1926(大正15)年12月25日、大正天皇が享年47歳で崩御し、「大正」の時代が幕を閉じた。
そして、大正天皇の長男・裕仁親王が第124代の天皇に即位し、新たなる「昭和」の時代が幕を開けた…。
と思いきや、実は、この時の改元を巡って、ひと騒動が有った。
というわけで、今回はまず、「大正」から新元号に変わる際のドタバタ劇、
世に言う「光文」事件から、話を進める事としたい。
そして、裕仁親王の即位により始まった「昭和」の初期について、描いてみる事とする。
<1926(大正15)年12月25日…大正天皇が崩御し、「大正」の時代が幕を閉じるが…。東京日日新聞が、新元号を「光文」とスクープ!?>
1926(大正15)年12月25日、大正天皇が享年47歳で崩御し、これを以て「大正」の時代が幕を閉じる事となった。
これに伴い、直ちに新元号が発表される運びとなったが、大正天皇の崩御の直後、
東京日日新聞(後の毎日新聞)が、「新元号は『光文』に決定」と、1面でデカデカと「大スクープ」を発表した。
しかも、「新元号の候補は、『光文』『大治』『弘文』の3つが有ったが、その内の『光文』に決まった」
という、かなり具体的で詳細な内容付きであった。
これは、東京日日新聞が、宮内庁の関係者に取材したものらしく、かなり信憑性が高いと思われた。
<新元号は「昭和」に決定!!~東京日日新聞は「世紀の大誤報」をやらかす~「光文事件」のドタバタで始まった「昭和史」>
ところがである。
宮内庁から新たに発表された元号は「昭和」であった。
先程ご紹介した、「東京日日新聞」が報じた、3つの新元号候補は、結果として、どれも使われず、
マスコミが全く掴めていなかった、「昭和」という新元号に決定したのである。
これは、一説によると、宮内庁の関係者がマスコミにリークした事により、宮内庁の上層部が激怒し、
マスコミが得た情報に無かった「昭和」に、急遽、決定したもと言われている。
これが、世に言う「光文事件」であり、東京日日新聞は「世紀の大誤報」をやらかし、とんだ赤っ恥をかく事になってしまった。
ともあれ、「昭和史」は、このようなドタバタ劇によって、幕を開けたのである。
<新元号「昭和」の由来とは!?~「百姓昭明 協和萬邦」(『書経』より)…「国民の平和と、世界の共存繁栄を願う」~裕仁親王が即位し、第124代「昭和天皇」に!!>
そうしたドタバタ劇の中、新たに決まった「昭和」という元号であるが、
その由来とは、「百姓昭明 協和萬邦」という、中国の史書『書経』から取られた一節で、
「国民の平和と、世界の共存繁栄を願う」という事を意味している。
なお、基本的には、日本の元号というのは、古来より、中国の史書から取られるのが慣例となっている。
ともあれ、こうして裕仁親王は、父・大正天皇から引き継ぎ、
新たに第124代天皇として即位した。
裕仁親王改め「昭和天皇」、当時25歳の時である。
「昭和天皇」の即位により、遂に「昭和史」の幕が開いたが、
以後、この記事でも、裕仁親王から昭和天皇と、表記を改めて描く事とする。
<わずか6日間だった「昭和元年」~1927(昭和2)年2月7日、大正天皇の「大喪の礼」が行われる>
さて、「昭和史」は1926(昭和元)年12月26日より始まったが、
大正天皇が崩御したのは、1926(大正15)年も、残す所、あと僅かという時だったため、
「昭和元年」というのは、12月26日~12月31日の、僅か6日間しか無かった。
従って、「昭和元年」生まれというのは、この期間に生まれた人達のみであり、大変レアである。
実質的な「昭和史」は、翌1927(昭和2)年から始まったと言って良いと思われるが、
1927(昭和2)年2月7日、先帝・大正天皇の「大喪の礼」が行われた。
こうして、「大正」の時代は名実共に終わり、「昭和史」が本格的に幕を開けた。
<実は、母・貞明皇后に疎まれていた?昭和天皇~母・貞明皇后は次男・秩父宮を溺愛>
「昭和史」の幕開けにあたり、1つ、当時の皇室に燻っていた、ある「問題」について、ご紹介しておく事としたい。
大正天皇の皇后であり、昭和天皇の母にあたる貞明皇后は、何故か、昭和天皇の事を疎んじており、
昭和天皇ではなく、次男の秩父宮の事を可愛がっていたというのである。
つまり、昭和天皇は、残念ながら、お母さんに愛されない子だったという。
この事は、昭和天皇にとって、誠に辛いものだったと思われるが、
だからといって、昭和天皇は母親を恨んだり、弟の秩父宮に、辛く当たるような事もなかった。
昭和天皇には、帝王としての自覚が有り、己を厳しく律していた。
つまり、昭和天皇は、とても良く人間が出来た人だったのである。
もしかしたら、そんな所が、母親の貞明皇后にとって、「裕仁は、あまり可愛げがない」という気持ちにさせたのであろうか。
それはともかく、この「火種」が、後に日本という国家と皇室を揺るがす、ある大事件の「伏線」となった。
<1927(昭和2)年9月10日…久宮祐子(第二皇女)が誕生するも…1928(昭和3)年3月8日に夭逝(薨去)>
昭和天皇と香淳皇后(良子(ながこ)女王)との間には、1926(大正15)年12月6日、長女・照宮成子(しげこ)内親王が誕生していたが、
昭和天皇が即位した直後、1927(昭和2)年9月10日、第2子で、次女の久宮(ひさのみや)祐子(さちこ)内親王が誕生した。
しかし、久宮祐子内親王は、1928(昭和3)年3月8日に、病により亡くなってしまった。
香淳皇后は、立ち直れないほどのショックを受け、以後、暫くは祐子内親王と同じ重さの人形を抱いて過ごしたという。
以後、9月10日が来る度に、香淳皇后は「今日は、久ちゃんの誕生日よ」と言っていたとの事である。
昭和天皇と香淳皇后にとって、生涯忘れられない、痛恨の出来事であった。
<1928(昭和3)年11月10日…昭和天皇と香淳皇后、京都御所で「即位の大礼」を行なう>
昭和天皇と香淳皇后は、次女・久宮祐子内親王を亡くした悲しみを癒えなかったが、
祐子内親王が亡くなってから8ヶ月後、1928(昭和3)年11月10日、昭和天皇と香淳皇后は、
京都御所で「即位の大礼」を行ない、ご覧の通り、皇族の正装で、厳粛に儀式に臨んだ。
これこそ、まさに長い長い皇室の歴史と伝統を世に知らしめる、重要な儀式であった。
<日本中がドン底の大不況~お先真っ暗な「昭和恐慌」で始まった「昭和」の歴史~「世界恐慌」(1929)の襲来と、蔵相・高橋是清の辣腕による、不況脱出>
さてさて、「昭和」の時代が始まった頃、日本はどのような時代状況だったのかといえば、
当時、日本は「昭和恐慌」と称される、酷いドン底の大不況の真っ只中にあった。
当時、街中には失業者が溢れ、農村では「身売り」が相次ぎ、食料にも事欠く「欠食児童」なども続出した。
まさに、「昭和史」は「お先真っ暗」な中、始まったのである。
そこへ、1929(昭和4)年10月24日、アメリカのウォール街で、株価の大暴落が起こった事に端を発した「世界恐慌」が、
当時の「昭和恐慌」の日本をも襲い、日本経済は「昭和恐慌」と「世界恐慌」のダブルパンチで、ガタガタになってしまった。
そこへ、当時の立憲政友会の政権(田中義一内閣、犬養毅内閣)で、蔵相を務めた高橋是清の辣腕により、
日本は、どうにか大不況を脱出する事が出来た。
高橋是清の政策とは、一言で言えば「積極財政」で、軍事費を増大させ、赤字国債をバンバン発行するという「インフレ政策」である。
という事で、1933(昭和8)年頃には、日本経済は、恐慌前の水準に戻す事に成功した。
<立憲政友会VS民政党…「大正」~「昭和」初期の「二大政党制」の時代~選挙で選ばれた多数党が政権を握る「憲政の常道」>
当時の日本の政界は、「立憲政友会」「民政党」が、「二大政党」として、政権を争う状況が続いていた。
「立憲政友会」は、概ね、板垣退助が創立した「自由党」の流れを汲んでおり、
「民政党」は、大体において、大隈重信が作った「立憲改進党」の流れを汲んでいた。
そして、「立憲政友会」は、「強硬外交」「積極財政」が特徴で、
「民政党」は、「協調外交」「緊縮財政」が特色であった。
「大正」~「昭和」初期にかけて、ご覧のように、「立憲政友会」と「民政党」は、
選挙で多数を占めた政党が政権を握る、「二大政党制」の時代を形成し、
ご覧のように、交互に政権を担っていた。
このように、選挙で勝った政党が政権を取る、民主主義の体制が確立したが、
この状態を「憲政の常道」と称している。
<「昭和」初期の中国情勢(1926~1928)…蒋介石の「北伐」(1926~1928)「上海クーデター」(1927)⇒「山東出兵」(1927)⇒「張作霖爆殺事件」(1928)~日本の中国「進出」が強まる>
「昭和」初期の頃、日本の隣国・中国は、混乱の極みにあった。
「昭和史」の日本において、中国との関係は非常に重要なので、当時の中国情勢についても、述べておく。
まず、「中国革命の父」と称された孫文が、「辛亥革命」(1912年)により、清朝を打倒し「中華民国」を建国したが、その後、「中華民国」はゴタゴタが続き、内輪揉めが絶えなかった。
そして、孫文は1925(大正14)年に、志半ばにして亡くなったが、孫文が作った「中国国民党」のトップは、孫文の愛弟子・蒋介石が引き継いだ。
蒋介石が、「中国国民党」のトップの座を、孫文から引き継いだ頃、
当時の中国には、まるで戦国時代のように、多くの「軍閥」が群雄割拠している状態であった。
蒋介石は、この状態を憂い、「外国に対抗し、強い中国を作るためには、軍閥を倒し、中国を統一するしかない!!」と決意した。
そして、蒋介石は、軍閥打倒のため、1926(大正15)年7月に、「北伐」を開始した。
なお、当時の「軍閥」の1つに、満州に拠点を持つ、張作霖という人物が居た。
蒋介石の「北伐」を受け、当時の日本の政権、
立憲政友会の田中義一内閣は、中国での「既得権益」が脅かされるという「危機感」を持った。
そして、田中義一首相は、1927(昭和2)年5月、蒋介石の「北伐」に干渉するため、中国の山東に軍隊を送った。
これが、所謂「山東出兵」であるが、「強硬外交」を標榜する田中義一内閣による、中国への露骨な「内政干渉」であった。
1927(昭和2)年、「北伐」の途上にあった蒋介石は、
当時、孫文の命令により、仕方なく手を組んでいた中国共産党が、目障りで仕方が無かった。
その上、中国共産党は、中国国民党を乗っ取るような動きさえ見せていた。
これに危機感を持った蒋介石は、「共産党と仲良くしろ」と言っていた、孫文が既に亡くなっている事もあり、
目障りな中国共産党の勢力を一掃するため、一気に、中国共産党のメンバーを虐殺する、「上海クーデター」を断行した。
これによって、当時の中国共産党は、ほぼ壊滅したかに思われたが、毛沢東をはじめとする「残党」が、辛うじて逃げ延びた。
この毛沢東が、20数年後、中国で「天下」を取るとは、一体、誰が予想したであろうか?
そんな血なまぐさい事件も有ったが、蒋介石の「北伐」は概ね順調に進み、
1928(昭和3)年6月、蒋介石は「北伐」の完成を宣言した。
一方、その頃、日本は蒋介石に対抗するため、「軍閥」の1人、張作霖を支援していたが、
その張作霖は、日本の言う事を聞かなくなっていた。
そのため、張作霖が邪魔になった、現地の日本軍(関東軍)の独断により、同年(1928年)6月、張作霖が乗っていた列車を、奉天郊外で爆破し、張作霖を殺害してしまった。
所謂「張作霖爆殺事件」であるが、当初、現地の日本軍(関東軍)は、この行動について、知らぬ存ぜぬとシラを切り、日本のマスコミも「満州某重大事件」と報じたが、日本軍(関東軍)による自作自演である事は、明らかであった。
<昭和天皇、田中義一首相に大激怒!!~当初、田中義一首相は「現地の日本軍関係者を軍法会議にかける」と昭和天皇に奏上したが、これを撤回⇒昭和天皇「話が違う」と激怒し、田中義一首相は辞職⇒その後、田中義一は憤死>
結局、「張作霖爆殺事件」は、現地の日本軍の仕業である事が濃厚となった。
これは、明らかに、現地の日本軍(関東軍)の「暴走」であり、日本政府の意向を無視した「暴挙」であった。
時の田中義一首相も、事態を重く見て、当初、昭和天皇にも「現地の日本軍の関係者を、軍法会議にかけます」と奏上していた。
ところが、田中義一首相に対し、軍部からの反発が強まり、
1929(昭和4)年6月27日、田中義一首相は昭和天皇に対し、
「今回の件は、関東軍とは無関係であります」と、奏上せざるを得なかった。
しかし、態度を豹変させた田中義一に対し、昭和天皇は大激怒し、
「話が違う。お前が最初に言っていた事と違うじゃないか」と田中義一首相に詰め寄った。
これに対し、田中は脂汗を流し、一言も返す言葉が無かったという。
更に、昭和天皇は、田中義一首相に対し、「辞表を出せ」と迫り、
これを受けて、田中義一内閣は総辞職に追い込まれた。
その直後の1929(昭和4)年9月29日、田中義一は急死してしまったが、これは田中義一の「憤死」であろう。
<田中義一首相に「辞表」を出せと迫り、田中義一を追い詰めた事を深く後悔した昭和天皇~その後、政治への「介入」を自戒する事を決意~この頃、昭和天皇の侍従として鈴木貫太郎が活躍>
昭和天皇は、田中義一が「憤死」した事に、大きなショックを受けた。
そして、昭和天皇は、自らが田中義一を追い込み、死に至らしめた事を深く反省し、
以後、昭和天皇は「内閣の奏上した事に対しては、たとえ自分が反対の意見を持っていても、裁可を与える事に決心した」という。
昭和天皇は、自らが政治に「介入」する事を自戒したのであるが、この事が、皮肉にも、後に軍部の「暴走」を許す「伏線」となった。
なお、この時、昭和天皇の側近として、昭和天皇と田中義一の間に立ったのが、
昭和天皇の侍従を務めていた、鈴木貫太郎である。
昭和天皇と鈴木貫太郎は、深い信頼関係で結ばれており、この2人の関係が、後に歴史的に重大な意味を持つ事となる。
<1930(昭和5)年…「ロンドン海軍軍縮条約」~浜口雄幸首相の狙撃事件~軍部の発言権が増すキッカケに>
1930(昭和5)年4月22日、日本は「ロンドン海軍軍縮条約」に調印し、日本はアメリカ・イギリスなどとの間で、「軍縮」に同意したのであるが、この「ロンドン海軍軍縮条約」に対し、軍部からの反発が強まった。
そして、当時の浜口雄幸首相は、世間から「弱腰」だという非難を浴び、右翼からつけ狙われるようになったが、
同年(1930年)11月14日、浜口雄幸は東京駅で右翼のテロに遭い、瀕死の重傷を負ってしまった。
この時、浜口首相は一命を取り留めたが、この傷が元で、翌1931(昭和6)年に浜口雄幸は亡くなってしまった。
この後、日本は右翼によるテロが頻発する、重苦しい雰囲気が漂うようになった。
そして、「ロンドン海軍軍縮条約」~浜口雄幸首相の狙撃に至るまでの流れで、軍部の発言力が増大したが、
この事には、あるカラクリが有った。
<軍部が暴走する根拠となった「統帥権」って何だ!?~「統帥権干犯」を振りかざし、軍部が政府のコントロールを離れ、やりたい放題に…>
「昭和」の時代において、軍部が暴走し、日本が戦争への道をひた走る事となった、その「根拠」となったのが、
所謂、「統帥権」というものである。
ご覧の通り、当時の大日本帝国憲法においては、一応、天皇が国のトップとして定められ、天皇が内閣・帝国議会・裁判所のメンバーを「任命」する形になっていた。
これに対し、陸海軍という「軍部」は、天皇が直接、「統帥」する形となっていた。
つまり、法的には、軍部は天皇の指揮下にあり、政府とは「独立」した存在と言って良いものであった。
それでも、大日本帝国憲法が施行された当初は、政府は軍部をコントロール出来ていたが、
次第に、軍部は「統帥権」を楯にして、政府が軍部に対し、口を出す度に、
「軍部は、天皇陛下によって統帥されているのだから、政府が口を出すな!!」
と言って、段々と政府の言う事を聞かなくなって行った。
挙句に果てには、政府が軍部の意に沿わない決定をすると、
「それは、統帥権を犯している!『統帥権の干犯』だ!!」
と言って、大騒ぎして、政府に逆らい、勝手に「暴走」するようになった。
つまり、軍部は「統帥権」という「錦の御旗」を得て、政府のコントロールを離れ、勝手気儘に振る舞う、非常に厄介な存在になってしまったのである。
最も悪い言い方をすれば、軍部は、昭和天皇が政治に口を出さないのを良い事に、昭和天皇の権力を「悪用」するようになったのである。
前述の「張作霖爆殺事件」も、「ロンドン海軍軍縮条約」に対する反発も、全て、これが原因であった。
というわけで、「昭和」初期の時代、何だか世の中にキナ臭い空気が漂ってきたが、この後、昭和天皇と「昭和」の日本の運命や、如何に!?
(つづく)