マスコットで振り返るプロ野球史⑭ 大映・毎日・大毎・ロッテ編(3) ~高橋ユニオンズの悲劇~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1953(昭和28)年、大映スターズのオーナー、永田雅一が、パ・リーグ総裁に就任した。

そして、パ・リーグ総裁に就任した永田雅一は、矢継ぎ早に色々な手を打ち、パ・リーグを盛り上げようとした。

というより、「ワンマン社長」の永田雅一のために翻弄された、「幻の球団」が有った。

それが、1954(昭和29)~1956(昭和31)年の僅か3年間のみ存在した球団「高橋ユニオンズ」である。

 

 

というわけで、今回は、「マスコットで振り返るプロ野球史」の「大映・毎日・大毎・ロッテ編」の第3回として、

この球団の系譜に連なる球団「高橋ユニオンズ」の3年間(1954~1956年)を中心に、描いてみる事としたい。

 

<永田雅一と大映スターズ③~1953(昭和28)年…大映スターズ初優勝のチャンス!!⇒しかし、終盤に「5試合連続完封負け」で力尽き、大映初優勝の夢は潰える⇒結局、パ・リーグは南海ホークスが混戦を制し、パ・リーグ3連覇達成>

 

 

 

永田雅一オーナーが率いる、「大映スターズ」は、1949(昭和24)年の球団創設以来、3位(1949年)⇒3位(1950年)⇒4位(1951年)⇒4位(1952年)という成績であり、パ・リーグの中で、そこそこ健闘していたが、なかなか優勝争いに割って入る事が出来なかった。

しかし、球団創設5年目の1953(昭和28)年、遂に「大映スターズ」に初優勝のチャンスが訪れた。

この年(1953年)のパ・リーグは、それまで2連覇していた南海ホークスが、今一つ調子が上がらず、全7球団が一度は首位に立つという、空前の大混戦になった。

そして、大映も終盤まで優勝戦線に加わったのである。

 

 

 

 

大映は、シーズン終盤には、南海ホークス、阪急ブレーブスと共に、三つ巴の優勝争いを繰り広げたが、

その大映の原動力となったのが、17勝11敗 防御率2.66の成績を残した、エース・林義一と、

11勝9敗 防御率2.67で、3年振りに二桁勝利を達成した、ベテランのヴィクトル・スタルヒンである。

なお、林義一は、大映スターズで、それまで18勝11敗 防御率2.40(1950年)⇒12勝11敗 防御率2.54(1951年)⇒15勝15敗 防御率2.97(1952年)という成績を残し、大映の屋台骨を支えたエースであった。

 

 

しかし、初優勝が見えて来たシーズン終盤、大映スターズ打線は、プレッシャーからか、急に全く打てなくなってしまった。

何と、大映スターズは「5試合連続完封負け」という、今も残るプロ野球のワースト記録を喫してしまったのである。

 

10/4 大映●0-3〇西鉄 ※ダブルヘッダー第2試合

10/6 大映●0-3〇阪急

10/7 大映●0-11〇阪急 ※ダブルヘッダー第1試合

10/7 大映●0-1〇阪急 ※ダブルヘッダー第2試合

10/8 大映●0-11〇毎日 ※ダブルヘッダー第1試合

 

大映は、10/8の毎日とのダブルヘッダー第2試合も、毎日・荒巻淳投手に、9回2死まで0点に抑えられていたが、

9回2死から、漸く1点を取り、不名誉な記録をストップさせたが、10/4の西鉄とのダブルヘッダー第1試合の4回に1点を取って以来、

何と「58イニング連続無得点」という、これまた不名誉なワースト記録も樹立してしまった。

こうして、肝心の終盤戦で貧打に苦しんだ大映スターズ初優勝の夢は潰えてしまったのである。

 

 

 

結局、1953(昭和28)年のパ・リーグは、シーズン最終盤に地力を発揮し、

混戦を抜け出した南海ホークスが、リーグ3連覇を達成した。

終盤まで健闘した大映スターズは、惜しくも3位に終わり、永田雅一オーナーを悔しがらせた。

 

<1953(昭和28)年…毎日オリオンズの「アルバイト選手」レオ・カイリー投手、6戦6勝、打撃でも19打数10安打 打率.526を記録!!~在日米軍所属のアルバイト選手として、投打に圧倒的な力を示した、日本プロ野球史上初の「現役大リーガー」>

 

 

 

1953(昭和28)年のパ・リーグでは、こんな出来事も有った。

毎日オリオンズは、在日米軍に所属し、当時、横須賀基地に勤務していた、レオ・カイリー投手と契約を交わした。

レオ・カイリーは、ボストン・レッドソックスに所属する、れっきとした現役大リーガーだったが、兵役により、日本に来ていたのである。

しかし、レオ・カイリーは米軍での勤務を離れるわけにはいかなかったため、毎日は、レオ・カイリーとは、ナイターと休日のみ登板するという内容の、所謂「アルバイト契約」を交わしたのである。

すると、レオ・カイリーは、同年(1953年)8月の1ヶ月間で6試合に登板し6勝0敗 防御率1.80、打撃でも19打数10安打 打率.526という、圧倒的な力を示してみせた。

結局、レオ・カイリーはこの年(1953年)限りで日本を去り、翌1954(昭和29)年には、プロ野球のコミッショナーから、このような「アルバイト契約」は禁止されたため、今後は、このようなケースは見られなくなってしまうが、僅か1ヶ月で、強烈な印象を残し、風のように去って行ったレオ・カイリーは、毎日オリオンズの歴史に残る、特異な選手だったと言って良い。

 

<1953(昭和28)年シーズンオフ、パ・リーグ総裁の永田雅一、「勝率.350を切った球団に、制裁金500万円」というルールを決議!!>

 

 

 

さて、1953(昭和28)年のシーズンオフ、新たにパ・リーグ総裁に就任した永田雅一は、その時の理事会で、とんでもない「ルール」を決議した。

それは、翌1954(昭和29)年から、「勝率.350を切った球団に、制裁金500万円を課す」というものである。

これは、あまりにも弱い球団が有ると、リーグのバランスが崩れるので、それを防ぎ、各球団に奮起を促すという狙いが有ったものと思われるが、これは、弱小球団にとっては死活問題である。

当時、500万円といえば大金であり、特に資金力が無い弱小球団にとっては、頭の痛い問題であった。

しかし、この時、永田雅一は、自らがオーナーを務める大映スターズは、よもや「勝率.350」などというラインに関係して来るなどとは、全く考えていなかったに違いない。

 

<日本の麦酒(ビール)の歴史…1906(明治39)年、3つのビール会社が統合され、「大日本麦酒(ビール)」誕生⇒1949(昭和24)年、「朝日麦酒」と「日本麦酒」(後の「サッポロビール」に分離⇒「大日本麦酒」社長で、「ビール王」と称された高橋龍太郎~戦前は「イーグルス」のオーナーにも就任>

 

 

 

 

さてさて、唐突なようであるが、ここで、日本の麦酒会社の歴史について、簡単に振り返っておく事とする。

1906(明治39)年、馬越恭平という男が、「札幌麦酒」、「日本麦酒」(※同社のブランドは「恵比寿ビール」)、「大阪麦酒」(※同社のブランドは「朝日ビール」)という、3つのビール会社を統合し、「大日本麦酒(ビール)」という会社を誕生させた。

この大同団結を成し遂げた馬越恭平は「日本のビール王」と称されたが、これにより、日本のビール界は「大日本麦酒」と、そのライバルの「麒麟麦酒」の2大会社が競い合う体制となった。

 

 

高橋龍太郎は、東京高等商業学校(現・一橋大学)⇒旧制・第三高等学校(現・京都大学)機械工学科を経て、「大阪麦酒」に入社した。

その後、高橋龍太郎は、1898(明治31)年から6年間、ドイツに留学し、ビール醸造技術を学んだ後、

帰国した後には、「大阪麦酒」などが統合して誕生した「大日本麦酒」役員となり、後に同社の社長に就任した。

高橋龍太郎は「大日本麦酒」社長として、かつての馬越恭平と同様、「ビール王」と称されていたが、戦前には1937(昭和12)年に誕生した「イーグルス」の球団オーナーも務めている。

戦後、1949(昭和24)年に、「大日本麦酒」は「日本麦酒」(※1964(昭和39)年「サッポロビール」と改称)、「朝日麦酒」に分離したが、

分離後は、高橋龍太郎は「日本麦酒」の役員を務めていた。

 

<1954(昭和29)年…シーズン開幕前、高橋龍太郎が個人オーナーを務める「高橋ユニオンズ」誕生!!~永田雅一が高橋龍太郎を熱心に誘い、新球団「高橋ユニオンズ」を誕生させる>

 

 

 

 

1954(昭和29)年のシーズン開幕前、「ビール王」高橋龍太郎が個人オーナーを務める新球団「高橋ユニオンズ」が誕生した。

前年(1953年)、パ・リーグは7球団制だったが、奇数球団では試合日程を組むのも大変であった。

そこで、パ・リーグ総裁の永田雅一は、セ・リーグが1951(昭和26)~1952(昭和27)年の2年間、7球団制を敷いた後、1953(昭和28)年に大洋と松竹が合併し、6球団制に変更したのに対抗し、「それなら、パ・リーグは1球団を増やして、8球団制にしよう」と思い付いた。

そして、永田雅一は、かねてから懇意にしていた高橋龍太郎を熱心に口説き、新球団創設を呼び掛けた。

その結果、高橋龍太郎は、これを承諾し、1954(昭和29)年2月17日、彼が個人オーナーを務める「高橋ユニオンズ」が誕生したのである。

 

 

「高橋ユニオンズ」は、大企業が親会社になっている他球団とは異なり、

高橋龍太郎という1個人がオーナーだったため、いかに高橋龍太郎が大金持ちとはいえ、常に資金繰りには苦労する日々が続いた。

ともあれ、「高橋ユニオンズ」はプロ野球という荒海へと漕ぎ出したが、この後、「最弱球団」と称された「高橋ユニオンズ」の苦闘の日々が続く事となった。

 

<1954(昭和29)年の高橋ユニオンズ…53勝84敗3分 勝率.387で、8球団中6位と健闘!!>

 

 

 

 

1954(昭和29)年、新球団「高橋ユニオンズ」は、他球団から供出してもらった、下り坂のロートル選手と、無名選手の寄せ集めのメンバーで、パ・リーグのシーズンに挑んだ。

「高橋ユニオンズ」は、いかにも貧弱な顔ぶれだったため、苦戦が予想されたが、意外や意外、同年(1954年)の「高橋ユニオンズ」は、53勝84敗3分 勝率.387で、8球団中6位と大健闘した。

パ・リーグ総裁・永田雅一がぶち上げた、例の「勝率.350」の基準もクリアし、急増の新球団としては、まずは上々のスタートだったと言って良い。

 

<1954(昭和29)年の大映スターズ…43勝92敗5分 勝率.319で、ダントツ最下位~皮肉にも、永田雅一が決めた「勝率.350」基準を下回り、大映が「制裁金500万円」第1号に>

 

 

 

 

1954(昭和29)年、新球団「高橋ユニオンズ」が健闘したのに対し、

永田雅一がオーナーを務める「大映スターズ」は、8月に14連敗を喫するなど、大不振を極め、

大映は、43勝92敗5分 勝率.319で、ダントツ最下位という、惨憺たる成績に終わってしまった。

これにより、パ・リーグ総裁の永田雅一自身が決めた、例の「勝率.350」基準を下回り、皮肉にも、大映は「制裁金500万円」の第1号となってしまった。

これには、流石の永田雅一も、苦虫を噛み潰したような渋い表情を浮かべるしかなかった。

 

<1954(昭和29)年…大映映画『花の白虎隊』で、市川雷蔵、勝新太郎がデビュー!!~後に大映を代表する大スターに>

 

 

 

永田雅一は、野球では痛い目に遭ったが、同じ1954(昭和29)年、大映映画『花の白虎隊』で、市川雷蔵、勝新太郎という2人の新人をデビューさせた。

市川雷蔵、勝新太郎は、後に大映を代表する大スターとなるが、未来の大スターとなる新人の素質を見抜く永田雅一の眼力は、流石であった。

 

<1955(昭和30)年…「高橋ユニオンズ」は「トンボ鉛筆」とスポンサー契約を結び、「トンボユニオンズ」に改称~大投手・スタルヒンも大映スターズから移籍し、「トンボユニオンズ」に入団>

 

 

 

 

1954(昭和29)年、新球団「高橋ユニオンズ」は、8球団中6位と健闘したが、

やはり、高橋龍太郎という1個人オーナーだけの運営だけでは、いかにも苦しく、

翌1955(昭和30)年、「高橋ユニオンズ」は「トンボ鉛筆」とスポンサー契約を結び、「トンボユニオンズ」と改称した。

所謂「ネーミングライツ」であるが、資金繰りに四苦八苦するユニオンズの「苦肉の策」であった。

 

 

そして、この年(1955年)、史上初の通算300勝まであと6勝と迫る、

大投手・スタルヒンが、大映スターズから「トンボユニオンズ」に移籍して来た。

スタルヒンは、当時39歳であり、既に往年の力は無かったが、選手層が薄いユニオンズにとっては、貴重な投手であった。

 

<1955(昭和30)年のトンボユニオンズ…スタルヒンが、史上初の「通算300勝」を達成するも、42勝98敗1分 勝率.300でダントツ最下位~「勝率.350」を下回り、「制裁金500万円」の憂き目に遭う>

 

 

1955(昭和30)年、「トンボユニオンズ」は、終始、大苦戦が続いた。

開幕から、常に最下位を独走し、全く浮上する気配も無く、黒星街道を驀進した。

なお、ユニオンズの本拠地は川崎球場だったが、当然、川崎球場でのユニオンズの試合の観客席は、常にガラガラであり、いつも閑古鳥が鳴いていた。

 

 

 

 

このように、常にドン底に沈みっぱなしだった1955(昭和30)年の「トンボユニオンズ」で、唯一の明るい話題は、

同年(1955年)9月4日、スタルヒンが、遂にプロ野球史上初の「通算300勝」を達成した事である。

この年(1955年)、スタルヒンは7勝21敗 防御率3.89と、既にヨレヨレだったが、執念で「通算300勝」を達成したのである。

(※なお、後年、スタルヒンの記録の集計ミスが発覚し(戦前の巨人時代、通算で2勝分、少なくカウントされていた)、この時点で本来は「通算302勝」だった事が判明した。

そして、スタルヒンは通算303勝176敗 防御率2.09という成績を残し、同年(1955年)限りで現役引退した。

 

 

 

スタルヒンの「通算300勝」達成という明るい話題は有ったが、1955(昭和30)年の「トンボユニオンズ」の明るい話題といえば、それしか無かった。

そして、同年(1955年)、42勝98敗1分 勝率.300でダントツ最下位に終わり、「勝率.350」を下回ったため、「制裁金500万円」が課されてしまった。

資金力が無い弱小球団のユニオンズにとっては、誠に痛い痛い出費となってしまった。

 

<1956(昭和31)年…「高橋ユニオンズ」の単独経営に戻り、「慶応ボーイ」佐々木信也が「高橋ユニオンズ」に入団!!>

 

 

 

 

1956(昭和31)年、「トンボ鉛筆」とのスポンサー契約は解消され、再び「高橋ユニオンズ」の単独経営に戻った。

再び「高橋ユニオンズ」に改称された、この年(1956年)、そのユニオンズに、慶応のスター選手だった佐々木信也が新人として入団した。

何故、「慶応ボーイ」の佐々木信也が、わざわざ弱小球団のユニオンズに入団したのかといえば、一番熱心に佐々木信也を誘ったのが、このユニオンズだったからだという。

ともあれ、神宮のスター・佐々木信也の入団に、高橋龍太郎オーナーも大喜びであった。

 

<1956(昭和31)年の高橋ユニオンズ…新人・佐々木信也が大活躍し、52勝98敗4分の最下位ながら、勝率.351で、辛うじて「勝率.350」を上回る!!>

 

 

1956(昭和31)年、球団創立3年目の「高橋ユニオンズ」は、

前年(1955年)に、勝率.300というダントツ最下位に終わっていた事もあり、

「何としても、勝率.350だけは達成する!!」と、意気込んでいた。

2年連続で「勝率.350」を下回っては、またまた「制裁金500万円」を課されてしまう。

貧乏球団の「高橋ユニオンズ」としては、何としても、それだけは避けたいところであった。

 

 

この年(1956年)、新人・佐々木信也は、大活躍を見せた。

佐々木信也は、新人ながら、全154試合の全イニングに出場し、622打数180安打(141単打)6本塁打 37打点 打率.289という見事な成績を残したが、この年(1956年)のパ・リーグは、史上最多の154試合を開催したので、佐々木信也の「シーズン154試合出場」は、今もなお、日本最多記録として残っている(※同年(1954年)の飯田徳治、杉山光平(共に南海ホークス)も記録)。

そして、シーズン180安打(141単打)は、現在も新人最多記録として残り、未だに破られていない。

 

 

佐々木信也は、同年(1956年)に、新人ながらオールスターゲームにも出場したが、

佐々木信也と同時に東京六大学野球で活躍した、明治大学出身の秋山登-土井淳(大洋ホエールズ)のバッテリー、立教大学出身の大沢啓二(南海ホークス)も、揃ってオールスターに出場し、彼らと一緒に記念撮影を行なった。

この一事を見ても、当時の東京六大学野球は、大変レベルが高かったという事がわかる。

そして、高橋龍太郎オーナーは、連日、佐々木信也の打率を、電卓で計算する事を楽しみにしていたが、まさに佐々木信也はユニオンズの「希望の星」であった。

 

 

 

結局、1956(昭和31)年の「高橋ユニオンズ」は、佐々木信也の大活躍に引っ張られ、

52勝98敗4分の最下位ながら、勝率.351と、辛うじて「勝率.350」を上回り、「制裁金500万円」を免れた。

10月8日、浦和市営球場で行われた、「高橋ユニオンズ」のシーズン最終戦は、毎日オリオンズとの試合だったが、

この試合に勝てば「勝率.351」、負ければ「勝率.349」という、ユニオンズにとって、まさに「瀬戸際」の試合だった。

その試合で、ユニオンズが4-3で辛うじて勝利し、首の皮一枚で「勝率.350」以上を達成したのであった。

しかし、結果として、これが「高橋ユニオンズ」最後の試合となってしまったのである。

 

<1957(昭和32)年3月6日…シーズン開幕前に、突然「高橋ユニオンズ」解散>

 

 

1957(昭和32)年、「高橋ユニオンズ」は、球団創立4年目を迎え、4年目のシーズンに備え、キャンプを行なっていた。

しかし、このキャンプ中、「高橋ユニオンズ解散」という、不穏な噂が流れ、選手達は不安な気持ちのまま、練習をしていた。

そして、遂にその不安が現実のものとなる時がやって来た。

 

 

 

1957(昭和32)年3月6日、キャンプ地に、背広を着た数人の男が現れた。

それは、「高橋ユニオンズ」の球団幹部の人達であった。

彼らは、ユニオンズの選手達を集めると、球団代表が、おもむろに口を開いた。

「大変残念だが、本日をもって、高橋ユニオンズは解散する」

ユニオンズの選手達は皆、黙って聞いていたが、皆、うつむいてしまい、中には涙を流す者も居た。

球団代表は、その後、選手達の今後の身の振り方を告げた。

その内容は「近鉄に4人、東映に6人、大映スターズに17~18人、残りの10人は、その場でクビ」というものであった。

こうして、「高橋ユニオンズ」は解散し、全員で記念撮影を行ない、彼らは別れた。

佐々木信也は「クビになった10人が、その後、ベンチに座り、球団代表から今後の説明を受ける選手達をじっと見つめていた、あの姿が忘れられない」と、後に語っている。

 

<高橋龍太郎「みんな無駄だったね。同情してくれるかい?」と、記者達に語る~「高橋ユニオンズ」3年間の苦闘に幕を閉じ、歴史の彼方に消えて行ったユニオンズ>

 

 

 

 

「高橋ユニオンズ」解散が決まると、高橋龍太郎オーナーは、顔馴染みの記者達に対し、

「みんな無駄だったね。同情してくれるかい?」と、寂しそうに語ったが、誰も、返す言葉も無かったという。

こうして、「高橋ユニオンズ」激動の3年間は幕を閉じ、「高橋ユニオンズ」は歴史の彼方へと消えて行ったのである。

 

(つづく)