ヤクルトスワローズドリームゲームと、ヤクルト球団50年史⑭~ヤクルト球団初の2位と野村克也の物語 | 頑張れ!法政野球部 ~法政大学野球部と東京六大学野球について語るブログ~

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少々マニアックな事なども書くと思いますが、お暇な方は読んでやって下さい。

1977(昭和52)年のプロ野球は、全て王貞治を中心に回っていたと言っても、過言ではない。

王貞治は、通算ホームラン「世界記録」更新に向けて、日本中の期待を一身に背負いながら、戦っていた。

そして、1977(昭和52)年9月3日、王貞治は、遂にそのプレッシャーに打ち克ち、

見事に「通算756号」という、「世界記録」更新の大偉業を果たした。

 

 

一方、広岡達朗監督率いるヤクルトスワローズは、

鈴木康二朗が、王に756号を打たれてしまい、完全に「引き立て役」になってしまったが、

ヤクルトは、それでも着実に力を付けていた。

当時の世間の人々は、まだ気付いていなかったかもしれないが、

ヤクルトには、優勝を狙えるだけの戦力が、整いつつあったのである。

 

<2019(令和元)年7月11日…「ヤクルトスワローズドリームゲーム」で、荒木大輔(現・北海道日本ハムファイターズ・2軍監督)がビデオメッセージを送る>

 

 

2019(令和元)年7月11日、神宮球場で行われた「ヤクルトスワローズドリームゲーム」では、

この試合に参加出来なかったヤクルトOBからも、ビデオメッセージが寄せられたが、

現在、北海道日本ハムファイターズの2軍監督を務める荒木大輔も、その1人であった。

 

 

荒木大輔といえば、早稲田実業のエースとして、甲子園で史上空前の大人気となった、超アイドルであり、

1983(昭和58)年のヤクルト入団後も活躍したが、荒木大輔のビデオメッセージが映し出されると、

神宮球場のスタンドからは、「おーっ!!」という、どよめきが起こった。

やはり、今でも荒木大輔は大人気のようであった。

荒木は、「(※1983年の)プロ初先発も、初勝利も神宮だったし、(※1992年に)怪我から復帰して、4年振りにマウンドに立ったのも神宮だった。神宮は、本当に思い出深い球場です」というコメントを寄せた。

当時、荒木大輔の入団により、荒木の追っかけの女の子達が、甲子園からそのまま神宮にやって来た、と言われたものであるが、

それだけ、当時の荒木の人気ぶりは凄まじいものであった。

 

<1977(昭和52)年9月3日…王貞治、「通算756号」ホームランを達成し、日本中が大興奮!!~試合後にセレモニーが行われる>

 

 

1977(昭和52)年9月3日、後楽園球場での巨人-ヤクルト戦で、王貞治シーズン「40号」、

「通算756号」ホームランをかっ飛ばし、遂に「世界の王」の称号を手にした。

この年(1977年)、日本中を席巻した大フィーバーは、この時、ピークに達した。

 

 

 

王は、普段はホームランを打っても、打たれた投手の事を慮って、あまり派手なガッツポーズなどはしないが(※王の兄、王鉄城さんから、そのように諭されていたという)、この時ばかりは、ホームランを打った王は両手を上げ、大鷲のようなポーズで一塁へと向かった。

 

 

なお、有名な話であるが、この時、ネクストバッターズ・サークルで見守っていた張本勲は、

王の「756号」が飛び出した瞬間、ご覧のように、喜びのあまり物凄い大ジャンプを見せた。

後年、張本は「ワンちゃん(※王)が打ってくれて、物凄く嬉しかったからね」

と、同い年の王の偉業達成を、我が事のように喜んでいた。

 

 

「世界一」の座に登り詰めた王は、3つのベースを回り、笑みを浮かべながら、ホームへと帰って来た。

この時、ホームベース上で、真っ先に王を出迎えたのが、長嶋茂雄監督であったが、

長嶋監督も、盟友の王の大偉業に、喜びと興奮を抑え切れないという様子であった。

 

 

 

試合後、王貞治のためにセレモニーが開かれたが、

後楽園球場で、記念すべき瞬間に立ち会った王の両親も、セレモニーに招かれ、

王から、「通算756号」の記念プレートを渡されると、スタンドに向かって、深々とお辞儀をした。

我が子の偉業達成に、両親も感無量という様子であり、後楽園のスタンドからは、万雷の拍手が巻き起こった。

 

 

王は、ファンに向かって、

「これからも、皆さんと一緒に、ホームランを打ち続けたいと思います。有り難うございました」

というスピーチを行なったが、両親に対する気遣いや、ファンへの思いを真っすぐに伝える所など、

王貞治という人物の人柄が表れた、大変素晴らしいセレモニーだったと言えよう。

 

 

 

こうして、王が「世界新記録」を達成した事により、日本中が歓喜に包まれ、

まさしく、日本中が大騒ぎになったが、この日(9/3)、王はテレビ局の特別番組などに生出演し、

「通算756号」達成の喜びを語ったが、後に王は「嬉しいというより、ホッとしたという気持ちが強かった」と、

この時の心境を語っている。

 

<1977(昭和52)年9月4日…実は「756号」達成の翌日にも、サヨナラ3ランホームランで「757号」を放っていた、王貞治>

 

 

王貞治が、興奮と狂乱の中、「通算756号」を打った翌日、

9/4にも、後楽園球場で同じカード、巨人-ヤクルト戦が行われたが、

何と、王貞治はこの試合で、「通算757号」となるサヨナラ3ランホームランを打ったというのだから、本当に凄い。

何しろ、テレビの特番への出演などにより、王が帰宅したのは深夜0時過ぎであり、あまり眠れなかたというが、

それでも、サヨナラ3ランを打ってしまうのだから、王貞治という男の集中力は、並外れていた。

なお、この時、王貞治にサヨナラ3ランを打たれたのは、安田猛(ヤクルト)である。

 

<1977(昭和52)年9月5日…「通算756号」を達成しら王貞治に、福田赳夫首相から「国民栄誉賞」が授与される~「国民栄誉賞」は、王貞治のために作られた!!>

 

 

 

1977(昭和52)年9月5日、福田赳夫首相から、王貞治は「通算756号」の偉業達成を称えられ、

王は「国民栄誉賞」を授与された。

この「国民栄誉賞」というのは、実は王のために作られた賞であり、如何に王の「756号」が、国民的関心事だったか、という事が、

この一事からも、わかろうというものである。

 

<1977(昭和52)年のセ・リーグ…長嶋巨人が、独走で「V2」を達成!!>

 

 

 

1977(昭和52)年のセ・リーグは、王貞治の「756号」フィーバーの勢いもあり、

長嶋茂雄監督率いる巨人が、2位以下に大差を付け、ぶっちぎりの独走で、V2を達成した。

そして、長嶋巨人は、前年(1976年)に日本シリーズで阪急に敗れ、惜しくも逃した「日本一」へ、再び挑む事となった。

 

<1977(昭和52)年のヤクルトスワローズ⑨…強力打線と投手陣が噛み合い、62勝58敗10分 勝率.517で、球団史上初の2位躍進!!国鉄時代以来、16年振り2度目のシーズン勝ち越し!!>

 

 

 

 

 

1977(昭和52)年のヤクルトは、打率.316 42本塁打 97打点という、凄まじい成績を残した、

来日2年目の「赤鬼」チャーリー・マニエルと、若松勉、大杉勝男らを中心とする強力打線が火を噴いた。

ヤクルト打線は、他球団と比べても、かなり強力であり、切れ目の無い打線を形成していた。

 

 

 

一方、ヤクルト投手陣は、広岡監督から期待された、松岡弘、安田猛の「Wエース」の明暗が分かれた。

松岡弘は、9勝10敗7セーブ 防御率4.12という成績に終わり、惜しくも7年連続2桁勝利を逃したが、

松岡としても、不本意なシーズンであった。

一方、安田猛は、17勝16敗6セーブ 防御率3.74という、自己最多の「17勝」を挙げ、ヤクルト投手陣を引っ張った。

 

 

そして、「王に756号を打たれた鈴木」こと、鈴木康二朗も、14勝9敗 防御率3.67という、堂々たる成績を残し、

ヤクルト投手陣のローテーションの一角として、活躍した。

だからこそ、王に真っ向勝負を挑み、結果として打たれてはしまったが、鈴木の逃げない姿勢は立派であった。

 

 

広岡監督から重宝された、新人左腕・梶間健一は、

44試合 7勝7敗1セーブ(15完投) 防御率3.34という成績を残し、新人ながら、ヤクルト投手陣に欠かせない存在となった。

こうして、投打が噛み合ったヤクルトは、62勝58敗10分 勝率.517で、球団史上初の2位躍進を果たしたが、これは、1961(昭和36)年の国鉄スワローズ時代以来、球団史上、実に16年振り2度目という、「シーズン勝ち越し」でもあった。

ヤクルトは、「歴史的大躍進」を果たしたと言っても過言ではなかった。

 

<1977(昭和52)年のヤクルトスワローズ⑩…2位とは言っても、長嶋巨人に15ゲーム差を付けられ、巨人に7勝19敗と大敗~全く満足していなかった、広岡監督>

 

 

 

しかし、ヤクルトは2位とはいっても、優勝した長嶋巨人からは15ゲーム差という大差を付けられ、

しかも、ヤクルトは巨人には7勝19敗と、大きく負け越していた。

従って、広岡達朗監督も、この結果には全く満足していなかった。

「2位ぐらいで、何をそんなに喜んでいるのか」

広岡監督は、そんな心境であった。

彼が目指すのは、あくまでも「優勝」である。

そのためには、まだまだチーム力の底上げをしなければならないと、広岡監督は決意を新たにしていた。

 

<1977(昭和52)年の阪急ブレーブス…阪急が前期優勝、後期優勝のロッテを阪急がプレーオフで3勝2敗で破り、阪急が3年連続優勝>

 

 

1977(昭和52)年のパ・リーグは、まずは上田利治監督率いる阪急ブレーブスが前期優勝を果たし、

上田監督が、前期優勝の胴上げを受けた。

もはや、この頃の阪急にとっては、お馴染みの光景であった。

 

 

一方、金田正一監督率いるロッテオリオンズは、後期優勝を果たした。

こうして、プレーオフは阪急VSロッテの対決となったが、金田正一は、長嶋巨人との対決を熱望していたという。

 

 

阪急VSロッテのプレーオフは激闘となったが、

最後は、阪急が一枚上手であり、阪急がロッテを3勝2敗で破り、見事にパ・リーグ3連覇を達成した。

こうして、1977(昭和52)年の日本シリーズは、2年連続で、長嶋巨人VS上田阪急の対決となった。

 

<1977(昭和52)年の日本シリーズ…阪急が巨人を4勝1敗で一蹴!!阪急ブレーブスが3年連続日本一!!>

 

 

 

日本シリーズでは、上田利治監督率いる阪急ブレーブスが巨人を4勝1敗で一蹴し、

見事に、阪急ブレーブスが3年連続日本一の座に就いた。

まさに、この頃の阪急ブレーブスは「史上最強軍団」、「無敵の王者」と言って良く、阪急は球界の王座に君臨していた。

 

 

一方、長嶋茂雄監督率いる巨人は、2年連続で阪急に敗れ、屈辱の一敗地にまみれたが、

セ・リーグでは、2位ヤクルトに15ゲーム差の独走優勝を果たした長嶋巨人も、最強チーム、阪急ブレーブスには、全く歯が立たなかった。

当時の阪急ブレーブスは、まさしく「絶対王者」だったのである。

 

<南海ホークスの「選手兼任監督」の野村克也①…1970(昭和45)年、当時36歳で南海の「プレーイング・マネージャー」に就任>

 

 

1970(昭和45)年、南海ホークスの不動の「4番・捕手」だった野村克也は、

前年(1969年)、飯田徳治監督率いる南海が最下位に沈んだのを受け、

南海の「プレーイング・マネージャー」、つまり「選手兼任監督」に就任した。

当時36歳という若さで、野村克也は南海の「4番・捕手・監督」の「1人3役」の重責を担う事となった。

 

<南海ホークスの「選手兼任監督」の野村克也②…ドン・ブレイザーを参謀役に据え、「考える野球」を導入~後の「ID野球」の原点に>

 

 

野村克也が、まだ南海の監督に就任する前、南海のチームメイトで、

アメリカ大リーグ経験が有ったドン・ブレイザーという選手が居た。

ドン・ブレイザーは、南海の選手として、1967(昭和42)~1969(昭和44)年にプレーしたが、

既に最盛期は過ぎており、選手としては、突出した成績を残す事が出来なかった。

しかし、ブレイザーはそれよりも遥かに大きい物を、南海に残した。

それこそが、「考える野球」である。

 

 

ブレイザーは、野村に対し、常々こんな事を言っていた。

「日本の選手は、何故、頭を使わないのか?」と。

ブレイザー曰く、アメリカ大リーグでは、打者が投球の配球を読んだりするのは勿論、

場面場面に応じて、ベンチの首脳陣と選手達が連携して、緻密に戦略を練ったり、作戦を立てたり、

或いは、各選手達が、それぞれに頭を使い、考えを巡らせ、状況を打開しようとするのは、当然だというのである。

当時、「アメリカ大リーグは、パワーに任せて、ただ投げたり打ったりするだけだろう」と思い込んでいた野村は、

「大リーグでは、そんなに高度で細かい野球をやっていたのか!!」と、ブレイザーの言葉に衝撃を受けた。

 

 

そこで、野村克也は自らが南海の監督に就任するにあたり、

ブレイザーをヘッドコーチに据え、南海に「考える野球」を徹底して植え込もうとした。

勿論、これは後年ヤクルトで花開く事となる「ID野球」の原点であるというのは、言うまでもない。

言わば、野村監督とブレイザーは、日本のプロ野球界に「革命」を起こそうとしていたのであった。

 

<南海ホークスの「選手兼任監督」の野村克也③…「野村再生工場」で、江本孟紀、山内新一、松原明夫などを続々とエース級に育てる!!>

 

 

「ID野球」と並んで、野村監督の代名詞となっている「野村再生工場」についても、実例をいくつか、ご紹介しておく事とする。

「野村再生工場」とは、他球団で戦力外になったり、燻っていた選手を野村監督が拾い、その選手を一流選手として「再生」させるという、

野村監督ならではの手腕の事を指すが、南海の監督時代に、早くも「野村再生工場」は大成果を出している。

 

 

江本孟紀は、法政大学-熊谷組を経て、1971(昭和46)年にドラフト外で東映フライヤーズに入団したが、

江本は、プロ1年目(1971年)の東映時代は、球は滅法速いが、ノーコンの荒れ球であり、実力を充分には発揮出来ず、

26試合 0勝4敗 防御率5.04という成績に終わっていた。

 

 

 

しかし、野村監督は、密かにそんな江本に目を付けていた。

そして、翌1972(昭和47)年、南海は江本をトレードで獲得すると、野村監督は初対面の江本に対し、

新品の背番号「16」のユニフォームを渡し、

「お前には期待している。お前は、俺がリードしたら、必ず10勝は出来る」と、断言した。

江本は、「自分を、そこまで買ってくれるのか!!」と、この扱いに感激し、一遍で野村監督に心服したという。

そして、江本は南海移籍早々、1972(昭和47)年に38試合 16勝13敗 防御率3.03という素晴らしい成績を残した。

それは、背番号「16」と同じ勝ち星であり、江本は見事に南海のエースの座に駆け上がった。

 

 

 

また、1969(昭和44)~1972(昭和47)年までの5年間で、巨人で通算14勝11敗、

1972(昭和47)年には0勝に終わっていた山内新一を、1973(昭和48)年、野村南海はトレードで獲得した。

すると、山内はこの年(1973年)、36試合(14完投4完封) 20勝8敗 防御率3.30という抜群の成績を残し、

山内は南海のエースの座に就いてしまった。

これこそ、まさに「野村再生工場」の最たるものであった。

 

 

松原明夫も、巨人在籍の3年間(1970~1972年)で、通算0勝の投手だったが、

南海移籍後の1973(昭和48)年に、一気に27試合(6完投1完封) 7勝7敗 防御率2.87という成績を残した。

このように「野村再生工場」の手腕は、本当に素晴らしかったのである。

 

<南海ホークスの「選手兼任監督」の野村克也④…1973(昭和48)年、最強軍団・阪急をプレーオフで3勝2敗で破り、優勝!!~南海の選手達が、一致団結して野村監督を盛り立てる!!>

 

 

 

 

 

1973(昭和48)年、そんな野村克也監督が率いる南海ホークスは、前期優勝を果たすと、

後期優勝の阪急ブレーブスとプレーオフで対決し、

南海が、プレーオフで阪急との激闘を3勝2敗で制し、見事に優勝を果たした。

 

 

 

 

 

 

 

当時の南海のエース・江本孟紀によると、

南海の選手達は、「野村監督を男にしよう」「野村さんに、恥をかかせちゃイカン」という連帯感が有り、

その団結力により、南海は優勝する事が出来たという。

また、「野村が始めた」という、俊足のランナーを走らせないための「クイックモーション」も、

江本曰く、「野村さんのために、俺達が自主的に練習して編み出した」との事である。

つまり、それだけ当時の南海ホークスは団結しており、野村監督にはカリスマ的な魅力が有ったという事であろう。

 

<南海ホークスの「選手兼任監督」の野村克也⑤…阪神からトレードで獲得した江夏豊を、リリーフとして「再生」!!~「野球界に革命を起こそう」という「殺し文句」で、江夏豊を抑えの切り札のパイオニアに>

 

 

 

1976(昭和51)年、そんな江本孟紀と、阪神タイガースの大エース、江夏豊などとの間に、大型トレードが成立した。

野村監督としては、エースの江本を失うのは痛かったが、当時の阪神が江夏を持て余しているという事情も有り、

南海は、積極的にこのトレードを推進したという。

 

 

 

しかし、当時の江夏は既に投手としては下り坂であり、完投は望めなくなっていた。

すると、野村監督はそれを逆手に取り、江夏に対し「今やアメリカでは投手分業制の時代や。どうや、俺とお前で野球界に革命を起こそうやないか」という「殺し文句」で、江夏にリリーフ転向を承諾させ、以後、江夏は抑えの切り札として大活躍した。

このように、野村監督は、選手の適材適所を見極め、選手の心を掴む事にも長けた、素晴らしい指揮官であった。

しかし、そんな野村監督が、思わぬ激震に見舞われる事となったのである。

 

(つづく)