!!~セントライト、「皐月賞」「日本ダービー」の「二冠」を制す!!~セントライトと「3強」を形成していたブランドソールは7着、ミナミモアは9着に終わる>

 

 

 

1941(昭和16)年5月18日、東京競馬場で、「第10回 日本ダービー」が開催された(18頭立て)。

結果から先に言うと、セントライトが2着:ステーツに8馬身差を付ける大独走で優勝し、見事に、セントライトが「皐月賞」「日本ダービー」の「二冠」を制した。

 

 

セントライトは、「皐月賞」を制した後、中山開催のレースで優勝、その後、東京開催の古呼馬特殊ハンディキャップでは僅差の2着、

「日本ダービー」直前に行われた古呼馬戦では、同年(1941年)秋の「天皇賞」を制する事となるエステイツを破り1着、

これで、セントライトは、ダービー直前で4戦3勝、2着1回という絶好調の状態で、ダービーに挑んだ。

一方、セントライトと同じ厩舎で育てられ、苦楽を共にして来たブランドソールは、「桜花賞」も含め3戦全勝、「皐月賞」ではセントライトに敗れ2着となったミナミモアは、「皐月賞」の次のレースでは2着に10馬身差を付けて圧勝し、「最高価格馬」の実力を見せた。

こうして迎えた「第10回 日本ダービー」は、セントライト、ミナミモア、ブランドソールが「3強」を形成し、事前の人気も、この3頭に集中していた。

ちなみに、1番人気:ミナミモア、2番人気:セントライト、3番人気:ブランドソールである。

 

 

 

 

こうして迎えた「第10回 日本ダービー」であるが、セントライトは圧倒的な強さを見せた。

レースは、まずはミナミモアが先行したが、「皐月賞」の時と同じく、小西喜蔵が騎乗していたセントライトは、その3番手を追走すると、

セントライトは、第4コーナーを回った所で、小西喜蔵のムチが入ったのを合図に、一気にスパートをかけると、そのまま物凄い加速を見せ、

最後は、セントライトが2着:ステーツに8馬身差を付け、ぶっちぎりの大独走で、見事にダービー制覇を果たした。

セントライトは、これで「皐月賞」「日本ダービー」の「二冠」を達成したが、2着に8馬身差の優勝というのは、1955(昭和30)年のオートキツと並び、「日本ダービー」史上最大着差となっている。

なお、ブランドソールは7着、ミナミモアは9着という結果に終わった。

とにかく、セントライトが圧倒的に強すぎた、「第10回 日本ダービー」であった。

 

<セントライト、1941(昭和16)年の秋競馬で、史上初の「三冠」を目指す⇒「菊花賞」前に4戦2勝で、最終関門「菊花賞」に挑む!!>

 

 

「第10回 日本ダービー」を制した後、夏の間、セントライトは休養した。

セントライトは、1941(昭和16)年の「皐月賞」「日本ダービー」の「二冠」を制し、残すクラシック・タイトルは、秋の「菊花賞」である。

セントライト陣営は、ハッキリと「三冠」に狙いを定めていた。

そして、同年(1941年)秋、セントライトは復帰し、4戦2勝という成績を残したが、その結果は、下記の通りである。

 

1941(昭和16)年 9/27 古呼馬特殊ハンディキャップ(横浜)…3着(2番人気)

1941(昭和16)年 10/5 古呼馬(横浜)…1着(2番人気)

1941(昭和16)年 10/12 横浜農林省賞典4歳・5歳呼馬(横浜)…1着(1番人気)

1941(昭和16)年 10/18 古呼馬(京都)…2着(1番人気)

 

セントライトは、まずは順調な戦績で、10/26に京都で開催される「第4回 菊花賞」へと挑む事となったが、

セントライトのライバル、ミナミモアも、「菊花賞」の直前で3戦2勝として、同じく「第4回 菊花賞」に臨んだ。

こうして、セントライト、ミナミモアという宿敵同士が、「皐月賞」「日本ダービー」に続き、三度、「菊花賞」で激突する事となった。

 

<1941(昭和16)年10月26日…「第4回 菊花賞」で、セントライトがミナミモアとの激闘を制し、優勝!!~セントライト、「クラシック三冠」を達成し、史上初の「三冠馬」の栄冠に輝く!!⇒しかし、その直後、セントライトは競走馬を引退(通算12戦9勝)⇒「セントライト記念」に、その名を残す~ブランドソールは「通算24戦10勝」、ミナミモアは「通算16戦7勝」の記録を残す>

 

 

 

 

1941(昭和16)年10月26日、京都競馬場で、「第4回 菊花賞」が開催された(6頭立て)。

セントライトの「三冠」達成成るか、それとも、ライバルのミナミモアが阻止するか、注目が集まった。

こうして行われた「菊花賞」は、「日本ダービー」と同じく、まずはミナミモアが先行する展開となったが、

これまで、セントライトを「二冠」に導いて来た騎手:小西喜蔵は、慌てず騒がず、堂々たる手綱さばきで、セントライトを抑えると、

第4コーナーを回った所で、小西喜蔵セントライト「さあ、行くぞ!!」とばかりに、鞭を入れた。

すると、セントライトは直線に入った所で、一気に加速し、セントライトはミナミモアをあっという間に抜き去ると、セントライトは2着:ミナミモアに2馬身半の差を付け、1着でゴール!!

セントライト、「皐月賞」「日本ダービー」に続き、「菊花賞」をも制し、遂に「クラシック三冠」達成!!!!

セントライトは、こうして史上初の「三冠馬」となった。

 

 

 

 

こうして、セントライトは遂に史上初の「三冠」を達成したが、

当時の競馬界では、「三冠」という概念がまだ無く(※そもそも、「クラシック三冠」レースが揃ってから、まだ3年目だった)、

当時はセントライトの快挙も、あまり騒がれる事は無かった。

しかし、セントライトが「史上初の三冠馬」である事は、後世になればなるほど、高く評価され、今では「伝説の名馬」として、語り継がれている。

 

 

なお、セントライトは、「三冠」を達成した1941(昭和16)年限りで、競走馬を引退してしまったが、デビューから引退までが同一年という「三冠馬」は、未だにセントライトのみである。

1941(昭和16)年の1年間、「三冠」全てを制した後、風のように去って引退したセントライトは、競馬の殿堂入りを果たしているが、

まさしく、「伝説の名馬」と呼ぶに相応しい存在であった。

 

 

セントライトは、その後、種牡馬に転向し、1965(昭和40)年2月1日、27歳という長寿を全うして、亡くなったが、

1947(昭和22)年には、史上初の「三冠馬」セントライトを記念し、「セントライト記念」というレースが創設された。

「セントライト記念」は、今日までずっと続いているレースであるが(※2019年で「第73回」)、今では「菊花賞トライアル」に位置付けられている。

また、セントライトの良きライバルだった、ブランドソールとミナミモアであるが、

ブランドソール「通算24戦10勝」、ミナミモア「通算16戦7勝」の記録を残している。

セントライトは圧倒的に凄い名馬だったが、ブランドソール、ミナミモアというライバル達もまた、忘れ難き名馬だったと言って良いであろう。

 

<1941(昭和16)年の「東京六大学野球」と「早慶戦」~慶応「百万ドル内野陣」の活躍~春は法政、秋は早稲田が優勝~春の「早慶戦」1回戦は、「日本ダービー」と同日開催>

 

 

1941(昭和16)年の東京六大学野球野球は、

前年(1940年)に続き、春2回戦総当たり、秋1回戦総当たりという形式で、リーグ戦が行われた。

そして、政府や軍部による「野球弾圧」の影響を受け、ウィークデーでの試合開催は禁止されていたため、

春のリーグは、雨天中止などの影響も有り、実に3ヶ月もの長丁場のリーグになってしまった。

 

 

 

なお、この時期の慶応は、「百万ドル内野陣」と称される、鉄壁の内野陣が、固い守備を見せていた。

慶応の「百万ドル内野陣」とは、即ち、一塁:飯島滋弥 二塁:宮崎要 三塁手:宇野光雄 遊撃手:大館盈六という、各メンバーである。

この内、大館盈六以外の3人は、後にプロ野球に入っている。

 

 

一方、この時期の早稲田のエースだったのは、石黒久三である。

石黒久三は、1938(昭和13)年秋から、早慶戦のマウンドにも立ち、

以後、1941(昭和16)年まで、早慶戦で通算5勝6敗という成績を残している。

石黒は、戦時下の最も苦しい時期だった早稲田を支えたエースとして、歴史にその名を残した。

 

 

という事で、1941(昭和16)年春の東京六大学野球であるが、

まずは、「第10回 日本ダービー」で、セントライトが、ぶっちぎりの優勝を飾ったのと同じ日、

春の「早慶戦」1回戦が行われたが、その結果は、下記の通りである。

 

1941(昭和16)年 5/18 早稲田〇11-8●慶応

 

試合は、激しい乱打戦の末、早稲田が慶応に11-8で打ち勝った。

しかし、この後、雨天中止により、「早慶戦」2回戦は、約1ヶ月も後になってしまった。

その後、6月15日の「早慶戦」2回戦の前日、6月14日に、慶応が法政に引き分け、早稲田が明治に敗れ、

その結果、法政が全日程を終え、7勝2敗1分で単独首位、早稲田は7勝2敗という事で、早稲田は「早慶戦」2回戦に勝てば優勝、という状況であった。

そして、「早慶戦」2回戦の結果は、下記の通りである。

 

1941(昭和16)年 6/15 早稲田●3-7〇慶応

 

「早慶戦」2回戦は、慶応が意地を見せ、慶応が早稲田を7-3で破った。

この結果、先に全日程を終えていた法政が優勝したが、これが法政の戦前最後の優勝である。

早稲田は、7勝3敗で法政に一歩及ばず2位に終わった。

なお、慶応「百万ドル内野陣」の一角、大館盈六(慶応)が、33打数13安打 打率.394で、首位打者を獲得した。

 

 

1941(昭和16)年秋になると、日米の対立が抜き差しならない所まで来ており、

もはや、野球どころではないというような、緊迫した雰囲気が溢れていた。

しかし、それでも東京六大学野球は開催されたが、1回戦総当たりであり、

しかも、試合は日曜日か祭日に限られ、土曜日は試合開催も出来ず、1日に6校が揃って出場し、1日で3試合を消化した。

神宮球場も、内野席は学生か招待席のみで、有料入場者は外野席にしか入れなかった。

試合前は、ご覧の通り、選手達が明治神宮に向かって遥拝するという光景も見られた。

 

 

六大学の各校の合宿所では、僅かな空地でも野菜を耕したりと、

選手達も、非常時に備えるような態勢を取っていた。

だが、彼らには、それでも野球をやりたいという情熱が有った。

 

 

こうして行われた、1941(昭和16)年秋の東京六大学野球は、

非常に珍しく、「早慶戦」が、リーグ第1戦で行われた。

その「早慶戦」の結果は、下記の通りである。

 

1941(昭和16)年 9/23 早稲田●0-1〇慶応

 

試合は投手戦となったが、慶応が僅か1点を守り切り、慶応が1-0で早稲田を破った。

なお、リーグ戦は、その後に早稲田が4連勝し、優勝を飾っている。

こうして、1941(昭和16)年も、何とか「東京六大学野球」と「早慶戦」の灯は守られたが、それも風前の灯火になっていた。

 

<1941(昭和16)年のプロ野球①~「名古屋金鯱軍」と「翼」が合併し、「大洋」が誕生>

 

 

 

 

1941(昭和16)年、前年(1940年)に「セネタース」から改称されていた「翼」が、「名古屋金鯱軍」と合併し、新たに「大洋」という合併球団が誕生した。

この「大洋」は、戦後の「大洋ホエールズ」とは、全く無関係である。

そして、「大洋」のエース・野口二郎は、相変わらず、鉄腕ぶりを発揮していた。

 

<1941(昭和16)年のプロ野球②~「ライオン軍」が、遂に「朝日軍」に改称>

 

 

 

前年(1940年)に、スポンサーである「ライオン歯磨」への筋を通し、

「ライオンは日本語だ!!」と、断固として主張していた「ライオン軍」は、この年(1941年)、遂に「朝日軍」へと改称した。

「ライオン軍」の抵抗も、それまでだったが、「ライオン軍」は、それまで最下位か、ビリから2番目が「定位置」であり、

「朝日軍」に改称された、この年(1941年)も、「朝日軍」は最下位と苦戦した。

なお、念のために言っておくが、「朝日軍」とは言っても、朝日新聞とは何の資本関係も無く、全く無関係である。

 

<1941(昭和16)年のプロ野球③~亀田忠、長谷川重一、堀尾文人、亀田敏夫の「日系2世」の選手達が、アメリカからの「帰国命令」により退団、帰国>

 

 

 

1941(昭和16)年のプロ野球は、悪化する日米関係の影響を受け、非常に悲しい出来事が有った。

同年(1941年)6月14日、アメリカ国籍を持つ「日系2世」の4選手、黒鷲の亀田忠投手、長谷川重一投手、阪神の「ジミー」こと堀尾文人選手(巨人、阪急などでも活躍)、亀田敏夫投手が、本国アメリカからの「帰国命令」を受け、突如、アメリカに帰国してしまったのである。

彼らは、ファンに別れを告げる事も出来ず、日本を去らなければならなかったが、それぞれ、個性的な名選手ばかりであった。

これもまた、日米関係の悪化と、戦争の影がもたらした「悲劇」である。

 

<1941(昭和16)年のプロ野球④~ボールの反発力の低下により、極端な「投高打低」状態が現出⇒1名古屋軍が、1シーズンに「ノーヒットノーラン」を4度も食らい、「完封試合」がリーグ全体で119試合、「3割打者」は川上哲治(巨人)、ただ1人>

 

 

1941(昭和16)年になると、プロ野球で使用されるボールの質も、いよいよ粗悪になり、

ボールの反発力は、極端に低下してしまった。

その結果、異様な「投高打低」状態が現出し、名古屋軍が1シーズンで「ノーヒットノーラン」を食らい、

リーグ全体で「完封試合」が119試合も有り、「3割打者」も、川上哲治(巨人)ただ1人、という状態になった。

その結果、全体的に投手優位な状況となったが、そんな中でも、打率3割を売った川上哲治は、流石は天才打者であった。

 

<1941(昭和16)年のプロ野球⑤~藤本定義監督率いる巨人が「3年連続優勝」を達成>

 

 

1941(昭和16)年のプロ野球は、春季は巨人が優勝、夏季は「バント戦法」に徹した阪急が優勝し、秋季はまた巨人が優勝した。

その結果、年間では巨人が2位・阪急に9ゲーム差という大差を付け、藤本定義監督率いる巨人が、「3年連続優勝」を達成した。

巨人は、やはり他球団に比べて、陣容が豊富であり、しかも勝ち方をよく知っていた。

まさに、巨人は「常勝軍団」だったが、その巨人を率いた藤本定義監督も、巨人の個性派選手達を、よくまとめていた。

なお、新球団「大洋」は、3位と大健闘している。

 

<1941(昭和16)年の世相①~東条英機首相、「戦陣訓」を発表~「生きて虜囚の辱めを受けず」と説く>

 

 

 

1941(昭和16)年1月8日、東条英機首相は「戦陣訓」を発表した。

この「戦陣訓」には、「生きて虜囚の辱めを受けず」という文言が有ったが、

要するに、「敵の捕虜になるよりは、潔く、自ら死を選ぶべし」という意味である。

いよいよ、一国の首相が、国民に対して、こんな事を言うようになってしまった。

当時の日本国民は、これをどんな気持ちで聞いていたのであろうか。

 

<1941(昭和16)年の世相②~4月、「国民学校令」が公布され、小学校⇒「国民学校」に改称~「国民科」など5教科編成で、子供達にも「天皇陛下万歳」「お国のために」の精神を叩き込む>

 

 

 

1941(昭和16)年4月、「国民学校令」が公布され、小学校⇒「国民学校」に改称された。

「国民学校」では、「国民科」など5教科編成で、必ず宮城遥拝を義務付けるなど、

子供達にも「天皇陛下万歳」「お国のために」の精神を叩き込んだ。

いよいよ、大人から子供まで、国民総出となって、戦時体制を強化しようというのが、政府と軍部の思惑であった。

このように、学校教育の現場も大きく変わったが、子供達は、勿論、素直にこの方針に従った。

いつの時代も、子供達は意外と順応性が高いものである。

 

<1941(昭和16)年の世相③~「ABCD包囲陣」⇒「日ソ中立条約」⇒「独ソ戦」の開始⇒日本軍、南部仏印に進駐開始>

 

 

 

1941(昭和16)年頃、日本に対しては、「ABCD包囲陣」が敷かれていた。

「ABCD」とは、即ち、「A=America(アメリカ)、B=Britain(英国)、C=China(中国)、D=Dutch(オランダ)」であったが、

アメリカは、日本への石油輸出を禁止する措置を取った。

石油が入って来なければ、鉄を作る事も出来ず、従って、武器や弾薬を作る事も出来ない。

日本は、いよいよ追い詰められて行った。

 

 

 

そんな中、1941(昭和16)年4月13日、「日ソ中立条約」が、ソ連の指導者スターリン、日本の外相:松岡洋右との間で締結された。

当時、実はソ連は「独ソ戦」を念頭に置いており、日本も、南部仏印進駐を狙っていたが、お互いに、背後を衝かれる事を警戒し、

とりあえず、日ソ両国は不可侵条約を結び、後顧の憂いを無くしたという事である。

しかし、歴史上、ソ連(ロシア)ほど信用出来ない国も無い。

それでも、ソ連と不可侵条約を結ばなければならないほど、当時の日本は切羽詰まっていた。

 

 

 

 

そして、1941(昭和16)年6月22日、ドイツがソ連を奇襲攻撃し、

遂に「独ソ戦」の火蓋が切って落とされた。

「独ソ戦」は、世界史上に残る、まさに総力戦だったが、

「独ソ戦」とは、一言で言えば、地獄の戦いであった。

この後、ヒトラーのドイツと、スターリンのソ連といいう、独裁者が率いる国同士で、悲惨な戦いが、延々と繰り広げられる事となった。

 

 

1941(昭和16)年7月28日、日本軍が南部仏印に進駐した。

アメリカから石油輸出を止められてしまった以上、資源を持たない日本としては、

何としても、何処かの国を占領して、資源を確保しなければならない。

そこで、前年(1940年)の北部仏印に続き、南部仏印に進駐したわけである。

この事は、当然、米英両国を刺激したが、いよいよ、日米の対立は決定的となった。

 

<1941(昭和16)年の世相④~「御前会議」で、「対米・英・蘭戦争」を決定⇒アメリカからの最後通牒「ハル・ノート」⇒「真珠湾攻撃」(1941(昭和16)年12月8日)で、遂に「太平洋戦争」が開戦>

 

 

 

 

1941(昭和16)年11月5日、昭和天皇が列席した「御前会議」で、

「対米・英・蘭戦争」開戦の方針が決定された。

遂に、日本はアメリカと戦争する事が決まったが、武力攻撃発動は12月初旬という事も決定された。

この時、強大なアメリカに立ち向かうと決まったは良いが、「どのように戦争を終わらせるか」という事は、何も決まっていないに等しかった。

「日露戦争」(1904~1905年)の時は、開戦前に、あらかじめアメリカに、戦争終結の際の仲介を頼んでおくなど、事前に周到な根回しをしていたが、この時は、そんな事は全くやっていなかった。

果たして、当時の政府と軍部は、一体、どのような青写真を描いていたのだろうか?

そして、この時、昭和天皇は、どんな心境だったのだろうか。

 

 

 

 

この時、昭和天皇はどんな心境だったのかについて、直接は何も語っていない。

しかし、昭和天皇は、「四方(よも)の海みなはらからと思ふ世になど波風の立ち騒ぐらむ」という、

かつて明治天皇が詠んだ和歌を、自らも口にしている。

これは、「本当は戦争は嫌だ。更に、外交努力を続けよ」というのが、昭和天皇の本心だった、という事を示唆していると言われている。

 

 

 

1941(昭和16)年11月26日、アメリカのハル国務長官から、日本に対し、

「日本は、中国から撤兵せよ」「日独伊三国同盟を破棄せよ」「満州事変以前の状態に戻せ」

という内容の「最後通牒」が有った。

こんな条件は、当時の日本としては、とても飲めるものではなかった。

アメリカも、それをわかっていて、わざと日本を「挑発」したと思われる。

日本も、とっくにアメリカとの戦争を決意していたが、この「ハル・ノート」が、最後の決定打になった。

日米間が、外交交渉により「和解」する望みは、この時、完全に断たれたと言って良い。

 

 

 

 

1941(昭和16)年12月8日、日本軍がハワイの真珠湾を「奇襲」攻撃した。

所謂「真珠湾攻撃」であるが、ここに遂に「太平洋戦争」が開戦された。

「真珠湾攻撃」により、日本はハワイに駐留するアメリカ海軍に大打撃を与え、日本国民は快哉を叫んだ。

しかし、これが日本にとって、長く続く「地獄の日々」の始まりとなったのである。

 

(つづく)