マスコットで振り返るプロ野球史⑬ 大映・毎日・大毎・ロッテ編(2) ~オリオンとスターの競演~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

「マスコットで振り返るプロ野球史」シリーズの、今回は「大映・毎日・大毎・ロッテ編」の第2回であるが、

前回は、「この球団には『大映スターズ系』『毎日オリオンズ系』『高橋ユニオンズ系』という、3つの系列が有り、その3つが、やがて1つに統合された」という事を、ご紹介した。

そして、野球大好きな「毎日新聞」と「大映」が、野球界と、いかに関わって来たかについて、描いた。

 

 

というわけで、今回は、いよいよ「毎日オリオンズ」が球界に参入し、

プロ野球がセ・リーグとパ・リーグに分裂した、1949(昭和24)年から、描かせて頂く事としたい。

 

<1949(昭和24)年…毎日新聞の「新規参入」の賛否を巡り、プロ野球連盟が紛糾!!~すったもんだの末、プロ野球は「セ・リーグ」と「パ・リーグ」に分裂!!>

 

 

1949(昭和24)年、当時1リーグ8球団制だったプロ野球は、戦後の「野球ブーム」到来に伴い、活況を呈していた。

そして、その「プロ野球人気」に目を付けた、多数の企業から、プロ野球への参入申し込みが殺到した。

毎日新聞も、プロ野球への「新規参入」を申請した企業の1つであったが、

その毎日新聞の新規参入を巡り、プロ野球連盟は、毎日新聞の加盟の賛成派と反対派に分かれ、紛糾した。

 

その辺の経緯については、既に当ブログでも何度も書いているので、詳細は省くが、

毎日新聞の加盟の賛否を巡り、右往左往しているプロ野球連盟に対し、次々に新規加盟をする企業が現れ。

結局、プロ野球連盟は1949(昭和24)年11月26日に「解散」し、2つのリーグに「分裂」する事となった。

1つは、巨人(読売新聞)が中心の8球団から成る「セントラル・リーグ」(「セ・リーグ」)であり、

もう1つは、新加盟の毎日新聞の球団と、永田雅一が率いる大映スターズが所属し、7球団から成る、「パシフィック・リーグ」(「パ・リーグ」)である。

 

<1949(昭和24)年…新球団「毎日オリオンズ」結成!!~「毎日オリオンズ」は、新たに誕生した「パ・リーグ」に所属>

 

 

 

 

というわけで、1949(昭和24)年に毎日新聞が結成した新球団は、球団名を「毎日オリオンズ」として、スタートを切った。

「毎日オリオンズ」は、新たに結成された「パ・リーグ」に所属したが、「セ・リーグ」と「パ・リーグ」の所属球団は、下記の通りである。

 

【セ・リーグ】

読売ジャイアンツ

大阪タイガース

中日ドラゴンズ

松竹ロビンス

★大洋ホエールズ

★広島カープ

★西日本パイレーツ

★国鉄スワローズ

(★=新加盟の球団)

 

【パ・リーグ】

阪急ブレーブス

南海ホークス

東急フライヤーズ

大映スターズ

★毎日オリオンズ

★西鉄クリッパーズ

★近鉄パールズ

(★=新加盟の球団)

 

 

ざっくり言うと、「毎日オリオンズ」の加盟に反対していた球団を中心に作られたのが「セ・リーグ」で、

「毎日オリオンズ」の加盟に賛成していた球団を中心に作られたのが「パ・リーグ」である。

巨人の親会社である読売新聞としては、ライバルの毎日新聞が入って来ると、自らの地位が脅かされる事に懸念を持ったのか、

最後まで、毎日の参入には、良い顔をしなかった。

ともあれ、こうしてプロ野球は、読売新聞と毎日新聞という、二大メディアが相争う体制となった。

 

<「毎日オリオンズ」の球団名の由来となった、ギリシャ神話の「オリオン」とは!?~ギリシャ神話で一番の狩人「オリオン」と、狩猟の女神「アルテミス」の、「悲恋物語」>

 

 

さて、毎日新聞が結成した新球団の球団名は「オリオンズ」になったが、

「オリオンズ」は、ギリシャ神話で名高い「オリオン」に由来し、この球団名は「相手を射落とす」という事を願って、付けられたという。

「オリオン」とは、ギリシャ神話で一番の狩人であるが、「オリオン」といえば、狩猟の女神「アルテミス」との悲恋物語が有名である。

という事で、「オリオンズ」の球団名の由来となった「オリオン」と、「アルテミス」の物語について、ご紹介させて頂く。

 

 

 

 

ギリシャ神話には、物語の中心となる「オリュンポス十二神」が登場するが、

中でも、ギリシャ神話の最高神ゼウスと、その妻のヘラの「夫婦喧嘩」が、よく描かれる。

何しろ、ゼウスというのは見境の無い「女好き」であり、そんなゼウスに対し、嫉妬深い(?)ヘラが怒り狂うというのが、一つのお決まりのパターンとなっている。

そんなゼウスには、沢山の子供が居たが、その沢山の子供達の中に、音楽の神・アポロンと、その双子の妹で、狩猟の女神・アルテミスという兄妹が居た。

 

 

そして、オリオンとは、ゼウスの兄弟である、海の神・ポセイドンの子であるとされている(※諸説有り)。

オリオンは、美しい顔立ちの巨人であり、とても腕の立つ狩人だったが、彼はどうにも傲慢な性格だったようである。

ある時、各地を放浪していたオリオンは、キオス島にやって来て、島の王・オイノピオーンの娘・メロペーに一目惚れしたが、なかなか色良い返事は貰えなかった。

そこで、オリオンは強引にメロペーを攫ってしまおうとしたが、オイニピオーンは激怒し、彼の父である、酒の神・ディオニュソスに頼んで、オリオンを泥酔させ、その隙にオリオンの両目をくり抜いて、海に捨ててしまったという。

 

 

こうして、オリオンは失明し、盲目となってしまったが、

盲目となったオリオンは、一眼巨人の槌の音をたよりに、レムノス島のヘパイストスの鍛冶場にやって来た。

オリオンの事を哀れに思ったヘパイストスは、職工のケーダリオーンを呼ぶと、オリオンを太陽の館へ案内するよう命じた。

オリオンはケーダリオーンを肩に乗せると、太陽の館を目指し、やがて太陽の館に着くと、そこには、音楽の神・アポロンが居た。

これまた、オリオンの事を哀れんだアポロンは太陽の光で、彼の目を癒し、オリオンの両目は回復した。

オリオンは、「改心」して、以後、狩りに専念する事となった。

 

 

ここで登場して来るのが、オリオンの「恩人」である、アポロンの双子の妹・アルテミスである。

アポロンに両眼を治してもらい、狩りに専念していたオリオンであったが、アポロンの妹・アルテミスと出会うと、

オリオンとアルテミスは、すっかり「良い仲」になってしまい、2人はご覧のように(?)ラブラブになってしまった。

 

 

しかし、アポロンは、この事に、すっかり気分を害してしまい、アルテミスにも「オリオンは、お前には相応しい相手ではない」と、厳しく叱責するようになった。

そんなアポロンに、アルテミスも「誰と愛し合おうと、私の勝手でしょう」と、反発した。

こうして、それまでは仲が良かったアポロンとアルテミスの兄妹の関係に亀裂が走った。

 

 

 

 

そこで、アポロンは、狩猟の女神であるアルテミスに対し、

「そこまで言うなら、あの海の遥か彼方の島に、弓を命中させたら、お前とオリオンの仲を許そう」と言った。

それなら、お安い御用だと、アルテミスは、その方向に向かって弓矢を放ったが、何と、その弓矢が命中したのは、オリオンだったのである。

アルテミスが放った弓矢に命中したオリオンは、絶命していた。

全ては、アポロンの企みだったわけだが(何とも酷い事をする兄貴である)、嘆き悲しんだアルテミスは、オリオンを天に上げ、星座にした。

そして、巨大なオリオンの星座は、獅子の毛皮をまとい、こん棒を振り上げた勇ましい姿であり、その後ろには猟犬セイリオスが従っている。

これが、ギリシャ神話における、オリオンとアルテミスの「悲恋物語」であり、「オリオン座」の由来となった物語である。

 

<「オリオン座」の由来の異説~傲慢なばかりに、女神ヘラの怒りを買ったオリオンが、蠍(さそり)から逃げ回る!?>

 

 

 

先程ご紹介した、オリオンとアルテミスの物語は、悲しくもロマンチックなストーリーだったが、

実は、「オリオン座」の由来には、もう1つ、「異説」が有る。

それは、こんな物語である。

粗暴で傲慢な性格だったオリオンが、ある時、恋人のアルテミスと狩りをしていた時に、「俺は、地上のあらゆる獣を射止めてみせる」と豪語していたのを聞いた、女神ヘラが激怒して、巨大な蠍(さそり)をオリオンの元にけしかけて、蠍にオリオンを毒殺させた。

その後、オリオンと蠍は、共に星座になり、今でも、「蠍座」が空に姿を現すと、「オリオン座」は一目散に逃げ出すというものである。

…というわけで、こちらのオリオンは、何とも冴えないが(?)、いずれにしても、「オリオン座」の由来として、大変面白い話ではある。

 

<1950(昭和25)年…毎日オリオンズ、パ・リーグ初代優勝チームに!!~第1回「日本ワールドシリーズ」で、毎日が松竹ロビンスを4勝2敗で破り、初代日本一の栄冠に輝く!!>

 

 

 

 

 

さて、そんなギリシャ神話の「オリオン」が由来となった、新球団「毎日オリオンズ」は、

「やるからには、チャンピオンを目指そう!!」という事で、積極的に戦力補強を行なった。

そこで、毎日オリオンズは、阪神タイガースから、若林忠志、土井垣武、呉昌征、別当薫、本堂保次など、主力選手をゴッソリと引き抜いてしまった。

「札束で、阪神から主力を引き抜いた」という事で、毎日オリオンズに対し、ファンは非難囂々であり、毎日はすっかり「悪役」になってしまったが、資金力が豊富な毎日は、それだけ本気で優勝を狙っていたという事でもあった。

 

 

そして、かつて大阪毎日新聞が持っていた大毎球団に所属していた経験の有る、

毎日オリオンズの湯浅禎夫監督は、この「寄り合い世帯」を、見事な采配で、よくまとめ上げた。

毎日オリオンズは、投打がガッチリ噛み合い、パ・リーグを独走し、ぶっちぎりでリーグ優勝を果たし、毎日オリオンズが、パ・リーグ初代優勝チームの栄冠を手にした。

 

 

 

1950(昭和25)年、毎日オリオンズが、パ・リーグ初代優勝チームに輝いたのに対し、

セ・リーグの初代優勝チームは、松竹ロビンスである。

こうして、湯浅禎夫監督率いる毎日オリオンズと、小西得郎監督率いる松竹ロビンスとの間で、同年(1950年)、第1回「日本ワールドシリーズ」が戦われる事となった。

 

 

 

 

1950(昭和25)年、毎日オリオンズVS松竹ロビンスが戦った、「第1回日本ワールドシリーズ」は、

激闘の末、毎日オリオンズが松竹ロビンスを4勝2敗で破り、見事に、毎日オリオンズが「初代日本一」の座に就いた。

毎日オリオンズとしてみれば、積極的に戦力補強を行ない、新しく誕生したパ・リーグの盟主になろうという「野心」が、早くも、球団結成初年度にして結実したという、最高の結果になった。

 

<「毎日オリオンズ」の「初代日本一」の立役者~「火の玉投手」荒巻淳と、阪神から移籍して来た主砲・別当薫の、眼鏡をかけた優男風の、投打の二枚看板>

 

 

毎日オリオンズの「初代日本一」の立役者となった、投打の二枚看板は、

いずれも、眼鏡をかけた優男風の風貌であった。

エース・荒巻淳は、左腕投手であり、その風貌からは想像も付かないような剛速球を投げ、「火の玉投手」という異名を取り、

荒巻淳は、1950(昭和25)年は26勝8敗 防御率2.08という抜群の成績を残し、オリオンズの大黒柱となった。

 

 

一方、阪神からの「大量引き抜き」の当事者の1人で、

この年(1950年)、新生オリオンズの主砲を任された別当薫は、打率.335 43本塁打 105打点という成績で、本塁打王と打点王の二冠王を獲得し、日本シリーズMVPを獲得する大活躍を見せた。

投の看板が荒巻なら、打の看板は、間違いなく別当薫であり、この2人がチームを引っ張り、オリオンズを頂点に導いたのであった。

 

<その後(1951~1957年)の毎日オリオンズ~常に上位争いには顔を出すものの、南海・西鉄の後塵を拝し、頂点には立てず~その間、山内一弘(1952年)、榎本喜八(1955年)らが入団>

 

 

 

1950(昭和25)年、プロ野球2リーグ「分裂」初年度で、いきなり初代日本一に輝いた毎日オリオンズであるが、

その後は、なかなか頂点に立てないシーズンが続いた。

パ・リーグは、南海ホークスと西鉄ライオンズの「2強時代」に突入し、1951(昭和26)~1957(昭和32)年まで、南海が優勝4度(1951~1953、1955)、西鉄が優勝3度(1954、1956~1957)と、南海と西鉄の2球団で優勝を分け合う時代が続いた。

その間、毎日オリオンズは、3位(1951)⇒2位(1952)⇒5位(1953)⇒3位(1954)⇒3位⇒(1955)⇒4位(1956)⇒3位(1957)と、上位争いには顔を出すものの、優勝には手が届かなかった。

 

 

 

 

しかし、その間、1952(昭和27)年には山内一弘が、1955(昭和30)年には榎本喜八が、それぞれオリオンズに入団し、後にオリオンズの強打者として名を馳せた。

山内一弘は、「シュート打ちの名人」として知られた右打ちの強打者で、榎本喜八は、「プロ野球史上最高の天才打者」とまで言われた、左打者である。

毎日オリオンズは、こういった有望選手達が着々と力を蓄え、再び頂点に立つ時を虎視眈々と狙っていた。

 

<永田雅一と大映スターズ①~絶好調の大映映画(映画『羅生門』がベネチア映画祭グランプリを獲得)を背景に、「スターズ」でも天下取りを目指した永田雅一~1951(昭和26)年にはトキノミノルの馬主として日本ダービーを制す>

 

 

 

さて、毎日オリオンズが、2リーグ「分裂」初年度で頂点に立っていた頃、

その毎日オリオンズと同じパ・リーグに所属し、映画会社「大映」の社長の永田雅一が率いていた「大映スターズ」も、

意気揚々として、野球での頂点を目指していた。

何しろ、「大映」が作る映画は、この頃、質・量ともに抜群であり、「大映」を率いる永田雅一は、意気軒昂であった。

 

 

 

1950(昭和25)年、黒澤明監督で、三船敏郎、京マチコが主演した大映映画『羅生門』が、

翌1951(昭和26)年、ヴェネチア国際映画祭でグランプリを受賞するという快挙を達成した。

この快挙により、黒澤明、三船敏郎は、国際的な名声を得る事となった。

 

 

 

 

そんな永田雅一の理想は、「大映」の映画と同様、野球の「大映スターズ」も、華やかなスター選手を集め、

そのスター選手達が大活躍して、映画でも野球でも天下を取る事であった。

だから、「スターズ」という球団名は、永田雅一の理想にピッタリだったと言って良い。

「大映スターズ」は、戦前に巨人を7度も優勝させ、戦後は太平(パシフィック)-太陽ロビンス-金星スターズで監督を務めていた、名将・藤本定義を監督に迎え、そのスタルヒンの下で、戦前に巨人のエースとして、沢村栄治と共に大活躍していたスタルヒンも入団させた。

スタルヒンは、既に往年の力は衰えていたが、飯島滋弥という、新たな「スター」も登場し、大映スターズは、3位(1950)⇒4位(1951)⇒4位(1952)と、そこそこ健闘していた。

 

 

映画界に君臨し、野球界にも乗り込んだ永田雅一は、伝説の名馬・トキノミノルの馬主でもあった。

トキノミノルは、生涯10戦10勝(レコード優勝7度)を記録したが、1951(昭和26)年の日本ダービー(東京優駿)で優勝した直後、何と、破傷風が悪化して死亡してしまった。

馬主の永田雅一も、この時は大変落胆したが、トキノミノルは、日本競馬史上に残る名馬として、今もなお、語り継がれている。

 

<永田雅一と大映スターズ②~大スター・長谷川一夫を擁し、ニュースター・若尾文子の登場で絶好調の「大映」映画~1953(昭和28)年、永田雅一の発案で、映画会社の「五社協定」締結~同年(1953年)、永田雅一は遂に「パ・リーグ総裁」に就任!!>

 

 

絶好調の「大映」と永田雅一の快進撃は、なおも続いた。

1950(昭和25)年、永田雅一は、戦前に松竹や東宝などで活躍していた長谷川一夫を重役待遇で大映に迎え入れ、

翌1951(昭和26)年~、長谷川一夫が主演の『銭形平次捕物控』シリーズは、計17本も製作され、大映の「ドル箱」となった。

 

 

 

1953(昭和28)年、若尾文子、南田洋子が主演の大映映画『十代の性典』が大ヒットし、

以後、若尾文子は、長谷川一夫と並ぶ、大映の新たな看板スターとなり、大女優への道を歩み始めた。

 

 

同年(1953年)、溝口健二監督、京マチ子主演の大映映画『雨月物語』は、

文芸路線とえいて、高い評価を集めたが、大映は、大衆受けする映画から、文芸色が強い作品まで、

幅広い作品を量産し、大衆からの圧倒的な人気を集めるようになっていた。

 

 

ここで、永田雅一が仕掛けた。

1953(昭和28)年、永田雅一の「大映」を中心に、大映・松竹・東宝・新東宝・東映の、大手映画会社5社による「五社協定」が締結されたのである。

これは、映画会社同士の、監督や俳優・女優の「引き抜き」を防止するための協定であったが、以後、結果として、監督や役者達は、映画会社に縛られるにもなってしまった。

 

 

そして、同年(1953年)、永田雅一は、遂にパ・リーグの総裁に就任してしまった。

永田雅一は、自らが率いる「大映スターズ」は勿論、パ・リーグ全体の地位を向上させようと、

毎日新聞とも手を組み、様々な新機軸を打ち出して行くが、永田の「思い付き」が、リーグ全体を混乱に陥れる事にもなって行くのである。

 

<1946(昭和21)年…在日韓国人の重光武雄(辛格浩)、「ひかり特殊化学研究所」を創立⇒1948(昭和23)年、「ロッテ」と改称>

 

 

 

さてさて、「毎日新聞」や「大映」が日本球界で地位を築こうと奮闘していた頃、

1946(昭和21)年、在日韓国人で、早稲田大学で学んでいた重光武雄(韓国名:辛格浩)が、

東京都内で「ひかり特殊化学研究所」を創立した。

1921(大正10)年生まれの重光武雄、当時25歳の頃である。

 

 

1948(昭和23)年、「ひかり特殊化学研究所」は、会社名を「ロッテ」と改称した。

「ロッテ」という社名は、重光武雄が好きだったという、ゲーテの小説『若きウェルテルの悩み』のヒロイン、シャルロッテに由来しているという。

というわけで、パ・リーグという舞台で、「オリオン」と「スター」が競演し、「ロッテ」という新たな役者が、舞台袖に登場して来たところで、この話の続きは、また次回。

 

(つづく)