マスコットで振り返るプロ野球史⑥ 大洋・横浜・DeNA編 ~マリン君とホッシーとDBスターマン~ | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

「マスコットで振り返るプロ野球史」シリーズの記事で、

今回は、ホエールズ~ベイスターズ編をお届けしているが、

前回の記事では、その「前編」として、「大洋ホエールズ編」を描いた。

 

 

今回は、その「後編」として、「大洋・横浜・DeNA編」をお送りして行く事としたい。

大洋ホエールズが、本拠地を横浜に移して以降について、描いて行くが、

まずは、所謂「湘南カラー」の大洋ホエールズ、川崎球場時代末期の個性派選手達を、ご紹介して行く事とする。

 

<「湘南カラー」の大洋ホエールズの、濃すぎるキャラクターの選手達①…「カミソリシュート」「巨人キラー」の平松政次>

 

 

まずは、前回の記事でもご紹介したが、「カミソリシュート」を武器に、

「巨人キラー」として名を馳せた、大洋ホエールズの大エース、平松政次である。

あの長嶋茂雄が、平松が投げる「カミソリシュート」が嫌で嫌でたまらなかったため、

夜中にうなされて、何度も目が覚めたという逸話が有るが、平松が投げる、えげつない「カミソリシュート」は、

巨人は勿論、他球団を震え上がらせた。

 

<「湘南カラー」の大洋ホエールズの、濃すぎるキャラクターの選手達②…「タコ足」「松原先生」こと松原誠>

 

 

現役時代で、投手以外の全てのポジションを守り、

中でも「タコ足」と称された、柔らかい手足を活かした一塁守備が絶品だった松原誠は、

通算331本塁打、球団初の通算2000安打も達成した、大洋ホエールズ史上に残る強打者だった。

その圧倒的な実績と、現役引退後の「名解説」(?)により、「松原先生」とも称されているが、

「松原先生」こと松原誠も、「湘南カラー」のユニフォームが、とてもよく似合っていた。

 

<「湘南カラー」の大洋ホエールズの、濃すぎるキャラクターの選手達③…「ライオン丸」シピン>

 

 

 

長髪をなびかせ、髭モジャのワイルドな風貌だったジョン・シピンは、

「ライオン丸」というニックネームで呼ばれ、まさに「湘南カラー」の大洋を象徴する選手だった。

この時代の大洋の選手で、「ライオン丸」シピンを思い出される方も、沢山いらっしゃると思われる。

ちなみに、あの「チコちゃん」も、「ライオン丸」シピンの大ファンだったという。

 

<「湘南カラー」の大洋ホエールズの、濃すぎるキャラクターの選手達④…「オバQ」田代富雄>

 

 

 

豪快な特大ホームランを連発した強打者・田代富雄は、「オバQ」というニックネームで愛された選手である。

なお、何故、田代が「オバQ」と呼ばれるようになったのかといえば、田代が2軍に居た頃、

田代と、2軍打撃コーチの沖山光利とのやり取りで、田代が、あまりにも間の抜けた答えが多く、

沖山コーチに「お前は、オバQみたいな性格してるな」と言われたのが、由来だったという。

ともあれ、まるで「お化け」のような特大ホームランを連発する田代富雄には、「オバQ」というニックネームは、ピッタリだったと言えよう。

 

<「湘南カラー」の大洋ホエールズの、濃すぎるキャラクターの選手達⑤…「湘南カラー」誕生のキッカケだった!?「大ちゃん」こと山下大輔>

 

 

静岡の裕福な資産家の「お坊ちゃん」で、慶応ボーイだった山下大輔は、「大ちゃん」と呼ばれ、大人気だったが、

大洋の「湘南カラー」のユニフォームは、静岡のお坊ちゃんだった「大ちゃん」が大洋に入団したのがキッカケで、

静岡名物の「お茶とみかん」の色を、そのままユニフォームにした、と言われている。

そういう意味では、山下大輔は、大洋の球団史に大きな影響を与えたが、彼のショートでの守備は天下一品であり、プロ野球屈指の名手であった。

 

<1978(昭和53)年…大洋ホエールズ、本拠地を横浜スタジアムに移し、「横浜大洋ホエールズ」誕生!!…1978(昭和53)年~1992(平成4)年の15年間は「横浜大洋ホエールズ」の時代>

 

 

 

 

1978(昭和53)年、大洋ホエールズは、本拠地を、新装成った横浜スタジアムへと移転し、

球団名を「横浜大洋ホエールズ」と改称した。

「横浜大洋ホエールズ」は、早速、横浜スタジアム周辺でパレードを行ない、ハマっ子にお披露目されたが、

ユニフォームも、あの「湘南カラー」から、スッキリした印象の、お洒落なマリンブルーを基調とした物に、変更された。

 

 

以後、「横浜大洋ホエールズ」の時代が始まったが、

マリンブルーの「横浜大洋ホエールズ」の時代は、1978(昭和53)~1992(平成4)年まで続いた。

私が、大洋ファンになったのは、この「横浜大洋」時代の末期であり、私としても、非常に思い入れが強い。

ともあれ、ホエールズは、こうして横浜の地に根を下ろす事となった。

 

<「横浜大洋ホエールズ」のペットマーク「マリン君」~横浜大洋ホエールズ時代(1978~1992)を通して活躍(?)>

 

 

 

さて、「横浜大洋ホエールズ」誕生と同時に、新たなペットマークも誕生した。

それが、ご覧の画像の「マリン君」である。

「マリン君」は、頭が異様に大きく、かなりインパクトの有るキャラクターであるが、

「横浜大洋ホエールズ」時代(1978~1992年)を通して使用され、「横浜大洋」を象徴するキャラとなって行った。

 

 

 

なお、「マリン君」は、当初は横顔のイラストしか無かったのであるが、

後に、ご覧のように、様々なバリエーションが増えて行った。

私としても、大洋といえば「マリン君」の印象が強いが、「マリン君」はホエールズが横浜の地に定着して行くに従い、

ハマっ子にも受け入れられたと言って良いのではないだろうか。

 

<「横浜大洋ホエールズ」でも、引き続き歌われた「行くぞ大洋」>

 

 

大洋ホエールズの、川崎球場ラストイヤーである1977(昭和52)年に作られた球団歌「行くぞ大洋」も、

「横浜大洋ホエールズ」以降も、引き続き歌われた。

「行くぞ大洋」の、何とも言えないユルさ、野暮ったさ(?)は、聴けば聴くほど、ハマってしまうのだから、不思議である。

なお、横浜大洋ホエールズ賛歌「勝利花」は、野球の応援歌らしからぬ、短調のメロディーであり、これまた味わい深い。

 

<「横浜大洋ホエールズ」を読み解くキーワード①…「オバQ」田代富雄と、「ホームランスター」~「マリン君」のヘルメットにも、その名残りが!?>

 

 

 

ここからは、「横浜大洋ホエールズ」時代を読み解く、いくつかのキーワードについて、ご紹介して行く事とする。

まず、川崎球場時代から、引き続き大活躍したのが、あの「オバQ」田代富雄である。

田代は、ホームランを打つごとに、ヘルメットに星型のシールを貼っていたが、これは「ホームランスター」と呼ばれた。

そして、「ホームランスター」は、よく見ると、「マリン君」のヘルメットにも貼られている。

という事で、「オバQ」田代は、まさに「横浜大洋」の輝ける星であった。

 

<「横浜大洋ホエールズ」を読み解くキーワード②…斉藤明夫&遠藤一彦の「Wエース」>

 

 

 

 

「横浜大洋ホエールズ」時代を通して、先発に抑えに、大車輪で活躍し、

常に「Wエース」として、大洋を支えたのが、斉藤明夫、遠藤一彦である。

斉藤明夫と遠藤一彦という、素晴らしい投手が2人も居たお陰で、大洋の投手陣は何とかなっていたが、

逆に言えば、この2人以外に、頼れる投手は、あまり居なかった。

というわけで、弱小球団・ホエールズで奮闘した、斉藤と遠藤は、特筆すべき存在である。

 

<「横浜大洋ホエールズ」を読み解くキーワード③…「横浜大洋銀行」>

 

 

 

「横浜大洋ホエールズ」は、初年度の1978(昭和53)年は、最終的には息切れし4位に終わったが、夏場まではヤクルトと首位争いを演じ、

翌1979(昭和54)年には、15年振りに2位になるなど、それなりに健闘した。

しかし、翌1980(昭和55)年には、ドップリと「指定席」のBクラスに沈んでしまった。

特に、1981(昭和56)年、大洋はダントツ最下位に終わり、巨人戦には4勝20敗2分と、大惨敗を喫してしまった。

そのため、大洋戦は巨人にとっては美味しい貯金箱という事で、「横浜大洋銀行」という、何とも不名誉なあだ名が付いてしまった。

以後、大洋が低迷すると、しばしば「横浜大洋銀行」と陰口を叩かれてしまう事となったのである。

 

<「横浜大洋ホエールズ」を読み解くキーワード④…高木豊・加藤博一・屋鋪要の「スーパーカートリオ」>

 

 

1985(昭和60)年、大洋の近藤貞雄監督は、1番・高木豊-2番・加藤博一-3番・屋鋪要という、

いずれも足の速い打者を、1~3番打者にズラリと並べ、彼らを「スーパーカートリオ」と名付けた。

「スーパーカートリオ」の3人は、塁に出る度に走りまくり、

高木豊(42盗塁)、加藤博一(48盗塁)、屋鋪要(58盗塁)の3人で、「計148盗塁」を記録した。

という事で、「スーパーカートリオ」は、球史に残る俊足トリオとして、今もなお語り継がれている。

 

<「横浜大洋ホエールズ」を読み解くキーワード⑤…「スーパーマリオ」こと、カルロス・ポンセ>

 

 

1986(昭和61)年に大洋に入団したカルロス・ポンセは、

毎年、チャンスに強いバッティングと長打力を披露し、大洋ファンに愛された名選手であった。

そして、ポンセは子供達に、大変人気が有った。

 

 

何故なら、ポンセはご覧の通り、あの「スーパーマリオ」にソックリだったからである。

ポンセが打席に入る度に、子供達からは「マリオ!!」という声援が飛んだ。

かつて「ライオン丸」シピンも人気は有ったが、ポンセの方が穏やかな性格であり、

ポンセは、選手達からもファン達からも愛されたナイスガイだったのである。

 

<「横浜大洋ホエールズ」を読み解くキーワード⑥…はた山ハッチ(=やくみつる)~大洋ファンを前面に押し出した漫画家>

 

 

 

 

当時、大洋ファンを前面に押し出した有名人は、あまり居なかったのだが、

はた山ハッチという漫画家は、自らが大洋ファンであるという事をアピールし、

大洋ファンを名乗る事で、野球漫画界で、地歩を固めて行った。

また、大洋も、はた山ハッチのお陰で、注目を集めたと言う面も有った。

なお、はた山ハッチは、別名を「やくみつる」と称し、彼は2つのペンネームを使い分けていた。

 

 

なお、その後は「やくみつる」という名前で統一し、

現在、彼は芸能界屈指の「クイズ王」として、テレビでも活躍している。

しかし、私にとっては、「はた山ハッチ」は、今でも大洋ファンの漫画家という印象が強い。

ちなみに、私は1998(平成10)年に横浜ベイスターズが38年振り優勝を達成した際、一度だけ、あるイベントで、やくみつる氏にお会いしている。

その時、著書『ベイスターズ心中』にサインをして頂いたが、今後も、彼には引き続き、ベイスターズを応援し続けて頂きたいものである。

 

<「横浜大洋ホエールズ」を読み解くキーワード⑦…「月刊・横浜大洋」⇒「月刊ホエールズ」~とても貴重な、大洋ホエールズ専門誌>

 

 

 

ところで、「横浜大洋ホエールズ」は、1981(昭和56)年以降、球団情報が満載の専門誌を発行していた。

当初、「月刊・横浜大洋」として創刊され、後に「月刊ホエールズ」になったが、

前述の「はた山ハッチ」も、「月刊ホエールズ」で大洋ネタの漫画を描いていた。

そして、当時の大洋ファンにとって、「月刊ホエールズ」は、大洋のまとまった情報が入手出来る、唯一の専門誌として、大変貴重であった。

私も、「月刊ホエールズ」を愛読し、より一層、ホエールズの魅力にハマって行った。

 

<「ミラクルジャイアンツ・童夢くん」(原作・石ノ森章太郎)で、マリンタワーにぶち当てる(?)巨大ホームランを放った、大洋の巨漢(?)ドード>

 

 

当時の大洋で、私が強烈に印象に残っている事が、もう一つ有る。

それは、当時、小学生だった私が夢中になって見ていた野球アニメ「ミラクルジャイアンツ・童夢くん」での、あるエピソードである。

「童夢くん」は、東京ドームという球場の特性を活かした「魔球」を次々に開発し、セ・リーグの各打者をバッタバッタと打ち取って行く、

スーパー小学生投手・新城童夢を主人公としたアニメであり、当時、子供達に大変人気が有った。

 

 

 

「童夢くん」では、各球団に個性的なライバル選手が登場したが、

その中でも、元相撲取りで、大洋に入団した、ドードという男は、怪力の持ち主であり、

横浜スタジアムで、何と、マリンタワーにぶち当ててしまうという、超特大の場外ホームランを放ち、視聴者の度肝を抜いた(?)。

 

 

 

しかし、後に横浜在住の友人に聞いたところ、

「もし本当に、横浜スタジアムで、マリンタワーの方向に打っても、方角的に、絶対にホームランにならない。あの方向は、一塁側の大ファールになる」と、解説(?)していた。

それはともかく、あの大ホームランは、あれから30年以上が経った今も、私の脳裏に強烈に残っている。

後に、マリンタワーに行った時に、「ドードが、ホームランをぶち当てたのは、ここか…」と、私は感慨に浸っていた(?)。

 

<1992(平成4)年シーズン終了後…「横浜大洋ホエールズ」の歴史に幕~「横浜ベイスターズ」誕生!!~新マスコットキャラクター「ホッシー」も誕生>

 

 

1992(平成4)年のシーズン終了を以て、数々の名選手と、沢山の思い出をファンに残してくれた「横浜大洋ホエールズ」は、その歴史に幕を閉じた。

結局、「横浜大洋ホエールズ」は、1度も優勝出来なかったが、個性豊かな選手達が、ファンを楽しませてくれた、本当に魅力有る球団であった。

その「横浜大洋ホエールズ」ラストゲームでは、遠藤一彦も現役引退し、ナインから胴上げされた。

 

 

 

そして、1992(平成4)年シーズンオフ、「横浜大洋ホエールズ」は、「横浜ベイスターズ」と改称し、新たなスタートを切った。

こうして、歴史有る「ホエールズ」という球団名は無くなってしまったが、その原因の一つとして、

親会社の「大洋漁業」(マルハ)が、世界的な捕鯨禁止の流れには抗えず、「ホエールズ」という球団名を名乗りにくくなった、という事も有ったである。

なお、球団名の改称に伴い、「月刊ホエールズ」も「月刊ベイスターズ」と改称された。

 

 

 

そして、新生「横浜ベイスターズ」の新たなマスコットとして、「ホッシー」が誕生した。

「ホッシー」は、その名の通り、星型の顔(?)が特徴であるが、「ホッシー」は、誕生年である「1993」という背番号を背負い、

以後、「横浜ベイスターズ」を盛り上げ続けた。

 

<「横浜ベイスターズ」の新応援歌「WINNING」~ベイスターズの若手選手と、アイドルグループ・CoCoが共演し、いきなり垢抜けた応援歌を披露!!~球団歌「熱き星たちよ」も誕生>

 

 

 

「横浜ベイスターズ」誕生に伴い、あの野暮ったくも味わい深かった「行くぞ大洋」に変わり、

「横浜ベイスターズ」の若手選手(佐々木主浩・盛田幸妃・野村弘樹・谷繁元信・石井琢朗・新藤達哉)と、

当時の人気アイドルグループ、CoCo(三浦理恵子・羽田恵理香・大野幹代・宮前真樹)が共演し、

随分と垢抜けた応援歌「WINNING」が披露された。

なお、余談であるが、石井琢朗は、この時、既にCoCoを脱退していた、瀬能あづさと結婚している(※後に離婚)。

 

 

そして、名曲の誉れ高い球団歌「熱き星たちよ」も誕生しているが、

「WINNING」「熱き星たちよ」は、今もなお、歌い継がれており、

ベイスターズ伝統の歌として、多くのファンに愛される曲である。

 

<1993(平成5)年の「横浜ベイスターズ」ファン感謝デーで、「ホッシー」の妹と弟の双子「ホッシーナ」「ホッシーゾ」がデビュー!!>

 

 

 

1993(平成5)年、「横浜ベイスターズ」初年度のファン感謝デーで、

「ホッシー」の妹と弟の双子「ホッシーナ」「ホッシーゾ」がデビューした。

以後、「ホッシー」「ホッシーナ」「ホッシーゾ」の3人は、力を合わせ、ベイスターズを盛り上げ、

横浜スタジアムの人気者となって行った。

 

<ベイスターズファンの漫画家としてブレイクした、みずしな孝之~代表作『ササキ様に願いを』>

 

 

大洋~横浜ファン漫画家のパイオニアが「やくみつる」なら、

その跡を継ぎ、独自路線でブレイクを果たしたのが、代表作『ササキ様に願いを』という、

「ハマの大魔神」佐々木主浩を主人公にした漫画を描いた、みずしな孝之である。

なお、みずしな孝之のデビューのキッカケは、「月刊ホエールズ」の投稿漫画コーナーであり、

彼もまた、「やくみつる」同様、べいすたーずのお陰で世に出た漫画家であると言えよう。

 

<1998(平成10)年…「マシンガン打線」「中継ぎローテーション」「大魔神・佐々木」で、横浜ベイスターズが38年振り優勝・日本一!!~「ハマの大魔神」が流行語に>

 

 

 

そんな「横浜ベイスターズ」に、栄光の時が訪れた。

1998(平成10)年、「マシンガン打線」と称された強力打線に、「中継ぎローテーション」という豊富なリリーフ陣、

そして、絶対的な抑えの切り札、「ハマの大魔神」として、他球団から恐れられた佐々木主浩などの強力メンバーを揃え、

「横浜ベイスターズ」は、優勝目指して快進撃を続けた。

 

 

 

 

そんな個性派メンバー達を、権藤博監督が、よくまとめ上げ、

横浜ベイスターズは、あの1960(昭和35)年の「三原マジック」での奇跡の初優勝以来、

実に38年振りの優勝を達成し、その勢いのまま、日本シリーズでも西武を4勝2敗で破り、一気に日本一にまで駆け上がった。

 

 

 

なお、当時、横浜駅構内には、「ハマの大魔神社」なる物も登場し、

優勝を祈願した横浜ファンが、数多く訪れ、そして、見事にベイスターズが優勝を果たした後、

「ハマの大魔神」は、1998(平成10)年の「流行語大賞」に選出された。

まさに、1998(平成10)年は、ベイスターズにとって栄光の1年となった。

 

<「暗黒のTBS時代」と、孤軍奮闘した「ハマの番長」三浦大輔>

 

 

2002(平成14)年、長年、球団経営していた、親会社の「マルハ」が、遂に球団経営から撤退した。

そして、紆余曲折が有った後、TBSが「横浜ベイスターズ」の親会社となったが、

TBSによる球団経営は、ずっと迷走しっ放しであり、ベイスターズは、毎年ダントツ最下位を低迷する、酷い有様になってしまった。

まさに、「暗黒のTBS時代」であり、1998(平成10)年には、連日、超満員だった横浜スタジアムも、毎日ガラガラになってしまった。

 

 

 

そんな「暗黒のTBS時代」で、孤軍奮闘したのが、「ハマの番長」こと、三浦大輔である。

毎年、ダントツ最下位に低迷するベイスターズで、三浦は腐らずにエースとして投げ続け、

2008(平成20)年オフに、FA権を取得した時も、「俺は横浜の三浦大輔だ」と言って残留し、ベイスターズファンを喜ばせた。

もしも、三浦までもが出て行っていたら、ベイスターズは完全に崩壊していたと思われる(※殆んど崩壊していたが)。

あの酷い暗黒時代で、黙々と投げ続けた三浦は、本当に素晴らしい投手として特筆すべき存在である。

 

<2012(平成24)年…DeNAが球団経営を引き継ぎ、「横浜DeNAベイスターズ」誕生!!~マスコットも「ホッシー」ファミリーから「DBスターマン」へ引き継がれる>

 

 

 

 

2012(平成24)年以降、「モバゲー」で一山当てた、IT企業の「DeNA」が、ベイスターズの経営権をTBSから買収した。

そして、球団名は「横浜DeNAベイスターズ」と改称され、新たなスタートを切ったが、

これに伴い、ベイスターズのマスコットも、「ホッシー」ファミリーから、ハムスターがモチーフの「DBスターマン」に引き継がれた。

「DBスターマン」は、随分とコロコロした体型で、手足も短いが、「キャラ萌え」の塊のような存在である。

 

<「DBスターマン」のガールフレンド(?)「DBキララ」も登場!!~その後、「バート」「チャッピー」も加わり、「DeNAファミリー」を形成>

 

 

その後、「DBスターマン」のガールフレンド(?)「DBキララ」も登場した。

しかし、どうやら「DBキララ」は、「DBスターマン」が一方的に片思いしている女の子(?)のようである。

それはともかく、「DBキララ」も大変可愛らしく、今や横浜スタジアムの人気者である。

 

 

 

その後、「チャッピー」「バート」という新キャラも加わり、

今や、「DeNAファミリー」は大変賑やかになったが、ヤクルトの「つば九郎」も表敬訪問(?)に訪れ、羨ましそうにしていた。

という事で、ホエールズ~ベイスターズの長い歴史を、マスコットやペットマーク、個性派選手達で振り返ってみたが、

是非とも、ベイスターズは近い内に3度目の優勝を成し遂げて欲しいと、私は強く願っている。