イチロー物語⑨…イチローの日本ラストイヤー~7年連続首位打者でメジャーリーグへ…(2000) | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1年前の今日(3/21)、イチローが現役引退を表明し、遂にグラウンドに別れを告げた。

2019(平成31)年3月21日、東京ドームで行われた、オークランド・アスレチックス-シアトル・マリナーズの試合で、

イチローは、現役生活のラストゲームに出場していた。

 

 

つまり、あのイチロー引退から、早くも1年が経ってしまったわけであるが、

偶然にもというか、この「イチロー物語」は、2000(平成12)年、イチローの日本でのラストイヤーを描く段になった。

(これは、私が意図していた事ではなく、本当に偶然にそうなった)

というわけで、今回の「イチロー物語」は、イチローの野球人生の大きな節目となった、

日本時代(オリックス時代)のラストイヤー、2000(平成12)年にスポットを当ててみる事としたい。

イチローは、この年(2000年)、並々ならぬ決意を持って、シーズンに臨んでいた。

それは、彼が「今年が、日本での最後の年だ」と、固く決意し、日本での集大成と位置付けていたからである。

それでは、イチローが日本球界に別れを告げた、2000(平成12)年のシーズンについて、ご覧頂く事としたい。

 

<イチロー・福島弓子の結婚秘話①…福島敦子と福島弓子~スポーツ界の取材で活躍した、美人アナウンサー姉妹~福島弓子は、気さくなキャラクターで、コサキン(小堺一機・関根勤)にも可愛がられる>

 

 

2000(平成12)年のイチローの活躍について描く前に、まずはイチローの結婚秘話について、お伝えしておく事としたい。

1999(平成11)年12月5日、イチローは、元TBSアナウンサー、福島弓子との結婚を発表したが、

福島弓子は、姉の福島敦子ともども、美人アナウンサー姉妹として、大変有名だった。

しかも、福島敦子・福島弓子の姉妹は、スポーツ界の取材も沢山行ない、スポーツ界に縁の深い人達だったのである。

 

 

福島弓子の姉・福島敦子(ふくしま・あつこ)は、1962(昭和37)年1月17日、島根県松江市に生まれた。

福島敦子は、松江南高校-津田塾大学を卒業後、日本航空社員を経た後、1985(昭和60)年にCBCにアナウンサーとして入社した。

 

 

 

その後、福島敦子はCBCを退社し、1988(昭和63)年4月~以降、NHKの契約アナウンサーとなり、

NHK「サタデースポーツ」、「サンデースポーツ」のキャスターや、「ニュース21」のスポーツコーナーなどを担当し、

NHKスポーツニュースの顔として、活躍した。

私も、当時、子供心に「凄く綺麗な人だな」と思っていたのを、よく覚えている。

 

 

福島敦子は、プロ野球の試合が行われる球場にも精力的に取材に出掛け、

監督や選手達のインタビューなども数多く行なったが、彼女はハキハキとした話し方で、

知的で聡明な所を感じさせるアナウンサーであり、大変人気が有る人だったのである。

 

 

一方、妹の福島弓子(ふくしま・ゆみこ)は、1965(昭和40)年12月10日、島根県松江市に生まれ、

松江南高校-慶應義塾大学を経て、1989(平成元)年4月に、TBSにアナウンサーとして入社した。

前述の通り、当時、姉の福島敦子は既にNHKのスポーツキャスターとして大ブレイクしていたが、

福島弓子は、「あの福島敦子の妹か!」という事で、TBS入社当時から、大きな期待を受けていた。

 

 

 

福島弓子は、私の個人的な印象としては、姉の敦子同様、綺麗な人だなとは思ったが、

姉とは違った性格というか、気さくで親しみやすいキャラクターの人だという印象が強かったものである。

福島弓子は、姉と同様に、スポーツニュースなども担当したが、その親しみやすいキャラクターを活かし、

バラエティー番組の司会なども行ない、TBSラジオでは、「コサキン」こと小堺一機・関根勤の番組にも頻繁に出演し、

「コサキン」の2人からは「ユミー」と呼ばれ、大変可愛がられていた。

 

<イチロー・福島弓子の結婚秘話②…1995(平成7)年、イチローと福島弓子の出会い~シーズンオフのラジオ特番での「共演」を機に、交際に発展>

 

 

 

福島弓子は、スポーツニュースを担当していたので、プロ野球の取材に出掛ける事も多かったが、

1995(平成7)年、福島弓子は当時、大ブレイクしていたイチローのインタビューを行ない、2人はそこで初めて出会った。

福島弓子は当時29歳、イチローは当時22歳の頃である。

そして、イチローと福島弓子は、出会った頃から、大変気が合っていたという。

 

 

 

1995(平成7)年のプロ野球のシーズンオフ、TBSのラジオ特番「イチローの気持ちはいつもフルスイング」で、福島弓子はパーソナリティを務めたが、この時、イチローと福島弓子は、すっかり意気投合した。

この特番は、以後、毎年放送されたが、イチローは毎回、福島弓子をパーソナリティに「指名」するようになった。

そして、1997(平成9)年8月頃から、イチローと福島弓子は交際を始めたという。

 

<イチロー・福島弓子の結婚秘話③…1999(平成11)年1月、イチローが福島弓子にプロポーズ~同年(1999年)3月、福島弓子がTBS退社~同年(1999年)12月5日、イチローと福島弓子の結婚発表!!>

 

 

1999(平成11)年1月、イチローは福島弓子にプロポーズした。

当時、イチローは、あのシアトル・マリナーズへの「交換留学」直前の時期であり、

どうやら、メジャーリーグへの「移籍」を視野に入れ始めていた頃だったと思われるが、

その前に、結婚して身を固めたいという思いも有ったのであろうか。

この時、福島弓子もイチローのプロポーズを承諾したが、2人の「婚約」は極秘扱いであった。

そして、その事実を明かさないまま、福島弓子は同年(1999年)3月に、TBSを退社した。

 

 

そして、1999(平成11)年12月5日、イチローと福島弓子は、電撃的に結婚を発表した。

この結婚発表は、世間を驚かせていたが、この時、イチローは彼女の事を一緒に連れて、アメリカに渡る事を、既に決意していた。

こうして、後顧の憂いを無くしたイチローは、2000(平成12)年のシーズンに照準を合わせた。

 

<2000(平成12)年のイチロー①…この年(2000年)を「日本でのラストイヤー」と位置付けたイチロー、日本での集大成に意気込む~メジャー移籍視野に(?)髭を蓄え始めたイチロー>

 

 

イチローは、2000(平成12)年を、密かに「日本でのラストイヤー」と位置付けていた。

春季キャンプの時点では、その事はまだ公にはされていなかったが、この年(2000年)のキャンプで、

イチローは例年以上に早い仕上がりを見せ、イチローの「恩師」仰木彬監督も、そんなイチローを頼もし気に見守った。

なお、イチローは、前年(1999年)頃から、髭を蓄え始めていたが、これは、イチローがメジャー移籍を視野に入れていたからだったいう。

何故なら、イチローは「童顔」なので、メジャーに行ったら舐められると思い、そのために、髭を生やし、その「童顔」をカバーする意図であった。

そういう事まで考えていたというのは、いかにもイチローらしい。

 

 

イチローの2000(平成12)年における目標は、勿論、「7年連続首位打者」である。

そして、かつて張本勲は、日本プロ野球史上最多となる、7度の首位打者を獲得していたが、

もし、イチローがこの年(2000年)も首位打者を獲れば、その記録に並ぶ事となる。

なお、仰木監督は、そんなイチローの事を「4番」に据える事を考えていた。

 

<2000(平成12)年のイチロー②…イチロー、開幕からプロ初の「4番」に座り、猛打炸裂!!~4月に「月間30安打」、打率.385と打ちまくったイチロー>

 

 

2000(平成12)年、イチローは開幕戦から、プロ初の「4番」に座った。

それまで、イチローは1番や3番を打つ事が多かったが、2000(平成12)年のオリックス打線の中で、

最も頼りになる打者はイチローであると、仰木監督は判断し、イチローを「4番」に据えたのである。

「7年連続首位打者」を狙うイチローは、開幕から絶好調で、4/12のロッテ戦から「17試合連続安打」を記録するなど、早くも猛打を炸裂させた。

 

 

「4番・イチロー」の打棒は、誠に凄まじかった。

イチローは、4月は「月間30安打」、4月末の時点で打率.385と、打ちまくったのである。

これは、「4番」としての責任感も有ったであろうが、それよりも、日本ラストイヤーに懸けるイチローの思いが強かったから、という事ではないだろうか。

 

<2000(平成12)年のイチロー②…夢の「打率4割」に迫り、打ちまくるイチロー~5月「月間28安打」、6月「月間33安打」を放ち、6月末の時点で「打率.394」という、鬼神の如き打棒>

 

 

2000(平成12)年の「4番・イチロー」は、5月を迎えても、更に打ちまくった。

5月、イチローは「月間28安打」を放ち、相変わらず好調をキープし、打率をグングンと急上昇させた。

そして、6月に入ってもイチローは打って打って打ちまくり、6/10の日本ハム戦で2安打を放ったイチローは、

開幕から49試合目となる、この時点で、イチローは遂に「打率4割」の大台に乗せた。

 

 

結局、イチローは6月は「月間31安打」を放ち、

6月終了時点で、イチローは打率.394という物凄い数字を叩き出していた。

「イチロー、夢の4割達成か!?」

と、この頃には、遂に日本プロ野球史上初の、「打率4割」達成成るかと、世間が騒ぎ始めた。

まさに、鬼神の如き、イチローの凄まじい打棒であるが、この頃、イチローは所謂「ゾーン」に入っていたのかもしれない。

イチローの打撃技術は、完成の域に達し、もはや「達人」の領域にまで達していた。

そこへ来て、イチローは「日本ラストイヤー」に懸ける意気込みも物凄かったのだから、この時のイチローを討ち取るというのは、どんな投手でも、ハッキリ言って無理だったであろう。

私も、この時、「もしかしたら、イチローは本当に4割を打つかも…」と思いながら、彼の活躍に見入っていた。

 

<2000(平成12)年のイチロー③…オールスターゲームに、115万7018票で「6年連続トップ当選」!!~グリーンスタジアム神戸での第2戦で、4打数4安打と大活躍!!>

 

 

 

2000(平成12)年のオールスターゲームで、イチローはファン投票で「115万7018票」を獲得し、

6年連続で、「両リーグ最多得票」となる、トップ当選を果たした。

イチローは、人気・実力ともに、プロ野球の第一人者であると、誰もが認める存在であった。

そして、結果としてではあるが、この年(2000年)が、イチローにとって、日本では最後のオールスター出場となった。

 

 

 

この年(2000年)のオールスターで、イチローは地元開催となった、グリーンスタジアム神戸での第2戦で、4打数4安打を放ち、

長崎で行われた第3戦では、3ランホームランを放つなど、3試合合計で、11打数7安打と打ちまくった。

イチローは、日本の全てのプロ野球ファンの脳裏に、その雄姿をハッキリと刻ませたのであった。

 

<オールスターゲームでも輝きを放ったイチロー~1994(平成6)~2000(平成12)年に、「11試合連続安打」を含む、通算71打数28安打の打率.394と大活躍!!~イチローは歴代最高の「オールスター男」だった!!>

 

 

では、ここで1994(平成6)~2000(平成12)年のオールスターゲームにおける、イチローの活躍を改めて振り返ってみる事としたい。

イチローは、大ブレイクを果たした1994(平成6)年に、オールスター初出場を果たすと、第1戦で「1番・レフト」で出場し、

6回の第4打席でオールスター初安打を放つなど、3試合で計10打数2安打の成績を残した。

 

 

 

その後、1995(平成7)年~2000(平成12)年は、前述の通り「6年連続トップ当選」を果たしたイチローは、

 

1995(平成7)年…10打数3安打

1996(平成8)年…11打数4安打(※第1戦で先頭打者本塁打、第2戦で「投手イチローVS代打・高津事件」)

1997(平成9)年…9打数4安打

1998(平成10)年…8打数2安打

 

と、毎年、コンスタントに結果を残し、ファンの期待に応え続けた。

1996(平成8)年の第2戦の「投手・イチローVS代打・高津事件」は、

仰木監督(オリックス)と野村監督(ヤクルト)の野球観の違いが如実に表れ、物議を醸した。

 

 

1999(平成11)~2000(平成12)年のオールスターでは、イチローは更に大活躍を見せた。

 

1999(平成11)年…13打数6安打

2000(平成12)年…11打数7安打

 

1999(平成11)年は、第1戦でホームラン1本、2塁打2本、単打1本の、5打数4安打と大暴れし、計13打数6安打、

そして、翌2000(平成12)年は、前述の通り、計11打数7安打の大活躍であった。

イチローは、1996(平成8)年の第3戦~2000(平成12)年の第3戦まで、オールスター新記録となる「11試合連続安打」、通算では、7年連続で計17試合に出場し、通算71打数28安打の打率.394で、17試合中16試合で安打を放った。

イチローの「オールスター通算打率.394」は、清原和博、落合博満の打率.365を大きく上回り、オールスター歴代最高打率(50打数以上の選手を対象)であった。

稀代のスーパースター・イチローは、まさに歴代最高の「オールスター男」だったのである。

 

<2000(平成12)年のイチロー④…7月に「月間打率.413(月間31安打)で、「10度目の月間MVP」!!~7/30の時点(79試合終了時点)で、「打率.401」まで上昇!!>

 

 

さて、オールスターを挟んで、2000(平成12)年7月も、イチローの凄まじい猛打は続いた。

イチローは、7月は「月間打率.413」、「月間31安打」を放ち、何と、史上最多(当時)となる「通算10度目の月間MVP」を獲得した。

イチローは、7/30のダイエー戦で3安打を放ち、再び「打率4割」の大台に乗せ、79試合終了時点で「打率.401」まで上昇し、

再び、「打率4割」の可能性が生まれたかに思われたが、流石に、その後は少し打率を落とし、

結果として、この時がイチローが「打率4割」に達した最後となった。

しかし、その後もイチローは、「打率.390」前後を打ち続け、「打率4割」を狙える好位置をキープし続けた。

 

<イチロー、歴代最多(当時)の「通算10度の月間MVP」を振り返る(1994~2000年)>

 

 

 

では、ここで、歴代最多(当時)となった、イチローの「通算10度の月間MVP」について、振り返ってみる事としたい(※その後、田中将大(楽天)が「月間MVP12回」で記録更新。野手の最多記録は、現在もイチロー)。

その10度の「月間MVP」の内訳は、下記の通りである。

 

①1994(平成6)年6月…22試合 打率.460 0本塁打 9打点

②1994(平成6)年8月…23試合 打率.398 4本塁打 9打点

③1995(平成7)年6月…24試合 打率.363 5本塁打 19打点

④1996(平成8)年8月…24試合 打率.475 0本塁打 14打点

⑤1997(平成9)年6月…20試合 打率.413 1本塁打 14打点

⑥1998(平成10)年6月…19試合 打率.451 3本塁打 11打点

⑦1998(平成10)年7月…21試合 打率.429 4本塁打 18打点

⑧1999(平成11)年5月…23試合 打率.414 4本塁打 21打点

⑨1999(平成11)年7月…17試合 打率.420 7本塁打 16打点

⑩2000(平成12)年7月…19試合 打率.413 3本塁打 13打点

 

ご覧の通り、イチローは、大ブレイクを果たした1994(平成6)年以降、毎年「月間MVP」を獲得し、

1994(平成6)年、1998(平成10)年、1999(平成11)年には、2度ずつ「月間MVP」を受賞した(※1998(平成10)年6~7月には2ヶ月連続受賞)。

これは、イチローが、如何にコンスタントに打ち続けたかを示すものである。

 

<2000(平成12)年のイチロー⑤…8月27日のロッテ戦で、3回にファールを打った時点で、イチローは脇腹を痛め退場~以後、イチローは欠場し、事実上、イチローの2000(平成12)年シーズンが終了~「打率.387」の「パ・リーグ歴代最高打率」で「7年連続首位打者」を獲得!!>

 

 

イチローは、8月に入り、「打率4割」を割ったとはいえ、97試合終了時点で「打率.398」、102試合終了時点で「打率.392」を記録するなど、

100試合を過ぎても、「打率3割9分台」をキープし、その後の打撃次第によっては、まだまだ「打率4割」を狙える位置にあった。

イチローは、8月も「31安打」を放ったが、8/24の日本ハム戦、高橋憲幸(日本ハム)から放った、通算1278安打目が、結果として、イチローが日本プロ野球の公式戦で放った最後の安打となった。

その後、イチローは8/27のロッテ戦の3回、三塁線にファールを打った際に右脇腹を痛め、そのまま退場した。

イチローは、その後は戦線を離脱してしまい、これがイチローの日本での最後の打席になってしまったが、

イチローは、この時点で「打率.387」であり、これはイチロー自身が1994(平成6)年に記録した「打率.385」を更新する、パ・リーグ史上最高打率で、「7年連続首位打者」の栄冠を手にした。

 

<2000(平成12)年のイチロー⑥…10月12日、イチロー、「ポスティング(入札)」でのメジャー移籍を表明!!~10月13日、グリーンスタジアム神戸でのシーズン最終戦(西武戦)で、守備固めで出場し、日本のファンに別れを告げたイチロー>

 

 

 

2000(平成12)年10月12日、イチローは記者会見を開き、「ポスティング(入札)」制度を使い、

翌2001(平成13)年から、メジャーリーグへ「移籍」する事を発表した。

遂に、イチローが日本プロ野球に別れを告げ、メジャーリーグへ「挑戦」する事となったのである。

翌10月13日、オリックスにシーズン最終戦である、グリーンスタジアム神戸での西武戦で、イチローは守備固めで出場した。

イチローが登場すると、球場を埋め尽くしたファンからは、大歓声が起こった。

「イチロー、有り難う!!」

「メジャーに行っても、頑張れ!!」

ファンは皆、イチローに大声援を送った。

 

 

 

イチローは、ファンからの大声援を受け、目を真っ赤に充血させていた。

「神戸のファンは、本当に温かくて…。良いプレーをしたら拍手をしてくれて、不甲斐ないプレーをしたら、ちゃんと叱ってくれる。神戸のファンは、本当の野球ファンでした。僕を育ててくれました」

イチローは、自分を支えてくれたファンに対し、感謝の言葉を述べ、試合後にはファンに手を振り、ファンに別れを告げた。

イチローは、「恩師」仰木監督と握手したが、仰木監督も「頑張って来い!!」と、力を込めてイチローを激励した。

 

<2000(平成12)年のイチロー⑦…「7年連続首位打者」&「史上最多タイの7度目の首位打者」を獲得!!>

 

 

 

こうして、イチローは2000(平成12)年のシーズンを終えたが、

イチローは、「7年連続首位打者」を達成し、張本勲と並ぶ、歴代最多タイの「7度目の首位打者」獲得した。

というわけで、2000(平成12)年のイチローの成績は、下記の通りである。

 

2000(平成12)年のイチローの成績:打率.387(1位) 12本塁打 73打点 21盗塁 出塁率.460(1位) ※首位打者(7年連続)、ベストナイン(7年連続)、ゴールデングラブ(7年連続)

 

<日本時代のイチローの通算成績~高校時代の通算打率.501、日本プロ野球時代の通算打率.353、通算1278安打>

 

 

 

イチローの、日本時代での通算成績は、ご覧の通りである。

高校時代の通算打率は、何と「打率.501」であり、プロ野球時代は「通算打率.353」「通算1278安打」「7年連続首位打者」など、数々の大記録を残した。

 

<2000(平成12)年11月30日…イチロー、シアトル・マリナーズに入団!!~オリックス時代と同じく、背番号「51」を背負う>

 

 

 

2000(平成12)年11月30日、イチローはメジャーリーグのシアトル・マリナーズに入団した。

背番号は、オリックス時代に背負ったのと同じ「51」である。

こうして、イチローは遂に、夢のメジャーリーグの舞台へ挑戦する事になった。

 

(「イチロー物語」日本時代(オリックス時代)編・「完」~メジャーリーグ(シアトル・マリナーズ)編へ、つづく)