1975(昭和50)年に、広島カープが球団創立26年目での初優勝を達成したが、
これにより、ヤクルトスワローズは、セ・リーグでただ1つ残された、優勝未経験の球団になってしまった。
前身の国鉄スワローズ時代から、スワローズはずっと「万年Bクラス」であり、優勝など「夢のまた夢」という球団であった。
そんな中、1974(昭和49)年から、ヤクルトスワローズのコーチに就任していた広岡達朗は、
1976(昭和51)年、思わぬ形で、ヤクルトの指揮官の座に就く事となったが、
広岡は、「負け犬根性」が染み付いたスワローズを「闘う軍団」に仕立て上げるべく、心血を注いで行く事となる。
というわけで、そんな広岡達朗の悪戦苦闘の挑戦の物語を、振り返ってみる事としたい。
<「ヤクルトスワローズドリームゲーム」の「ゴールデンナインティーズ」は、岡林洋一-古田敦也の「黄金バッテリー」が先発!!>
2019(令和元)年7月11日、午後6時30分、遂に「ヤクルトスワローズドリームゲーム」の幕が開いた。
野村克也監督率いる「ゴールデンナインティーズ」の先発は、1992(平成4)年のヤクルト14年振り優勝時の大エース、岡林洋一である。
そして、岡林洋一とバッテリーを組むのは、ヤクルト球団史上最高の捕手と言って差し支えない、古田敦也であった。
神宮球場を埋め尽くしたヤクルトファンは、岡林洋一-古田敦也の「黄金バッテリー」の登場に、胸を熱くしていた。
そんな岡林洋一-古田敦也の「黄金バッテリー」と相対するのは、
ヤクルトの主砲として長く活躍し、1992(平成4)年のヤクルト-西武の日本シリーズの第1戦、
伝説の「代打サヨナラ満塁ホームラン」を放った、杉浦亨である。
ヤクルト応援団は、杉浦亨の懐かしのファンファーレをトランペットで吹いた。
私も「杉浦の応援歌、懐かしい!!」と、これを聴いて胸が高鳴った。
この後、「ヤクルトスワローズドリームゲーム」は、このような「夢の対決」が目白押しであった。
<1975(昭和50)年…ヤクルトスワローズの応援歌『とびだせヤクルトスワローズ』登場!!>
球団名に「スワローズ」が復活したヤクルト球団は、1975(昭和50)年、それを記念して、
新たな応援歌『とびだせヤクルトスワローズ』を発表した。
この時のレコードでは、ヤクルトのエース・松岡弘が歌ったが、
この後、『とびだせヤクルトスワローズ』は、ずっと歌い継がれ、ヤクルトファンに長く愛される応援歌となった。
<1976(昭和51)年4月1日…フジテレビで『プロ野球ニュース』が放送開始!!~佐々木信也をメイン・キャスターに据え、プロ野球全試合の映像を紹介する、画期的な番組>
1976(昭和51)年4月1日、この年(1976年)のプロ野球シーズン開幕に合わせ、
フジテレビで新番組『プロ野球ニュース』の放送が開始された。
『プロ野球ニュース』のメイン・キャスターを務めるのは、慶応出身で、かつて高橋ユニオンズなどで活躍した佐々木信也であったが、
佐々木信也は、元プロ野球選手とは思えないほど、ソフトで流暢な語り口で、名司会ぶりを見せた。
『プロ野球ニュース』が画期的だったのが、プロ野球の全試合の映像を紹介し、試合の解説を行なった事であるが、
それの何が画期的だったのかといえば、当時、野球中継といえば殆んど巨人戦だけであり、スポーツニュースでも、他球団の試合の映像などは、全く無かった。
それを、『プロ野球ニュース』では、全試合の映像を撮影し、その日の夜には全て映像付きで解説する、という事をやってのけたのである。
これにより、新たなファン層が開拓されて行ったが、元々、フジテレビはヤクルトスワローズとは関係が深く、
そのため、『プロ野球ニュース』の放送開始により、タップリとヤクルトの映像も流れたため、ヤクルトファンもまた、急増して行ったのであった。
<1976(昭和51)年のヤクルトスワローズ①…大リーガーのチャーリー・マニエルがヤクルト入団!!~あの「超ダメ外人」ペピトーン騒動の「贖罪」として、アメリカからヤクルトに紹介された男>
1976(昭和51)年、ヤクルトスワローズに、ロサンゼルス・ドジャースに所属していた大リーガー、チャーリー・マニエルが入団した。
マニエルは、ドジャースでは代打が中心の控え選手であり、6年間で僅か4本塁打に終わっていたが、長打力が魅力の左打者(外野手)であった。
マニエルは、性格的にも真面目な選手だったが、これは、あの「超ダメ外人」のペピトーンの大騒動により、
日米の野球界の関係が悪化する事を懸念した、ドジャースのウォルター・オマリー元会長、その息子でドジャース会長のピーター・オマリーという親日家の親子が、マニエルをヤクルトに推薦したという経緯が有った。
こうして、マニエルは1976(昭和51)年にヤクルトに入団し、大いに期待されたが、
来日1年目の1976(昭和51)年は、84試合に出場し、打率.242 11本塁打 32打点という、今一つの成績に終わった。
マニエルは、まだまだ日本の投手達の攻め方に慣れていなかったと思われるが、翌年(1977年)以降、日本野球にアジャストしたマニエルは、凄まじい猛打を発揮する事となるのである。
<1976(昭和51)年のヤクルトスワローズ②…荒川博監督、成績不振により途中休養~広岡達朗が監督代行に就任!!>
1976(昭和51)年、ヤクルトスワローズは、
荒川博監督、広岡達朗、沼沢康一郎、小森光生という「早稲田カルテット」の首脳陣体制での3年目を迎えた。
ヤクルトというチームを率いて3年目の荒川博監督は、チームを把握し、勝負を懸ける年であった。
しかし、この年(1976年)のヤクルトは、開幕から今一つ調子が上がらず、低空飛行が続いてしまった。
ヤクルトは、5月12日の段階で、29試合10勝15敗4分 勝率.400という成績であった。
そう極端に悪い成績でもないが、荒川監督は、開幕ダッシュに失敗し、チームの士気が上がらないのは、自分の責任だと思い詰めていた。
そして、同日(5/12)、ヤクルトは5連敗を喫すると、突如、荒川監督は成績不振の責任を取り、監督を辞任してしまったのである。
荒川監督の、突然の辞任を受け、コーチを務めていた広岡達朗が、急遽、「監督代行」に就任する事が発表された。
広岡は「あまりにも突然すぎて…。私も頭の整理が出来ていないが、監督代行を任された以上、精一杯務めたい」と、抱負を語った。
広岡達朗は、ご覧の通り、これまで水原茂、川上哲治、根本陸夫、荒川博という、各監督たち仕え、
広岡自身も、アメリカ大リーグを視察したりして、精力的に野球の勉強に励んでいたが、遂に、「監督代行」とはいえ、指揮官の座に就いたのである。
しかし、この後、広岡達朗率いるヤクルトは、なおも苦戦が続いた。
<1976(昭和51)年のヤクルトスワローズ③…松岡弘&安田猛のWエースが大活躍!!~松岡弘は「通算1000奪三振」&「通算100勝」を達成!!>
1976(昭和51)年も、松岡弘、安田猛の両エースが、「二本柱」としてヤクルト投手陣を牽引した。
松岡は右腕の本格派、安田は左腕の軟投派という違いは有ったが、2人とも、ヤクルトにとっては、無くてはならない存在であった。
松岡弘は、この年(1976年)、次々に快記録を達成した。
1976(昭和51)年4月14日、松岡は神宮球場のヤクルト-大洋戦で、まずは「通算1000奪三振」という快記録を達成した。
エースとして、バッタバッタと三振を獲りまくる松岡の、面目躍如であった。
1976(昭和51)年6月29日、神宮球場のヤクルト-巨人戦で、
松岡は巨人打線を1安打完封勝利に抑え込み、見事に「通算100勝」を達成した。
結局、松岡は1976(昭和51)年に、17勝13敗4セーブ 防御率3.32という成績を残した。
(※1976年終了時点での松岡弘の通算成績:111勝111敗11セーブという、「1並び」)
一方、安田猛は、この年(1976年)は14勝13敗2セーブ 防御率3.93の成績を残し、
安田も、松岡と共にヤクルト投手陣を引っ張った。
なお、松岡も安田も、勝利数と敗戦数が、ほぼ同じであるが、勝っても負けても投げまくるというのは、
当時のヤクルト投手陣の特徴であった。
<1976(昭和51)年のヤクルトスワローズ④…若松勉&大杉勝男の猛打が爆発!!~若松勉は「サイクル安打」も達成!!>
前年(1975年)に、プロ入り以来初めて、打率3割を割ってしまった(打率.291)若松勉は、
この年(1976年)、その打棒が復活し、若松は打率.344 17本塁打 70打点という大活躍を見せた。
1976(昭和51)年7月9日、神宮球場のヤクルト-中日戦で、若松は「サイクル安打」を達成したが、
まさに「小さな大打者」たる若松の本領発揮であった。
背番号「1」を背負う若松は、今やすっかり「ミスター・スワローズ」の風格が漂っていた。
前年(1975年)、ヤクルト移籍1年目は、打率.237 13本塁打 54打点という大不振に終わってしまった大杉勝男は、
この年(1976年)、一念発起し、序盤こそ不振だったものの、代打で3試合連続ホームランという快挙で、レギュラーの座を奪回した。
大杉は、前半戦を打率.312 13本塁打で折り返すと、最終的に打率.300 29本塁打 93打点という猛打を発揮した。
こうして、強打者としての本領を発揮した大杉勝男は、完全にヤクルト打線の4番に定着した。
<1976(昭和51)年のヤクルトスワローズ⑤…ロジャーが、自己ベストの好成績で猛打爆発!!>
1976(昭和51)年、ロジャーは打率.274 36本塁打 81打点という、見事な成績を残した。
ロジャーは、来日4年目にして、自己ベストの好成績であったが、結果として、これがロジャーのキャリアハイとなった。
ロジャーもまた、ヤクルト球団史を彩る、素晴らしい名選手であった。
<1976(昭和51)年のヤクルトスワローズ⑥…全球団に負け越し、52勝68敗10分 勝率.433で5位に終わる>
ご紹介して来た通り、1976(昭和51)年のヤクルトは、投打の主軸となる選手達は、好成績を残したものの、
チーム全体としては、年間通して投打が噛み合わず、ヤクルトはこの年(1976年)、全球団に負け越し、
結局、ヤクルトは52勝68敗10分 勝率.433で、最下位こそ免れたものの、5位に終わってしまった(※全球団に負け越しながら、最下位を免れたのは、プロ野球史上初)。
「監督代行」を務めた広岡達朗も、チームを完全に建て直す事は出来なかったが、広岡はヤクルトの戦力をよく見極め、
翌1977(昭和52)年の反攻へと、闘志を漲らせていた。
<1976(昭和51)年のプロ野球①…王貞治(巨人)、「通算700号」&「通算715号」(※ベーブ・ルースの記録更新)ホームランで、大フィーバーを巻き起こす!!>
1976(昭和51)年のプロ野球界の話題の中心となったのは、長嶋茂雄監督率いる巨人と、
その巨人のスーパースター・王貞治であった。
王貞治は、この年(1976年)7月23日、川崎球場の巨人-大洋戦で、プロ野球史上初となる、前人未到の「通算700号」ホームランを達成した。
王の「通算700号」に、マスコミも世間も大騒ぎとなった。
続いて、1976(昭和51)年10月11日、後楽園球場での巨人-阪神戦で、
王貞治は、あのベーブ・ルースの「通算714本塁打」を更新する、「通算715号」ホームランを達成した。
遂に、ベーブ・ルースをも抜き去った、王貞治の快挙達成に世間は沸き立ち、王は一躍「時の人」となった。
そして、王はハンク・アーロンの持つ「世界記録」の「通算755本塁打」をも、視界に捉えたのであった。
<1976(昭和51)年のプロ野球②…長嶋巨人の逆襲!!長嶋巨人、前年(1975年)最下位からの、劇的な優勝!!>
1976(昭和51)年のプロ野球は、前年(1975年)に球団史上初の最下位という屈辱を味わった、
長嶋茂雄監督率いる巨人が、張本勲(日本ハム)、加藤初(太平洋)ら、他球団の主力選手を積極的に補強し、
長嶋巨人は、阪神タイガースとのデッドヒートを制し、見事に前年最下位からの優勝を達成した。
この長嶋巨人の快進撃に、日本全国のファンは大盛り上がりであった。
<1976(昭和51)年のプロ野球③…日本シリーズで、阪急ブレーブスが長嶋巨人を4勝3敗で倒し、遂に阪急が悲願の「打倒・巨人」達成!!~阪急が2年連続日本一>
1976(昭和51)年の日本シリーズは、その長嶋巨人と、
西本幸雄監督時代に、日本シリーズで5度も巨人に敗れ、巨人「V9」の引き立て役に甘んじていた、上田利治監督率いる阪急ブレーブスとの対決となった。
1976(昭和51)年の日本シリーズは、阪急3連勝の後に長嶋巨人の反撃を許し、3連敗を喫し、3勝3敗のタイにもつれ込んだが、最終決戦の第7戦で、阪急が4-2で巨人を破り、遂に阪急が悲願の「打倒・巨人」を達成した。
こうして、阪急ブレーブスは史上最強の黄金時代を築き上げる事となるが、広岡達朗もまた、「打倒・巨人」の大目標の達成だけを見据えていたのである。
<1975(昭和50)年の夏の甲子園~エース・小川淳司の習志野高校が優勝!!>
さて、ここでヤクルトの次代を担う、高校球児の活躍についても、触れておく事としたい。
1975(昭和50)年の夏の甲子園では、習志野高校のエース・小川淳司が注目を集めていた。
小川淳司は、地方大会から甲子園の決勝戦まで、ほぼ1人で投げ抜いており、肩はボロボロであったが、気力だけでマウンドに立っていた。
習志野打線は、そんなエース・小川淳司の力投に応え、
習志野は新居浜商との決勝を5-4のサヨナラ勝ちで制し、習志野が8年振り2度目の全国制覇を達成した。
なお、小川はこの後、中央大学に進学し、その後、ヤクルトに入団する運命にある。
<1976(昭和51)年の夏の甲子園~「怪物・サッシー」こと、酒井圭一(長崎・海星高校)、甲子園を席巻!!~ドラフト1位でヤクルトに入団>
翌1976(昭和51)年の夏の甲子園は、当時、世間を騒がせていた、スコットランドの怪獣(?)「ネッシー」をもじって、
「怪物・サッシー」と称された、長崎・海星高校のエース、酒井圭一が、大注目を集めていた。
「サッシー」は期待に違わぬ剛腕ぶりを見せ、海星を長崎県勢初のベスト4に導き、長崎県の人達を熱狂させた。
その「サッシー」こと酒井圭一が、同年(1976年)のドラフト会議で、
ヤクルトにドラフト1位で指名され、大きな期待を受けて、酒井はヤクルトに入団した。
しかし、この後、酒井はプロ野球の世界で、苦戦を強いられる事となる。
(つづく)