1976(昭和51)年、ヤクルトスワローズは、シーズン途中で荒川博監督が辞任してしまい、
後任として、コーチを務めていた広岡達朗が、「監督代行」に昇格した。
しかし、広岡監督代行が就任して以降も、ヤクルトは苦戦が続き、全球団に負け越した末に、5位に沈んだ。
5位に沈んだとはいえ、広岡達朗は、着々とヤクルトの「改革」に取り組んでいた。
そして、ヤクルトは「万年Bクラス」からの脱却へ向け、今まさに生まれ変わろうとしていたのであった。
<「ヤクルトスワローズドリームゲーム」…高津臣吾2軍監督が、メッセージを寄せる>
2019(令和元)年7月11日に行われた「ヤクルトスワローズドリームゲーム」には、
ヤクルト球団を彩った、大物OB達が数多く集結していたが、
中には、諸般の事情により、参加出来ない人も居た。
ヤクルトの2軍監督を務めていた高津臣吾も、この日は「フレッシュオールスターゲーム」の方に行くため、
「ヤクルトスワローズドリームゲーム」には参加出来なかった。
そのため、高津2軍監督は、ビデオメッセージを寄せ、神宮球場のオーロラビジョンに、それが映し出されたが、
高津によると、「入団当時、ロッカールームに上がると、入口の所に八重樫さん(※八重樫幸雄)が居て、そこが関所のようだった。僕は、いつもビビりながら、挨拶をして、そこを通っていた」という、思い出(?)を語っていた。
高津臣吾といえば、1990年代、野村克也監督率いるヤクルト黄金時代で、
ヤクルトの不動の抑えの切り札として大活躍した、名投手であった。
オーロラビジョンには、かつてヤクルトが優勝を決めたマウンドで、高津がガッツポーズをして、
高津と古田敦也のバッテリーを中心に、歓喜の輪が広がる様子が映し出された。
1990年代、この優勝シーンは、何度も見られたが、まさにヤクルトの栄光の時代であった。
<1977(昭和52)年のヤクルトスワローズ①…広岡達朗監督、「管理野球」「海軍式野球」で、ヤクルトに「改革」を促す>
1977(昭和52)年、広岡達朗は正式にヤクルトの監督に昇格すると、
広岡監督は、「万年Bクラス」のヤクルトの意識改革を促すために、大胆な手を打った。
広岡監督は、まずは選手達に「白米を食うな。玄米を食え」と、食事制限を敷き、
この事については、選手の夫人部隊を集め、それぞれの家庭でも玄米を食べさせるよう、指示を出すという徹底ぶりであった。
また、アルコールや煙草も制限し、遠征先の宿舎では、それまで半ば黙認されていた、花札や麻雀なども禁止した。
このような、広岡監督による徹底した「改革」は、「管理野球」「海軍式野球」などと言われ、
当初、選手達からも不満タラタラだったようであるが、
広岡監督は、そういった批判の声に対しても、
「ヤクルトは、これまで全然勝っていないチームなのだから、まずは、日々の生活から見直すのは、当然の事だ」
と、全く意に介さず、平然としていた。
<1977(昭和52)年のヤクルトスワローズ②…広岡監督、松岡弘・安田猛の「Wエース」に、「中4日」と「先発すれば、最低5イニングの投球」を指令…エースとしての自覚を促す!!>
当時、ヤクルトスワローズ投手陣の大黒柱といえば、松岡弘、安田猛という、左右の両輪の「Wエース」であったが、
広岡監督は、当時のプロ野球では、エースは「中3日」で登板し、必要とあれば、リリーフでも登板させる、という「常識」を覆し、
松岡、安田の両エースには「中4日」でローテーションを回す事を宣言した。
しかし、広岡監督は、「そのかわり、先発したからには、必ず最低5イニングは投げろ」という指示も出した。
つまり、広岡監督は、松岡と安田の登板間隔を厳格に守るかわりに、マウンドに立ったからには、エースとして恥ずかしくない投球をするよう、2人に「エースの自覚」を促したのである。
<1977(昭和52)年のヤクルトスワローズ③…広岡監督の「意識改革」により、「勝利」を目指す「闘う集団」に生まれ変わる!?>
広岡監督による「意識改革」には、当初、反発していたヤクルトの選手達も、
プロ野球の選手として「勝ちたい!優勝したい!!」という気持ちは、当然持っていた。
そして、広岡監督が言いたいのは、シンプルに、こういう事であった。
「お前らはプロ野球の選手なのだから、当然、プロらしくなければいかん」
この意識こそが、「万年Bクラス」のヤクルトに欠けていたものだったのである。
ヤクルトというチームは、良くも悪くも「ファミリー気質」、悪く言えば「ぬるま湯体質」だったのだが、
広岡監督により、「全員一丸となって、勝利を目指す」という意識を植え付けられる事になったのである。
こうして1977(昭和52)年のヤクルトスワローズの運命や、如何に…!?
<1977(昭和52)年の王貞治①…ベーブ・ルースの「通算714本塁打」を超え、ハンク・アーロンの「通算755本塁打」まで、「あと39本」、世界記録更新まで「あと40本」で開幕を迎えた、王貞治~長嶋巨人も「V2」を目指す>
さて、広岡監督の厳格な「管理野球」により、ヤクルトスワローズが生まれ変わろうとしていた頃、
この年(1977年)のプロ野球で、最も注目を集めていた選手といえば、ご存知、スーパースターの王貞治(巨人)であった。
王貞治は、前年(1976年)、シーズン50本塁打を放ち、2年振りに本塁打王を獲得すると共に、
通算ホームランを「716本」まで伸ばしていた。
これは、アメリカ大リーグの伝説の大スター、ベーブ・ルースの「通算714本」を更新する、偉大な記録であった。
ベーブ・ルースといえば、まさに「野球の神様」のような存在であり、
前年(1976年)に、王貞治が、そんな伝説のスーパースターが持っていた、「通算714本塁打」の記録を更新した時、
大袈裟ではなく、日本中が大騒ぎになった。
そんな王貞治が見据える、次なる目標は、ハンク・アーロンが持つ、アメリカ大リーグの最高記録である、「通算755本塁打」であった。
ハンク・アーロンは、1974年、不滅と言われていたベーブ・ルースの「通算714本塁打」を既に更新しているが、
1974年4月8日、ハンク・アーロンが、ベーブ・ルースの記録を破る「通算715号ホームラン」を放った時、アメリカ中が歓喜に包まれた。
ハンク・アーロンは黒人選手なのだが、実は、黒人の自分がベーブ・ルースの記録を破ってしまうと、非難を浴びるのではないかと、危惧していたという。
当時のアメリカは、それだけ黒人差別が酷かったのだが、ハンク・アーロンが「通算715号」を打った時、興奮した2人の白人ファンが、グラウンドに飛び降りて、ベース一周をするハンク・アーロンに駆け寄り、熱烈な祝福(?)をしたのを見て、ハンク・アーロンはビックリしたのと同時に、何とも嬉しい気持ちになったという。
そして、ハンク・アーロンは、チームメイトが待つホームベースへ、ゆっくりと帰還した。
この時、ハンク・アーロンの母親が、アーロンが所属するアトランタ・ブレーブスのチームメイトと共に、彼を待ち受けていたが、
アーロンが帰って来ると、彼の母親は涙を浮かべながら、アーロンに抱きついた。
後に、アーロンはこの時の事を振り返り、「ママが、あんなに力が強いなんて、知らなかったよ」とコメントしている。
こうして、ハンク・アーロンは「神様」ベーブ・ルースの大記録を更新する、スーパースターとなった。
ハンク・アーロンは、その後も記録を伸ばし、「通算755本塁打」の記録を残し、1976年限りで引退した。
つまり、王貞治が1977(昭和52)年に目指すのは、そのハンク・アーロンの持つ「通算755本塁打」の「世界記録」であり、
ハンク・アーロンの「通算755本」まで「あと39本」、世界記録更新まで、「あと40本」という状況であった。
前年(1976年)、長嶋巨人は劇的なリーグ優勝を果たし、人気が沸騰していたが、
1977(昭和52)年、長嶋巨人は「V2」を目指していた。
広岡ヤクルトは、勿論、「打倒・長嶋巨人」を目指していたというのは、言うまでもない。
こうして、日本中のプロ野球ファンを熱狂させる、伝説の1977(昭和52)年のシーズンが始まった。
<1977(昭和52)年のヤクルトスワローズ④…新人左腕・梶間健一の台頭もあり、開幕から大健闘~ヤクルト、6月には球団タイ記録の「9連勝」を記録!!>
こうして開幕を迎えた1977(昭和52)年のヤクルトスワローズであるが、
まずは4月を10勝9敗、5月を9勝12敗2分という、まずまずの成績で終えた後、6月に、大躍進の時を迎えた。
何と、ヤクルトは6月に11勝4敗1分という快進撃を見せたのである。
その快進撃に大きく貢献したのが、この年(1977年)にヤクルトに入団した新人左腕・梶間健一である。
梶間健一は、広岡監督に重宝され、先発にリリーフにと大車輪の活躍を見せた。
ヤクルトは、6/4~6/15にかけて、球団タイ記録となる「9連勝」を記録したが、
梶間は、その間にも先発にリリーフにと投げまくり、快進撃の立役者となった。
梶間は、今や松岡弘、安田猛に次ぐ、ヤクルト投手陣の中心的存在となっていた。
<1977(昭和52)年のヤクルトスワローズ⑤…若松勉、6/12~6/13に「2試合連続代打サヨナラ本塁打」達成!!>
前述のヤクルト9連勝中には、アッと驚く大記録も誕生した。
6/12~6/13、何と、若松勉が、「2試合連続代打サヨナラ本塁打」を達成したのである。
(6/12…ヤクルト〇3-2●広島、6/13…ヤクルト〇8-6●広島)
これは、チームの先輩である豊田泰光(サンケイ)が、1968(昭和43)年8/24~8/25に達成して以来の記録であったが、
まさに、ヤクルトの勢いを象徴する出来事だったと言って良い。
<1977(昭和52)年の王貞治②…開幕当初は不振に苦しむも、夏場に猛チャージ!!~7月終了時点で26本塁打を放つ>
日本中からの大きな期待を受けて、1977(昭和52)年のシーズンに挑んだ王貞治であるが、
開幕してから暫くは、なかなか調子が上がらず、一時は「限界説」も囁かれたが、
夏場を迎える頃には調子を取り戻し、猛チャージを見せた。
そして、7月終了時点には「26本塁打」を放ち、通算ホームランを「742本」まで伸ばした。
この頃には、王貞治の「世界記録」への挑戦に、世間の関心は、ますます高まっていた。
<1977(昭和52)年のオールスターゲーム…輝いた、2人の左腕投手~梶間健一(ヤクルト)が2勝、永射保(クラウン)は王貞治から三振を奪う!!~永射の快投に、あの作詞家が注目!?>
1977(昭和52)年のオールスターゲームは、前年(1976年)の両リーグの優勝監督である、
巨人・長嶋茂雄と、阪急・上田利治の対決にも注目が集まっていたが、
両監督とも、オールスターを「お祭り」とは考えず、日本シリーズへ向けた「前哨戦」と捉えているかのようであった。
まず、長嶋茂雄監督は、新人ながらオールスターに選出された梶間健一を、終盤の大事な場面でワンポイント・リリーフに起用すると、
梶間は、その期待に応えて、後続をピシャリと抑え、何と梶間は、第1戦と第3戦で勝利投手となった。
いずれも、梶間が抑えた後にセ・リーグが勝ち越し点を奪い、梶間に「2勝」が転がり込んだものであったが、
梶間は2試合で合計5球しか投げていないのに、「2勝」が転がり込むという、超強運ぶりを発揮した。
一方、パ・リーグのオールスター・メンバーに初めて選出された、クラウンライター・ライオンズの左腕・永射保も、輝きを見せた。
永射は、オールスター第2戦に、2番手として登板すると、見事に王貞治を空振り三振に切って取った。
これは「左キラー」の永射の本領発揮というべき場面であり、見る者に鮮烈な印象を残した。
こうして、1977(昭和52)年のオールスターゲームは、
第1戦 全セ〇2-1●全パ
第2戦 全セ●0-4〇全パ
第3戦 全セ〇4-3●全パ
という結果に終わったが、ヤクルトからは、鈴木康二朗、梶間健一、安田猛、大杉勝男、若松勉の5人が選出され、
前述の梶間の「2勝」ゲットをはじめ、それぞれ、存在感を発揮した。
なお、若松勉は、第1戦でMVPを獲得する活躍を見せている。
この時のオールスターでの永射の快投に、密かに注目する男が居た。
それが、当時、大人気だったピンクレディーの作詞を手掛けていた、阿久悠である。
阿久悠は、サウスポーの梶間と永射の快投を深く胸に刻み、それが、後にあの名曲の誕生に繋がる事となる。
<1977(昭和52)年のヤクルトスワローズ⑥…大杉勝男、「通算1000打点」「通算1500試合出場」「通算350本塁打」「通算1500安打」など、大記録を連発し、大活躍!!>
この年(1977年)、ヤクルト移籍3年目を迎えた大杉勝男は、
すっかりセ・リーグの野球にも慣れ、猛打を炸裂させたが、
この年(1977年)の大杉は、それまでのキャリアを象徴する大記録を連発した。
大杉勝男は、6/5「通算1000打点」、6/22「通算1500試合出場」、8/11「通算350本塁打」、8/25「通算1500安打」を、それぞれ達成している。
結局、大杉勝男は、この年(1977年)、打率.329 31本塁打 104打点という、見事な成績を残し、
完全に、ヤクルトの中軸として定着したが、大杉の猛打は、各球団の投手陣を震え上がらせた。
しかし、この年(1977年)のヤクルトは、大杉だけでなく、他にも恐ろしい打者達が、ズラリと打線に名を連ねていた。
<1977(昭和52)年のヤクルトスワローズ⑦…若松勉、張本勲(巨人)との激闘を制し、打率.358で2度目の首位打者を獲得!!>
1977(昭和52)年、選手として円熟期を迎えていた若松勉は、前述の「2試合連続代打サヨナラ本塁打」もあり、
開幕から打ちに打ちまくっていたが、若松は、張本勲(巨人)と激しい首位打者争いを繰り広げていた。
張本は、東映時代にパ・リーグで7度も首位打者を獲得している、泣く子も黙る大打者である。
しかし、最終的には若松は打率.358、張本は打率.348と、若松が張本とのデッドヒートを制し、
見事に、若松勉が1971(昭和46)年以来、2度目の首位打者のタイトルを獲得した。
若松は、張本に勝った事により、名実共に、プロ野球ナンバーワンのバットマンとして、その名を轟かせたのである。
<1977(昭和52)年のヤクルトスワローズ⑧…来日2年目のチャーリー・マニエルの猛打が爆発!!>
1977(昭和52)年、ヤクルトの強力打線の中心として、ロジャーとマニエルの両外国人も大活躍した。
ロジャーは、打率.263 22本塁打 55打点という、及第点の数字を残したのが、更に物凄かったのが、
来日2年目のチャーリー・マニエルであった。
マニエルは、この年(1977年)、何と打率.316 42本塁打 97打点という、物凄い成績を残した。
そして、時には顔を真っ赤にして、ファイトを全面に押し出すマニエルには、いつしか「赤鬼」というニックネームが付いた。
<1977(昭和52)年の王貞治③…8月31日、遂に「通算755本塁打」の「世界タイ記録」達成!!~王貞治とピンクレディーの夏>
王貞治は、8月に入り、8/31までに月間12本塁打を放ち、通算ホームランは「754本」となった。
そして、1977(昭和52)年8月31日、後楽園球場での巨人-大洋戦で、王貞治は三浦道男(大洋)からライトスタンドに、
シーズン39号、通算「755号」のホームランを放った。
王は、遂にハンク・アーロンの「世界記録」に肩を並べたのである。
この瞬間を、王貞治の両親も後楽園のスタンドで見届け、感激の涙を流していたが、
遂に飛び出した「755号」に、後楽園球場は勿論、日本中が大騒ぎとなった。
この頃、空前の大ヒット曲となっていたのが、ピンクレディーの『渚のシンドバッド』であった。
1977(昭和52)年の夏、日本中は、ピンクレディーと王貞治に夢中になっていたと言って良い。
そして、王が巻き起こした空前の大フィーバーは、この数日後、その頂点を迎える事となった。
<1977(昭和52)年の王貞治④…9月3日、王貞治が遂に「通算756号」の「世界新記録」達成!!~「王に756号」を打たれた鈴木康二朗も、一躍「時の人」に>
1977(昭和52)年9月3日、遂に日本中が待ち望んでいた、「その時」が訪れた。
後楽園球場での巨人-ヤクルト戦で、王貞治は鈴木康二朗(ヤクルト)から、
シーズン「40号」、「通算756号」となるホームランをライトスタンドに放った。
その瞬間、「世紀の一瞬」を迎えた後楽園球場は、絶叫に包まれ、割れんばかりの大拍手と大歓声が起こった。
遂に「世界一の男」になった王貞治には、祝福の嵐が起こったが、
この瞬間をスタンドで見届けていた王の両親も、試合後、グラウンドへと降り立ち、
王と共に、万雷の拍手を浴びた。
それは、本当に心温まる光景であった。
この時、王に「756号」を打たれてしまった、鈴木康二朗は、思わぬ形で、一躍「時の人」となってしまったが、
鈴木は、好むと好まざるとに関わらず、「王に756号を打たれた鈴木」として、すっかり有名になってしまった。
いしいひさいちは、鈴木が開き直り、「王に756号を打たせてやった鈴木」と、自宅の表札に掲げるという内容の漫画を描いた。
なお、この時、捕手を務めていたのは八重樫幸雄であり、八重樫も「打った瞬間、やられたと思った」と、この時の事を後に振り返っている。
(つづく)