私は、当ブログで「マスコットで振り返るプロ野球史」という記事を連載中であるが、
現在の所、私はこのシリーズで、「国鉄・ヤクルト編」「阪急・オリックス編」「巨人編」「南海・ダイエー・ソフトバンク編」の、4球団分を書き終わっている。
という事で、今回は「マスコットで振り返るプロ野球史」の、「大洋ホエールズ編」を、お送りする事としたい。
私は、大洋ホエールズ以来の、横浜DeNAベイスターズのファンであるが、
今回は、ホエールズ~ベイスターズの歴史を、球団のマスコットを軸に、描いてみる事としたい。
という事で、大洋ホエールズ~横浜(DeNA)ベイスターズが、どんな歴史を辿って来たのか、
まずは、その「前編」として、「大洋ホエールズ編」を、早速ご覧頂こう。
<実は2系統有る、ホエールズ~ベイスターズの歴史…系統その①=大洋ホエールズ⇒横浜大洋ホエールズ⇒横浜ベイスターズ⇒横浜DeNAベイスターズ>
よく知られている通り、現在の横浜DeNAベイスターズは、1949(昭和24)年に創立された、大洋ホエールズの流れを汲む球団である。
ホエールズ~ベイスターズの歴史は、大洋ホエールズ(1949~1977)⇒横浜大洋ホエールズ(1978~1992)⇒横浜ベイスターズ(1993~2011)⇒横浜DeNAベイスターズ(2012~)というのが、大まかな流れである。
下関で産声を上げた大洋ホエールズが、やがて川崎に本拠地を移し、1978(昭和53)年~以降は、横浜を本拠地としている。
この事については、比較的、多くの人達に知られていると思われる。
しかし、実は、この球団の歴史には、もう1つの系統が存在するのである。
<実は2系統有る、ホエールズ~ベイスターズの歴史…系統その②=大東京⇒朝日⇒パシフィック(太平)⇒太陽ロビンス⇒松竹ロビンスが、1953(昭和28)年に大洋ホエールズと「合併」し、大洋松竹(洋松)ロビンスに!!>
前述の、大洋ホエールズ~横浜DeNAベイスターズに至る球団史の流れは、よく知られているが、
この球団の歴史は、実は、そう単純ではない。
ホエールズ~ベイスターズに至る球団史において、もう1系統の球団、大東京⇒松竹ロビンスに至る流れの球団が、
1953(昭和28)年に大洋ホエールズと「合併」し、1953(昭和28)~1954(昭和29)年の2年間は「大洋松竹(洋松)ロビンス」と名乗った時期が有るのである。
1936(昭和11)年、プロ野球の創立メンバーの1つとして、大東京が創立され、以後、大東京(1936)⇒ライオン(1937~1940)⇒朝日(1941~1945)⇒パシフィック(太平)(1946)⇒太陽ロビンス(1947)⇒大陽ロビンス(1948)⇒松竹ロビンス(1949~1952)と来て、大洋松竹(洋松)ロビンス(1953~1954)というのが、その流れである。
しかも、大洋と松竹は、れっきとした「対等合併」であり、ホエールズ~ベイスターズの球団史を語るにおいて、「ロビンス」の系統を無視するわけにはいかないのである。
という事で、まずは、この事について、ご紹介しておく事としたい。
<1924(大正13)年…中部幾次郎、「林兼商店」を創立!!~「マルハ」マークは、「林兼商店」の頭文字の「は」を示す物だった!!>
1866(慶應2)年、播磨国明石郡林村に生まれた、中部幾次郎は、
1904(明治37)年に明石から山口県下関に移ると、日本初の発動機船を開発し、東シナ海や朝鮮半島沖で、漁業を行なった。
そして、1924(大正13)年、中部幾次郎は「林兼商店」を創立した。
この「林兼商店」こそが、後の「大洋漁業」の源流である。
なお、「大洋漁業」を象徴する、あの「マルハ」マークは、
「林兼商店」の頭文字の「は」を取ったものである。
「何故、大洋漁業の頭文字が、『マルハ』なのか?」
と、不思議に思われた方もいらっしゃると思われるが、実は、このような理由であった。
<中部家の一族と、「林兼商店」の発展~1929(昭和4)年、「林兼商店野球部」が創部され、実業団野球の強豪に!!~戦後(1946年)、「大洋漁業」と改称!!~>
さて、中部幾次郎によって創立された「林兼商店」は、その後、順調に発展して行った。
中部幾次郎には、長男・兼市、次男・謙吉、三男・利三郎という息子達が居たが、
彼ら「中部家の一族」は、お互いに支え合って、「林兼商店」を盛り立てて行った。
「林兼商店」は、1936(昭和11)年に「大洋捕鯨株式会社」を設立し、南氷洋捕鯨を開始した。
この「捕鯨」開始が、後の「ホエールズ」という球団名の由来となった。
そして、戦時下の水産統制令により、1943(昭和18)年、内地水産部門と、大洋捕鯨が合併し、「西太平洋漁業統制株式会社」と改称された。
戦後の1946(昭和21)年、「大洋漁業」と改称され、「大洋漁業」は捕鯨を再開した。
「大洋漁業」の2代目社長に就任した、中部幾次郎の長男・中部兼市は、会社の柱として、積極的に「捕鯨」を押し進めたが、
ここに、「大洋漁業=鯨(クジラ)}というイメージが定着したと言って良い。
なお、中部兼市は、大変な野球好きであり、
1929(昭和4)年には、「林兼商店」野球部を創部すると、「林兼商店」野球部は、実業団野球の強豪に成長し、
いくつもの実業団野球の大会で優勝を飾るなど、輝かしい実績を残した。
そして、戦後は、親会社の改称に伴い、「大洋漁業」野球部となったが、「大洋漁業」野球部もまた、全国屈指の強豪として、その名を轟かせていた。
<1949(昭和24)年11月22日…「大洋ホエールズ」創立!!~「大洋ホエールズ」、プロ野球(セ・リーグ)に参入し、下関を本拠地として、プロ野球チームとして歩み始める>
1949(昭和24)年11月22日、「大洋漁業」は、プロ野球チーム「大洋ホエールズ」を創立し、
その直後、プロ野球がセ・パ両リーグに分裂した際に、「大洋ホエールズ」はセ・リーグに参入した。
「大洋漁業」が、プロ野球チーム創立に踏み切ったのは、当時の野球界は、プロ野球による、実業団(ノンプロ)チームからの選手の引き抜きが酷く、それに業を煮やした「大洋漁業」の中部兼市社長が、「それなら、ウチもプロ野球チームを作ろう!!」と、決意したからであると言われている。
なお、創立当時の「大洋ホエールズ」の正式名称は「まるは球団」であり、球団旗も、あの「マルハ」マークが使用された。
なお、「まるは球団」が、「大洋ホエールズ」に改称されたのは、
1950(昭和25)年、新球団としての1年目のシーズンが開幕した後であった。
「ホエールズ」という愛称は、勿論、「大洋漁業」の「お家芸」である、「捕鯨」から取られたものであるが、
「大洋ホエールズ」は、「大洋漁業」発祥の地である、下関を本拠地として、球団の歴史をスタートさせた。
<大東京⇒ライオン⇒朝日⇒パシフィック⇒ロビンス~1950(昭和25)年、「松竹ロビンス」がセ・リーグ初代優勝チームに!!~田村駒治郎の苦闘と栄光>
では、もう1つの系統である、大東京⇒ロビンスに至る球団史の経緯について、ざっと、ご紹介しておく事とする。
1936(昭和11)年、プロ野球初年度の創立メンバーの1つとして、「大東京」が創立されたが、
「大東京」は、16連敗を喫するなど、全く弱い球団であり、創立1年にして、早くも資金難に陥ってしまった。
そこで、「大東京」は、共同印刷専務の大橋松雄に、資金援助を仰ぐと、
大橋松雄は、「大東京」の球団の株を引き受け、その株の一部を、親戚筋の田村駒治郎にも引き受けてもらった。
田村駒治郎は、1894(明治27)年に、大阪・船場で創立された、繊維問屋の「田村駒商店」の、2代目社長である。
創立者で、初代社長・田村駒治郎の名を引き継ぎ、彼もまた、2代目として「田村駒治郎」を名乗った。
こうして、球団オーナーとなった田村駒治郎は、まずは球団経営を安定させるため、
スポンサー探しに着手すると、田村駒治郎は、「ライオン歯磨」とスポンサー契約を結んだ。
こうして、田村駒治郎が買収した球団は、1937(昭和12)~1940(昭和15)年まで、「ライオン軍」と名乗ったが、
これこそ、今でいう所の、所謂「ネーミングライツ」の走りである。
戦前に、「ネーミングライツ」を実現させた田村駒治郎は、よほど先見の明が有る経営者だったようだ。
なお、この後、日本は戦時下となり、「ライオンという外来語は、けしからん」と、軍部に睨まれ、泣く泣く、「朝日」と改称している。
戦後、この球団はパシフィック(太平)と改称した後、
1947(昭和22)年以降、球団名を「ロビンス」とした(太陽ロビンス(1947)⇒大陽ロビンス(1948))。
この「ロビンス」とは、「駒鳥」という意味であるが、これは、勿論、「田村駒治郎」から取られた名称である。
1949(昭和24)年~以降(※翌1950(昭和25)年のシーズンから)、田村駒治郎は、またしても、球団経営の秘策として、「あの戦法」を使った。
そう、戦前に「ライオン歯磨」をスポンサーにしたのと同様、今度は、映画会社の「松竹」にスポンサーになってもらう、「ネーミングライツ」である。
「ロビンス」は、球団名を「松竹ロビンス」と改称し、新生「松竹ロビンス」は、1950(昭和25)年、栄えある、セ・リーグの初代優勝チームとなった。
そして、「松竹ロビンス」という球団名は、1950(昭和25)~1953(昭和28)年まで続いた。
という事で、実は「松竹ロビンス」のオーナーは「松竹」ではなく、あくまでも、オーナーは「田村駒商店」の「田村駒治郎」であり、「松竹」は、単なるスポンサーだったのである。
<1953(昭和28)年…「大洋ホエールズ」と「松竹ロビンス」が合併!!~「大洋松竹(洋松)ロビンス」が誕生~1953(昭和28)-1954(昭和29)年まで存続するも、「寄り合い所帯」で内紛が絶えず!?>
1953(昭和28)年、「大洋ホエールズ」と「松竹ロビンス」が「合併」し、「大洋松竹(洋松)ロビンス」が誕生した。
前述の通り、「大洋」と「松竹」は、あくまでも「対等合併」であり、ここで、「大洋」は「松竹」に至るまでの「ロビンス」の歴史をも受け継いだと言って良い。
ともあれ、ここで「ホエールズ系」と「ロビンス系」の2つの系統が1つに統合され、「洋松ロビンス」は1953(昭和28)~1954(昭和29)年の2年間、存続したが、「寄り合い所帯」のため、「大洋」と「松竹」の、2つの派閥は、しばしば、ぶつかってしまい、内紛が絶えなかったという。
そして、1954(昭和29)年限りで、「松竹」は球団経営から手を引いてしまった。
<1955(昭和30)年~以降、「大洋ホエールズ」単独経営が復活!!~名物オーナー・中部謙吉の登場~大洋ホエールズ、川崎球場を本拠地に>
さて、「大洋松竹(洋松)ロビンス」が誕生した1953(昭和28)年、兄・中部兼市の跡を継ぎ、
中部謙吉が、「大洋漁業」のトップの座に就いた。
そして、1954(昭和29)年限りで、「松竹」が球団経営から手を引き、
1955(昭和30)年~以降、「大洋ホエールズ」単独経営に戻ると、中部謙吉は、「名物オーナー」として、球団経営にのめり込んで行った。
「ワシの目の黒い内は、大洋ホエールズは絶対に潰さん」
「クジラ一頭捕れば、球団経営は賄える」
など、数々の「名言」(迷言?)を残した中部謙吉は、「大洋ホエールズ」を心底愛した人であり、
「大洋ホエールズ」の、大らかなチームカラーが醸成されて行ったのは、彼の影響が大きかったと思われる。
なお、「大洋ホエールズ」単独経営に戻って以降、
大洋ホエールズは、本拠地を川崎球場に移したが、以後、ホエールズという球団と、神奈川県との縁が生まれたのである。
<1960(昭和35)年…名将・三原脩監督を迎え、「6年連続最下位」の大洋ホエールズが奇跡の初優勝・日本一!!~「三原マジック」がプロ野球を席巻!!~大洋ホエールズ、発祥の地・下関へ「凱旋」>
1960(昭和35)年、大洋ホエールズにとって、記念すべき年がやって来た。
「お前、またその話を書くのか」と言われそうであるが、大事な話なので(?)、この話は何度でも書かせて頂く。
1960(昭和35)年、それまで「6年連続最下位」に沈んでいた大洋ホエールズは、
1956(昭和31)~1958(昭和33)年まで、西鉄ライオンズを率いて、3年連続日本一の導いた、「名将」三原脩監督を迎え、三原脩にチーム再建託した。
すると、三原脩監督は、「三原マジック」と称された、見事な手腕により、
「6年連続最下位」により、「万年最下位」と陰口を叩かれていら大洋ホエールズを、
何と、一躍、初優勝に導いたばかりか、日本シリーズでも、大毎オリオンズをストレートの4連勝で破り、日本一の座に就けてしまった。
この三原脩と大洋ホエールズの快挙は、世間をアッと言わせたのである。
なお、当時、大洋ホエールズは、既に本拠地を川崎球場に移していたが、
大洋は、発祥の地である下関でも、優勝パレードを行ない、下関に「凱旋」した。
それは、大洋ホエールズが最も輝いた瞬間であった。
<1950~1960年代にかけて使用された、鯨(クジラ)のペットマーク>
さて、これは、あまり知られてはいないが、
実は、1950(昭和25)年の、大洋ホエールズ発足1年目から、ご覧のような鯨(クジラ)のペットマークが使用されていた。
このマークは、大洋ホエールズ初のペットマークだったが、どうやら、あまり有名ではなかったようである。
しかし、ホエールズらしい、味の有るペットマークであると、私は思う。
<1960~1970年代の大洋ホエールズを象徴した(?)、平松政次と左門豊作>
その後、大洋ホエールズは、「三原マジック」の力も及ばず、再び、勝てない球団に逆戻りしてしまった。
それというのも、巨人が王貞治・長嶋茂雄の「ON砲」を擁し、全盛時代を迎え、1965(昭和40)~1973(昭和48)年に「9年連続日本一」、所謂「V9」という、空前絶後の黄金時代を築き、大洋のみならず、他球団は巨人には全く敵わなくなってしまったからである。
しかし、そんな中、大洋には、巨人に立ち向かった、2人の頼もしい男が居た。
1人は、かつて長嶋茂雄に憧れ、入団当初は、長嶋と同じ「背番号3」を付け、以後、「カミソリシュート」を武器に、
「巨人キラー」として名を馳せた、大洋ホエールズの大エース・平松政次である。
平松は、「打倒・巨人」に燃え、通算201勝の内、巨人戦で通算51勝という、凄い記録を残している。
もう1人は、1960~1970年代にかけ、子供達に大人気だった、「巨人の星」で、
大洋ホエールズに入団し、星飛雄馬のライバルとして大活躍した、左門豊作である。
星飛雄馬(巨人)、花形満(阪神)、オズマ(中日)と並び、左門豊作(大洋)は、「巨人の星」における、最重要人物の1人である。
何故、左門が大洋に入ったのかといえば、当時、巨人・阪神に次ぎ、大洋が3位を占める事が多く、
そのため、左門豊作には、大洋が割り当てられたとも言われている。
それだけ、当時の大洋ホエールズには、それなりの存在感が有ったという事だと思われる。
なお、左門豊作は、貧乏な家の出であり、
幼いきょうだいを養うため、何としても、野球で身を立てると固く決意しているという設定である。
その左門が、大洋ホエールズという球団で奮闘する姿は、大洋ファンならずとも、思わず、力を入れて応援したくなってしまう魅力(?)が有る。
というわけで、平松と左門は、大洋ホエールズの球団史に残る、スター選手(?)であった。
<1974(昭和49)~1977(昭和52)年…歴史に残る「湘南カラー」のユニフォームと、妙に可愛いペットマークが登場!!~球団歌「行くぞ大洋」も誕生>
1974(昭和49)年、静岡県出身で、慶応出身のスター選手、山下大輔が大洋ホエールズに入団したのを機に、
大洋ホエールズは、ご覧のように、オレンジと緑を基調とした、ド派手な「湘南カラー」のユニフォームを採用した。
この「湘南カラー」のインパクトは絶大であり、大エース・平松政次や、「ライオン丸」シピンなどが、川崎球場を舞台に大暴れし、ファンを魅了した。
大洋は、あまり強くはないが、豪快で大らかなチームカラーで、まさに鯨(クジラ)の如く、悠然とプロ野球界という海を泳いでいたのである。
そして、この時期には、ご覧のように、鯨(クジラ)にチョコンと乗っかった、
妙に可愛いペットーマークも登場したが、このように、大洋ホエールズは「キャラ萌え」の元祖のようなチームになっていた。
このイラストを考えた人は、時代を超越したセンスが有ると私は思うのだが、これを採用した大洋ホエールズという球団も、凄いものである。
そして、1977(昭和52)年、大洋ホエールズは、球団歌「行くぞ大洋」を発表した。
他球団の球団歌が、何処かマーチや軍歌調の、勇壮なメロディーである事が多いのに対し、
「行くぞ大洋」は、思わず脱力してしまうような、ユルユルな歌である。
しかし、そのユルさこそが、大洋ホエールズの魅力であると、私は思うのであるが、いかがであろうか。
というわけで、大洋ホエールズは、この1977(昭和52)年限りで川崎球場に別れを告げ、
翌1978(昭和53)年からは、新天地・横浜へと本拠地を移す事となる。
(「マスコットで振り返る球団史」(大洋・横浜・DeNA編)へ、つづく)