1901/4/29…昭和天皇の誕生日~昭和天皇と「昭和史」の物語①(1901~1926) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

本日(4/29)は「昭和の日」である。

「昭和の日」は、「昭和」の時代には「天皇誕生日」であった。

つまり、本日(4/29)は昭和天皇の誕生日である。

 

 

当ブログでは、「昭和」の時代に関する記事を、様々な形で沢山書いているが、

本日(4/29)は、「昭和の日」に因み、「昭和史」の象徴、昭和天皇の生涯について、描いてみる事としたい。

昭和天皇の生涯は、激動の日本近現代史の歩みそのものだったと言って良い。

それでは、まずは昭和天皇の生い立ちから、天皇に即位するまでの歩みについて、ご覧頂くとしよう。

 

<1901(明治34)年4月29日、午後10時10分…皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の第一皇子(皇男子)、迪宮(みちのみや)裕仁(ひろひと)親王(後の昭和天皇)が誕生>

 

 

1901(明治34)年4月29日、午後10時10分、東京府青山の青山御所(東宮御所)にて、

皇太子嘉仁親王(後の大正天皇)の第一皇子(皇男子)、迪宮(みちのみや)裕仁(ひろひと)が誕生した。

言うまでもなく、後の昭和天皇である。

ここから、昭和天皇の激動の生涯が始まるわけであるが、迪宮が生まれた時の身長は1尺6寸8分(約51cm)、体重は800匁(約3000g)だったという。

皇太子(当時)に待望の男子が生まれたとの事で、世間は大いに沸き立った。

 

<昭和天皇が生まれた1901(明治34)年の出来事~「20世紀」の幕開けの年>

 

 

昭和天皇が生まれた1901(明治34)年の出来事を、いくつか挙げておくと、

まずは、教科書にも載っている有名な事件、「足尾鉱毒事件」のために奮闘していた、

元・衆議院議員の田中正造が、同年(1901年)12月10日に、昭和天皇の祖父・明治天皇に、直訴しようとした事件が有った。

「足尾鉱毒事件」は、日本における公害事件の走りであった。

 

 

 

1901年1月22日、英国のヴィクトリア女王が亡くなった。

ヴィクトリア女王は、64年間にわたり、大英帝国の女王に君臨した人であったが、

比類なきカリスマが、遂に、この世を去ったのである。

この時、ちょうど英国留学中だった夏目漱石が、ヴィクトリア女王の葬列を目撃していたというのは、有名な話である。

 

 

1901年、ダイナマイトの発明により、莫大な財を成した、アルフレッドノーベルの遺言により、

「ノーベル賞」が創設されたが、第1回ノーベル物理学賞を受賞したのは、

「X線」を発見した、レントゲンである。

 

 

1901(明治34)年、官営・八幡製鉄所が操業を開始した。

これにより、日本の製鉄業は飛躍的に発展し、日本の近代化の礎となって行った。

 

 

1901(明治34)年に、与謝野晶子の歌集『みだれ髪』が刊行された。

『みだれ髪』は、大胆で官能的な歌が数多く収録され、物議を醸したが、

与謝野晶子が、女性でも堂々と自分を主張しても良いのだという事を世に示した、記念碑的な作品であった。

以上、「20世紀」の幕開けとなった1901(明治34)年は、このような時代背景だったのである。

 

<昭和天皇と同じ1901(明治34)年生まれの有名人・著名人>

 

次に、昭和天皇と同じ1901(明治34)年生まれの人達を、何人かご紹介しておく事とする。

昭和天皇の「同級生」は、各界を代表する著名な人達が、ズラリと顔を揃えている。

それらの著名人の誕生日と、簡単な経歴について、列挙しておく。

 

 

1901/2/1…クラーク・ゲーブル(1901~1960)…アメリカ人の俳優。代表作『風と共に去りぬ』など。

 

 

1901/2/17…梶井基次郎(1901~1932)…作家。代表作『檸檬』など。

 

 

1901/3/13…柳家金語桜(1901~1972)…落語家。喜劇役者としても活躍。

 

 

1901/3/14…小栗虫太郎(1901~1946)…作家。代表作『黒死館札事件』など。

 

 

1901/3/27…佐藤栄作(1901~1975)…政治家。1964(昭和39)~1972(昭和47)年に内閣総理大臣を務める。

 

 

1901/5/7…ゲーリー・クーパー(1901~1961)…アメリカ人の俳優。代表作『モロッコ』『真昼の決闘』など。

1901/12/27…マレーネ・ディートリッヒ(1901~1992)…ドイツ生まれの女優・歌手。代表作『モロッコ』『情婦』など。

 

 

1901/6/6…アーメルド・スカルノ(1901~1970)…インドネシアの初代大統領。1962年、デヴィ夫人(根本七保子)と結婚(※第3夫人)。

 

 

1901/7/7…円谷英二(1901~1970)…映画監督、特撮技師。代表作『ゴジラ』『ウルトラマン』など。

 

 

1901/8/4…ルイ・アームストロング(1901~1971)…アメリカのジャズ・ミュージシャン。愛称は「サッチモ」。

 

 

1901/9/28…ウィリアム・ペイリー(1901~1990)…アメリカの実業家。「CBS」の育ての親。

 

 

1901/9/28…エド・サリヴァン(1901~1974)…アメリカのテレビ司会者。「エド・サリヴァン・ショー」(1948~1971年)の司会を務める。

 

 

1901/11/5…海音寺潮五郎(1901~1977)…作家。代表作『天と地と』など。

 

 

 

1901/12/5…ウォルト・ディズニー(1901~1966)…アメリカの映画製作者、実業家。ミッキーマウス、ディズニーランドの生みの親。

 

 

 

1901/12/14…阪東妻三郎(1901~1953)…映画俳優。通称「阪妻」。田村四兄弟(高廣、俊磨、正和、亮)の父親。

 

<昭和天皇の生い立ち…病弱な大正天皇の長男として生まれる…日露戦争の英雄・乃木希典が、幼少の頃の昭和天皇の教育係に>

 

 

 

 

昭和天皇は生まれた頃の時代背景と、昭和天皇の「同い年」の人達をご紹介したところで、昭和天皇の話に戻る。

1901(明治34)年4月29日、当時の明治天皇の皇太子・嘉仁親王の長男として、迪宮(裕仁親王)、後の昭和天皇は生まれた。

嘉仁親王は皇太子だったので、裕仁親王は、将来の天皇の座が約束された子だった。

 

 

 

 

裕仁親王の父・大正天皇は病弱だったが、

大正天皇貞明皇后との間には、迪宮(裕仁親王=昭和天皇)、秩父宮、高松宮、三笠宮と、4人の男子が生まれている。

つまり、昭和天皇の下には、3人の弟が居たという事になる。

裕仁親王は、病弱な父とは違い、生まれた時から、とても健康で、すくすくと育って行った。

 

 

 

昭和天皇が生まれて間もなく、昭和天皇が3歳だった1904(明治37)年、

日本とロシアとの間で戦争が起こった。所謂「日露戦争」である。

当時、「大日本帝国憲法」では、日本のトップは天皇であると規定されており(「大日本帝国は、万世一系の天皇、これを統治す」と規定)、

日露戦争の開戦も、最終的には、重臣たちが集まった「御前会議」で、昭和天皇の祖父・明治天皇が決断を下した。

 

 

この時、明治天皇は、「もしも日本が敗れるような事があれば、私は祖先に申し訳が立たない」という趣旨の事を述べて、涙を流したという。

明治天皇が、この時に詠んだ歌が、今に残されているが、明治天皇は勿論、当時の日本は悲壮な覚悟を持って、ロシアとの戦いに臨んだ。

そして、日本は大変な犠牲を払った末に、辛うじて「日露戦争」に勝利を収めたのである。

 

 

 

「日露戦争」に勝利を収め、日本は「一等国」としての道を歩んで行く事となったが、

明治天皇は、「皇太孫」である裕仁親王に、大きな期待をかけていた。

そして、「日露戦争」で陸軍大将だった乃木希典を、裕仁親王の「教育係」に付けた。

なお、「日露戦争」では、「日本海海戦」で大勝利を収めた海軍大将・東郷平八郎が、「名将」と言われているのに対し、

乃木希典は、旅順を攻略するために、徒に突撃のみを繰り返し、膨大な数の犠牲者を出したとして、批判を浴びていた。

乃木希典も、内心、非常に責任を感じていたが、彼の息子も戦死している。

 

 

裕仁親王は、乃木希典から「帝王学」を学んだが、

裕仁親王は心身ともに健康な上、とても聡明で、「帝王学」をどんどん吸収して行った。

なお、裕仁親王は幼い頃から、大の相撲好きであり、侍従と楽しそうに相撲に興じる写真も残されている。

 

<1912(明治45)年7月30日…明治天皇が崩御し、大正天皇が即位~時代は「明治」から「大正」へ~乃木希典夫妻が、明治天皇に「殉死」し、昭和天皇と世間に衝撃を与える>

 

 

 

1912(明治45)年7月30日、明治天皇が崩御した。

明治天皇は、日本の近代化と共に歩んだ、激動の60年の生涯を閉じたが、

この時、裕仁親王は11歳である。

 

 

 

明治天皇が崩御した時、乃木希典夫妻も、明治天皇の後を追い、自刃して果てた。

乃木希典の「殉死」は、世間に大きな衝撃を与えたが、乃木希典から「帝王学」を学んでいた裕仁親王の衝撃も、大変なものであった。

乃木希典が、この時、自刃したのは、あの「日露戦争」で、膨大な犠牲者を出したという責任を感じてのものだったのかもしれない。

 

 

明治天皇の崩御を受け、裕仁親王の父で、明治天皇の皇太子、嘉仁親王が直ちに、第123代の天皇に即位した。

そして、元号は「明治」から「大正」へと変わり、新たな時代が幕を開けた。

こうして、嘉仁親王は大正天皇となり、裕仁親王が、新たな皇太子となった。

 

<「大正デモクラシー」の時代~1916(大正5)年、裕仁親王が「立太子の礼」を行なう~「米騒動」「第1回メーデー」など、民衆運動が活発化>

 

 

 

「大正」の時代を迎え、日本に「民主主義」の考えが広まったが

この頃は、「民主主義」を意味する「デモクラシー」という言葉が定着した時代であった。

そして、「大正デモクラシー」という言葉に象徴される、自由な雰囲気の時代となり、

「大正」時代は、第1次世界大戦(1914~1918年)を機に多数現れた「成金」に象徴されるように、全般的に好景気が続いたため、

街には「モダンガール」と呼ばれる、派手な服装の女性が闊歩するるようになっていた。

 

 

「大正デモクラシー」の自由な雰囲気を人々が謳歌していた頃、

1916(大正5)年11月3日、当時15歳の裕仁親王は、宮中賢所で「立太子の礼」を行ない、

裕仁親王は、正式に「皇太子」となった。

 

 

 

「大正」の時代は、民衆運動が活発化した時代でもあった。

1918(大正7)年、富山に端を発した「米騒動」は全国に広がり、

日本全国で、米屋や富裕な商店が「打ちこわし」に遭った。

米の値段が高騰し、「このままでは生きて行けぬ」と、追い詰められた主婦達が起こした騒動が発端だったが、

この「米騒動」は、まさに燎原の火の如く、あっという間に日本中に拡大したというのだから、そのパワーは凄まじかった。

 

 

1920(大正9)年には、東京・上野公園で、「第1回メーデー」が開催され、

労働者達が、労働条件の改善を求める運動を激化させた。

「大正」は好景気な時代ではあったが、労働者達は、安くこき使われていたため、「労働争議」が絶えない時代でもあった。

 

<1918(大正7)~1920(大正9)年…裕仁親王の結婚と、大正天皇の「名代」の時代~「スペイン風邪」の大流行>

 

 

1918(大正7)年1月、久邇宮邦彦王の第一王女・良子(ながこ)女王が、裕仁親王の婚約者に内定した。

裕仁親王は、当時17歳、1903(明治36)年3月6日生まれの良子女王は、当時15歳である。

良子女王、後の香淳皇后は、裕仁親王(昭和天皇)と大変仲睦まじく、この結婚は良縁であった。

 

 

裕仁親王は、1919(大正8)年4月29日、満18歳となり、5月7日、成年式が行われ、帝国議会貴族院議員になった。

同年(1919年)、裕仁親王は陸軍歩兵大尉となり、翌1920(大正9)年には陸海軍少佐に就いた。

同年(1920年)11月4日には、大正天皇の「名代」として、陸軍大演習を統監した。

この頃、病弱な父・大正天皇に代わり、裕仁親王が表舞台に立つ事が多くなっていた。

 

 

 

裕仁親王が、着々と「皇太子」としての地歩を固めていた頃、

1918(大正7)~1920(大正9)年頃にかけて、史上最悪のパンデミックと言われる「スペイン風邪」が世界中で大流行した。

「スペイン風邪」の大流行により、第1次世界大戦の終戦が早まったとも言われたが、ご覧のように、日本でも多数の人達が亡くなった。

それから100年後の今(2020年)、世界中が「新型コロナウイルス」に襲われ、100年振りの「パンデミック」が起こっているというのは、皆さんもご存知の通りである。

 

<1921(大正10)年…皇太子・裕仁親王のヨーロッパ歴訪の旅>

 

 

 

1921(大正10)年3月~9月にかけて、皇太子・裕仁親王は、ヨーロッパ歴訪の旅に出掛けた。

裕仁親王にとっては、初めての外遊であるが、裕仁親王は、英国(イギリス)、フランス、ベルギー、オランダ、イタリアの5ヶ国を訪問した。

なお、裕仁親王の外遊の頃には、既に「スペイン風邪」の流行は収まっていた。

 

 

 

裕仁親王は、英国国王・ジョージ5世(※現・エリザベス女王の祖父)と会見した他、

各地を視察したが、後に裕仁親王は、この時の事を振り返り、

「それまで、籠(かご)の鳥だった私が、初めて自由な空気を味わった」

という趣旨の事を述べている。

裕仁親王にとって、この時の旅は、生涯忘れられない、楽しい思い出だったのであろう。

 

<1921(大正10)年11月25日…裕仁親王、当時20歳で摂政宮に就任>

 

 

裕仁親王は、ヨーロッパ歴訪から帰国した後、

1921(大正10)年11月25日、当時20歳で、摂政宮に就任した。

「摂政」とは、古代の日本では、天皇に代わり、政務を行なう地位であったが、

この頃、大正天皇は病に臥せる事が多く、公務を行なう事が難しくなっていた。

そこで、裕仁親王が摂政宮として、大正天皇に代わり、公務を行なう機会が増えて行った。

20歳の若者だった裕仁親王は、将来の皇室を担うプリンスとして、国中の期待を担う存在になっていた。

 

<1922(大正11)年…英国皇太子・エドワード(後のエドワード8世)が、裕仁親王の英国訪問の返礼のために来日>

 

 

1922(大正11)年、英国皇太子、エドワード(※後のエドワード8世)が、

先年の、裕仁親王の英国訪問の返礼のために来日し、裕仁親王と会見した。

なお、このエドワード皇太子は、後にエドワード8世として即位した後、

一般女性・シンプソン夫人と結婚するため、僅か8ヶ月で退位し、「王冠を賭けた恋」として有名になった人である。

(※そのため、エドワード8世の弟、ジョージ6世が即位し、そのジョージ6世の娘、エリザベスが、現在の英国女王になっている)

 

<1923(大正11)年9月1日…「関東大震災」が発生~摂政宮・裕仁親王が、被災地を視察し、1千万円(※現在の価値にして、約10億円)の御見舞金を下賜>

 

 

1923(大正11)年9月1日、午前11時58分頃、後に「関東大震災」と称される、未曽有の巨大地震が発生した。

この巨大地震により、多くの家屋が倒壊し、また、火災などにより、10万人以上の人達が亡くなるという、大惨事になった。

 

 

 

 

当時22歳だった、摂政宮・裕仁親王は、

「関東大震災」が起こった、9月1日の当日は、一睡もせずに侍従からの報告を受け、

翌9月2日は、早くも、御見舞金として、1千万円を下賜した。

これは、今の貨幣価値にして、約10億円に相当する額だという。

そして、裕仁親王は、病床にあった大正天皇に代わり、被災地を訪れ、慰問を行なった。

未曽有の災害にあっても、裕仁親王は、冷静に自らの役割をしっかりと果たし、英邁な君主たり得る素質を存分に発揮したのである。

なお、この「関東大震災」により、裕仁親王と良子女王の結婚は延期された。

 

<1923(大正12)年12月27日…「虎ノ門事件」発生!!~裕仁親王、テロリスト・難波大助の襲撃を受けるが、危うく難を逃れる>

 

 

 

裕仁親王は、実質的に天皇の「名代」の役割を果たし、順調に、天皇への道を歩んでいるかに思われた。

しかし、好事魔しというべきか、1923(大正12)年12月27日、裕仁親王に重大な危機が訪れた。

この日、裕仁親王は、虎ノ門近辺で、何と、難波大助というテロリストに襲撃されてしまったのである。

難波大助の狙撃は失敗し、裕仁親王は危うく難を逃れたが、一歩間違えば、この時、裕仁親王は命を落としても不思議ではなかった。

だが、裕仁親王は運が強く、この重大な危機も切り抜けたのであった。

 

 

 

なお、「不届き者」の難波大助は逮捕され、裁判で死刑判決を受け、処刑されたが、

もしも、この時、裕仁親王に万一の事があれば、歴史は大きく変わっていたかもしれない。

ちなみに、現在、この「虎ノ門事件」の石碑が、事件現場付近に建てられている。

 

<1924(大正13)年…裕仁親王と良子女王が結婚~1925(大正14)年12月6日、裕仁親王と良子妃殿下の第1子・照宮成子内親王が誕生>

 

 

 

1924(大正13)年、裕仁親王と良子女王は晴れて結婚し、

裕仁親王と良子女王の「結婚の儀」が執り行われた。

この時、裕仁親王は23歳、良子女王は21歳である。

 

 

翌1926(大正15)年12月6日、裕仁親王と良子妃殿下との間に、

待望の第1子・照宮成子(しげこ)内親王(後の盛厚王妃成子内親王→東久邇成子)が誕生した。

裕仁親王と良子女王は、新婚カップルとして、幸せな家庭を築き始めていた。

 

<1926(大正15)年12月25日…大正天皇が崩御~時代は「大正」から「昭和」へ!?~裕仁親王が第124代天皇に即位>

 

 

1926(大正15)年12月25日、大正天皇が享年47歳で崩御した。

これにより、「大正」の時代が幕を閉じ、直ちに裕仁親王が第124代天皇として即位する事となった。

そして、時代は「大正」から「昭和」へと移って行く事となるが、

当時の東京日日新聞を見ると、新元号は「光文」と書いてある。

これは、一体どういう事なのか…?

 

(つづく)