【今日は何の日?】1993/5/19…「ヤクルト17-16広島」~愛すべき「馬鹿試合」を語る~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

本日(5/19)は、1993(平成5)年5月19日、神宮球場で行われたヤクルト-広島戦で、

何と、「ヤクルト17-16広島」という、物凄いスコアでの大乱戦が有った日である。

「17-16」というスコアは、今もなお、「プロ野球史上最大スコアでの1点差試合」として、記録に残っている。

 

 

このように、野球の試合において、投手陣が総崩れになり、

両チームが激しく打ち合い、大量点を取り合う試合を「乱打戦」というが、

そのような展開を、俗に「馬鹿試合」ともいう。

というわけで、今回は、1993(平成5)年5月19日の「ヤクルト17-16広島」を筆頭に、

プロ野球史上に残る、愛すべき「馬鹿試合」を、いくつか、ご紹介させて頂きたい。

なお、私はこのような「馬鹿試合」に遭遇する事こそが、野球観戦の醍醐味であると思っている。

 

<1993(平成5)年5月19日…「ヤクルト17-16広島」~プロ野球史上最大スコアの1点差試合>

 

 

 

1993(平成5)年5月19日、神宮球場で行われた、ヤクルト-広島戦は、凄まじい展開になった。

ヤクルトが1回裏に2点を取り「ヤクルト2-0広島」、広島が2回表に1点、3回表に一挙4点を取り「ヤクルト2-5広島」という状況で迎えた3回裏、ヤクルトは、池山隆寛5号満塁ホームラン、更にヤクルトの猛攻が続き、再び池山に打席が回って来た所で、何と、池山は1イニング2本目のホームランとなる、6号3ランホームランを放つなど、何と、ヤクルトは3回裏に一挙11点を奪い、「ヤクルト13-5広島」と大逆転に成功した。

このヤクルトの猛攻で、試合の大勢は決したかに思われた。

 

 

 

 

だが、その後、広島も諦めずに猛反撃し、食らい付いたが、ヤクルトが点を取って、突き放すという展開が続いた。

そして、ヤクルトと広島が小刻みに点を取り合い、「ヤクルト16-10広島」というスコアで迎えた8回表、

何と、広島が一挙6点を奪い、遂に試合は「ヤクルト16-16広島」という同点で、振り出しに戻った。

その後、両チームは、なかなか点を奪えなくなったが、16-16の同点で迎えた、延長14回裏、ヤクルトは2死満塁のチャンスを作ると、

この場面で、最後はハドラーサヨナラ安打を放ち、遂にヤクルトがこの大乱戦に決着を着け、「ヤクルト17-16広島」というスコアで、「世紀の大乱戦」は幕を閉じた。

冒頭に述べた通り、この時の「17-16」というのは、今もなお、「プロ野球史上最大スコアでの1点差試合」として残り、燦然と(?)輝いている。

 

<1946(昭和21)年6月2日…「中部日本15-14セネタース」~1993(平成5)年5月19日「ヤクルト17-16広島」に更新されるまで、「史上最多スコアでの1点差試合」だった、終戦直後の「馬鹿試合」>

 

 

前述の、1993(平成5)年5月19日の、「ヤクルト17-16広島」というスコアに更新されるまで、

プロ野球史上最多スコアの1点差試合として、ずっと記録に残っていたのが、

1946(昭和21)年6月2日、西宮球場で行われた「中部日本15-14セネタース」という試合であった。

つまり、前述の「ヤクルト17-16広島」というスコアは、この記録を実に47年振りに更新したという事になる。

「中部日本15-14セネタース」は、戦後初のプロ野球リーグ戦が開催された1946(昭和21)年という、「野球復興元年」を象徴するような、物凄い「馬鹿試合」、もとい「大乱戦」であった。

 

 

 

なお、この試合、大下弘(セネタース)「4番・投手」で先発出場し、ホームランも放っているが、中部日本打線の餌食になり、このような展開になってしまったが、この試合で勝利投手になったのは、大下と同じく「投打二刀流」だった西沢道夫(中部日本)である。

彼らは、いずれも日本プロ野球史上に残る、伝説の大選手であった。

 

<1949(昭和24)年4月26日…「巨人15-13大映」~川崎徳次(巨人)、「1試合8被本塁打13失点」を喫するも、1人で「3本塁打9打点」を他叩き出し、「15-13」の完投勝利を挙げた、「伝説の大武勇伝」>

 

 

 

 

1949(昭和24)年4月26日、石川県・金沢の「兼六園球場」で行われた、巨人-大映戦は、球史に残る、物凄い試合である。

川崎徳次(巨人)は、先発投手として登板したものの、兼六園球場というのは大変狭く、何と、川崎は大映打線に「1試合8被本塁打」も打たれ、「1試合13失点」を喫してしまた。

普通、これだけ打たれれば、ノックアウトされて敗戦投手になる所であろうが、川崎徳次は、この試合、打たれた分は打って取り返せとばかり、2回裏に満塁でタイムリー、3回裏に逆転満塁ホームラン、7回裏に再び逆転2ランホームラン、その後、大映に9-12と逆転された巨人は、8回裏に山川喜作の3ランホームランで12-12の同点に追い付いた後、川崎徳次決勝点となる、1試合3ホームラン目を叩き込んだ。

 

 

こうして、川崎徳次「1試合8被本塁打13失点」を喫しながら、「1人で3本塁打9打点」を叩き出し、最終的には「15-13」というスコアで、完投勝利を挙げてしまった。

まさに「野球は筋書きの無いドラマ」を地で行く試合であり、川崎徳次の、球史に残る「伝説の大武勇伝」であった。

 

<1993(平成5)年7月6日…「広島14-13阪神」~最大で8点ビハインドからの阪神の猛追も一歩及ばず>

 

 

 

1993(平成5)年7月6日の広島-阪神戦(広島市民球場)は、

阪神が、一時、4-12と最大で8点のビハインドが有ったが、

9回表、岡田彰布(阪神)の1号3ランホームランなどで、阪神は一挙7点を返し、

阪神が13-14と1点差に迫ったが、阪神の猛追も一歩及ばず、「広島14-13阪神」というスコアで決着した。

最後は、惜しくも敗れたとはいえ、阪神の猛反撃に、広島市民球場のビジターの阪神応援席は、沸きに沸いていた。

 

<1989(平成元)年10月5日…「ダイエー13-12西武」~ダイエーが9回1死から一挙8点を奪い、最大で8点ビハインドからの奇跡の大逆転!!~西武V逸のターニング・ポイントに>

 

 

 

1989(平成元)年のパ・リーグは、シーズン最終盤で、近鉄、オリックス、西武の「3強」が、三つ巴の激しい優勝争いを繰り広げていた。

その優勝争いの渦中にあった西武は、10月5日の西武-ダイエー戦(西武球場)で、序盤に8-0と大量リードしながら、ダイエーにジワジワと追い上げられた。

そして、西武が10-5と5点リードして迎えた9回表、ダイエーは1死から一発攻勢で一挙8点を奪う大逆転で、13-10と試合を引っ繰り返した。

その裏、西武も2点を返し、12-13と1点差に迫ったが、最後は清原和博がセカンドライナーに倒れ、「ダイエー13-12西武」というスコアで決着した。

西武としてみれば、誠に痛い痛い大逆転負けであり、西武の森祇晶監督も、「9年間(1986~1994年)の西武監督時代で、最もショックだった試合」と振り返っている。

西武は、この大逆転負けが響いて、結局、この年(1989年)は優勝を逃し、近鉄バファローズの優勝を許してしまった。

 

<1998(平成10)年7月15日…「横浜13-12巨人」~横浜ベイスターズ38年振り優勝の分岐点となった、「伝説の大乱打戦」>

 

 

 

「13-12」のスコアで、球史に残る試合といえば、この試合を挙げないわけにはいかない。

1998(平成10)年7月15日、横浜スタジアムで行われた、横浜-巨人戦である。

横浜ベイスターズは、前日(7/14)の同カードの巨人戦、「大魔神」佐々木主浩が、7-5とリードした9回表に2点を奪われ、7-7の同点に追い付かれた後、石井琢朗のサヨナラ打で、「横浜8-7巨人」というスコアで劇的なサヨナラ勝ちを収めていたが、翌7/15、横浜は巨人に序盤で0-7と大量リードを許しながら、その後、横浜は猛反撃した。

巨人は、清原和博、松井秀喜、高橋由伸の「MKT」砲が揃ってホームランを放ち、8回表を終わって、巨人が12-9とリードしたが、

横浜は、その裏、ローズのタイムリーで1点返し、10-12と2点差に迫った後、佐伯貴弘が、一度は槙原寛己にライトフライに打ち取られながら、何と、槙原の「ボーク」により、打ち直しになった後、佐伯は起死回生の同点2ランホームランを放ち、横浜が12-12の同点に追い付いた。

 

 

 

 

横浜は、12-12の同点で迎えた9回裏、最後は波留敏夫劇的なサヨナラ打を放ち、

結局、「横浜13-12巨人」のスコアで巨人にサヨナラ勝ちするという、物凄い展開となった。

この巨人戦での「2試合連続サヨナラ勝ち」により、横浜ベイスターズ一気に勢いに乗り、38年振りの優勝まで、突っ走って行った。

というわけで、横浜ファンの私にとっては、忘れられない、思い出の試合である。

 

<プロ野球史上、1試合の1チーム最多得点=1940(昭和15)年4月6日…「阪急32-2南海」、両チーム合計最多得点試合(計35得点)=1950(昭和25)年3月16日…「西鉄21-14東急」、最大得点差完封試合=1946(昭和21)年7月15日…「グレートリング26-0ゴールドスター」、2005(平成17)年3月27日…「ロッテ26-0楽天」>

 

 

 

 

プロ野球史上、「1試合の1チーム最多得点」は、1940(昭和15)年4月6日、「阪急32-2南海」(西宮球場)という試合で、阪急が記録した、「1試合32得点」であるが、この記録は、何と80年間も破られていない。

「両チーム合計最多得点試合(計35得点)」という記録は、1950(昭和25)年3月16日、「西鉄21-14東急」(大須)という試合である。

両チーム合わせて「35得点」という記録も、未だに更新されていない「大記録」である。

そして、「最大得点差完封試合」は、1946(昭和21)年7月15日の「グレートリング26-0ゴールドスター」(高岡)、

2005(平成17)年3月27日の「ロッテ26-0楽天」(千葉マリンスタジアム)である。

楽天は、新球団としての初年度、開幕2試合目にして、あまりにも無残な大敗を喫し、前途多難なスタートとなったが、その予感どおり、シーズン97敗を喫し、楽天はダントツ最下位に終わっている。

 

<猛打の記録…2009(平成21)年6月11日…「ロッテ23-2広島」~ロッテが「1イニング15得点」の新記録!!>

 

 

 

 

2009(平成21)年6月11日、交流戦でのロッテ-広島戦で、ロッテは6回裏に「1イニング15得点」という、プロ野球新記録を達成し、

最終的には「ロッテ23-2広島」というスコアで圧勝した。

ロッテの「1イニング15得点」は、今もプロ野球記録として残っている。

 

<10点差大逆転勝利=①1949(昭和24)年10月2日…「大陽11-10大映」、②1951(昭和26)年5月19日…「松竹13-12大洋」、③1997(平成9)年5月19日…「近鉄11-10ロッテ」の3例>

 

 

プロ野球史上、最大得点差(ビハインド)からの大逆転勝利は、「10点差大逆転勝利」であり、今までに3例記録されている。

1949(昭和24)年10月2日、「大陽11-10大映」は、一時、0-10のビハインドから、大陽が11-10と大逆転勝利で、

1951(昭和26)年5月19日、「松竹13-12大洋」は、一時2-12という10点ビハインドから、松竹が13-12と大逆転した。

 

 

 

 

 

記憶に新しいのは、1997(平成9)年8月24日、近鉄-ロッテ戦(大阪ドーム)で、

近鉄が序盤で0-10と大量リードを許しながら、その後、10-10の同点に追い付き、

最後は、延長12回裏、クラークのサヨナラ打で、「近鉄11-10ロッテ」と、見事に「10点差大逆転勝利」を成し遂げた。

というわけで、野球というスポーツは、たとえ10点負けていても、最後まで決して諦めてはならないという事を示していると言えよう。

 

<1993(平成5)年6月5日…「近鉄9-8ダイエー」~近鉄、9回裏に一挙7点を奪い、大逆転サヨナラ勝ち!!>

 

 

近鉄という球団は、奇跡を呼ぶ軍団である。

前述の、1997(平成9)年の「10点差大逆転勝利」から遡る事5年前、

1993(平成5)年6月5日の近鉄-ダイエー戦で、近鉄は2-8と6点ビハインドで迎えた9回裏、

何と、一挙7点を奪い、「近鉄9-8ダイエー」というスコアで、奇跡の大逆転サヨナラ勝ちを収めた。

プロ野球史上、「9回裏に6点ビハインドを引っ繰り返し、7得点を奪い逆転サヨナラ勝ち」というのは、今もなお、記録として残っている。

ちなみに、この時、最後にサヨナラ打を放ったのは、鈴木貴久(近鉄)であった。

 

<2003(平成15)年…ダイエーの「ダイハード打線」の猛打①~5月14日「ダイエー9-8近鉄」~最大0-8からの大逆転勝利!!9回裏に一挙5点を奪う>

 

 

 

1993(平成5)年に、近鉄に屈辱的な大逆転負けを喫し、

戦前の1940(昭和15)年、南海時代に、阪急戦で「2-32」という大敗北を喫した福岡ダイエーホークスは、

2003(平成15)年、王貞治監督が作り上げた「ダイハード打線」と称される超強力打線で、物凄い試合を連発した。

まず、同年(2003年)5月14日、ダイエー-近鉄戦で、ダイエーは一時0-8という劣勢だったが、

その後、ダイエーが猛反撃し、4-8と4点ビハインドで迎えた9回裏、一挙5点を奪い、最後は松中信彦のサヨナラ打で、「ダイエー9-8近鉄」という大逆転サヨナラ勝ちを収めた。

「ダイハード打線」は、この劇的な大逆転勝ちにより、完全に覚醒したと言って良い。

 

<2003(平成15)年…ダイエーの「ダイハード打線」の猛打②~7月27日「ダイエー26-7オリックス」~1試合32安打の猛打爆発!!記録づくめの大勝>

 

 

 

 

2003(平成15)年の「ダイハード打線」は、更に凄まじい猛打を発揮した。

同年(2003年)7月27日、福岡ドームでのダイエー-オリックス戦で、ダイエーは、プロ野球新記録となる1試合32安打を放つなど、

打って打って打ちまくり、「ダイエー26-7オリックス」というスコアで大勝した。

ダイエーは、「1試合26得点のパ・リーグ新記録」、「史上初の2試合連続20安打以上」、「城島健司が1試合6安打のパ・リーグのタイ記録」を作るなど、まさに記録づくめの圧勝劇であった。

しかし、恐るべき「ダイハード打線」は、更に更に加速して行った。

 

2003(平成15)年…ダイエーの「ダイハード打線」の猛打③~8月1日「ダイエー29-1オリックス」~ダイエーがオリックスを、またしても「粉砕」、ダイエーがオリックス投手陣を火だるまに>

 

 

 

前述の「ダイエー26-7オリックス」という記録的な試合が行われてから、僅か4日後、

ダイエーは、今度はグリーンスタジアム神戸(※当時、Yahoo!BBスタジアム)で行われたオリックス-ダイエー戦で、

「ダイハード打線」は、またしてもオリックス投手陣に凄まじい猛打を浴びせ、「ダイエー29-1オリックス」というスコアで、オリックスを完膚無きまでに叩きのめしてしまった。

ダイエーは、今度は「1試合31安打」を放ち、自らが4日前に作った記録に、あと1安打と迫った。

なお、ダイエーは「ダイハード打線」の猛打が、終始、炸裂し、この年(2003年)は日本一に輝いている。

 

 

というわけで、プロ野球の歴史に残る「馬鹿試合」「大逆転試合」を、いくつか、ご紹介させて頂いたが、

実は、まだまだご紹介しきれていない試合も有るので、その続きについては、また次回のお楽しみである。

 

(つづく)