【今日は何の日?】1994/5/18…槙原寛己(巨人)、史上15人目の「完全試合」達成 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

本日(5/18)は、今から26年前の1994(平成6)年5月18日に福岡ドームで行われた巨人-広島戦で、

槙原寛己(巨人)が史上15人目の「完全試合」を達成した日である。

完全試合達成は、当時、1978(昭和53)年の今井雄太郎(阪急)以来、16年振り、史上15人目の快挙であった。

 

 

しかし、槙原の完全試合達成から、本日(5/18)で26年経過したが、

今の所、槙原以降は誰も完全試合を達成していない。

つまり、現段階では、槙原が「プロ野球史上最後の完全試合達成者」である。

次に「完全試合」が達成されるのは、一体、いつになるのであろうか?

 

<「完全試合=パーフェクトゲーム」とは!?~「1人の投手が、1試合で、1人も塁に出さず(ヒットも打たれず、四死球やエラーでも出塁させず)完全に抑えきる事」~四死球やエラーでの出塁を許しても、相手にヒットも得点も許さずに抑える「ノーヒット・ノーラン」よりも、圧倒的に難易度高し!!>

 

 

そもそも、野球の試合における「完全試合」=「パーフェクトゲーム」とは、一体、何なのかというと、

「1人の投手が、1試合で、1人も塁に出さず(ヒットも打たれず、四死球やエラーでも出塁させず)完全に抑えきる事」

を意味する。

つまり、「1人の投手が、1試合を通して、相手チームをパーフェクト(完全)に抑え込む事」を「完全試合(パーフェクトゲーム)」という。

 

 

ちなみに、「ノーヒット・ノーラン」=「無安打無得点」というのは、

「1人の投手が、1試合で、四死球やエラーでの出塁を許しても、相手にヒットも得点も許さずに抑える事」

を意味しており、「ノーヒット・ノーラン」も、プロ野球でいえば、年に1回、有るか無いかであり、

1人の投手が、一生に1回、達成出来るかどうかという、難しい記録である。

「ノーヒット・ノーラン」達成も、投手にとっては、かなり名誉な記録である。

しかし、「完全試合(パーフェクトゲーム)」は、それに加えて、四死球やエラーも含めて、1試合を通して、1人も塁に出さずに抑えきるというのだから、これは超難易度が高い記録であり、超超レアな記録である。

まさに、「完全試合(パーフェクトゲーム)」達成は、投手にとって、一度は叶えたい「夢」であると言って良い。

 

<プロ野球85年の歴史上、僅か15人しか達成者が居ない「完全試合」~超絶レアな大記録>

 

 

 

現在のプロ野球の源流である、大日本東京野球倶楽部(現・読売ジャイアンツ)が結成されたのが1934(昭和9)年で、

プロ野球のリーグ戦が始まったのが、1936(昭和11)年からであるが、そのプロ野球の約85年にわたる歴史上、

「完全試合」を達成したのは、何と、僅か15人しか居ない。

その貴重な「完全試合」達成者は、下記の通りである。

 

【完全試合の達成者】

 

①藤本英雄(巨人)50・6・28=対西日本

②武智文雄(近鉄)55・6・19=対大映

③宮地惟友(国鉄)56・9・19=対広島

④金田正一(国鉄)57・8・21=対中日

⑤西村貞朗(西鉄)58・7・19=対東映

⑥島田源太郎(大洋)60・8・11=対阪神

⑦森滝義巳(国鉄)61・6・20=対中日

⑧佐々木吉郎(大洋)66・5・1=対広島

⑨田中 勉(西鉄)66・5・12=対南海

⑩外木場義郎(広島)68・9・14=対大洋

⑪佐々木宏一郎(近鉄)70・10・6=対南海

⑫高橋善正(東映)71・8・21=対西鉄

⑬八木沢荘六(ロッテ)73・10・10=対太平洋

⑭今井雄太郎(阪急)78・8・31=対ロッテ

⑮槙原寛己(巨人)94・5・18=対広島

 

いかがであろうか。

今まで、プロ野球の公式戦は、何万試合も開催されているが、

その中で、たった15人しか達成者が居ない「完全試合」というのが、いかに超絶レアな記録だという事が、おわかり頂けるのではないか。

 

<槙原寛己以前の、最後の完全試合達成者~1978(昭和53)年8月31日、ロッテ-阪急戦で「完全試合」を達成した、今井雄太郎(阪急)>

 

 

 

 

なお、1994(平成6)年の槙原寛己(巨人)以前に、「完全試合」を達成していたのは、

1978(昭和53)年8月31日、仙台宮城球場で行われたロッテ-阪急戦での、今井雄太郎(阪急)である。

今井雄太郎は、実力が有りながらも、気が弱く、実戦ではなかなか実力を発揮出来ないでいたが、

この年(1978年)、試合前に梶本隆夫コーチに、お酒を飲まされた後、試合で投げたら好投したというエピソードが有ったが、

それ以来、「酒仙投手」と称されていら今井雄太郎が、見事に、「完全試合」という大記録を達成したのであった。

なお、結果として、これが「昭和」最後の「完全試合」であり、以後、「完全試合」達成者は、なかなか現れなかった。

 

<そして、槙原寛己(巨人)の「快挙」達成へ…実は「門限破り」で、「外出禁止令」が出される寸前だった槙原>

 

 

前述の今井雄太郎(阪急)の「完全試合」達成から16年後の1994(平成6)年、

いよいよ、槙原寛己が「完全試合」に挑む事となるが、実は、槙原の「完全試合」には、ある裏話が有った。

巨人は、年に1度の福岡遠征を行なっていたが、「完全試合」の2日前である5月16日、槙原は羽目を外しすぎて、「門限破り」を犯してしまったのである。

マネージャーから大目玉を食らい、罰金と「外出禁止」を言い渡された槙原であったが、槙原は平身低頭して謝った。

すると、マネージャーは「だったら、試合で良い結果を出せ」と、槙原に言った。

そこで、槙原は、自らが登板する5月18日の試合で、何としても勝利投手になると誓い、決死の覚悟で試合に臨む事となった。

つまり、槙原には、「どうしても負けられない」という、切羽詰まった「裏事情」が有ったのである。

 

<1994(平成6)年5月18日の巨人-広島戦(福岡ドーム)…槙原寛己(巨人)、16年振り史上15人目の「完全試合」達成!!>

 

 

 

こうして迎えた、1994(平成6)年5月18日の巨人-広島戦(福岡ドーム)で、

槙原寛己は、まさに「一世一代」の投球を見せた。

この試合は、序盤から巨人打線が爆発し、大量リードを奪ったが、

槙原は、まさに完璧な投球で、広島打線を封じ込めて行った。

そして、8回を終わって、槙原は広島の打者を1人も塁に出さず、パーフェクトに抑えていた。

「完全試合」まで、あと1イニングに迫り、福岡ドームは、異様などよめきと、緊張感に包まれた。

 

 

 

 

9回表、槙原は先頭の代打・河田雄祐を、まずはセンターフライに打ち取り、1アウト。

この時、センターの守備固めに入っていた屋鋪要は、やや硬い動きながら、センター前に落ちようかという当たりを前進してキャッチした。

槙原は、続く西山秀二をサードゴロに打ち取ったが、これまた、途中からサードの守備固めに入っていた長嶋一茂が、これを難なく捌き、2アウト。

この時、長嶋一茂は守備が安定しており、この時も全く落ち着き払って、この打球を処理していた。

そして9回2死、槙原は最後の打者、9番・御船英之をファーストのファールフライに打ち取ったが、一塁手の落合博満が、これをベンチ間際まで走った後、ギリギリで捕球して、3アウト!!

この瞬間、槙原寛己は、16年振り、史上15人目の「完全試合」を達成したのである。

試合が終わると、長嶋一茂は、槙原よりも大喜びして(?)、槙原に飛び付いた。

その後、巨人の選手達が次々に槙原の元に集まり、皆、雄叫びを上げ、そして槙原を手荒く祝福した。

 

 

 

 

 

この試合の槙原寛己の投球内容は、102球、7奪三振、内野ゴロ11、内外野フライ9、というものであった。

何度も書いているが、「完全試合」というのは、ランナーを1人も出さなければ、達成出来ない。

つまり、守備側にも、全くミスが許されないという事である。

従って、槙原が「完全試合」を達成した瞬間、巨人の選手達は皆、漸く「重圧」から解放されたという事になる。

その緊張感たるや、きっと、体験した人でないとわからないに違いない。

ともあれ、槙原の「完全試合」は、槙原の完璧な投球内容と、守備陣との連携により達成された、素晴らしい記録であった。

 

<「ミスター・パーフェクト」の称号を得た槙原寛己…しかし、1994(平成6)年の槙原寛己以降の26年間、「完全試合」は誰も達成していない!!>

 

 

 

槙原寛己は、「完全試合」達成により、「ミスター・パーフェクト」という称号を得た。

投手にとって、これ以上無い名誉であるが、冒頭で述べた通り、この時の槙原以降、

今日(2020年)に至るまで、「完全試合」は誰も達成していない。

だが、槙原以降も、「完全試合」達成まで、あと一歩という、惜しい所まで迫った投手は何人か居たのである。

というわけで、槙原以降、惜しくも「完全試合」を逃した投手を、何人かご紹介させて頂きたい。

 

<「ノーヒット・ノーラン」「完全試合」に見放された男・西口文也(西武)~9回2死から「ノーヒット・ノーラン」を逃したのが2回、9回まで「完全試合」に抑えながら、味方の援護が無く、延長戦で逃したのが1回、計3回も快挙を逃した「悲運のエース」>

 

 

「ノーヒット・ノーラン」や「完全試合」という「快挙」に、あと一歩まで迫りながら、

計3度も、そのチャンスを逃してしまったのが、西口文也(西武)である。

まず、2002(平成14)年8月26日の西武-ロッテ戦(西武ドーム)で、西口は9回2死まで「ノーヒット・ノーラン」に抑えながら、

その9回2死から、小坂誠(ロッテ)にセンター前ヒットを打たれ、惜しくも「快挙」を逃してしまった。

この時、西口は思わず苦笑いをしていた。

 

 

その3年後、2005(平成17年)5月13日、交流戦の西武-巨人戦(西武ドーム)で、

西口は、9回2死まで巨人打線を「ノーヒット・ノーラン」に抑え込んでいたが、

9回2死から、清水隆行(巨人)に、まさかのホームランを打たれ、この時も、あと一歩で「快挙」を逃した。

この時、西口は口をあんぐりと開け、呆然とした表情をしていたが、つくづく、西口はツイていない男だと、

この時、リアルタイムでテレビ中継を見ていた私も、思ったものである。

 

 

だが、もっと「悲惨」な試合が有った。

前述の巨人戦から3ヶ月後、2005(平成17)年8月27日の西武-楽天戦(西武ドーム)で、

西口文也は、9回まで楽天打線を「完全試合」に封じ込めた。

この時、西武が1点でも取っていれば、西口は「完全試合」を達成していたところだったが、

相手投手の一場靖弘(楽天)が、よりによって、一生に一度レベルの好投を見せ、西武打線を0点に抑えてしまっていた。

そのため、0-0のまま延長戦に突入し、延長10回表、西口は沖原佳典(楽天)にヒットを打たれ、またしても「快挙」を逃した。

このように、西口は、どこまでも「ツキ」に見放された男であり、結局、現役時代には一度も「ノーヒット・ノーラン」には縁

無かったが(勿論、「完全試合」も)、あと一歩で「快挙」を逃し続けた西口は、今でも多くのファンの心に残る投手であった。

 

<2002(平成14)年4月10日、ロッテ-日本ハム戦(千葉マリンスタジアム)で、ミラバル(日本ハム)が8回を終わって「完全試合」に抑え込むも、9回の先頭・吉鶴憲治(ロッテ)にヒットを打たれ、「快挙」を逃す>

 

 

2002(平成14)年4月10日、ロッテ-日本ハム戦(千葉マリンスタジアム)で、

ミラバル(日本ハム)は、8回終了までロッテ打線を「完全試合」に抑え込んでいた。

この時、ミラバルは非常にテンポが良い投球で、ロッテ打線はミラバルの前に手も足も出ず、

この時、たまたまテレビ中継を見ていた私も、「これは、ひょっとしたら完全試合やるんじゃないか!?」と思い、ドキドキしていたが、

9回裏、ロッテの先頭・吉鶴憲治にセンター前ヒットを打たれ、惜しくも大記録は成らなかった。

私は心底ガッカリし、ミラバルも苦笑いしていたが、やはり「完全試合」というのは本当に難しいものである。

 

<2007(平成19)年11月1日…中日-日本ハムの日本シリーズ第5戦、山井大介(中日)の「完全試合」未遂!!~中日53年振り「日本一」をかけた場面での、落合監督と森繁和コーチの「究極の選択」>

 

 

 

 

さて、「完全試合」未遂で、多くの人達が思い出すのが、

2007(平成19)年11月1日、中日-日本ハムの日本シリーズ第5戦、山井大介(中日)による、「一世一代」の投球であろう。

この試合の前まで、中日は3勝1敗で、53年振り「日本一」に王手をかけていた。

そして、この試合に先発した山井大介(中日)は、立ち上がりから、日本ハム打線に全くツケ入る隙を与えず、完璧な投球を見せていた。

山井は、日本ハムの大エース・ダルビッシュ有を相手に、堂々たるピッチングであった。

 

 

そして、8回表を終わって、山井は日本ハム打線を「完全試合」ペースで抑え込んでいた。

この時、ナゴヤドームは、異様な雰囲気に包まれていた。

中日は、1-0と僅か1点リードであり、「山井の完全試合」と「中日53年振り日本一」が、同時に目前に迫っていたからである。

中日ファンは、試合の行方を固唾を飲んで見守っていた。

 

 

8回裏、中日の攻撃は無得点に終わった。

そして、中日が1-0と僅か1点リードのまま、9回表、日本ハム最後の攻撃を迎えた。

この時、中日ファンの興奮はピークに達し、ナゴヤドームの観客席から一斉に「山井コール」が起こった。

しかし、ここで中日の落合博満監督と、森繁和・投手コーチがベンチを出て、球審に投手交代を告げたのである。

「えーっ!!!!????」

中日ファンは、一斉にどよめいた。

何しろ、山井はパーフェクトに抑えていたのであり、そんな投手を代えるというのは、普通は考えられない。

この時、実は落合監督も森コーチも、大いに迷っていたという。

しかし、山井が、自ら降板を申し出たとの事である。

 

 

落合監督も、人情としては「山井に、完全試合をやらせてやりたい」と、正直、思っていた。

しかし、中日は1-0と、僅か1点しかリードしていない。

もし、9回表に山井を投げさせ、日本ハムを抑えられれば良いが、「もし、逆転されたら、どうする?」というリスクを、落合監督は考えた。

山井は、この年(2007年)、シーズンでは14試合で6勝4敗 防御率3.36と、あまり投げていない。

その山井が、日本シリーズという大舞台で、物凄い投球を見せている。

だからこそ、落合監督は迷いに迷っていたのだった。

「山井が抑えてくれれば、一番良い。しかし、もしも日本ハムに逆転されたら、どうする?」

「そうなったら、一気に日本ハムに流れが行く。この試合を落として、札幌ドームで、日ハムに一気に連敗し、日本一を逃す可能性も有る」

指揮官である落合は、常に「最悪の状況」を想定していた。

 

 

ましてや、前年(2006年)も中日は日本ハムに敗れ、日本一を逃しているのだった。

だから、勝てる時には、一気に決めてしまいたい…。

中日には、絶対的な抑えの切り札・岩瀬仁紀が居る。

もし、確実に勝てる手を打つとしたら、勝ちパターンである、岩瀬投入しか無い。

「さて、どうしようか…。山井に投げさせるか、それとも、万全を期して岩瀬に交代させるか」

落合監督の脳裏に、様々な思いがよぎった。

それは、森繁和コーチも、また同様だった。

 

 

この時、山井は、そんな首脳陣の雰囲気を察したのか、

「右手にマメが出来た。だから、交代させて下さい」

と、山井は落合監督と森コーチに申し出たのである。

山井も、「完全試合」を達成したい気持ちが無かったといえば、嘘になる。

しかし、ここは中日の「日本一」がかかった場面である。

だからこそ、山井はチームを第一に考え、チームが勝つために、「岩瀬さんに代えて下さい」と自ら申し出た。

この言葉に、落合監督と森コーチは救われた。

そして、山井から岩瀬への交代を、2人は決断したのである。

 

 

こうして、9回表、中日の絶対的な抑え投手・岩瀬仁紀がマウンドに上った。

「岩瀬なら、抑えてくれる」と、落合監督も森コーチも、

そして選手やファン達も、岩瀬には絶大な信頼を寄せている。

だからこそ、「完全試合」目前の山井を引っ込め、岩瀬への交代が行われた。

つまり、この決断は、岩瀬がキッチリ抑える事が前提で、話が進んでいるのである。

岩瀬としても、大変なプレッシャーだったに違いない。

 

 

 

 

 

そして、岩瀬はこのプレッシャーに打ち勝ち、

岩瀬は、9回表の日本ハム打線をキッチリと3人で抑え、見事に、中日に「53年振り日本一」をもたらした。

結果として、「継投での完全試合」が成ったわけであるが、山井大介という個人の「大記録」と、チームの「日本一」を天秤にかけた、

落合監督による「究極の選択」は、当時、大いに物議を醸した。

だが、この時、中日の選手達は皆、山井から岩瀬への交代を、至極当然の事として、受け止めていたという。

また、チームのために、自ら身を引いた山井は素晴らしいと、私は思っている(※勿論、山井の「完全試合」も見たかった気持ちは有る)。

というわけで、私としても、この時の非常に人間臭い「心理戦」「人間ドラマ」は、非常に印象深く、大好きなエピソードである。

 

<2012(平成24)年5月30日…巨人-楽天戦(東京ドーム)で、杉内俊哉(巨人)が9回2死から四球を与え、惜しくも「完全試合」を逃すも、「ノーヒット・ノーラン」達成!!>

 

 

2012(平成14)年5月30日、交流戦の巨人-楽天戦(東京ドーム)で、

この年(2012年)にソフトバンクから巨人にFAで移籍して来た杉内俊哉(巨人)が、素晴らしい投球を見せ、

9回2死まで、楽天打線をパーフェクトに抑え、「完全試合」まで、あと1人に迫ったが、

杉内は、27人目の打者・中島俊哉に、カウント2-3から四球を与え、本当に惜しくも「完全試合」を逃した。

最後に投じた球は、ストライクかボールか、非常に微妙なコースだったが、審判の判定は無情にも「ボール」であった。

 

 

 

杉内は、気を取り直して、続く聖澤諒を討ち取り、見事に「ノーヒット・ノーラン」を達成したが、

槙原以降、この時の杉内こそが、限りなく「完全試合」達成に近付いた投手であった。

 

<2013(平成25)年4月2日…ダルビッシュ有(レンジャーズ)、9回2死からヒットを打たれ、惜しくも「完全試合」を逃す!!>

 

 

 

 

2007(平成19)年、日本シリーズで、山井大介と投げ合ったダルビッシュ有は、その後、メジャーリーグのテキサス・レンジャーズに移籍したが、

そのダルビッシュ有は、2013(平成25)年4月2日、ヒューストン・アストロズ戦で、9回2死までパーフェクトに抑え、大記録まで、あと1人に迫っていたが、9回2死から、ゴンザレス(アストロズ)にセンター前ヒットを打たれ、誠に残念ながら、あと一歩で「完全試合」を逃した。

この時、ダルビッシュは思わず苦笑いし、すかさずレンジャーズの選手達が集まり、ダルビッシュを労ったが、この時も本当に惜しかった。

ダルビッシュは、高校時代(東北高校)に、甲子園で「ノーヒット・ノーラン」を達成しているが、プロ入り後は、まだ達成していない。

いつか、ダルビッシュには、この時の悔しさを晴らして頂きたいものである。

というわけで、「完全試合」にまつわるエトセトラをご覧頂いたが、私は、近い内に、プロ野球で「完全試合」を達成する投手が現れる事を熱望している次第である。