1901/4/29…昭和天皇の誕生日~昭和天皇と「昭和史」の物語③(1931~1933) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1926(昭和元)年12月26日、昭和天皇が即位し、「昭和史」の幕が開いたが、

「昭和」の初期は、「昭和恐慌」の暗い時代であり、軍部が徐々に暴走の兆しを見せる、不穏な時代でもあった。

昭和天皇も、そんな軍部の動きに対し、不快感を示していた。

 

 

そんな中、日本中が沸いた「慶事」も有った。

1933(昭和8)年12月23日、昭和天皇香淳皇后の間に、待望の男子(皇太子)が誕生したのである。

それこそ、継宮明仁親王(後の、「平成」の天皇陛下、現・上皇陛下)であった。

というわけで、今回は「昭和史」が更に激動の度合いを深める、1931(昭和6)~1933(昭和8)年について、描いてみる事としたい。

 

<1931(昭和6)年1月…昭和天皇・香淳皇后夫妻の「御真影」を日本全国の公立学校・私立学校に下賜~同年(1931年)3月7日、順宮(よりのみや)厚子(あつこ)内親王が誕生>

 

 

1931(昭和6)年1月、昭和天皇・香淳皇后夫妻の「御真影」が、

日本全国の公立学校・私立学校に下賜され、生徒達は、その「御真影」に、毎日、一礼をした。

昭和天皇に対する「神格化」が、いよいよ本格化しようとしていた。

そして、同年(1931年)3月7日、昭和天皇・香淳皇后夫妻の間に、第4子である順宮(よりのみや)厚子(あつこ)内親王が誕生した。

時に、昭和天皇は30歳、香淳皇后は28歳の時であった。

 

<1931(昭和6)年3月…「三月事件」~陸軍の秘密結社「桜会」の橋本欣五郎と民間右翼・大川周明が結託した、クーデター未遂事件>

 

 

1931(昭和6)年3月、橋本欣五郎をリーダーとする、陸軍の秘密結社「桜会」と、

民間右翼の大物・大川周明らが結託し、宇垣一成陸相を首班に担ぎ上げたクーデターを企てたが、

土壇場で、宇垣一成が反対したため、クーデターは未遂に終わった。

所謂「三月事件」であるが、この時のクーデターは未遂に終わったものの、この後、軍部では度々クーデターが計画された。

それというのも、当時の政党政治は、終始、政権争いでゴタゴタが続き、民衆が政治に嫌気が差しているのを見て取った軍部が、

「世直し」のために、力づくで政権を転覆させるという事を、常に考えていたからに他ならない。

軍部は、火山の地下のマグマのように、不気味にエネルギーを蓄えていたのである。

 

<1931(昭和6)年9月18日…「柳条湖事件」が発生⇒関東軍の独断により「満州事変」が勃発>

 

 

 

 

 

1931(昭和6)年9月18日、「昭和」の日本を揺るがす大事件が起こった。

中国の東北部・奉天郊外の南満州鉄道の線路が、突然、何者かによって爆破された。

これを口実に、現地の日本軍(関東軍)が、電光石火の早業で軍事行動を開始し、現地を占領した。

そう、お察しの通り、これは勿論、関東軍による「自作自演」だった。

これが、日本の近現代史と「昭和史」に残る大事件、「柳条湖事件」である。

 

 

今では、誰もが知っている通り、「柳条湖事件」は、関東軍の謀略であり、

関東軍は「自作自演」によって騒ぎを起こし、軍事行動を起こす口実とした。

やがて、「柳条湖事件」は「満州事変」へと拡大して行った。

関東軍は、武力によって満州(中国東北部)を占領する事を、断固として決意した上で、行動を起こしたのである。

 

<「柳条湖事件」⇒「満州事変」を計画し、主導した関東軍の石原莞爾~「満蒙は日本の生命線」と主張>

 

 

 

 

ところで、「柳条湖事件」⇒「満州事変」を計画し、主導したのは、

当時、関東軍のトップだった石原莞爾である。

石原莞爾は、「昭和」初期の1927(昭和2)年頃から、既に、「満蒙(満州・蒙古(モンゴル))は日本の生命線」「日本は満州・蒙古(モンゴル)を領有すべきである」という「思想」を発表していた。

日本には資源が無いので、日本は満州や蒙古を占領し、国力を増大させ、やがてはアジアの覇権を握ろうというのである。

更に、石原莞爾は『世界最終戦論』という本を書き、そこでは「最後には、日本とアメリカが世界の覇権を懸けて戦い、最終的には日本が勝つろう。そのためには、日本にも海外領土が必要である」という、壮大な「構想」を述べていた。

その後、虎視眈々と、自身の考えを実現させる機会を狙っていた石原莞爾は、遂に「柳条湖事件」⇒「満州事変」で、自らの考えを実行に移したのである。

 

<若槻礼次郎首相、「満州事変」の「不拡大方針」を掲げるが、関東軍は「ガン無視」⇒政府も、関東軍の軍事行動を追認せざるを得ず>

 

 

 

関東軍の独断専行による「満州事変」に対し、時の首相・若槻礼次郎はビックリ仰天し、

関東軍に対し、「勝手な事をするな!!」と、遺憾の意を表明し、「不拡大方針」を表明したが、

勿論、関東軍は、そんな若槻礼次郎の諌言など、鼻にも引っかけずに「ガン無視」した。

結局、政府も関東軍の軍事行動を「追認」せざるを得ない状況となってしまった。

またしても、軍部の「暴走」に、政府は何も為す術は無かったのであった。

 

<1931(昭和6)年10月17日…またしても、「桜会」橋本欣五郎と、民間右翼・大川周明がクーデター未遂の「十月事件」を起こす>

 

 

1931(昭和6)年10月17日、またしても、「桜会」の橋本欣五郎と、民間右翼・大川周明が、クーデター未遂事件を起こした。

今度は、若槻礼次郎首相や幣原喜重郎外相を殺害し、陸軍中将・荒木貞夫を首班に担ぎ上げようというものであったが、

事前に発覚し、橋本らが憲兵隊に逮捕され、クーデターは未遂に終わったのである。

所謂「十月事件」であるが、全く、懲りない連中としか言いようが無い。

しかし、この後、このような物騒な騒動が頻発して行く。

 

<1931(昭和6)年11月27日…中国共産党・毛沢東が、中国・瑞金に「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立>

 

 

 

さて、1927(昭和2)年に、蒋介石による「上海クーデター」に遭い、

辛くも逃げ延びた中国共産党の「残党」の中に居た毛沢東は、その後、中国の南東部の瑞金に根拠地を確保し、

毛沢東が首班の「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立した。

蒋介石が支配する中国の中央政府に、公然と反旗を翻した毛沢東であったが、蒋介石は、目障りな毛沢東を執拗につけ狙い、

この後、蒋介石は毛沢東の息の根を止めようと躍起になり、中国共産党の掃討を目指した。

 

<1932(昭和7)年1月8日…昭和天皇の暗殺未遂事件「桜田門事件」が勃発~犯人の朝鮮人・李奉昌は死刑に>

 

 

 

 

1932(昭和7)年1月8日、朝鮮人・李奉昌という男が、

桜田門外で、昭和天皇の馬車に爆弾を投げつけるという大事件を起こした。

昭和天皇は、皇太子時代の「虎ノ門事件」(1923年)の時に続き、この時も危うく難を逃れたが、

犯人の李奉昌は直ちに逮捕され、死刑に処された。

これが、世間を震撼させた「桜田門事件」であるが、この年(1932年)は、更に物騒な大事件が連発する、異様な年となった。

 

<1932(昭和7)年1月28日「第1次上海事変」~遂に、日中両国の軍事衝突が勃発~「肉弾三勇士」のエピソードが「美談」に>

 

 

 

1932(昭和7)年、中国・上海で、遂に日中両国による武力衝突が発生した。

これが、所謂「第1次上海事変」であるが、この後、日中両国は、長い長い戦いの泥沼に足を突っ込んで行く事となる。

 

 

また、日中の武力衝突の際に、日本軍の3人の兵士が、爆弾を抱え、敵軍の鉄条網を突破し、

その際に爆弾が破裂し、3人は命を落としてしまったが、この3人は「肉弾三勇士」として称えられ、

マスコミによって、「美談」として大いに喧伝された。

 

<1932(昭和7)年2月9日…「血盟団事件」が発生~前蔵相・井上準之助が、「一人一殺」を掲げるテロ組織「血盟団」により殺害される~3月5日、三井合名会社理事・団琢麿も「血盟団」に殺害される>

 

 

1932(昭和7)年2月9日、井上日召をリーダーとして、

「一人一殺」という、何とも物騒なスローガンを掲げるテロ組織「血盟団」の小沼正が、

前蔵相・井上準之助を殺害する事件を起こした。

更に、3月5日には、「血盟団」の菱沼五郎が、三井合名会社理事・団琢麿を殺害した。

これが、世間を震え上がらせた「血盟団事件」であるが、この後、もっと恐ろしい事件が起こる事となる。

 

<1932(昭和7)年3月1日…関東軍が「満州国」建国!!~清朝のラストエンペラー・愛新覚羅溥儀を、傀儡のトップに担ぎ出す~「満州国」は、「五族協和、王道楽土」をスローガンに掲げる>

 

 

 

 

 

1932(昭和7)年3月1日、「満州事変」を遂行した関東軍は、

満州の長春を首都とする「満州国」の建国を宣言した。

そして、「満州国」の執政(トップ)として担ぎ出されたのが、清朝のラストエンペラー・愛新覚羅溥儀であった。

しかし、愛新覚羅溥儀は、日本の傀儡に過ぎず、勿論、何の権限も持っていなかった。

なお、「満州国」では「五族協和、王道楽土」というスローガンが掲げられている。

 

<そもそも「満州」って何!?~清朝を建国した「満州族」の出身地であり、やがて「満州」という地名に…>

 

 

ところで、「満州国」が有った「満州」とは、一体何処なのかといえば、

ご覧の通り、中国の東北部にあたり、この地域一帯を「満州」と称した。

日本は、事実上の植民地として、「満州国」を建国したのである。

 

 

 

 

しかし、「満州」というのは、元々は地名ではなく、

清朝を建国した満州族が、元々、この辺りを根拠地として勃興し、

その満州族の出身地という事で、いつしか「満州」という地名に転化して行ったという。

 

 

従って、清朝の最後の皇帝であり、満州族の地を引く愛新覚羅溥儀が、

「満州国」のトップとして担ぎ出されたのは、そう的外れな事でもなく、

一応は、日本としても現地の人達に配慮した形という事であろう。

しかし、日本の領土拡大のために、強引に占領したという事実は変わらず、国際的にも、日本の「満州国」建国は、非難を浴びてしまった。

 

<1932(昭和7)年5月15日…「五・一五事件」勃発!!~海軍青年将校により、犬養毅首相が暗殺される~「話せばわかる」「問答無用」のやり取りが象徴する、「言論の時代」の終焉>

 

 

 

 

1932(昭和7)年5月15日、遂に「昭和」の歴史を大きく暗転させるキッカケとなる、

歴史的な大事件が発生してしまった。

当時の立憲政友会による政権の犬養毅首相が、突如、首相官邸で海軍青年将校に襲撃され、殺害されてしまったのである。

これが、「昭和史」のみならず、日本史上に残る大事件、「五・一五事件」である。

 

 

海軍青年将校に襲撃された時、犬養毅首相は、彼らを説得しようとして、

「話せばわかる」と言ったが、

頭に血が上っていた海軍青年将校は「問答無用!!」と答え、犬養首相を射殺してしまった。

このやり取りは、「言論の時代」が幕を閉じ、武力が物を言う時代へと転換して行く様相を、まさに象徴していたと言って良い。

 

<「憲政の常道」の終焉~海軍大将・斎藤実が首相に就任し、以後、軍人が首相に就く時代に>

 

 

 

犬養毅首相が「五・一五事件」で暗殺された事により、後継の首相として、海軍大将・斎藤実が就任したが、

以後、軍人が首相に就く時代となり、それまでの、選挙で多数を占めた政党が政権を取る「憲政の常道」は、終焉を迎えてしまった。

この後、日本は「軍国主義」へと舵を切って行く事となるのである。

 

<1925(大正14)年、抱き合わせで成立した「普通選挙法」と「治安維持法」~選挙権拡大の歴史と、世にも恐ろしい「治安維持法」…特高(特別高等警察)の暗躍>

 

 

では、ここで「普通選挙法」「治安維持法」が成立した経緯と、選挙権拡大の歴史、

そして、世にも恐ろしい「治安維持法」と特高(特別高等警察)について、ご紹介しておく事とする。

1925(大正14)年、「普通選挙法」が成立し、これにより、日本で初めて「普通選挙」が実現する事となったが、

この時、「普通選挙法」との抱き合わせで成立したのが、「治安維持法」であった。

 

 

1889(明治22)年、「大日本帝国憲法」公布により、日本で初めて選挙法が実現したが、

当初、選挙権を得るためには、物凄く高い税金を払うなど、厳しい制限が有り、有権者は非常に少なかった。

しかし、普通選挙を求める民衆運動が、ずっと続けられ、1925(大正14)年に、遂に民衆が念願した「普通選挙法」が成立したのである。

 

 

 

 

だが、この時に、「普通選挙法」と抱き合わせで、「治安維持法」という、世にも恐ろしい法律も成立してしまった。

「治安維持法」とは、要するに、思想や言論の自由を奪い、少しでも政府に反対する人が居れば、容赦なく逮捕して良いという法律である。

「治安維持法」によって、多くの人達が逮捕・投獄され、政府は徹底的に反政府の勢力を弾圧した。

 

 

なお、「治安維持法」によって誕生したのが、特別高等警察、所謂「特高」である。

「特高」は、思想弾圧の尖兵として、多くの反政府勢力を逮捕するため、「暗躍」したが、

人々は、思想の自由を奪われ、「特高」に怯えるようになった。

 

<「昭和」初期に一大勢力になった「無産政党」とは?~労働者や農民の支持を集めた組織>

 

 

 

 

そのように、「治安維持法」や特高による思想弾圧が強まる中、

労働者や農民などを支持母体とする「無産政党」が、一大勢力となり、

国政選挙でも当選者を出すほどであったが、当然、彼らは特高に睨まれ、容赦なく逮捕されて、やがて衰退して行った。

なお、「昭和」初期は、今よりも酷い「格差社会」であったが、「こんな社会で良いのか!?」と、声を上げ、積極的に動いた、彼らの活動は、特筆すべきものである。

 

<1933(昭和8)年1月30日…ドイツで、アドルフ・ヒトラーのナチスが政権獲得~「全権委任法」を成立され、ヒトラーが独裁者となる>

 

 

 

1933(昭和8)年1月30日、ドイツでは、アドルフ・ヒトラー率いるナチス(国家社会主義ドイツ労働者党)が、

選挙で第1党に躍進すると、ヒンデンブルク大統領は、ヒトラーを首相に任命した。

かつて、「ならず者の集団」として警戒されていたナチスとヒトラーは、遂に政権を獲得した。

 

 

すると、ヒトラーは電光石火の早業で、国会議事堂放火事件を「自作自演」し、

それを全て共産党の責任になすりつけると、直ちに国政選挙を行ない、ナチスが国会で過半数の議席を獲得した。

すると、ナチスは「全権委任法」を成立させ、ドイツの全ての権限を、ヒトラーが1人で握る事となった。

こうして、ヒトラーは、まんまと「独裁者」になってしまったのである。

 

<1933(昭和8)年3月…アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領、「ニューディール政策」を開始>

 

 

 

1933(昭和8)年3月、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領は、

「世界恐慌」以来、長引く不況を脱出するため、「ニューディール政策」を開始した。

この政策により、大規模な公共事業を押し進めるなど、雇用を創出した事により、アメリカ経済は好転の兆しを見せるようになった。

 

<「満州事変」(1931~1933年)と「リットン調査団」~日本による「満州国」建国は、日本の中国「侵略」と断定>

 

 

 

日本はといえば、前述の通り、「満州事変」を引き起こし、強引に「満州国」を建国してしまったが、

中国は、国際連盟に訴え、調査を依頼した。

この調査依頼を受け、国連で「リットン調査団」が組織され、「リットン調査団」による現地調査が行われた結果、

一連の「満州事変」は、「日本による侵略である」と、断定されてしまった。

 

<1933(昭和8)年2月24日…日本の全権・松岡洋右が、国際連盟「脱退」を宣言!!~日本は国際社会から「孤立」>

 

 

 

 

1933(昭和8)年2月24日、国際連盟の総会で、

「リットン調査団」の調査結果に基づき、日本の「満州国」建国は「不当」として、

日本は満州から撤退せよという勧告案が議決されたが、

日本の全権・松岡洋右は、この勧告案を不服として、「日本は、国際連盟から脱退する」と宣言し、退場してしまった。

この松岡の行動を、当時の日本のマスコミは大絶賛し、日本国民も「松岡、よくやった!!」と大喝采したが、

以後、日本は国際社会から「孤立」してしまうのである。

 

<1933(昭和8)年12月23日…昭和天皇・香淳皇后夫妻に、長男・継宮明仁親王が誕生!!~待望の「皇太子」誕生に、日本中が祝賀ムードに!!>

 

 

 

 

今までご紹介して来た通り、この頃、日本は国内外で、あまり良くないニュースが続き、

日本国民の間に、重苦しい雰囲気が漂っていたが、

1933(昭和8)年12月23日、そんな重苦しい雰囲気を一気に吹き飛ばすような、ビッグニュースが有った。

昭和天皇・香淳皇后の間に、初めての男子である、継宮(つぐのみや)明仁親王が誕生した。

後の、「平成」の天皇陛下、現・上皇陛下である。

この「慶事」に、日本中が沸き立ち、国中が祝賀ムードに包まれた。

 

 

 

 

昭和天皇・香淳皇后の間には、それまで、4人の女子が誕生していたが、

男子の誕生は、これが初めてであった。

つまり、明仁親王は、日本中が待望していた「お世継ぎ」だったのである。

皇太子・明仁親王は、こうして日本中がお祝いムードに包まれた中、生まれたが、

この後、昭和天皇と「昭和」の日本は、更に混迷の時代へと足を踏み入れて行く事となる。

 

(つづく)